LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白82〜黒83



白82

その日の夜、緒方は行きつけのバーにいた。

常連客もバーテンダーも、険悪なオーラを振りまく緒方を恐れて、極力近づこうとはしない。

 

「くそっ」

周囲が引いている様子は緒方も気づいていたが、それでも時折、怒りの呟きが口から出るのを抑えられない。

緒方の怒りの理由。

それは昼間の進藤ヒカルとの一件だ。

入院中の塔矢名人を見舞いに病院を訪れると、名人はネット碁に集中しているので面会謝絶だという。
看護師は、対局を邪魔されたくないだけで容体が悪化したわけではないと言った。

ネット碁は遊びと言っていた名人だ。何故そんなに熱中するのかと考えた時、ふと進藤ヒカルの顔が浮かんだ。
つい先日、彼はひとり名人の見舞いに訪れている。
門下でも親しいわけでもないのに、子供一人で来たというのが気になった。新初段シリーズの関わりだというのなら、関係者の大人と来そうなものだ。

そこで以前、中野の碁会所で芦原弘幸に聞いた話を思い出した。
六本木のネットカフェでヒカルがネット碁をやっていると聞いて、アキラが飛び出していったと。当時は

「どれだけ気にしているんだ」

という笑い話だったが、ここに来て笑い話ではなくなってきた。当時アキラは進藤ヒカルこそが’sai’だと疑っていたのではなかったか。

 

半信半疑で自宅に戻ってパソコンで確認すると、果たして塔矢名人の対局相手は’sai’であった。

緒方は携帯電話を取り出すと芦原を呼び出した。家に居ると聞いて、直ちにパソコンを立ち上げワールド囲碁ネットの’toyakoyo’と’sai’の対局を電話で実況するように命じた。

それから、再び車に戻り、六本木へ車を走らせたのだ。

実況といっても、当時の緒方の携帯にはハンズフリーの機能はなかったし(もちろんWEBも見られない)、耳と肩で携帯電話を挟みながらの運転で事故を起こしてタイトル戦がパーになっても困るため、定期的に電話をかけ直さなければならなかったのだが。

芦原がアキラにおせっかいな電話をかけたのは、この実況のさなかでのことだ。

 

芦原に詳しい場所を確認したお蔭でヒカルが居たというインターネットカフェはすぐに見つかった。

店内に入ると、すぐさま進藤ヒカルを探す。

 

オープンスペースにパソコンが並べてあるだけの店内でターゲットを探すのは簡単だった。

相手に気づかれないように、出来る限り気配を消して背後から近づく。ヒカルは集中して画面を見つめており、背後に気を配っている余裕はないように見えた。

それはそうだろう。

画面に表れているのは’sai’と’toyakoyo’の対局画面だったのだから。

観戦用の画面ではない。まさに、進藤ヒカルが塔矢行洋名人と対局をしているのだ。

 

まさかと思った。塔矢アキラが進藤ヒカルに非常に関心を持っているのをからかっていたし、実際に若獅子戦で彼の対局も見た。中学校での大会の棋譜も見た。
しかし、今戦われている碁との違いはどうだ。棋力も格も違いすぎる。得体が知れないのにも程がある。

盤面は終局に近づいていた。細かいが僅かに名人が悪い。
何ということだろう。「遊び」とはいえ、師匠が互戦で新初段に負けようとしている。


ひたすら盤面の世界に浸るヒカルの背後で緒方は終局まで見守った。




そして。

犯人確保の時が訪れた。
子供のイタズラの時間は終わったのだ。



事情聴取に対して進藤ヒカルは非常に幼稚な言い訳で対抗してきた。
対局を真後ろで見ていた相手に「ボクじゃないもん」攻撃をかけてきたのだ。

相当うんざりしてきたので、少し怖めの声を出したら、やっと事情を話すと言い出したのだが、その内容というのが言い訳としても不出来すぎて、緒方はどうしていいか分からなくなってしまった。

 

「平安時代の囲碁オバケが現代に蘇って打った碁を再現していた」

 

・・・・・・緒方からすれば、「???」である。

いや、待て。仮に囲碁オバケが本当にいたとして、何故リアルタイムで打っている碁を「再現」したなどといえるのか。それを問うと、苦し紛れか何か知らないが、進藤ヒカルは、こう言ったのだ。

平成十年の暮れから今年の五月まで自分はその藤原佐為という囲碁オバケに憑りつかれていた。
佐為は、自分の前は本因坊秀策に憑りついており、囲碁棋士としては、秀策本人ともいえる人物である。

そして佐為が消えた後は翌年の五月まで普通に過ごし、新設された「日中韓北斗杯」の大会中突然、佐為と出会った平成十年の暮れに時間を遡ってしまい、それからは二度目の時間を生きている。

「だからオレは、その間に見た碁は知っているし、再現できるんです」

 
二の句が継げないとはこのことだ。来年までだと?

