LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白54〜黒57



白54

本因坊。その名は一世本因坊算砂となった僧、日海が住職を務めた京都寂光寺の塔頭の一つに由来し、江戸時代には幕府碁所四家の筆頭として世襲、継承されてきた。
そして二十一世本因坊秀哉が名跡を日本棋院に譲った後は、実力制本因坊戦として争奪されるタイトルとなって今に至る。


 平成十二年現在の本因坊は桑原仁。
他の棋戦ではタイトルから遠ざかっているものの、本因坊戦だけに限ると既に四期防衛に成功しており、本人もこのタイトルに最も固執していると言われている。
間もなく始まる今年の本因坊戦の挑戦者は緒方精二九段。
国内の若手ナンバーワンが、往年の第一人者に世代交代を問おうとしている、今はそんな頃であった。



 そして今日。桑原本因坊は日本棋院にあって、棋戦の日程の打ち合わせや、常務理事達との懇談や、インタビューなどのスケジュールをこなしていた。
通りかかる関係者が皆、桑原の顔を見て緊張気味に会釈していくのに、彼は鷹揚に応じた。

タイトルホルダーであるからには有名人であるのはもちろんだが、その貫禄、威圧感には定評がある。気の弱い人間だと、碁盤を挟んで座るだけで気力体力を使い果たすとまで言われているのだ。

『対局相手の精気を吸い取って生きているらしい』

というのは棋院内限定の都市伝説だが、そのせいか院生及び若手プロの間の隠れたあだ名はズバリ、「妖怪ジジイ」である。
ちょっとサルっぽい風貌と難しい気性と、盤外での駆け引きのイケズっぷりから少々(?)ネガティブ評価されてしまうということだろうか。
だがその反面、ひょうひょうとしたキャラクターに人気もあるのだ。

ところでこの男、本人が老人っぽく振舞うこともあって、ものすごく年寄りだと思われているが、実際にはまだ古希に二年ほど余裕がある。
確かにその年齢で棋戦のハードスケジュールをこなすのは大変だろうが、健康なので問題はないし、ヨボヨボに見える分、周囲が気を使ってくれるので丁度良いらしい。



 昼も過ぎ、知人と遅めの食事の約束があった桑原は、エレベーターで一階に下りていった。
ガーっという音と共に扉が開くと、ロビーは子供達で一杯だった。
昼食を終えた院生達らしい。
桑原に気付くと、それまで声高におしゃべりしていた彼らは一斉に黙り、あわてて頭を下げた。桑原もそれに応える。そしてそのまま出口の方へ歩いて行こうとし、しかし、ふと何かが気になって後ろを振り返った。


先程まで桑原が乗っていたエレベーターに乗り込んでいた院生の一人が、彼を静かに見ていた。そして桑原が自分を見ているのに気がつくと、小さく微笑んだ。
それを不審に思ったらしい他の院生が「進藤」と呼びかけるのが聞こえたところでエレベーターの扉は再び閉まった。



桑原は暫くそのままエレベーターを見つめていた。
それに気が付いた売店のスタッフが「どうかされました?」と声をかけてくる。それに応えて「今のガキ・・・」
と言いかけて、しかし桑原は口を閉ざした。

そして、ふいにニヤリと笑うと「覚えておこう」と、呟き、そのまま出口に向かっていった。






 時は移る。
さて、そんなタイトルホルダーになるにも、まずはプロ試験である。
ここに将来のタイトル戦を夢見る一人の青年がいた。
彼は棋士採用試験の受験申込みの書類を手にして意気揚揚と日本棋院にやってきた。

彼は院生出身ではなく、プロ試験を受けるのも初めてだったが気後れなどはなかった。
彼には輝かしい実績があったのだ。
元、学生名人・学生本因坊・学生十傑。
門脇龍彦二十六歳である。


大学卒業後に一般企業に三年程勤めたが、会社勤めは囲碁ほど面白くなく、はっきり言ってもう飽きてしまった。
(やっぱり囲碁がいいよな)、という軽い気持ちで受験を決め、就職氷河期真っ只中の平成十二年にあっさり会社をやめた。
今でも語り草になる程の強さを誇った元学生三冠は、プロ試験に絶対の自信があったのである。
失敗するなど夢にも思わない自信家の彼は、学生時代の囲碁部の仲間や友人に宣伝しまくったものだ。それを喜んだ昔の仲間がホームページに書き込みを行ったりしたために、一部関係者にも噂が流れているよう
であった。



 棋院の建物の中に入ると学生の大会の時の思い出が一気に甦る。
最後に来たのは学生名人戦の時。あの日の自分はヒーローだったよなあ、などと当時の余韻に浸り、今度はプロの世界で本物の名人になった自分を思い描いた。
売店に立ち寄り、扇子を買った。『オレ様のプロ試験申込み記念』というわけだ。
(後で値がつくかもな)
などと果てしもなく調子のいいことを考えた時、エレベーターの扉が開き、一人の少年が飛び出してきた。
そういえば今日は院生研修の日だったことを思い出した門脇は、その少年を呼び止めた。
「キミ、院生かい?」

