LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白58〜黒63



白58


「アナタが進藤をライバル視してるって噂は本当だったんですね」
越智康介は、レッスンプロとして自宅にやって来た塔矢アキラを、忌々しそうに見て言った。
それに塔矢アキラは答えず、黙したまま彼を見返した。


 とある企業の社主である越智の祖父は、昔から暇を見つけてはプロの指導碁を受けるほど碁に熱心であった。
それが孫に碁の才能があると見るや、自分の為というより孫の為にレッスンプロを頻繁に家に招くようになっていた。
それはプロ試験本選が始まってからも続いていたが、最近合格した棋士の方が試験の事情が分かって良いだろうと、今日は昨年合格した塔矢アキラ二段を呼んだのである。


越智は、進藤ヒカルが院生になったばかりの頃、「塔矢アキラと自分はライバルなんだ」と、あるプロに話していたという噂は聞いた。
しかし、そんなのは自信過剰の新人のたわ言だと思っていたし、それから間もなく塔矢が進藤を訪ねて日本棋院の研修部屋に来た時も、単に知り合いなんだろうと思っていた。
しかし、今日の塔矢の様子を見ていると、どうやら彼もそう思っているらしい。

(まさか本当だったとはね)
越智は内心驚いた。

プロ試験に合格したら、噂の塔矢アキラの上を行くプロ棋士になると決めている彼は、本当は指導碁そのものより、塔矢アキラの実力を見てやろうと待ち構えていた。
しかし、レッスンより進藤ヒカルの情報に興味が有りげな様子を見ていると、だんだん腹が立ってきた。

指導碁をダシに進藤の話を聞きに来たとしか思えない。
それで、絶対に負けないつもりで勝負に臨んだのだが、そんな態度ながらも塔矢は自分をあっさりやっつけてしまったのだ。
「本気の対局を望んでいたようだから手をゆるめなかった」と言われても悔しいのは仕方がない。



彼は碁石を片付けながら憮然として言った。
「指導碁はもういいです。今の対局の自分の敗因も分かっているし、アナタを呼んだのはおじいちゃんだしね。
どうせ今日来たのも進藤の話が聞きたかっただけなんでしょ? いいですよ。何が知りたいんですか?」

その言い方から流石のアキラも思うところがあったらしい。気まずそうに咳払いをし、それでも尋ねた。

「先日、進藤君は一敗したみたいだけど、それって・・・」
そこまで聞いて越智は吹きだした。

「そのことですか。アレは相手がどうのってことじゃないです。単に進藤が体調不良で自滅したんですよ」



 それは九月十七日のことであった。いつもは早めに来るヒカルがその日は妙に遅かった。
もう対局開始という頃になって、何と彼は親連れでよろける様に研修センターにやって来たのだ。
建物の中まで付き添ってきたのは母親だけだが、たまたま日曜日だったのを幸い、自宅から研修センターまでは父親が車で送ってきたということだった。

親達は今日の対局は休めと散々説得したそうだが、ヒカルはどうしても受け付けなかったらしい。その代わり、というので親付きである。

母親は休憩室に残り、「我慢できなくなったらすぐ言いなさいね」と息子に言い聞かせていた。普段のヒカルなら「みっともないからヤメテくれよ!」と叫びそうなところだが、この日はそんな余裕もないようだった。
顔は青ざめ、唇は真っ白である。

「風邪か?」
と皆が訊いたのは心配したのもあるが、うつされるのを警戒したこともある。このあたり、受験は奇麗事ではない。
花粉症だという外来の一人が使い捨てのマスクを黙って差し出した。

「・・・・・風邪かどうかわかんないけど」
ヒカルは力なく言いながら、一応受け取った。
何故こんなにダルいのか自分でも分からないと、彼は語った。


その後対局が始まったが、昼食前にはほとんど打ち切るようにヒカルは投了し、院生師範の篠田に挨拶すると、そのまま親に連れられて帰っていった。
あまりにも具合が悪そうな姿に
「あれなら今日は寝ていて次の試験日に備えた方が良かったんじゃないか」
と皆で話し合ったものだ。





「それで?」
「火曜日には、随分元気になってましたよ」
「・・・・・」

アキラは眉を顰めた。
(そんなことで一敗か。体調管理も実力の内だぞ、進藤!)

