LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白4〜黒9



白4


「あら、いらっしゃい北嶋さん」
「やあ、いっちゃん」
常連よろしく入ってきた壮年の男に受付の市河晴美は声をかけた。
そんな市河に北島は小声で訊いた。
「どう?若先生は」
答えるかわりに首をすくめた市河の横で、これまた常連の広瀬が答えた。
「相変わらずだよ、あれから」
広瀬の視線の先には小学生らしき少年が碁盤を前にうなだれて座っていた。




 ここは囲碁の現名人、搭矢行洋が経営する碁会所である。
搭矢名人は多忙を極めながらも囲碁の普及に貢献しようとさまざまな活動を行っていたが、その一環として自分の碁会所を開き、よく足を運んでは指導碁も熱心に打っていた。


 名人には息子が一人いた。名をアキラという。
彼は自分の息子を幼い頃からこの碁会所によく連れてきていた。

 搭矢夫妻は必ずしも最初から子供を囲碁界に入れようと思っていたわけではない。しかし二歳から碁を始めたアキラの才能は、他の世界に進むには突出しすぎていた。
また本人もカリスマ的魅力のある父親への憧れもあって、幼いながらも全身全霊で碁に打ち込んできたので、今では既にプロ試験を突破する実力があると言われていた。

 名人はそんな息子の実力は他の子供達の才能を潰すだろうと考え、あらゆる囲碁大会に出場させなかったので、日本棋院、関西棋院の院生を含む同年代の碁打ちからほとんど伝説的な少年として認知されていた。
要するに、搭矢名人宅や、勉強会にやって来たプロ棋士がアキラの棋力を見て、後で自分の弟子達にその実力を話して聞かせていたのが噂となって広がっていたのだ。
彼は搭矢門下やその周辺のプロ棋士を除けば、「とにかく強い」という噂だけで全国区という謎の少年だった
のである。

 アキラは幼い頃から出入りしているこの碁会所に来るのを気に入っており、最近では客相手に指導碁もよく打っていた。




 そんなある日、アキラと同学年だという少年がこの碁会所にふらりとやってきた。
聞けば自分と打ってみたいという。
いいだろう。未来のトッププロとして、父の後継者として、後進の指導にあたるのはいいことだし。彼が強いというのならなお結構だ。彼は快く承諾した。

 進藤ヒカルと名乗った少年に棋力を尋ねると、彼はあいまいに笑い、「そこそこ」と答えた。
では置石をどうするかと尋ねると、置石はいらない、ただし先手で打ちたいと言う。
こうして名人の息子の搭矢アキラと進藤ヒカルの対局が始まった。



 始めは指導碁のつもりで打ち始めたアキラだったが、思いのほか進藤ヒカルは強かった。
石の持ち方も打ち方も堂にいっている。定石の型がやや古いような印象を持ったが、これだけ打てるのはたいしたものだ。
周囲の上級者によく仕込まれているな、とアキラは思った。
おおかた彼はその周囲の大人達に「搭矢アキラと勝負してこいよ」とでも言われたのだろう。



だが。
気が付くと形勢はアキラではなくヒカルの方に傾いていた。
盤面を見る。これでは指導碁を打っているのは自分ではなく進藤ヒカルの方ではないか。
なんだ?何かがおかしい。落ち着け。いつものように打てばいい。


アキラは深呼吸をすると、碁盤から顔を上げた。
ヒカルとまともに目が合った。
ほんの少しだけ端が切れ上がった大きな瞳。
その瞳が彼の様子を伺うように真っ直ぐ向けられている。

(猫の目みたいだ。)

アキラは目を盤面に戻すと石を置いた。
時間を置かずにヒカルは次の手を打ってきた。
そういえば、始めからヒカルはほとんどノータイムで打っている。

(早碁が好きなのか?)