前髪だけ金髪メッシュにしたその少年は振り向き、門脇の顔を見ると「あっ」っと声をあげ、「かっ」と続けそうになってあわてて口を押えた。
もちろん『かどわきさん』と言いそうになったのを止めたのである。この時、前髪メッシュの少年、進藤ヒカルは門脇と初対面のはずだったからだ。

「そっか、今日だった」
と小声でつぶやくヒカルに門脇は「何?」と訊いたが彼は「ううん何でもない」と手を振った。


「プロ試験もうすぐだね、受けるの?」
と門脇が訊くと、ヒカルは頷いた。
「少しウデに覚えがあるんだ、これから一局打ってくれない?」

門脇は目の前の院生を見て、折角だから肩慣らしをさせてもらおうと思ったのだ。
院生と打てばプロ試験の大体のレベルが測れるというものである。
ヒカルは「いいよ」と機嫌よく承諾した。そして二人は一般対局室へ向かった。


空いているテーブルを探しながら、
「キミ、院生順位は?」
と門脇が訊くと、ヒカルは「へへへ」とあいまいに笑って頭を掻いた。

(たいしたことないのか?)
と、席についた門脇は、チロっとヒカルを見ると「ニギるよ」と言って石を碁盤に置く。
ヒカルも石を二つを置いた。それで門脇が白、ヒカルが黒と決まった。
その瞬間、ヒカルは何故かホっとしたように、うんうんと何度も頷いた。

「お願いします」と双方挨拶をした後、先番に決まったヒカルは、黒17の四、右上スミ小目に石を置いた。
(行くぜ!!)
俄かに真剣になった門脇は白16の十六、星に打つ。


異変はそこで起きた。
目の前の院生が「えええっ!!」
と、突然悲鳴のような叫び声をあげたのだ。

「うわっ何だよ、脅かすな!!」

見るとヒカルは椅子から腰を浮かせて、口をパクパクさせている。
「何、どうしたんだ?」
血相を変えたヒカルに門脇が声をかけると、ヒカルはようやく口を閉じ、ストンと椅子に座った。

「・・・・・・・・・・・」
そのまま碁盤を見つめて暫く考えている。

(長考? 長考なのか?)
まさかここで「負けました」などと言い出すんじゃないだろうな、と心配になってきた門脇は、盤上よりもヒカルの様子を伺った。

やがてヒカルは、ゆっくり顔を上げると「あのう・・・・」と門脇に言った。

「や、やり直さない?」
こわばった笑顔を見せて言った言葉に門脇はひっくり返りそうになった。

「・・・・・何だって?」
「打ち直さないかなあって」
「・・・・・・・・・・」
「ね?」
「オレにハガせっていうのか?」

石を置きなおすのはハガシと言って反則である。ヒカルはあわてて手を横にぶんぶん振った。
「違うよ、違うってば。最初から打ち直さない? オレが先番なのはそのままでさ」

(何だよ、そりゃあ)
まだ双方一手ずつしか打っていない。
門脇は開いた口が塞がらないまま、ヒカルを見た。
碁盤と門脇を交互に見ながら途方に暮れた風の少年の姿に、彼は人選を誤ったと思った。

(コイツ本当に院生か?)
そういえば、さっき院生かと訊いた時、そうだとは答えなかった気がする。
たまたま来ていた見学者か、ジュニア囲碁教室の生徒か何かだったのだろうか。

(やれやれまいった。こりゃ肩慣らしどころじゃない。指導碁の方がいいんじゃないか)
と、門脇は思った。
こちらから声をかけた以上、自分からやめるわけにもいかないし、しばらく待ってもらって、先に願書を受付に出してきた方がいいかもしれない。

「あのさあ・・・せっかく始めたんだから、このまま打っちゃおうぜ。まだあんまり上手じゃなくてもお兄さん平気だからさ、でもその前に・・・」
大人らしく、やさしく言いかけた門脇に、ヒカルは遮って「ダメならいい。分かったから」
と、がっかりしたように言った。

そして自分のカバンから扇子を取り出し、椅子に座りなおすと、もう一度盤上を確認してから黒石を取り上げた。


 その瞬間、門脇は目の前の少年の雰囲気が一変するのを感じた。
突然襲い掛かるプレッシャー。
(な、何だコレ)

これに近い感覚に覚えがないわけではない。
そう、それは、かつて戦った学生タイトル戦の決勝の時。あの頃、自分を入れて三強といわれた学生のトップ同士が何度もタイトルを奪い合った。学生最後の年、三冠を収めたのは自分だったが、皆必死だった。
その時の真剣勝負の感覚。ずいぶん長いこと忘れていた。
そうだ。自分が入っていこうとしているのはこういう世界だったではないか。


だが何故? この少年は一体何だ?