「・・・・・・・君から見て進藤をどう思う?」
越智は肩をすくめた。
「変なヤツですよ。師匠もいないのに碁を始めて二ヵ月で九段棋士の研究会に出入りして、一年後には院生になって、あっという間に一位。アイツに師匠がいないって本気で信じてるヤツなんかいないんじゃないか
な。
・・・・・でもそんなことボク等よりアナタの方が詳しいんじゃないんですか。以前から知り合いなんでしょ?」

「・・・・・・」
「アナタ、進藤とはどういう知り合い?」

アキラはどう話せばいいのか一瞬躊躇した。
どういう知り合いか、と訊かれたところで実は数回打った程度の間柄である。
しかし、塔矢アキラにとってはそれで十分なのだ。



アキラは暫く考えた後、ようやく口を開くと、越智の質問には答えずに別のことを訊いた。

「彼と対局していて、彼が難しい局面でも不自然にノータイムで打っていると思ったことは?」
「さあ? もともと進藤は打つの早いですからね」

「そうじゃなくて・・・、まるで」


初めから置く場所が決められているかのような置き方。
そうだ、あれは棋譜並べのような・・・。

アキラの脳裡に、出会った頃に碁会所で打った二局と、若獅子戦で観戦した初戦が浮かんだ。
それはレベルは違っても「棋譜並べのような感覚」という一点で何処か似通っていた。同じ臭いがすると言ってもいい。



「・・・まるで、棋譜並べをしているような打ち方をしていると思ったことはないか?」
「はあっ?」
越智はあっけにとられてアキラを見た。
だがアキラは冗談を言っているような顔ではない。真剣そのものだ。
(何言ってるんだ? コイツ)

碁は二人で打つものだ。
片方が決まった手を打ち続けようとしたところで、もう片方がその後の展開を知らない以上、決まった棋譜は成立しない。当たり前である。
出来るとしたらその打ち手は超能力でも持っているということになってしまう。

「それ、どういう意味ですか?」

アキラは再び碁石を取り上げた。
「これは・・・、二年前の彼との互先の一局だ」

アキラはそう言って、ヒカルと出会った頃に打った二局目の碁を並べ出した。
それを越智は黙して見つめる。



並べていたアキラは最後に
「ここで僕が投了」
と告げると、最後の石を置き、挑むように越智を見た。
「・・・・・」
「この碁を考えている風もなく常にノータイムで打つというのをどう思う?」
「・・・・・・・考えている風もなく?」

ただの早碁ではない。
いくら「あの」進藤ヒカルでもそう簡単にこの碁が打てるとは思えない。
というか、これは本当に進藤の碁か?
自分は何度か進藤ヒカルとは打っている。院生手合いでも打った。
その時の感触とは微妙に違和感があるのは何故だろう。
だがそれでも「棋譜並べ」とはどういうことか。