何かがおかしい。だが、何がおかしいのか解らない。
視線を感じる。
アキラはまた顔をあげた。
ヒカルは盤面ではなくアキラを見ていた。

おかしい。おかしい。おかしい。こんなことは初めてだ。
何なんだ。彼は。





 そして、搭矢アキラは負けた。
「国内の同世代に敵はいない」という彼の密かな自負は粉々に砕け散った。



 呆然として碁盤を見つめることしか出来ないアキラを、やはりヒカルは黙って見つめていた。そして立ち上がると
「じゃあな」
と声をかけ、返事を待たずに出口に向かった。
受付で市河に礼を言うと、市河は「良かったら」と、こども囲碁大会のチラシをヒカルに手渡した。




黒5

それからというもの、アキラは碁会所にやってきては碁盤にその時の棋譜を並べ続けている。


 どう考えても、これは指導碁だ。
進藤ヒカルとは一体何者なのだろう。つい先日も「子ども名人」だという小学生と打ったが全然たいしたことはなかった。
確実に、彼の方が上級者だ。
日本棋院の院生かとも思ったが、プロで年の近い芦原に聞いても、心当たりがないという。
もっとも芦原が院生を全員知っているとは思わないが。

彼のあまりの落ち込みように市河や常連の客などは努めて声をかけたが、あまり効果はないようであった。


 進藤ヒカルはあれから一度も現れない。
連絡先を聞かなかったのが悔やまれる。あの時自分はショックを受けている場合ではなかったのだ。連絡先と、彼がどういう人間でどこの師匠についているか聞くべきであった。
なんという段取りの悪さだ。

(馬鹿だ僕は。負けて当然だ)
と、アキラは全然理屈になっていないことを考えた。そしてまた落ち込んだ。


 その時、市河が突然大きな声をあげた。
「あああ!そうだ、大会のチラシあげたんだっけ」
今日、日本棋院でやっている「こども囲碁大会」のチラシである。

「アキラ君、ひょっとすると進藤君、大会に行ってるかもよ」
可能性は低くとも、手がかりの一つには違いない。そしてアキラは手間を惜しまないタイプであった。

(行くか)

アキラは碁会所を飛び出した。





 日本棋院の最寄駅、市ヶ谷。地下道からの階段をアキラは駆け上がった。

(進藤くん!!頼む、居てくれ!!)








 望みはあっさりかなった。
階段をあがって15メートル程のところで進藤ヒカルが仁王立ちをしていた。そして

「遅い!!!!!」

いきなり怒鳴られた。


「・・・・・え?」
何で彼は怒鳴っているんだ? しかも相手は僕か? 他にいないよな。一応後ろを振り向いた。それらしき人物は誰もいない。
「いつまで待たせるんだよ。寒いだろ!!?」
やっぱり僕だ。
(いつ僕は進藤ヒカルと待ち合わせをしたんだよ)


「ええと」
理不尽なものを感じながら何とか体勢を立て直そうと、アキラは咳払いをした。

「この前うちの碁会所に来た進藤ヒカル君だよね?」
確認するとヒカルはうんうん頷いた。

「僕はキミを待たせていたんだろうか?」
「待たせてたっていうか・・・・、今日寒いじゃん。これから雨降るんだぜ。もう濡れるの嫌だしさあ」

アキラにはヒカルの言っている事が全然わからない。
事情を知らないアキラには当然である。

一回目のこの場面でヒカルは「こども囲碁大会」を見に行った後、市ヶ谷駅の付近を歩いている時に偶然(ではないのだが)塔矢アキラに会ったのだった。そしてその後、記念すべき2回目の対局になだれ込むことになっているので、どうしても駅前でアキラを待っている必要があったのだ。

 出会った正確な時間など覚えているはずもなく、降水確率80%の一月の寒空の下、一時間以上も前から待ち伏せをし続けたのは完全にヒカルの責任である。怒鳴ったのは八つ当たりであった。


