LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒27〜白30



黒27

 その日の午前、緒方精次九段は地方のイベントの仕事を終えて、師匠の塔矢名人宅を訪れていた。
午後には門下の研究会が開かれることになっているのだ。


 緒方は現在三十歳。
十一歳の時、それまで師事していた師匠が急逝したため、師匠と懇意にしていた塔矢九段(当時)の門下生となり、翌年入段。
以後、塔矢門下の出世頭として、現在はタイトルにこそ手が届かないものの、タイトルリーグ戦の常連として、トップ棋士の一人と目されている。



「早くから申し訳ありません」
出迎えてくれた塔矢夫人に緒方は頭を下げ、土産の菓子を渡した。
「いいんですよ、緒方さん今日はお仕事先から直接いらしたんでしょ?」
「ええ、まあ」

昼食を一緒に、との塔矢夫人の誘いを「空港で済ませましたので」と緒方は辞した。
「お土産ありがとう。これ、後で皆さんにお茶菓子でお出ししますね」
と彼女は緒方に断って、夫の居る座敷へ案内した。


 杉並区の閑静な住宅街にある塔矢家は昨今珍しい純和風建築である。
玄関から板敷きの廊下を通って二部屋目の座敷がいつもの研究会場であった。
緒方が襖を開けると、塔矢行洋は碁盤の前に座って石を並べていた。


彼は緒方の「目に見える目標」そのものである。
二ヶ月前に十段戦を勝ち抜き、四冠になってから更にその存在感を増したようだった。
「やあ、緒方君」
「おはようございます先生」

襖の前で一礼すると、緒方は部屋の中へ入って行き、師匠と碁盤の向かい合わせに座った。


「昨日は確か金沢だったかね」
「そうです。先程羽田に着いて直接こちらへ来ました」
「それはごくろうさん」

緒方は師匠が並べる石を見た。何を検討しているのだろう。

緒方の視線が碁盤に向けられているのに気付いた行洋は「誰の碁かわかるか」と訊ねた。
暫く石の流れを見ていた緒方は答えた。

「白はアキラ君でしょう。黒は・・・・・」

「・・・・・・」
「・・・・・・心当たりありませんな。しかし、これは」
そこで言葉を切って緒方は師匠の顔を見た。

「・・・・・まさか、先週の中学の大会での一局ですか?」
行洋は口元をほころばせて頷いた。
「その通り」


そんな馬鹿な。プロの高段者同士の対局そのものだ。これは。
緒方は驚きを隠せなかった。
「部活の大会の碁ですか?これが」
「進藤ヒカルという名だそうだよ。相手の中学生は」

その名は聞いている。他でもない師匠の碁会所の客と、門下で後輩の芦原三段から。
しかし、話半分に聞いていた。実際に打たれた一局をアキラを含めて誰も再現してくれなかったからだ。

「どう思う?」
「・・・アキラ君はよく打ったと思います。特にこことここ」
といって、緒方は左辺を指差した。
「これで左辺を削減した後、下辺の薄みに迫りながらうまく中央を厚くしている」
「・・・・・・」
「ヨセの打ちまわしも・・・」
「ヨセの攻防で、黒は良くしのいだ。・・・・結局アキラは二目半負けというわけだ」

「・・・はい」
今更である。名人の元で実力を養い、いつでもプロ試験を突破出来ると言われていた塔矢アキラがたかだか中学の部活の大会で負けたのだ。
衝撃を受けたのは本人だけでなく、誰よりも息子の成長を信じ、将来に期待をかけていた名人も同じだったはずである。どんな碁だったのか息子に並ばせずにはおかなかっただろう。
師匠の心中を慮って緒方は表情を固くした。

「そんな顔をすることはない、緒方君。今回の一件はアキラには良い戒めになっただろう。奢りは最も慎むべきものだからね」
「はあ・・・・・」
「しかし面白い。何処にどんな打ち手が潜んでいるか分からないものだな」

緒方は改めて盤面を見た。
相手が居て初めて碁は成立する。高い棋力を持ち、実力が拮抗する相手との対局によって名局が生まれるのだ。
相手の中学生の棋力もさることながら、それに立ち向かうことで、より高みに近づいていこうとするこの白。
緒方の背中を冷たい汗が流れた。