・・・馬鹿馬鹿しい。未来が見えるというわけでもなければ、そんなことが出来るわけがない。


「たしかにノータイムというのは普通じゃない気がしますけど。でも、アナタは普通に打ったワケでしょ? ありえませんよ。たまたまそんな気がしただけじゃないんですか?」

アキラは不満そうな顔をしたが、肩をすくめると引き下がった。元々信じろという方がムリなのだ。
「・・・・・そうか・・・そうだな。悪かった。忘れてくれ」

越智は、そんなアキラの態度にイライラしてきた。
ヒカルのことばかり気にかけている様子が彼には不満だったのだ。

「確かに今の碁はスゴイと思うけど・・・。だけどボクは、必ずしもアイツを勝てない相手だとは思ってない。何でアナタがそんなに進藤を気にかけるのか全然分かりませんね」


越智の言葉にアキラは口元を引き締めたまま何も言わなかった。
それで、更に気を悪くした越智は、イジワルそうにアキラに言った。


「その様子じゃ、アナタまだ知らないんだな」
「?」

「進藤なら今日も負けましたよ」
「なっ!?」
アキラは椅子から、半ば腰を浮かした。

「二敗だって?・・・・・馬鹿な!!」








 そして次の試験日の昼休み。囲碁研修センターの休憩室。
いつものように、院生の数人は休憩室の隅に固まって座っていた。

「しっかし、あの進藤が崩れてくるとは想定外だったな」
小宮が、テーブルに肘をついてボヤくように呟いた。
「合格最有力候補が二敗だもん。・・・試験って読めないって言うけど本当ね」
奈瀬も同意する。

「だけど、まだ二敗だろ。ここまでで全勝は、もう越智だけなんだからな」
飯島はそう言うと後ろを振り返り、外来組で談笑する門脇の方を見た。
「門脇も一敗したしな」

皆の話を黙って聞いていた和谷は頭を抱えると叫んだ。
「やっぱりアレがマズかったのか・・・・? やべえよオレ。進藤にあんなの見せるんじゃなかった」

それを聞いて皆が口々に言う。
「試験中に余計なことするから」
「盤外戦かあ?」

「和谷、グッジョブ!」
小宮は和谷の肩をたたくと右手の親指を立てて見せた。

「そういう言い方ヤメテくれ。そんなつもりじゃなかったんだ」
和谷はそう言うと机につっぷした。
「冗談だって、本気にすんなよ!」
小宮はあわてて手を振った。
「しょうがねェじゃん、集中出来ないのは自分の責任だろ?」

男子達の馬鹿騒ぎに肩をすくめた奈瀬は、伊角に訊いた。
「進藤がネット碁をやっているのは、以前聞いて知ってたけど、そんなにハマってたの?」
「いや、オレはやらないんで、よく知らないんだ。ネット碁ネタで盛り上がってたのは和谷と小宮だろ?」

和谷は苦虫を噛み潰した様な顔をした。
「アイツ先週、体調崩してヘコんでたからさ、元気付けてやろうと思ったんだよ」

つい先日、久しぶりにワールド囲碁ネットに接続した彼は、思わぬビッグカードを目にし、二日前、その碁をヒカルに見せてしまったのだ。
それからヒカルは急に顔色を変え、落ち着きを無くして次の対局を落とした。
全勝するかもしれないと言われていた、合格最有力者の二敗に皆、驚いたものだ。




「だって、ずっと消えていた伝説の不敗棋士‘sai’と今話題の‘psy’の対局だぞ。 
ネット碁やってるヤツなら誰だって気になるぜ。そうだろ?」



黒59

(佐為だ)

ヒカルは自分の部屋の碁盤に置かれた石を見つめた。
それは、数日前に和谷に見せてもらった‘sai’と‘psy’の対局の棋譜であった。

和谷にこれを見せられた時のことを思い出す。



血が、逆流するかと思った。



(ゼッタイ間違いない。オレがアイツの碁を間違えるわけがない。)
ヒカルは盤上の石の流れをもう一度追った。


 ‘psy’が黒、‘sai’が白のこの対局。
序盤で見られる大ゲイマはいかにも佐為っぽいし、それからしばらく後の打ち込んだ後のサバキ方といい、やはり「どう見てもこの白はアイツだろ」と言いたい巧妙さだ。

対する黒も負けてはいない。中盤以降、黒も下方を荒らして来る。
しかし白の読みにうまく凌がれ、その後も果敢に戦いを挑むも善戦空しく敗れている。

この石の流れ。
ヒカルには佐為のものとしか思えなかった。



「・・・・・・」

ヒカルは、北斗杯前の合宿を思った。
北斗杯前の数日間、日本代表三人と団長の倉田は、塔矢家に集まって合宿を行ったのだ。
それは週刊碁の古瀬村記者から、高永夏が秀策をバカにしていると告げられ、怒髪天を衝いていた頃だ。