 前髪メッシュの少年は異様に強かった。
院生どころじゃない。プロじゃないのか、と門脇は疑った。
本当に院生だとしたら、そのレベルは自分が思っていたのと大違いである。こいつは大変なことになった。
自分はプロ試験を甘く見すぎていたのだろうか。




 対局相手の少年は半分開いた扇子を顎につけたまま身じろぎもしない。そのまま門脇の方に問うような目を向けた。

(ここまでだ)
門脇は頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」

頭を下げたまま、今度は門脇が動けなくなった。
(負けた・・・完璧にやられた・・・・・)


「・・・・・・おまえ、ほんとに院生か?」
それだけやっと口にした。

「うん」
少年は短く応えた。
「年は? 名前は?」

少年、つまりヒカルは石を手早く片づけながら、小さく笑った。
「オレは進藤ヒカル。年は十三だよ」
「そ、そっか・・・・・」

しきりに感心した風の門脇を他所に、ヒカルは扇子をカバンに仕舞うと立ち上がった。
「じゃあね」

立ち去ろうとするヒカルを門脇はあわてて呼び止める。
「待てよ、碁を始めてどれくらいになる?」

ヒカルは立ち止まり、指で数え始めた。
「えーと、えーと」

「・・・・・・?」

「のべで五年くらいかな」
ヒカルは答えると、踵を返して駆け出した。


それを、門脇はあっけにとられて見送った。

「のべって何だよ、のべって・・・・・」



(変な奴)
それが門脇龍彦の進藤ヒカルに対する偽らざる感想であった。



黒55


 (何だよ門脇さん、前と全然違う碁じゃないか!!)
棋院前の坂道を駆け下りながらヒカルは心の中で叫んでいた。

碁の内容はいい。門脇の碁は布石も面白かったし、その後の展開も良かった。自分も満足出来る碁だった。

だがそれではダメなのだ。今日の対局は特別だったのだ。
前回、院生研修の帰りに門脇に声をかけられたヒカルは、当時ヒカル以外に対局する機会のなかった佐為に打たせたのだ。

それは通りすがりの、それっきりの碁のはずだった。


まさか声をかけてきた「おじさん」が、学生タイトルを総ナメにしてきた実力者で、プロ試験合格の有力候補だとは思わなかったのだ。

門脇は、ヒカルが驚くほど強かった。
自分で打っていたら負けていたかもしれない。その門脇を佐為は鮮やかにやっつけてしまったのだった。
それはヒカルだけではなく門脇にとっても忘れがたい碁となった。それを後に門脇自身がヒカルに語っている。

『あの一局でオレはひと回りほども年の離れた君に尊敬とあこがれを抱いたんだぜ』

それ程までに門脇の心に刻み込まれた佐為の碁。
そう。つまりヒカルにとっては門脇に見せるため、必ず再現しなければならない重要な対局だったのだ。

「藤原佐為の碁を世に知らしめる会」の会長兼唯一の会員としては、絶対外せない碁だったのに。


(さっきの対局。白の二手目は左上スミ小目だったはずなのに。そうしたらオレは右下スミ小目に打って・・・・・・・・それなのに)



「何で星なんだよ!!」
ヒカルは悔しくて思わず大声を出した。たまたますれ違った通行人が彼を振り返る。



JRの駅を通り過ぎ、皇居外堀にかかる市ヶ谷橋の上から、すぐ下にある市ヶ谷フィッシュセンターを見下ろす。
薄暗くなってきても釣堀は盛況のようであった。

梅雨の湿った風が絶え間なく吹きつけてくる。もうすぐひと雨くるのかもしれない。
ヒカルは乱れたトレードマークの前髪を右手で押えた。
そしてぼんやりと釣りに興じる人々を眺める。




(もうダメなのか・・・・・)
先ほどの碁。
二手目が予定通り4の三、左上スミ小目だったとして、その後、門脇のどの手が違っていても佐為との碁は崩れる。
いくらヒカルが佐為の碁を再現したくても、碁はあくまで対局者同士の共同作業だ。
要するに、今日の碁は佐為の碁として成立しない運命だったということなのだろう。

これまでも様々、前回と違う展開はあったものの、佐為の碁だけはなんとか再現出来ていたのだ。しかしそれも叶わない程に歴史はずれてきているのか。

もう、あの美しい佐為の碁をライブで人に見せることは出来ないのだろうか。
実際に打って見せなくては、人々にあの感動を完全に伝えることは出来ないのに。

結局のところ、今日は正真正銘、進藤ヒカルと門脇龍彦との対局だったということだ。
それで満足するしかなかった。

「ちぇっ・・・・」
ヒカルは舌打ちすると、駅の方へ歩き出した。











「あ、あった。ここだここ」
和谷義高は渋谷、道玄坂沿いにある雑居ビルの案内板を見て伊角慎一郎に声をかけた。

この二人、それぞれに馴染みの碁会所はあるものの、一年ほど前から暇を見つけては違う碁会所を渡り歩いていた。
受付で申し入れて、強い人と対局させてもらう。
それは院生研修や師匠の研究会、囲碁塾とはまた違った面白さがあった。
そして打った後、そこで知り合った人に他のオススメの碁会所を紹介してもらうという訳だ。

今日やって来た「囲碁サロン道玄坂」も先日訪れた池袋の某碁会所で紹介してもらった店である。


エレベーターで六階にあがり、店内に入ると煙草の匂いと石を打つ音が二人を出迎えた。
受付で「オレ達ここにいる中で一番強い人達と打ちたいんですけど」と和谷が言うと、受付の中年の女性は顔を和谷の顔に寄せて「ナマイキな口を叩くガキはあたしゃ嫌いなんだよ」と言って口を尖らせた。
伊角がフォローしようと口を開きかけた時、店の奥の方から男の叫ぶ声が聞こえてきた。