「キミは棋院でやっている囲碁大会に来たんじゃないの?」
「そうだよ。さっきまで見てた。おまえのオヤジも来ていたぜ」

そういえば朝、そんなことをお父さんは言っていたか。とアキラは毎朝恒例の父との対局の時のことを思い出していた。

「おまえは?」
ヒカルがアキラに訊いた。

「え?」
「え、じゃねェよ。おまえも大会見に来たのか?だったらもう一回棋院行ってもいいけど?」

(キミが居るかと思って迎えに来たんだよ)
とは何となく言いづらくなってしまった。

「ふうん」
返事に困っているアキラに、ヒカルはかすかな笑みを浮かべながら言った。
「じゃあ、この間みたく一局打たないか?」

ヒカルの一言にアキラは少し驚き、そして大きく頷いた。



白6


電車の車内は混雑していた。若干空いている扉近くに二人は並んで立った。

アキラは横目でそっと進藤ヒカルを見る。

「キミはうちの碁会所の近くに住んでいるの?」
「ううん、全然」
「・・・・・・え、じゃ何処?」
「王子駅からちょっと行った所」

碁会所は中野である。北区の王子はかなり遠い。
自分と打つためにわざわざ訪ねてきたのか。

「キミの碁の師匠(せんせい)は誰?」
「・・・・・・」

アキラは更に尋ねた。
「・・・キミはプロになるの?」
「うん」
今度はあっさり返事が返ってきた。一応念を押してみる。
「・・・なるんだ?」
「うん」
ヒカルの顔を改めて見ると(馬鹿か?何を当然のことを聞いてるんだコイツ)と顔に書いてあった。

ヒカルはアキラの目を見て言った。
「オレは囲碁のプロになるよ」


「そうか・・・・・」

あれだけの棋力だ。そう思っていても不思議ではない。しかし、アキラは今までに『プロになりたい』という人間には何人も会ったが、ここまできっぱり自分に、搭矢アキラに向かって『プロになる』と言い切った人間には初めて会った気がする。

気負っている様子はない。
しかし、まるで既定のことのように彼は言う。

(僕と同じだ)
アキラは驚きを持ってヒカルを見た。
初めて同種の生き物を見る思い。


胸に熱いものが込み上げてきた。







碁会所に着くと多くの人々が観戦のために二人の周囲に群がった。
盤を挟んで着席し、アキラが自分がニギるとヒカルに言うと、ヒカルは手をあげてストップをかけた。
「オレ今度も黒がいい」

「え?」
「いいだろ?」

ヒカルは笑顔だったが目が否やは許さないと言っていた。

「・・・いいよ」

(黒が好きなのか?)

初心者は多くの場合黒を持つので、その後上達しても黒を好むようになる者は多い。
しかしヒカルはそういうレベルではないように思われる。
アキラは少し意外に思ったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「お願いします」

対局が始まった。





(まただ)
搭矢アキラは盤面に集中しながらも思わずにいられない。

ヒカルは前回と同じくほぼノータイムで打っている。
いや、時間をおくこともあるが、熟考するというより何か感慨深げにして余韻を楽しんでいるように見える。
真面目に打っているのは分かるのだが、必死さというものがまるで伝わってこないのだ。
前回の対局以来、打倒進藤を誓い、今まさに彼に立ち向かおうとしている自分など歯牙にもかけないというのか。
経験したことのない屈辱感にアキラは唇を噛んだ。

自分の手番を打ってアキラは顔を上げてヒカルを見る。
ヒカルはアキラの打った石を確認し、ゆっくりとその目をアキラの顔に移した。
アキラの様子を探るように見る。
無言のまま二人の視線が交差した。

そしてヒカルはゆっくりと右手を碁笥に移し、黒石を拾って碁盤のあらかじめ定められた場所に置いた。

あらかじめ定められた場所?

アキラは自分の違和感の正体を見たような気がして慄然とした。

(そうか。これは。まるで。)






(進藤ヒカルは棋譜並べをしているのではないか?)