若い力。新しい波。

ふとそんな言葉が頭をよぎった。




「進藤ヒカル君はプロ志望だそうだよ」
「聞きました。森下九段の研究会に出ているとか。」
「実は先日、その件で森下君と話をした」

塔矢名人と森下九段は同期入段で、当時から変わらず親しい間柄だ。
件の中学生が、その森下の研究会に通っていると息子に聞いた名人は、早速問い合わせてみたというわけだ。
だが、いつもは気さくに腹を割って話してくれる森下が、何故か煮え切らない。
聞けば通い始めてからまだ半年程で、初めから非常に高い棋力を持っていたということだが、それ以上のことはよく分からなかった。
あるいは、森下も詳しいことは知らないのかもしれない。



「・・・・・」
「・・・残念ながらあまり捗々しい話は聞けなかったが、なかなかの打ち手だということだ」


「その進藤という子は今年のプロ試験を受けるんですか」
行洋は笑った。
「いいや。大会でアキラと賭けをして、アキラと一緒に受けたくないので自分が勝ったら、
今年必ず受験して合格しろと言ったらしい」
「・・・・・アキラ君と受けたくない?どうして?」
「面白い子だ」
「それで、アキラ君は今年受験するのですか」


行洋は腕を組み直し、頷いた。

それを見て緒方は思った。
負けて受けるのはくやしかろう。そして、それを尊敬する父親に報告するのも。



「アキラ君は?」
「今朝、いつも通り私と一局打ったが、具合が悪そうに見えたのでね。
今は自分の部屋で休んでいるよ。調子が戻れば午後から研究会に出てくるだろう」


白28


 「あなたが進藤ヒカル君?」

名前を訊かれてヒカルはうんうん頷いた。
ここは六本木にあるインターネットカフェである。



大会が終わると、ヒカルは同じ囲碁部の三谷祐輝に、
「タダでネットが出来るところ知らないか?」
と訊いてこの店を教えてもらったのである。
ここでは三谷の姉がアルバイトをしている。頼めばナイショで使わせてもらえるという訳だ。

「でも、いいのかよ。六本木だぜ?」
と三谷は念を押した。確かに中学生がちょっと出かけるのには遠いが、前回もそうだったので問題などあるはずがない。


今日は期末試験の最終日で学校は午前中のみ。午後の囲碁部を休んで早速この店にやって来たのだ。
店に入ると三谷の姉はすぐに見つかった。
三谷祐輝と同じ、赤茶の髪に少しツリ目の女子大生が、ヒカルに手を振ってくれている。



「進藤君、前髪だけ金髪だって祐輝が言っていたから、すぐ分かったわ」

個体識別に便利な頭である。三谷が話を通しておいてくれたので、すぐに席へ案内してくれた。話の分かるお姉さんで助かる。

パソコンの説明をざっとしてもらったところで三谷姉がヒカルに尋ねた。
「祐輝って囲碁部でどうなの?」
「強いよ。知らないの?・・・お試し入部で、大会のメンバーに入ってもらったんだけど、囲碁部続けるって言ってくれたんだ」
ヒカルは嬉しそうに答えた。

冬にはヒカルは院生になるので、もう彼は大会には出られない。
退部を筒井に申し出たところ、他ならぬ三谷がストップをかけて来た。
曰く、大会はともかく、自分は進藤に一度は勝たなければ気がすまないので、それまで退部されては困る、と言うのだ。

これにはヒカルも驚いた。
(前と全然違うじゃん)
これから忙しくなるだろうから、来られる時だけ顔を出してくれればいい。と筒井も気を使ってくれた。
話がウマすぎるんじゃないかと不安になる程である。