「くっそおおおおっっっ!!! 今のはナシだっ!! もう一局だ、もう一局打つぞ!」
「ちょっと河合さん、次が控えてるんだから遠慮してくれよ」
「そうだ。次はワシだ」

騒ぎの方に顔を向けた受付の女性は顔をしかめて「また始まったよ」と、うんざりしたような声を出した。
(雰囲気が良くない店は嫌だなあ)、と伊角が思った時、聞き慣れた声が同じ方向から聞こえてきた。

「そうだよ、それに何度やったっておんなじだよ。河合さんは今日はオシマイ!」
「なーんだとうっ?、進藤! このヤロ!!」

「・・・・・・進藤?!」
和谷と伊角は顔を見合わせ、声のした方へ向かった。

そしてその先には、サングラスをかけた痩せぎすの髭男に羽交い絞めにされた進藤ヒカルが居たのである。


「あっ、和谷と伊角さん、た、たすけて」
「・・・・・・・何やってんだ進藤・・・」

「オマエらは何だ、進藤の知り合いか?」
髭男が和谷と伊角にかみつく。二人は三歩後退した。
「河合さん、ともだちだよっ!院生仲間っ」

それを聞いて周囲の客達がどよめく。
「院生?」
「進藤君の友達だってさ」

河合も拳でヒカルの頭をグリグリやりながら二人に訊いた。
「院生って 本当か?」
「・・・・・・・・はあ、まあ」

やっと河合から逃れたヒカルはグシャグシャにされた頭髪のまま、二人の元に逃げ込んだ。
「ここって進藤の行き付けなのか?」
伊角の問いにヒカルは頷いた。

「オマエん家からずいぶん遠いけど・・・・」
「まあ、そうなんだけどさ」


確かに遠いがそれは仕方がない。実は前回この店にヒカルを連れて来たのはこの二人なのだ。
それまで殆ど大人と打ったことがなく、プロ試験の予選で萎縮してしまったヒカルを大人慣れさせてやろうと、このタイミングで連れて来たのだ。

その後ヒカルはこの店が気に入ってしまい、行き付けの碁会所として入り浸ることになった。言わばここはヒカルのホームグラウンド的な店なのである。

時間を遡って、全てのやり直しを余儀なくされているヒカルだが、この位は許容範囲だろうと時間軸を前倒しで時々訪れているのである。
そんなことをやっているから、歴史がずれてしまうのだと言われればそれまでだが、ヒカルも息抜きできる場所がないとやっていられないのだ。


「伊角さんと和谷はどうしたの?」
と、ヒカルは一応聞いてみた。

それに答えて和谷は碁会所めぐりの経緯を説明した。

「ここには強い人がいるって、教えてもらったんだ」
それを聞いて常連客の堂本がフフンと鼻を鳴らした。
「どこの誰だか知らないが、良く分かってるじゃないか」

ヒカルは店内を見回した。
自分がいて、常連のおじさん達がいて和谷と伊角がいる。懐かしい風景にヒカルは嬉しくなって微笑んだ。
そして一つ提案した。

「せっかく院生が三人揃ったんだから、団体戦をしてみない?」
「団体戦?」
ヒカルは頷いた。
「伊角さんが大将、和谷が副将、オレが三将。で、ここにいるお客さんチームに二子か三子置いてもらって対局するんだよ」

和谷と伊角はまた顔を見合わせた。
「・・・・・・へえ。面白そうだなそれ」
聞いていた客達も参加しようと次々手をあげた。

「そりゃいい、オレに打たせろよ」
「いいやオレだ」
「ワシが次に進藤君と打つはずだったんだ」
「もうそんなのチャラだよ」

その様子を見てヒカルはマスター(席亭)に声をかけた。
「マスター、オレ達が勝ったらこの二人の席料マケてあげてよ」
「いいともいいとも」
マスターは機嫌よく請合った。

小さくて元気一杯、ついでに自信満々で生意気なヒカルは、碁会所のおじさん連中のアイドルであった。事実ヒカルと打ちたくて頻繁に顔を出す客までいる。
そんなヒカルをマスターは非常にかわいがっていて、席料は常にタダ。
プロになったあかつきには後押ししてやろうと思ってもいた。ヒカルの友達なら、どのみち大歓迎である。


和谷が笑ってヒカルに言った。
「団体戦なんてオマエもたまにはいいこと思いつくな」
「えっ?」
ヒカルは驚いて和谷の顔を見た。
元はといえばこの団体戦は前回の和谷のアイディアである。
気まずそうに頭を掻いて「ははは」と笑って誤魔化すしかなかった。
「でもオマエ三将でいいのいか?」
「・・・・・・うん」
「オマエが考えついたんだから大将だっていいんだぜ」
「・・・・・・オレは三将が好きなの!」
「・・・・・・・・・・・・へ?」
和谷は(またコイツは意味不明なことを)と、胡乱な目でヒカルを見た。