北斗杯は団体戦である。大将はその時点で一番実績がある塔矢アキラになるのが自然だった。
倉田にもそう言われて塔矢に及ばない自分が悔しく、その為に高永夏と戦えない自分が辛かった。
佐為を侮った高永夏に思い知らせてやりたいのに今の自分にはそれが出来ない。

佐為がいれば。
自分が打つまでもなく、佐為自身が高永夏に秀策の強さを見せ付けるだろうに。

『本因坊秀策がもし生きていたら高永夏なんかやっつけちゃうのに。絶対負けねェのに』

その夜、すぐ傍に社がいるにもかかわらず、そう呟かずにいられなかった。
もし、本当に‘sai’が佐為で‘psy’が高永夏だとしたら、図らずもヒカルの望みは叶ったことになる。



(・・・絶対佐為だ。アイツは消えてなんかいなかったんだ)

ヒカルは石を碁笥に戻すと立ち上がり、窓を開けて空を眺めた。
屋根の上で一部が欠けた月が光っている。



(良かった)
ヒカルは思う。
アイツがこの世にいるって分かっただけでも良かった。
アイツが碁を打ててるって分かっただけでも良かった。

たとえ、今は会えなくても、それでも。



(本当に消えてしまったと思うより、ずっといい・・・・・・)






しかし佐為はヒカルの前からいなくなる少し前、こう言っていた。
『私はもうじき消えてしまうんです!』

・・・・・彼は「消える」と言ったのだ。
消えると言われれば、何しろ相手は幽霊だ。消滅するという意味だと普通は思う。
それでヒカルは、佐為はこの世から消えてしまったのだと思い込んでいたのだが・・・。

(でも何で? どうしてアイツはオレに何も言ってこないんだろう・・・)

佐為は自分の前から消えてからどうしていたのか。

他の誰かに取り憑いていたのか?
だったら、その相手に頼んで、こういう事情だと言ってきたっていいではないか。
それをしないのはやはり、ほとんど打たせてくれない自分に腹を立てていたのか。

そうでなければどういう可能性があるだろう。
藤原佐為としての存在をやめ、次の人生にシフトしていたとしたら。つまり、生まれ変わっていたとしたら。

佐為が消えてから、j時間の遡りを含めて延べ三年近く経とうとしている。あれから生まれ変わったとしたら、今二歳というところか。多少は動けるようになったところで親か誰かに頼んでパソコンを操作してもらって打っているのだろうか。

その場合、佐為は記憶を持ったまま生まれ変わったということになる。
そうでなければあの碁が打てる訳がないからだ。


とにかく佐為に会わなければならない。そして話したい。
お互いのことも、この時間の遡りのことも。

何とかしてこの‘sai’と連絡を取る方法はないだろうか。


そのために自分はどうすればいいのだろう。
'‘psy’が誰かを突き止めることも出来なかったのに、‘sai’が見つけられるだろうか。

分からない。でも。


(絶対に見つけるからな、佐為)

ヒカルの目に水分がたまる。月が見えづらくなったのはうす雲がかかった為ばかりではない。
彼は涙を拭うと窓を閉めた。






 ところで彼は今、もう一つ問題をかかえている。
それはもちろんプロ試験での二敗の件だ。


実はこの二敗、棋譜は違っても対局相手は同じ、大島と福井。つまり前回通りの展開なのだ。
しかし、この二敗はヒカルの狙ったものではない。

今回のプロ試験、もともとヒカル自身は全勝するつもりで臨んでいた。
それは、もはや前回通りの碁が出現するのが減ってきている現状で、前回通りの棋譜を維持する必要性を感じていないのと、やはりプロ試験はヌルくないと思っていたからだ。