(佐為、佐為、オレ囲碁部に居ていいってさ!!)
思わず空に向かって報告してしまったくらいだ。




「進藤君って祐輝のライバルなの?」
「えっ?」
「だって祐輝、進藤君を倒すって、家に帰ってからもずっと碁盤の前で何かやってるもの」

「・・・・・・・いや、ええと。まあ、そんなとこ・・・・かな」


三谷がやる気を出しているのを聞いてヒカルは更に嬉しくなってきた。
(やはり、話がウマすぎる。大丈夫かオレ)
顔がにやけてくるのを押さえきれない。
明日は囲碁部に出て、絶対三谷と打って打って打とうと心に決めた。



 ネット碁のサイトの設定をし、店内での注意事項を伝えると、三谷姉は受付に戻っていった。

一人で舞い上がっていたヒカルだが、カバンからメモを取り出すと、両手で自分の頬をパンッと叩いて気合を入れた。

「よっしゃあ!!」

これから、自分は大事な使命を果さなければならないのだ。

ヒカルは前回の時のことを思い出していた。
大会で塔矢と最後まで打たせてもらえなくてふて腐れていた佐為のために、筒井と行った囲碁のイベント。
そこでネット碁のことを知ったヒカルは、佐為が心置きなく打ちまくれるように、夏休み中ネットカフェ通いをしたのだ。
これなら人々は佐為が打った碁をヒカルが打ったと勘違いしないですむので、ヒカルとしても願ったり叶ったりだったのである。

そして、インターネットは世界に通じている。
調子に乗って強さを発揮する佐為、登録名‘sai’は、彼らの預かり知らぬうちに世界の強豪達の間で噂になっていったのであった。

噂になるだと?
素晴しい。それは世界中の碁打ちがsaiの存在を認めてくれるということではないか。
絶対にここは押さえなければならない急所なのだ。
全くもって、今年の夏はプロ試験を受けているヒマなどヒカルにはないのである。



ヒカルは手にしたメモを見た。
幾つかの単語が並んでいる。

kent、maimai、marie、lee、xyz、matrix・・・・・・・・・・・zelda、akira

それは、このインターネットカフェで佐為が対局した相手の登録名だ。
確認した訳ではないが、恐らくは、その強豪達の名前のはずだ。
確かに彼らは強かったし、そうでなければ、後で佐為が解説までするわけがなかった。

これから、このメモの名前を「ワールド囲碁ネット」のリストから探し出し、対局して佐為の碁を再現するのだ。
するのだが・・・・・・・。



(出来るのか?そんなこと)
実はヒカルにも自信がない。

佐為に打たせていて『この者は強いですよ。ヒカル、良く見ていてくださいね』
と言われた碁は大体、形を覚えているが、それが何日の何時頃で誰が相手だったかは、かなり記憶があやしいのだ。当たり前である。
だが、やらねば佐為が生きないのだ。

「・・・・・・・」



ヒカルは彼の師匠の登録名’sai’を打ち込み、ログインした。
(久しぶりだ。saiの名前を入力するのも)
自分の目でsaiの文字が画面に現われるのを見るだけで、神妙な気分になってくる。
そっと後ろを振り返ってみた。
「・・・・・・佐為。まさかいないよな・・・」
残念ながらヒカルの目には、午後の早い時間の空いた店内の様子しか映らなかった。


画面に視線を戻し、ネームリストから見覚えのある名前をスクロールしながら探す。
とりあえず、記憶にある名前が出てきたら、そいつと対局してみることだ。
間違っていたら申し訳ないけど、ごめんなさいしてフケるか、あまりにも初心者だったら影響なしとして、saiを騙って自分が打ってしまう他ないだろう。
綱渡りもいいところである。



「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・いねェじゃん・・・」

全くそれらしい名前が出てこない。ヒカルは金色の前髪を掻き分けた。


先程入れた気合がどんどん目減りしてくる。
「くっそお・・・・・初日はたいした奴いなかったんだっけ・・・・」

前回、佐為がネットで打った碁は優に百局を超える。文字通り百人斬りの夏であった。
適当に打っていれば、記憶にある相手とぶつかるかもしれない。
と、試しに何局か打ってみたが、どうにもうまくいかない。それなりにお相手して、元のリスト画面に戻す。