そうこうしている内に相手チームのメンバーが決まった。大将が碁会所のマスター、副将が河合、三将が「次に進藤と打つはずだった」曽我である。

(微妙にメンバーが違うんだよなあ・・・)
と、ヒカルは思った。
前回はマスター、曽我、河合の順番だった。しかし河合とはつい先程打ったばかりで、また打つのはいかにも不自然である。
ヒカルは先日の門脇との対局を思った。
(やっぱり、どんどんズレていくんだな)

一瞬ぼんやりしたヒカルを和谷が後ろから小突いた。
「何ボケっとしてんだ、進藤。自分で言い出しておいて負けたら承知しねェぞ」
「あ、うん」

促されてヒカルは三将のテーブルに着いた。
(まあ、いいか。佐為の碁とは関係ねェし・・・)



店内の客の大方は対局をやめ、ヒカル達のテーブルの周りに集まってきている。
それぞれの盤に黒石が三つ置かれ、「お願いします」の声とともに団体戦が始まった。



白56


そして平成十二年八月二十八日、プロ試験本選初日の朝。
進藤ヒカルは千葉市幕張の囲碁研修センターに向かった。

ヒカルはバスを降りると、研修センターの建物を見上げた。
数年後には売却されてしまうこの場所は、プロ試験のための戦いを繰り広げるヒカル達にとっては、合格してもそうでなくても忘れがたい場所になるはずであった。


次々と受験生がやって来る。
院生や、外来受験者。
初日の緊張からか、皆、表情が固い。

ヒカルが入口に立っていると、次のバスが来て、和谷が降りてきた。
互いに手をあげて挨拶を交わす。
「おーっす、進藤」
「おーっす・・・」

和谷は近くまで来ると「顔、こわばってるぜ」とヒカルの顔を指さした。
ヒカルは浮かない表情のまま「そう?」と応じた。
和谷はそのまま建物の方へ向かおうとしたが、ヒカルはそのまま動かない。
「・・・オレ中に入るけど、オマエ誰か待ってるの?」
不審に思って和谷が訊くと、ヒカルは
「いや、オレも行くよ」
と、和谷の後を追おうとして最後に後ろを振り返り、そこで動きを止めた。

「・・・・・・・」


ヒカルの目の前で、知った顔がヒカルに気付いて手を振っている。
「・・・・・・・進藤?」
和谷も立ち止まって、ヒカルの視線の先を見る。
その男は彼らに近づくと、朗らかに声をかけてきた。

「やあ進藤君。この間はどうも。プロ試験、お互いがんばろうな」

ヒカルは少し青ざめた顔でその青年を見上げた。
本来ここに居てはならない人物。ヒカルの恐れていたことが現実になってしまった。

「・・・・・・・・・おはようございます。門脇さん」






 門脇龍彦は前回、佐為との対局にショックを受け、一年自分を鍛え直すと言ってこの年の受験を見送っていた。
そして今回、門脇と対局したのは進藤ヒカル自身。
今回もヒカルが勝ったが、門脇に受験を思い留まらせるには至らなかったということだ。

門脇が予選に出ていると知った時、ヒカルは頭を抱えた。
門脇は強い。予選は通るだろう。
それでは本選は?

プロ試験の合格者は三名。
歴史通りなら、この年の合格者はヒカル、和谷、越智である。

しかし門脇がこの年に参戦することで合格者が変われば、それは取り返しがつかない歴史の変動であった。
いや、それどころではない。もし、この一件が原因で和谷か越智がプロになれなかったらどうすればいいのだ。自分のせいではないか。

もちろん、如何なる状況でも、勝ち負けは自己責任である。
自分も、和谷も越智も、前回通りに自力でプロになるべきであって、自分が気にしても仕方がない。
と、考えることもできる。

だが、それは理屈だ。
ヒカルは彼らがプロになった瞬間を見ている。プロとして活躍しているところも見ているのだ。
(勘弁してくれよ・・・)
と思うのも無理からぬことであった。


そして今日、ヒカルの予想通り、門脇龍彦は予選を突破し、この場所にやって来たのだった。

ヒカルは、門脇を和谷に紹介した。
元学生三冠は有名人である。
和谷もネットで門脇の動静はチェック済みであった。
強敵の出現に口元を少々強張らせながらも「よろしくお願いします」と挨拶した。
そして三人は連れ立って、建物の中に入って行った。






「進藤が門脇と知り合いだなんて知らなかったぜ」
休憩室に入り、門脇と離れたところで和谷がヒカルに囁いた。

ヒカルはカバンをテーブルの上に置いて、答えた。
「この間、棋院で一局打っただけだよ。あの人、院生と打ってみたかったらしいぜ」
それを聞いて和谷は頷いた。
「つまりリサーチだな。敵情視察ってやつだ。で、オマエ勝ったのか」
「勝った」

ふーん、と和谷は鼻を鳴らして、他の外来と話し込んでいる門脇の方を見た。
外来は全て予選に出ているので、情報交換もするし、知り合いも増えるというわけだ。
大人の外来の中には声の大きい者もいて、彼等の話し声で休憩室はかなり騒がしかった。

和谷は視線をヒカルに戻して、ニヤリと笑った。
「そーかそーか、オマエ勝ったのか」
(どっちがリサーチしてるんだよ)
ヒカルは肩をすくめた。
そこで、机の少し離れた所で手を振っている伊角に気が付いた。
「あ、伊角さんだ」
「おはよ」
二人は再びカバンを持って伊角の所に移動した。