となれば、

「来年の五月までのことが分かるなら、これから起こることを言ってみろ」

という質問が出てくるのは当然のことだ。

すると進藤ヒカルは青い顔をして言った。

 

 

「・・・・・塔矢名人が・・・引退します」

 

 

 

この言葉で流石の緒方も堪忍袋の緒が切れた。

 

「大人をからかうのもいい加減にしろ!!!」

「嘘をつくにしても、もう少しマシな言い訳を考えろ!!」

 

怒りに任せて、そんな言葉を子供にぶつけた。

 

 

その時だった。

それまで、ただ怯えたような顔をしていた進藤ヒカルの様子が激変した。
今まで必死そうだった青い顔が真っ白になり、完全に無表情になった。

 その後は、緒方が何を言っても、もうヒカルの口が開くことはなかった。
不信と絶望しかなくなった瞳を見て、緒方は「しまった」と思った。

仮にも大人なら、子供にこんな目をさせてはいけない。
だが、もう取り返しはつかなかった。

 

その後は時間ばかりが過ぎていき、沈黙を守るヒカルを持て余した緒方は彼を解放した。
車で家まで送ると言ったが、彼は暗い目で緒方を一瞥すると、それでも先輩棋士に対する礼として頭を下げ、店を出て行った。

 

 

 

自分はからかわれたのだ。
それは間違いない。

 (なのに、この後味の悪さは何だ!!)

 

それからの緒方は、胸のもやもやを抱えたまま、荒れていた。
気晴らしになるかと思い、夜を待って行きつけのバーに来ても、気は晴れなかった。

こんな話、誰にも話せやしない。
子供の戯言を真に受けたと自分が馬鹿にされるのがオチだ。

 

タバコを喫おうとして胸ポケットを探ると、先ほど喫ったのが最後の一本だったと思い出した。

苛立ちは、当分収まりそうもない。



黒83

そして、緒方と別れた後の進藤ヒカル。

ヒカルは、喫茶店を出るとそのまま地下鉄の駅に向かい、帰宅の途に着いた。
自宅最寄の王子駅の改札を出ると、雨が降っていた。

降り出してから間もないらしく、灰色の道路が、雨の点々の跡が増えるにつれて黒く染まっていく。
それを立ち尽くして見ていたヒカルは益々気が滅入っていった。その横を人々が次々と傘を取出し、あるいは雨を避けて走っていく。

ヒカルのカバンの中に傘はない。
気持ちが沈み切っていたヒカルは、そのまま歩き出した。

濡れて帰った方が、今の淀んだ気分が雨と一緒に流れて消えるような気もしたし、単純に傘を調達するのがかったるかったこともある。
雨はヒカルの金のメッシュが入った髪をあっという間に濡らし、服の中にも水がどんどん染み込んでいった。
まだ四月。寒くないわけがない。歩いていると次第に体が震えてきた。歯はガチガチ音を鳴らし始め、手もかじかんでくる。

「寒い・・・・・」
心も体も。というか比喩でなく体は冷たくなっていった。



ヒカルは先程の緒方とのやり取りを激しく後悔していた。
何故、緒方九段に打ち明けてしまったのだろう。焼きが回ったとしか言いようがない。
一瞬でも解ってもらえると思った自分が愚かだった。

「話したところで、信じてもらえるわけがない」元々そう考えて、今まで誰にも打ち明けなかったのだ。
相談したところで頭がおかしいか、心を病んでいると思われるのが関の山だ。もしこれが他人の話で打ち明け話をされたのが自分なら、絶対に信じない。
信じてもらえると思ったなら、最初に佐為を見た小学校六年生当時に親に訴えていただろう。

だから緒方が信じないのは当然なのだ。


口から出た言葉は取り返しがつかない。全否定されたショックと、これからのことを考えるだけで身が縮むようだ。
緒方はこの話を誰かに話すだろうか。塔矢アキラに? それとも名人に? 
・・・・・最悪だ。