「・・・・・・・・・・・・・」

(まさか、もう同じ碁が打てなくなっちゃったんじゃないだろうな)
塔矢アキラと自分が対局した影響を考えると不安を感じざるを得ない彼である。

(いやいや、まだ初日じゃないか)
ヒカル窓越しに店の外を見た。かなり日が翳ってきている。
もう六時半。今日はあきらめるより他ないようだ。



「・・・・・・・・前途多難だな・・・・いつもだけど」

ヒカルはひとつ、大きな溜息をついた。


黒29

夏休みになってから、ヒカルは毎日のようにネットカフェ通いを続けた。

初日こそ、思い当たる相手に当たらなかったものの、次の日からメモにある登録名もぼちぼち見られるようになり、何局かは佐為の碁を再現することに成功した。
塔矢アキラと自分が対局した影響で、もう佐為の碁を打つことが出来なくなったのでは。という心配は杞憂に終わり、ヒカルはようやく胸をなでおろすことが出来た。

佐為として打つためには注意しなければならないことがある。
例えば、ヒカルにとっては棋譜並べになるため、ニギるわけにはいかない。
対局前にどちらが先番になるか設定した上で対局の申込み、または了解しなければならなかった。
だが、相手は皆、別段先番にこだわったりしなかったし、始めてしまえば、すぐに内容も思い出して、いい感じで対局を終えることが出来た。
ヒカルは対局後、携帯した対局者リストに対局ごと、済みマークを付けていった。




佐為の碁を並べていると、棋譜だけでなく、当時の情景が鮮やかに脳裏に甦ってくる。

好きなだけ打たせてやるというヒカルの言葉に大喜びする佐為。
微笑みながら、ネット碁で互戦なのに指導碁を打つ佐為。
打ちながら、『こういうマチガイはヒカルの得意技ですよね』と横目で睨む佐為。

全ての思い出が光を放っていた。



「佐為・・・・・・・」
ヒカルは肩越しに後ろを見た。
既にそれは癖になってしまった仕種。




(佐為が今、ここにいたらいいのに)





 そんなある日、ついに‘zelda’の名が画面上のリストに挙がってきた。
ヒカルの口の端が思わず上がる。
右の拳をぐーにしてガッツポーズを作った。


「来〜た〜な〜〜和谷!」
zeldaは和谷義高の登録名なのである。

前回、院生時代に和谷からsaiと対局したこと、いかに強かったかをヒカルは和谷から聞かされていた。
その時、ヒカルはうっかり口を滑らせて、saiとの関係を疑われたりしたのだが。

「よく見とけよ、和谷、佐為の碁を」
ヒカルはうきうきとマウスを動かした。






和谷ことzeldaとの対局が済むとヒカルは満足して椅子の背もたれに寄りかかった。
今ごろ、和谷の奴、びっくりして、そして歯噛みをしているに違いない。
ヒカルは一人ほくそ笑んだ。

・・・・・・おっと、いけない。例の言葉を送らなければ。
ヒカルはチャットウィンドウを開くと“ツヨイダロ オレ”と打ち込んだ。
すると、即座に返事が返ってきた。

“オマエ ハ ダレダ!コノ オレハ"インセイ"ダゾ!”



「・・・知ってるよ。そんなこと」


ヒカルは微笑んで画面をしばらく見つめ、そしてチャット画面を切った。
そして、またしばらくリスト画面を眺めていたが、zeldaの後は思い当たる名前は見つからなかった。

(今日はもうダメかも)






「どうしたの?何か分からないところでもある?」

ヒカルが顔を上げると三谷姉が立っていた。気を使って見に来てくれたらしい。
「今日は特別だからね」といって、コーラまで持って来てくれた。

「三谷のお姉さん・・・あのさ、これって、他の登録名でも対局出来るのかな?」
「ええ?登録名変えたいの?」

そうではない。複数の登録名を使い分けたいのである。

「どうだろ?ちょっと見せて・・・・・」
そういって、三谷姉はネット碁のサイトのヘルプ画面を開いて調べてくれた。

「うーん、そっかそっか。ヒカル君、出来るみたいよ」
「やった!」
ヒカルは手をたたいた。そんな彼を三谷姉はチラッと横目で見た。
「・・・・・で、私が設定するわけね」
「お願いしまーす」
ヒカルは調子よく答えた。