まさか。そんなことはありえない。
この碁は今まさに打っている碁のはずだ。







黒7


ヒカルは静かにアキラの様子を見ていた。
そして心の中で語りかける。

(分かるか?塔矢。この碁の中に生きている佐為が)
アキラは何かに驚いて呆然としたような顔でヒカルを見つめている。

(これは、これからおまえが追いかけることになる藤原佐為の碁なんだぞ)

 ヒカルは彼がプロになってからの塔矢アキラとの初対局、名人戦一次予選を思い出していた。
昼休みの時間になって打ち掛けとなった時、塔矢アキラは今日と前回の対局を評してこう言ったのだ。

『碁会所で僕と二度打った、あの時のキミがsaiだ』
と。
塔矢アキラが、ヒカルしか知らない、ヒカルの内にいた藤原佐為に辿り着いた瞬間だった。


 佐為がヒカルの内に蘇ったばかりの頃、碁を打ちたがる佐為のためにヒカルがたまたま立ち寄ったこの碁会所。
碁のことなど何も分からなかったヒカルに、ここに、そこに打てと指示を出して実際に塔矢と対局したのは佐為だった。
ヒカルの心に棲む幽霊である佐為はヒカル以外の誰にも見えない。
佐為の打つ碁は人々の目にヒカルが打ったように映った。

塔矢アキラもまた然り。

そのためにアキラはこの二度の対局とその後のヒカル自身が打った碁の実力の落差に翻弄されることになったのだ。

だがあの日、確かにアキラはヒカルの内に二人の碁打ちが居る事を認めた。



で、あるならば。

そこまで佐為を追いかけた塔矢アキラならば、ヒカルとともに再び藤原佐為をこの世に生かすために必要なパートナーになってくれるはずである。ヒカルはそう思う。

(塔矢!)

アキラは凍りついたようにヒカルを見つめている。
ヒカルも瞳に力をこめてアキラを見返した。

(もう一度追って来い、佐為を)







 「・・・ありません・・・・・」

それから間もなくして塔矢アキラが投了を宣言した。

「・・・・・・ありがとうございました」
ヒカルは受けて礼をする。

予定通り。

ヒカルがこのニ局の棋譜がどんなものだったのか佐為に教わったのはプロ試験を受けている頃だったか。
とにかく、その棋譜は完全に再現された。始めのイベントはクリアされたのである。ヒカルは満足だった。

アキラは悄然として盤を凝視している。

「何なんだ・・・」
「えっ?」

アキラは突然、勢いよく顔を上げてヒカルを睨みつけた。

「キミは一体何なんだ!!?」

(前の時、コイツそんなこと言ってたっけか?)
と、ヒカルは思ったが、何もかも一緒というわけにもいかないだろう。
そもそもこの対局がかなり不審であるという自覚はあるのだ。
周囲に居る大人達は固唾を飲んで成り行きを見守っている。




「だから、オレは進藤ヒカルだよ」

ヒカルはちょっと笑ってアキラに言った。そして立ち上がって椅子にかけてあった上着を取った。

「塔矢とはこれから長い付き合いになると思うぜ」

よろしくな、とばかりに手をあげて、彼は出口の方へ向かった。
そして受付の近くで、やはり様子を伺っていた市河に「じゃあ、市河さんまたね」と声をかけ、碁会所を出て行った。
アキラはそれを椅子に座り込んだまま見送った。
そして扉が閉まると同時に噛み締めた歯をギリギリと鳴らし、喉の奥から搾り出すような声を発した。

「進藤 ヒカル・・・!」




 呆然としていた市河が
「あ、また連絡先訊くの忘れちゃった!」
と叫んだのはそれから一時間は経過した後である。



白8


碁会所のあるビルを出たヒカルは、バス停に向かってあわてて走り出した。
ヒカルは今日、日本棋院経由、塔矢の碁会所へ向かうというスケジュールをこなしていたが、本来、今日は中野に住んでいる祖母の家に行くことになっている日であり、母親にもそう言って出かけてきたのだ。家を出たのは午前9時。今は午後3時である。