「久しぶりだな、例の碁会所ぶりか」
「うん、アレは面白い対局だったよな」
「えへへへ」
ヒカルは照れ笑いをした。

「何だ? 例の碁会所って」
傍にいた、飯島が会話に入ってきた。

そこで和谷が説明した。
先月、和谷と伊角で碁会所めぐりをしていたところ、ある碁会所で「偶然」進藤ヒカルに会い、その後しばらく三人で、各所の碁会所でお客さん相手に団体戦をしてまわった、と。


「最後に行った店じゃすごかったんだぜ。進藤が韓国棋院の研究生と対局したんだけど、これが大熱戦だったんだ」
「韓国棋院の研究生?」
飯島は驚いた。

「偶然だよ偶然。親戚が日本にいて、遊びに来てたんだと」
「それで?」
「コイツが勝った」
和谷はそう言って、ヒカルの頭をポンポン軽く叩いた。
「来てた客もみんな進藤が負けるって言ってたけどさ、コイツが勝ってちょっと気分よかったぜ」
「へえ・・・」
飯島は少し、うんざりしたようにヒカルを見た。


ご想像通り、韓国棋院の研究生というのは洪秀英(ホン スヨン)のことだ。
彼はこの後、歴史通りなら韓国のプロ棋士となり、日中韓ジュニア杯の韓国代表の一人として来日し、ヒカルと再会することになっている。


ところで、この洪秀英は高永夏とは幼馴染みである。
碁会所での対局の後、秀英は泣いて悔しがったが、それが落ち着くと、ヒカルは意を決して秀英と、これまた偶然来店していた、海王中の囲碁部顧問を部屋の端に連れて行って聞いたものだ。
つまり、
「オマエの友達の高永夏は‘psy’という登録名でネット碁をしているか」
と、訊いたのだ。

何故海王中の顧問も呼んだかと言えば、この時点で秀英は日本語が分からなかったので、通訳してもらったのだ。

だが、残念ながらヒカルの望む答えは返ってこなかった。

『それは知りません。永夏さんは忙しいので、そういう時間はないでしょう』
というのが、尹の訳したお行儀の良い返事だった。

だが、口調から察するに実際のニュアンスとしては
『そんなこと知るもんか! 永夏は忙しいんだ、そんなヒマあるわけないだろっ!!』
という、感じだったかと思われる。

ヒカルにとってはどちらでも同じなので、構わないが。


秀英と会った時に確認できるかも知れないと、少し期待していたヒカルは落胆した。
手がかりが消えた。
一体どうすれば‘psy’が誰かを確認出来るのだろう。




ヒカルは、小さく溜息をついて立ち上がった。
「トイレ行って来る」
一言声をかけて、休憩室を出て行った。


ヒカルの姿が見えなくなると、飯島が「あーあ」とイヤそうにボヤいた。
「アイツさあ、進藤って、一人で余裕かましてない? 正直羨ましいよな」
伊角が苦笑する。
「そう言うなよ。人は人。自分は自分だろ」
「そうは言うけどさ、伊角さんも和谷も貴重な本選前にアイツとつるんで遊んでて大丈夫なのか?」
「どういう意味だよ」

飯島は肩をすくめた。
「だって言いたかないけど、進藤って別枠って気がする。プロ試験も合格するか落ちるか気にするんじゃなくて、ただの手続きみたいに思ってる気がする」

これには伊角も和谷も一瞬言葉を失った。

「いくらなんでも、そりゃねェだろ」
「そうかな?」と、飯島は続けた。

「去年のプロ試験で、和谷は言ってたよな。この中でプロ試験に受かるのは二人しかいない。合格者の一人は塔矢アキラに決まってるからって。今年はそれが進藤なんじゃないのか?」

「・・・・・」
「オレ前から思ってたよ。今年も合格枠は二名なんだってな。もうオレも院生のタイムリミット近いのに今年もダメだったらどうしようって。伊角さんだって高三だろ?気にならないのかよ」
「よせよ飯島」
伊角は遮った。これから対局だというのに、何を人の神経に障るようなこと言い出すのか。

「確かに進藤は強いさ。だけどアイツだって人間なんだし、試験は水物だぜ。
進藤は関係ない。オレは今年こそ合格するつもりだ。それに今からそんなに弱気じゃオマエこそ先が思いやられるぞ」

伊角の優等生な返事に飯島は顔を歪めた。
「そう思えるなんていいよな。でも伊角さんが院生一位だったのってもう随分前じゃないか。この間は越智にも抜かされてさ」
「・・・・・!」

流石の伊角もこれにはガチンと来た。だが反応は和谷の方が早かった。
テーブルをバンっと叩いて、声を荒げた。
「おい飯島! いい加減にしろよ」

飯島は胸倉を掴まれそうになるのを身を捩って避ける。その拍子に椅子ごと後ろに倒れそうになったところを誰かが支えてくれた。


「オイ、何だオマエら。喧嘩か?」

無駄にデカイ声が上から降ってきた。三人は一斉に声がした方に顔を向ける。そこに背が高くて体格のガッシリしたガテン系ヒゲ男が立っていた。
「・・・・・・・・」
三人の動きが止まる。