お願いされた三谷姉はしばらくの間操作していたが、うなずいてヒカルに声をかけた。
「・・・・・オッケー。後はいつもと同じよ。ココに新しい登録名を打ち込んで、切り替えるときは一度ログアウトしてね」
「うん、ありがと」


三谷姉が仕事に戻るのを見届けて、ヒカルは画面に視線を戻した。


そして、新たな登録名を打ち込む。
「どーせ今日はダメなら、余った時間はオレが打ったっていいわけよ」
ニヤニヤ笑いながらヒカルは独りごちた。
見覚えのある名前が出てきたら、またsaiに戻って打てばいい。完璧だ。



・・・・・そして、ヒカル自身の新たな百人斬りが始まった。






 それから十日程たって、ヒカルが森下九段の研究会のために棋院に行くと、玄関前に和谷が立っていた。
先日プロ試験予選に通ったことは電話で聞いていたので、祝いの言葉を伝えようと駆け寄ったヒカルを和谷はうろんな目つきで見た。

「・・・おはよ、和谷。何で入らないの?」
と尋ねるヒカルに和谷は含みのある顔で言った。

「・・・・・・・・・オマエを待っていたんだよ!」
「・・・・・・・・・ええええ?・・・」

戸惑うヒカルの腕を和谷は黙って掴み、そのまま建物の中に引きずっていった。
「痛い、何だよ和谷、ちょ、ちょっと手、離してよっ!」
「静かにしろよ、目立つだろ?」

建物の中に入ってから、和谷はようやく手を離した。と、今度はヒカルの肩にがっしりと手を置いた。
「オマエがネット碁やるなんて知らなかったぜ。」

え、何でバレたんだ?と、ひきつるヒカルの耳に自分の顔を近づけて、和谷は小声で言った。


「改めて、おはよう、だな。‘mitani’」


白30


研究会場に着いて、いつも通り準備を終えると、何となく正座をして和谷の前に座ったヒカルである。


「・・・・・・ええと。さっきのことだけど、オレには何のことやら」
言っていてしどろもどろだな、と自分でも思う。
佐為がいなくなって、白を切るのが下手になってしまったのか。

和谷の方は胡座をかいてヒカルの前に座っている。まるで、ヒカルが叱られているような塩梅で本人としては不本意だが、弱みを握られたような気分なので自然、こうなってしまった。


「ワールド囲碁ネットで最近打っているだろう?」
「ネット碁なんて知らないんだけど・・・・・」
和谷はふん、と鼻で笑った。
「オマエ今まで、オレと何百局打ってきたと思うんだよ」
「知らないよ、そんなこと。たまたまオレと棋風が似たヤツがいたんじゃねェの?」
「何で隠すんだよ」
「・・・・・・・別にそんなんじゃ・・・」
「あのなあ」と和谷は言うと、胡座をかいたまま、ずりずりとヒカルの近くに寄った。

「藤井三段って、冴木さんの同期がいるんだよ」
「うん」
それはヒカルも知っている。プロになってから当の冴木に紹介されたからだ。
冴木とは、プロで同門以外では一番仲がいいと聞いている。しかも九星会所属で伊角とも親しいらしい。

「ネット碁で打っていてmitaniに負かされたんだってよ」
「ぶ」
ヒカルは顔から血の気が引くのを感じた。

一般人にまじってネット碁を打つプロは存在する。
和谷も(まだプロではないが)そうだし、トップ棋士の一柳棋聖もその一人だ。
だから、藤井も自分を負かしたのは当然、そうしたプロの一人だと思ったらしい。

「オレたまたま、その対局観戦してたんだよ。国籍はJPNだった」
「ふ、ふーん」


「四日前だ。登録名は‘matthew’。藤井さんが黒でオマエが白。248手まで打って白一目半勝ち。オマエだろ?吐いちまえよ」
「・・・・・・・・・」
「冴木さんも、この話を知っててオマエを疑ってる。知られたくないんだったら、ゲロすりゃ、この件何とか誤魔化してやるよ。どうだ」