塔矢アキラには、いつの日か自分から話すつもりだった。

今までさんざん自分は‘sai’ではないと言ってきたのに、それは嘘だったと告げられて塔矢アキラは自分をどう思うだろう。
いや、自分などどう思われてもいいのだ。ただ誤解されたくない。自分が‘sai’だと思われるという事は、せっかくインターネット上にだけ存在出来た「藤原佐為」が消えてしまうということだ。

そんなことには耐えられない。

(どうしよう・・・)


雨は沈んだ気持ちを流してはくれなかった。ますます落ち込んだ心を抱えながら、ヒカルは家へと歩いて行った。






完全に濡れ鼠になったヒカルが帰宅すると、家にいた母親の美津子は息子を見て仰天した。

「アンタ何やってるの!!」

無言で玄関に立つヒカルの周りには水たまりが出来ていた。


「・・・・・・」

唇を真っ白にして何も答えない息子に対して、母親のとった行動は早かった。
ヒカルの腕を掴むと、廊下が濡れるのも構わず問答無用で風呂場へ連行したのだ。

蛇口を捻ると勢いよくシャワーから水が飛び出してくる。それが湯になるのを確認して
「とにかく、服を脱いでシャワーを浴びなさい!」
と、強い口調で命令した。
最近あまり叱られることがなかったので、ちょっと驚いてヒカルは頷いた。
それを確認して母親は風呂場から出て行った。


水を含んだ衣服は脱ぎにくかったが何とか体から引きはがし、風呂場の隅に置くと湯を頭から浴びる。

落ち込んでいても、シャワーの湯は温かくて気持ち良い。
震えはあっという間に収まり、突然血行が良くなって指先がちくちくした。


風呂場から出ると脱衣所には替えの下着と服が置いてあったので、着替えてダイニングに行くと母親はドンと音をたてて、カップをヒカルの前に置いた。何かと思ったらホットココアだった。

「・・・・・・」

やはり何も言わずにテーブルの前に突っ立っていると、母親は苛立たしそうに、今から風呂に湯を張ってくるからそれまでココアでも飲んで暖まっていろと、再び命じた。そこでヒカルはやっと
「今、シャワー浴びたから、もういいよ」
と言ってみたら、思い切り睨まれた。
そして風呂に入ったら五分以上、湯に浸かっているように厳命された。
返す返すも「ああしろ」「こうしろ」と言われてばかりの一日だ。と、ヒカルは心の中でぼやいたが、


親からしてみれば、そんな呑気な話ではなかっただろう。
美津子は激怒していたのである。

息子の様子から、何かあったらしい、という事位は分かる。
だが、だからといって何故ずぶ濡れになっているのか。自分の息子は、急な雨で傘がなかったらその辺のコンビニででもビニール傘を買う知恵もないのか。何が社会人なんだか笑わせる。
人がせっかく一生懸命育ててやっているのに、勝手に雨に濡れて風邪をひくなど許せる訳がなかった。

何ごとかショックな出来事があったのかもしれないが、その場の気分で雨に濡れて高熱を出してひっくり反られてはたまったものではない。母親にとっては体調を崩す前に子供の健康を守るのが最重要のミッションなのである。

碁の世界にどっぷり浸かってからのヒカルは、美津子には手が出せないようで戸惑いも多かったが、こと、健康に関しては母親の独壇場であった。



その後おとなしく風呂に浸かったヒカルは、これ以上叱られたくなかったので言われた通り五分数えることにした。
時計がないので声に出して数えていたら、対局の秒読みの様な言い方になっているのに気が付いて途中でやめた。職業病である。

ヒカルが風呂場から出るやいなや、美津子は
「ちゃんと温まったんでしょうね?!」
と確認してきた。
「うん」
「五分数えたわね?」
「大体だけど、うん」
「・・・・・そう。お腹はすいてないの?」
「・・・大丈夫」
そして美津子は息子の様子を見て、今日のところは何があったのかまで問い詰めることはせず解放した。
それで、ヒカルはホッとして二階の自分の部屋へ行くことが出来た。