(遅くなっちゃったなー)
遅くなったのは前回も同じなので、予定通りではある。
そして予定通り『中野まで何時間かかってるの!?』と怒られるのであろう。
ちなみに王子から中野までは電車で三十分もあれば着く。


 祖母の家というのは母親の美津子の実家である。
ヒカルの父親である正夫の両親、つまり平八とその妻加寿子の家はヒカルの家から徒歩十五分程の場所にあり、ヒカルも頻繁に遊びに行っていたが、離れている美津子の実家の斎藤家には疎遠になりがちであった。

 美津子は二人姉妹で、母親の家の近くには姉夫婦が住んでいる。
姉夫婦には二人の子供、つまりヒカルの従兄姉のサトルとみやびがいるが、二人とも大学進学でそれぞれ家を出たために、孫が遊びに来てくれないと母親がこぼすようになっていたのだ。
父親は数年前に他界しており、さびしいと母親に言われれば何とかしてやりたい娘ごころで、美津子は月に一度程度ヒカルに『中野のおばあちゃんのところに遊びに行ってらっしゃいよ』と言うようにしていた。


 初めて塔矢の碁会所に行った時も祖母の家に行く途中だった。
碁会所に行こうと思ったきっかけは、通っていた囲碁教室で知り合ったおばさんに『駅前に大きな碁会所がある』と言われて佐為にせっつかれたからだが、結局その『大きな碁会所』が見つけられなかったのだ。
荒れ狂う佐為のために頭痛に悩まされたヒカルは、祖母の家に行くために降り立った中野駅前に『囲碁』の看板を見つけ、渡りに船とばかりに飛び込んだのだった。





 バスで三つ目の停留所で降りると祖母の家はすぐそばだ。
ヒカルはバスから降りると門まで走った。門柱の呼び鈴を鳴らす。

「うぉーーーっす」
出てきたのは祖母ではなく、従兄の北川サトルであった。
「あ、サトル」
「おせーよ、オマエ」
ヒカルが玄関に入るなりサトルはヒカルの頭をつかんでグリグリ髪をかき回した。
「何だオマエまだ前髪メッシュやめてなかったのかよ、ハゲるぜマジで!」
「るせーー!、一緒にすんなジジイ!!」


「いい加減にしたら?」
じゃれあう二人を冷めた声で諌めたのは従姉の北川みやびである。
「何でみやびまでいるんだよ」
「何よ悪い?」
みやびはむくれた。
「アンタ来るの遅いよ。美津子叔母さんから何回も電話があったんだよ。心配してるからとにかく上がって連絡取りなよ」

(あちゃー・・・)
やはり予定通り怒られなければならないようである。確かに小学生が電車に乗って出かけて六時間も連絡なしでは心配位するであろう。


 電話を済ませて居間に行くと、祖母の瑞江とみやびが紅茶を淹れていた。
孫が久しぶりに勢ぞろいしたので瑞江はご機嫌だった。
その様子を見ながらヒカルは尋ねた。
「何でサトルとみやびが東京にいるの?聞いてなかったけど」

サトルとみやびは二卵性の双子である。昨年の春からサトルはアメリカの大学へ、みやびは京都の大学へそれぞれ進学していた。

「いや、俺はアメリカ行ってから一回も帰ってなかったんで、一度顔見せろって、母さんがうるさくてさ。で、俺が帰ってきたんでみやびもついでに新幹線で里帰り」
「もうホームシックなんだ?」
ヒカルがまぜっかえすとサトルは黙ってヒカルの髪をもう一度グリグリかき回した。
「ホームシックって言うな。テレビやったろ?」
「サトルがくれたテレビ壊れてた」
「げ、マジ?」