ヒゲ男はフリーズした三人をねめつけた。
「プロ試験初日から何だっていうんだ。これだからお子様は困るな」

「お、お子様って・・・・」
「オマエ達、院生か?」

三人は首を縦に三回振った。

「そーか。オレは外来の椿だ。みんなの迷惑になるから、ここでは静かにしろよ」

三人は再び首を縦に三回振った。

「よし、分かればいい」

そして男は休憩室から出て行った。

それを見送った三人の耳に、他の外来がボソっと呟くのが聞こえてきた。

「アンタが一番うるさいんだよ・・・・・」


黒57

「とにかく、うるさいのよ。予選の時も一人でぎゃーぎゃー大声出して、周りにからんで、みんな迷惑してたんだよね」
「ほう」
「組み分けの時、ウッカリ隣に座っちゃったら、日焼けのアトが痒いらしくて掻くわけよ。そしたら剥けかけの皮がブワーっと、周りに散るの! もうサイッテー!」
「そりゃ確かにちょっとイヤかな・・・」
「こう言っちゃなんだけど、ムサいし気色悪いのよね。寄るなジジイって感じよ」
「嫌われたもんだ」


昼には食事のために打ち掛けとなる。
弁当組以外の、外に食べに行っていた者達も、休み時間の終わりが近づくと再び休憩室に集まってきた。うち院生の何人かは部屋の隅に合流し、固まって座る。

奈瀬は周りに座ったの院生達に言い渡した。
「だから皆いい? あのヒゲジジイには絶対負けちゃダメだからね」
本田が呆れたように言った。
「椿さん限定かよ」
奈瀬は本田を睨んだ。
「別に私以外の誰に勝ったっていいわよ。でも最低あのヒゲには勝ってよね!」
「簡単に言うけど、予選の時、あの人の碁ってどうだったんだ?」
伊角の質問に奈瀬はつまった。実は予選の二戦目で椿と当たって負けているのだ。
「・・・・・・・・うるさいな。忘れたわよそんなの」

ギロギロ睨む奈瀬に小宮がそっぽを向いてつぶやいた。
「女ってコええ・・・」



その時、昼食から帰ってきた受験者が二人、休憩室に入ってきた。
「でも進藤君は仲良しみたいだよ」
フクが入り口を指差す。

入ってきたのはヒカルと椿であった。
ヒカルは椿に何か言い、手を小さく振ると、院生達の方へやってきた。
「ただいま」

和谷が訊く。
「進藤、昼メシ別に行くって言ってたのって、あのオッサンと行ってたのか?」
「うん、奢ってもらっちゃったよ(相変わらず)、いい人だよな、あの人」
奈瀬が「やっだあ」と顔をシカめた。

「食べ物につられるな。何処に食いに行ったんだよ。国道沿いのメシ屋?」
「ううん、海幕の方」
「海浜幕張まで行ってたのかよ! オマエ総武線組だろ?」

囲碁研修センターに行くための路線は、JR総武線または京成線の幕張本郷駅か、海側を走るJR京葉線の海浜幕張駅である。研修センターまでは、それぞれの駅からバスに乗る。
ヒカルは総武線組だ。

ヒカルは両手をオートバイのグリップを握るように前に突き出し、くいくい動かして見せた。
「椿さんバイクなんだよ。後ろ乗せてもらったんだ。メシ食う所、遠いけど海幕に出れば沢山あるよって教えたら、じゃあ行こうって言うからさ」
「そりゃオフィス街だし、いろいろ店も多いけどさ・・・バイクなら時間もかからんか」
「何食った?」
ヒカルは、ニヤリと笑った。
「ラーメンさ!」

「何でラーメン! わざわざ遠出してラーメンかよ!!」
「有名店でもあるのか?」
「知らねェ。いいんだよ、ソバでなけりゃ!! オレはラーメンが好きなんだからいいの!」

ヒカルは蕎麦が苦手だ。前回の予選の時、椿に無理やり昼食のお供をさせられ、蕎麦を奢られて非常に迷惑をした苦い経験がある。
今日、奢ると言われた時、最初に「ソバは苦手」と断わっておくことを忘れなかった。
人生やり直していると、たまには良いこともあるのだ。

和谷が言った。
「碁会所まわりしてる時も思ったんだけど、進藤って結構オッサン受けがいいんだよな」
「おやじキラーかい」
小宮が茶化す。
「嬉しくねェ!!」
ヒカルは大ウケして笑う仲間達を睨んだ。


ところでヒカルは院生仲間と違って、幼い頃から碁会所に顔を出していたわけではないので、大人慣れしていないのが弱点であった。
前回はそのために、外来の大人達も参加するプロ試験予選で、アガって失敗しかけている。
その時のアガリの主原因がムサくて声が大きい椿だった。
しかし、今の内なるヒカルはプロ棋士として、むしろ日常的に大人相手の仕事をしているのでアガる訳がない。
久しぶりに椿に会って当時のことを思い出したヒカルは
(あの頃に比べるととオレも成長したぜ)
と思い、自分から昼食に誘ったのだ。
前回、萎縮して佐為を心配させたのも遠い思い出である。