ヒカルは自分の部屋に入ると壁によりかかって座り込んだ。
「・・・・・あれ」

充分に温まって風呂から出てきたヒカルは、何だか心まで少しホカホカしているのに気が付いた。
先程まで、あれ程落ち込んでいたのに不思議なものである。

そう。進藤ヒカルは、割と単純な子供なのだ。
しかし少し気分が楽になったとはいえ、問題は何も解決されていない。
繰り言のように同じ心配や後悔で頭が一杯になってくる。


彼にとって、緒方に事情を話すのは賭けだった。
実際に佐為として打っていて、それを目撃されてしまった以上、ごまかしは利きそうにないし、それで逃げを打って自分が‘sai’だと世間に広められては困る。
もう佐為の碁のストックはないのだし、佐為の代わりになれると思うほどズルくも自惚れてもいない。

だったらもういっそのこと話してみようと思ったのだ。
それに、バレるのが緒方ならいいか、という気もしていた。
最後に佐為が対局しようとした緒方なら、他の者よりはいいだろう。

と、そう思った。


愚かだった。

緒方は気持ちいい程、全否定で怒鳴り飛ばしてくれた。
そういう結果になるのは想定内だったはずなのに、自分でも驚くほどショックだった。
大量の氷水を浴びせられたような気がした。


『誰も信じてくれる訳がない』
分かっていたはずなのに。
「オレってバカだなあ・・・」

しかし、信じてくれないといってショックを受けて済む話でもない。
『佐為の碁を再現して佐為を生かす。そしてそれを見た佐為に帰ってきてもらう』という作戦は実行され、前者は成功し後者は失敗に終わった。

失敗しても、その後は普通にプロ棋士として戦っていけばいいはずだったのだが、その矢先とんでもないことになってしまった。成功したはずの前者も台無しになろうとしている。

前回は、プロ引退撤回を塔矢名人に確認するため病院を訪問したヒカルだったが、今回はとてもそんな勇気はない。ましてや前回事例では、病院内で緒方九段と遭遇しているのだ。

「行くなんてムリムリムリムリムリだっ」

もう前回通りに時間を進める必要はない。行っても行かなくても名人は引退しようとするはずだ。
それを緒方は引き留めてくれるだろうか。その場合やはり自分のことを持ち出すのだろうか。
「ううううう」

ヒカルは唸ると部屋に大の字になって手足をばたばたし、ついで部屋の隅に転がっていた枕に八つ当たりを始めた。バンバン叩かれて枕の羽が部屋を舞う。

その音に気付いた母親の美津子は階段の下から心配そうに二階を窺うのだった。





しかし気が重いからといって、部屋に引きこもるわけにもいかない。

それから数日間、ヒカルは学校と家との往復のみで過ごし、あかりにも「ちょっと風邪気味」と言って避けて過ごした。そうして、誰からどんな連絡が来るか待ち構えていたが『よお進藤。オマエ‘sai’だったんだってなっ!』という電話はかかってこない。

それで次に囲碁界の様子見に、勇気を振り絞って森下九段の研究会に参加してみた。
部屋に入るなり目に入ったのは、和谷がドヤ顔で並べる盤面に、その場にいる者たちがくぎ付けになっているところだった。
「・・・・・」

和谷が’sai vs toyakoyo’の対局を並べている・・・)

ヒカルは襖を開けたまま動けなってしまった。
当然、研究会の面々からは「何してんの。早く入んなさい」となる。
最近、少々気づまりな和谷ですら、
「進藤、saiだ。saiがまた現われたぜ」
と、声をかけてきた。

「sai」と言われて一瞬縮みあがったが、どうも自分のことを言っているわけではないと理解し、それでヒカルは恐る恐る碁盤の近くに寄って座った。

和谷の説明に森下九段も他の者も熱心に聞き入っている。
それは前回と同じ光景ではあったのだが・・・。
もし。この面々が「sai」が進藤ヒカルだなどと誤解したら、自分を見る目が変わるのだろうか。

藤原佐為は囲碁の神に選ばれて千年永らえた天才だ。
流石のヒカルでも‘sai’だと思われるのは、気づまりどころか恐ろしい。
前回は得意の絶頂だったヒカルだが、今日は遠慮しつつ(それでも黙っていられず)解説した・・・。
今回ばかりは和谷と打ち解けていなかったのが幸いした。
遠慮がちなヒカルに不審を抱かれずにすんだからだ。





そしてその数日後、学校帰りに「たまたま」前回通り出会った倉田六段と一色碁を打っている時、ヒカルは塔矢行洋名人の引退のテレビニュースを見たのだった。