(マジかよ・・・)
調子に乗って打ちまくった結果がこれである。
道理であの時の対局相手は強いと思った。プロかもしれないと疑わなかったと言えばウソになる。その分ワクワクして楽しんだのだが。








「・・・・・・負けました」
「・・・・・・よおし」


ヒカルは畳の上を転がって横になり、腕を広げて大の字になった。
「あーあ、やっぱりプロだったのか、あの人」
「いい碁だったぜ」
「・・・・・・・サンキュ・・・ずっと見てたの・・・?」

「おうよ」
見るなら、saiだけにしてくれりゃいいのに・・・。

「だけど、何で内緒にしてるんだ?」
和谷の問いにヒカルは、うーん、と唸った。

「別に内緒じゃない・・・。ちょっと照れくさかっただけだよ。冴木さんには後で話しとく」
大きな秘密を守るためには小さい秘密はバラしておいた方がいいのかもしれない。
とヒカルは眉をハの字にしながら考えた。


和谷はそんなヒカルを眺めながらボソっとつぶやいた。
「しかし何だよな。最近あのサイトもスゲェ強いのがいたりして面白いよな」

「・・・・・・・・・え?」
和谷の言葉にヒカルは起き上がった。
「強いヤツって?」

「そーそー、オレこの間、一柳先生と打っちゃったんだぜ」
「へえええっ」
なーんだ、そっちか、と内心のがっかりを顔に出さないようにヒカルは受けた。
「タイトルホルダーと打てるなんて、すげえラッキーじゃん」
「そうなんだよ。あっさりのされちゃったけどな」
「ははは」

それだけかよ。と、ヒカルが落胆したところで和谷が「あとはな・・・」と、少し考えるように首を傾げた。



「あとは、saiだな」
「・・・!!」
不意打ちである。今度こそヒカルは飛び上がった。
「さっさっ、さい・・・!!?」
声が裏返ってしまったが、構わず、そのまま和谷に詰め寄った。

「saiって!?」
「何だよ」
「いいいい、いや、何でもない。見たことないよsaiなんて。どんな碁なの?」

和谷は接近しすぎたヒカルから少し体を引いて座りなおした。
「saiってのは最近あのサイトでよく打ってるヤツだよ。オレが気付いたのは半月程前なんだ。オレ全然知らずに打ってて完璧にやられた」
「・・・・・・・プロなんじゃねェ?」
いいや、と和谷は首を振った。
「プロじゃねェよ。大手合の日だって出てくるんだから」


「・・・・・」
和谷がsaiを知ってくれた。
和谷の中で佐為が生きた。

それが自分の目で耳で確認できて、ヒカルは感動のあまり涙が出そうになって下を向いた。
その様子に気付かない和谷は言葉を続ける。
「やられてからオレ気になって、それから度々そいつの対局を観戦してるんだけど、何だかなあ、最初は強えけど、えらく古くさい碁を打つヤツだと思っていたんだよ。
それがあっという間に、見る度に強くなっていくんだな。進化するっていうか、今の定石もどんどん取り入れてさ。最近はもう全然古くさい感じなんかしなくなってる」

下を向いていたヒカルは手で目を擦ると、顔を上げた。
「古くさいってどんななの?」
「要するに秀策みたいなんだよ。マニアかもな」

ヒカルは笑った。「本人だよ」と言ったら和谷はどんな顔をするだろう。

「ちょっとオマエの碁に似てる」
「・・・・・オレ秀策好きだもん」
「そうだな。オマエもマニアだもんな」

和谷はそう言うと、時計を見た。
「そろそろ師匠達、来る時間だよな」
和谷の言葉に誘われるように、森下門下の面々が部屋に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」

ヒカルは立ち上がりながら和谷に言った。
「オレも、今度そのsaiの対局、見てみるよ」
「へっ、打ってみるの間違いじゃねェの?」
「・・・・・そうだな」

(無理言うなよ)
小さく、誰にも聞かれないようにつぶやいたヒカルに和谷は最後に声をかけた。

「なあ、saiって実はオマエの師匠なんじゃねェの?」
ヒカルは「まさか」と言って小さく微笑んだ。