「さてっと、そろそろ時間だ。戻ろうか」
伊角が声をかけるのを潮に皆席を立った。












 その日の夕方、初戦が終わって門脇が休憩室にやって来ると、まだ数人の外来が残っていた。
「やあ、どうも」
「お疲れさん」

そこでも一番声の大きいのはやはり椿であった。門脇は苦笑しながら椿の向かいの席に座る。外来の二人は予選に出ているので面識があったのだ。

門脇が胸ポケットから煙草を取り出したところで、椿がライターを差し出した。
「どうも」
門脇は遠慮なくライターを借りると、火を付け、深々と煙を吸い込んだ。
「オレはずっと禁煙してたんだ。でもやっぱり本選が始まるとついコレに手が出ちまう」
「ははは、だろうな」

「椿さんが勝ったの、対局中でも挨拶の声で分かったよ」
「声がデカイからオレだって分かりやすいだろ?」
(自覚があるのか)
門脇はチラっと目の前の男を見た。
で、わざと小さい声で
「・・・普通の声でも話せるんだよな」
と、問い掛けると、椿は身を乗り出して「おう」とこれまた小声で返した。
「・・・・・・・・」
そして暫く二人で黙ってスパスパ煙草を吸い続け、その後、門脇が話を切り出した。


「ところで椿さんは院生の進藤君とは元々知り合い? 今日、一緒に昼メシ食べに行ってただろ」
椿は手を振って否定した。
「いいや、メシは向こうから言ってきたんだよ。どうもオレはガキに嫌われやすいんだが、ああいう物怖じしないヤツが居るとホッとする。だがなあ、ええとアンタ、元学生三冠の・・・」
「門脇」
「そう、門脇サン。あの進藤ってガキは結構ヤるんだってな」

門脇は小さく笑った。
「院生一位。去年合格した塔矢名人の息子をライバルだと公言してるヤツさ」
「塔矢アキラを? まあ、言うのは勝手だからな」
「ところが、塔矢アキラの方もそういうつもりらしいんだな」

椿は眉を顰め、腕を組み直して唸った。
この数年の間にプロ試験を受けた者で塔矢アキラの名を知らぬ者はない。
受験するなら彼が受けない年がいいと思う者も居たのである。
その彼がライバル視しているという。実力の程が知れるというものだ。

「それに予選の少し後だったかな、週刊碁にもちょっと名前が出てた。今年のプロ試験を占うとかいう記事で」
「へえ」
「・・・進藤君は今年の合格最有力候補なのさ。それで彼に関しては、知り合いの碁の記者に聞いたり、予選の時に院生の子に聞いたり」
情報収集は怠りないというわけだ。

そこで門脇は大きな溜息を付いた。
「オレ知らなかったもんだから、願書出す前に偶然ロビーを通りかかった進藤君を呼び止めて一局打ってもらったんだ」
「ほお・・・で?」
「・・・・・・・・・・・相当デキる。院生上位のレベルは高いぜ。予選組を下したからって安心しない方がいい」
「別に安心なんかしていないぜ」
椿は、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。いつの間にか声の大きさが戻っている。

「囲碁界の子供は子供じゃない、だろ? 分かってるさ、油断なんかするか」


門脇は椿から視線をはずして休憩室を見回した。もう他の受験者達は帰ってしまって、休憩室に残っている
のは門脇と椿だけになっていた。


椿が語っているのは一般論である。
どう話したところで、門脇がヒカルと対局した時の衝撃を伝えることは出来ないだろう。
本選は総当たり戦である以上、いずれ彼にも分かる事だ。



過日、ヒカルと対局して門脇の自信は揺らいだ。
院生のレベルを測って安心しようとして、自分の奢りに気付かされたと言ってもいい。
塔矢アキラがいない今年、トップ合格も夢ではないと思っていた愚かしさ。

(大丈夫なのか、このまま受けて)
一年、鍛え直そうか・・・。門脇は正直そこまで考えた。
願書を持ってその日はそのまま帰宅し、申込み最終日まで悩みに悩んで、とにかく受けてみることにした。

棋院で進藤ヒカルと対局した時、自分は初め、相手をナメていた。
しかし今度は最初から真剣勝負。それに、もう一度彼と打ってみたいということもある。
子供子供した外見とあの、じっくりした碁のギャップ。


(面白かった)

この辺りの事情をヒカルが知ったら地団駄を踏んで悔しがったに違いない。
『面白くなくていいから、受けるの来年にしてよ!!!』
と、叫びそうである。






 とにかく、こうしてプロ試験は始まった。
試験日は火曜日、土曜日、日曜日の週に三日。受験者は約二ヵ月かけて総当り全二十七戦を戦うことになる。そして上位三名にプロへの扉が開かれるのだ。

その後、ヒカルは下馬評どおり、無敗のまま勝ち進んでいった。




スタートラインは一緒でも日が進むにつれ、差が広がっていく。
そして、その経過を見守る人々。

塔矢アキラもその一人だ。
試験日の度にインターネットでライバルの勝敗を確認する。

だが九月のある日、日本棋院のサイトを見ていた彼は目を疑った。








進藤ヒカルが一敗を喫したのである。