渡米にあたって、サトルは部屋の在庫処分を行ったが、その時にヒカルは随分たくさんの物をもらった。一番の目玉は中古のテレビだったが、いざ使おうとしたところ壊れていたのだ。これでプレステ三昧の日々到来と思っていたのに期待はずれもいいところであった。
もっとも、今となっては囲碁の勉強でプレステどころではないのだが。

「運んだ時にぶつけたかなー」
「修理代で貯金なくなっちゃったよ」
「そりゃー災難だったな」
「・・・・・」


 紅茶とケーキが用意され、四人で食卓を囲んだ。
祖母は満足そうに孫達をみた。
「ヒカルちゃんとサトルちゃん、似てきたんじゃない?」
「げーーーっウソーっ!」
「何だよてめー、どういう意味だ」
サトルは髪を染めていないが、それを除けば、確かにビフォー・アフターと言って良いほど二人は似ていた。
サトルの身長は185センチ程。今はチビのオレもいずれはこの位の身長になるはずだ。と、ヒカルは思っている。
「みやびも似てるよね、どっちも母親似だからね」
これにみやびは複雑そうな顔をして「どうかな」と言った。

「ヒカルちゃんも顔だけじゃなくて二人みたいに勉強がんばらなきゃね」
と祖母が水を向ける。
(来た来た来た〜)
と、ヒカルは思った。斎藤家や北川家の人々は進藤家と違って勉強をするのもさせるのも大好きなのである。
サトルとみやびも非常に勉強は良く出来た。

(中野のおばあちゃんも、これさえなけりゃな)
と思いつつヒカルはモジモジしながら答えた。
「やってるよ〜(囲碁の勉強だけど)」
「そう?もう中学生だもんね」
「中学に行ったらもっとがんばるよ(囲碁部とかプロ試験とかで)」
「やる気出てきたのねえ」
「うんうん」



みんな笑顔である。




 「あ、そうだ、忘れてた」
みやびが声をあげた。
「京都のお土産があるんだよ」
と、居間の隅に置いてあったバックからいくつか袋と箱を取り出した。

「ええと、進藤家とおばあちゃん用に八ツ橋一箱ずつね」

八ツ橋というのは言うまでもなく京都の代表的和菓子の一つである。今回はおなじみの生八ツ橋に餡がはさんであるものだ。
箱を見ながらヒカルが訊いた。
「いちご味入ってる?」
「いちご味だ〜!?ガキだなヒカル」
「いいだろ、別に」

そしてみやびは袋から更に細長い箱をいくつか取り出した。
「あとこれ、扇子ね」
そう言って次々と箱から扇子を取り出していった。それを見て瑞江は困ったような顔をした。
「みやびちゃん、そんなに気を使うことないのに、おばあちゃん困るわ」
「いーのいーの、友達の付き合いで入ったお店で買いすぎちゃってさ、一つ選んでよ」
「お母さんの分は?」
「お母さんは油とり紙の方がいいって」

ああそう。と言うと瑞江は嬉しそうに扇子を開いて選び始めた。どれも女持ちの扇子である。そうしていると流石は母娘だけあって瑞江と美津子も良く似ている。おかあさん、そのうちこうなるのか、とヒカルは思ったが口には出さなかった。


「みやび、これは?」
祖母が楽しげに選ぶ中、ヒカルは袋の横に別に置かれた少し大きめの扇子を取り上げた。
「ああ、それ?それはたくさん買ってくれたからってお店の人がサービスでくれた扇子だけど、箱ないんだって」

ヒカルはその扇子を見つめた。
佐為の扇に似ているとヒカルは思った。
厳密に言えば平安時代の人間である佐為が持っていた扇は蝙蝠(かわほり)といって、紙が骨の片側にしかついていないなど造りが違うのだが、全体の雰囲気が似ていたのだ。
柄も薄い紫のぼかしが入っているだけで、すっきりと上品なところがいい。


「オマケで貰ったんだけどモノは悪くないって言ってたよ・・・欲しいの?」

ヒカルはしばらく黙っていたが、真面目な顔をしてみやびに言った。


「欲しい」







黒9


家に帰って、自分の部屋に入るとヒカルはみやびにもらった扇子を紙袋から取り出して、しげしげと眺めた。

 ヒカルにとって扇子は特別な意味を持っている。
佐為が消えた後、搭矢アキラと初めて対局した名人戦予選。アキラがヒカルの碁の中に二人の碁打ちを見つけた、まさにその夜にヒカルは佐為の夢を見た。

何も語りはしなかったものの佐為はヒカルにやさしく微笑みかけ、そして最後に自分の愛用の扇をヒカルに差し出したのだ。
それは神の一手を極めんとする道を歩き出したヒカルに渡されたバトンであり、ヒカルにとっては自分が佐為の弟子である証であった。


 無論、夢の話だ。
ヒカルはその夢を見た後、すぐに棋院の売店で扇子を買ったが、前回に倣うとヒカルがその扇子を買うまでにあと3年近く待たなければならなくなる。
何でもいいから佐為が存在した証拠が欲しいヒカルは、どうにかして扇子を手に入れたいと、時間が逆戻りしてからずっと思っていたのだ。
だが、扇子というのはピンキリであるとはいえ結構値が張った。そして現在、無職の小学生であるヒカルにはそれを買うための小遣いの余裕がなかったのである。
佐為の扇子を百円ショップで買う気にはなれないし、どうしたものかと困っていたところにこのお土産であった。

「サンキューみやび」

ヒカルはつぶやいた。
前回も同じようにみやびは京都土産に扇子を持ってきたはずなのだが、全く記憶になかった。
覚えているのは八ツ橋をもらったこと、それを見た佐為が『私の知っている京の都には、このような菓子はありませんでしたよ』と言ったこと位である。




 扇子を開いたり閉じたり、あおいだりしながらヒカルは今日あったことを思い返していた。

まず日本棋院の「こども囲碁大会」。
前回は何もわからないまま、うっかり対局中の碁に口出しして怒られて追い出された。
しかし今はそれがどんなにまずいことかを知っている。ヒカルはその時の対局者の前に立ったまましばらく悩んでいたが、結局何も言わずに立ち去った。

(だって言えないだろ?あんなに一生懸命打ってるのに。今日のためにアイツらがんばってきたんだろうに。)


棋院の建物の中で、何人も知っている棋士や職員と会った。
搭矢名人もそうだし、緒方精二九段も柿本九段も出版部の人達もそうだ。
しかし誰もヒカルのことを知らない。
面白いような、寂しいような複雑な気分だった。



 そして場所を移しての搭矢アキラとの対局。
佐為が搭矢と打った時、ヒカルは碁について「囲めば相手の石が取れて最後に地が多かった方が勝ち、以上!」という超基本情報しか持っていない初心者であった。
であるからして、佐為に言われたとおりに打つだけでも必死で、搭矢の様子がどんなだったか気にする余裕などなかった。

しかしヒカルは知っている。対局後のうなだれた搭矢を。
その後佐為を追いかけた搭矢を。
搭矢はどんな顔をしてこの対局を戦ったのか。

見たい。そして確認したい。
この対局が搭矢アキラに刻み込まれるところを。
ヒカルはそう思った。
そしてヒカルはアキラが看破した通り、佐為の棋譜を並べながらアキラの様子を見つめ続けたのだ。
対局が進むにつれて青ざめていく、搭矢アキラの顔を。





 ヒカルは立ち上がると扇子を机の引き出しにしまった。

そして机の上の皿にのった八ツ橋を取りあげた。いちご味である。
それを一つ口に入れてもう一度つぶやいた。

「サンキューみやび」

それにしても何でサトルのアメリカ土産はなかったのだろうとお茶を啜りながらヒカルは思った。