対大島戦の負け。体調を崩したのは前回と同じだが、好きこのんで同じように体調を崩すバカはいない。
冗談でなく前回の八割増しで、彼は具合を悪くしたのだ。



 それは前日の夜に遡る。
‘psy’の正体を突き止めることを諦めていないヒカルは、定期的にネット碁のサイトをチェックしていたが、その晩も父親の書斎で‘psy’がアクセスしていないか確認していた。

そして、急に眠気を感じ、そのまま寝入ってしまったのである。

夜中に目を覚ました時、目に入ったのは画面がスクリーンセーバーに変わったパソコンのディスプレイだった。
時計を見ると既に四時を回っている。「やべっ!!」と叫んで立ち上がろうとして、彼は異様な悪寒に襲われてしゃがみこんだ。
体が冷え切っている。そういえば、エアコンを切っていない。
リモコンを掴んでエアコンを切り、パソコンをシャットダウンし、自分の部屋に戻ろうとしたところで今度は激しい嘔吐感に襲われた。必死でトイレに駆け込み、胃液を吐き出す。
前回は腸にきたが、今回は胃らしい。


「・・・・・・どうしよ・・・」
トイレから出たところで壁づたいに床に座り込んだ。

しかし、そうしていても事態は好転しない。
現状における最善を尽くし、活路を見出すのだ。要するに自分のベッドに戻り、眠り、体調を戻す。コレしかない。

ヒカルは殆ど這うように廊下を進み、自分のベッドに倒れこんだ。
父親の書斎と違って自分の部屋は蒸し暑かった。九月中旬の東京は熱帯夜。最悪である。
そうかといって、流石のヒカルも、再びエアコンのスイッチを入れる勇気はなかった。

タオルケットを引き被ってヒカルは目を閉じた。・・・・・目の奥で世界が回っている気がする。
「バカだ。オレってバカ過ぎる・・・」
呟きながら、彼は眠りについた。

そして窓の外が明るくなって目が覚めた時、彼は体調がたいして良くなっていないことに落胆することになる。


後は越智がアキラに語った通りだ。


この一敗は仕方ない、と思ってあきらめたところで、今度は和谷に‘sai’対 ‘psy’の対局を見せられ、動揺しまくって、また負けた。
前日の対伊角戦は、前回心を痛めたハガシの問題もなく、満足する碁が打てた。しかも勝った。
翌日、まさか二敗目を喫するとは思わなかった。


終局後、フクは自分が勝ったことに驚いた顔をしていた。
喜ぶより先に「進藤君、大丈夫?」と気遣ってきた程だ。予期せぬ勝利に彼も動揺していたのかもしれない。
それを聞いて、却ってヘコんだヒカルである。


「大丈夫なワケねェだろ!!」

と、言うわけにもいかず、黙って頷くしか出来なかった。






「もう、負けねェ。負けられねェ」
ヒカルは拳を握り締めた。
プロ試験は絶対に落とせないのだ。

「もし落ちたら佐為に会わせる顔なんてねェよ・・・」

ネット碁をやっている位なら、きっと佐為はプロ試験の経過も知っているだろう。
彼を失望させるのはゴメンだ。



「アイツにまた会う日のために、オレは絶対プロにならなきゃダメなんだ」

決意を新たにするヒカルであった。


白60

韓国、ソウル。

洪秀英は、郊外にあるマンションの一室の玄関の前に立った。
呼び鈴を押そうとしては手を下ろす、という動作を数回行った後、意を決して、ボタンを押した。キンコーンと、電子音が耳を打つ。


ドアが開くと、玄関には、大学生位の女性が立っていた。

「・・・・・秀英君!」
「こ、こんにちは」
彼女は秀英を見ると驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって彼を招きいれた。

「・・・よく来てくれたわね、今日は永夏、居るわよ」
「ハイ・・・」



 ここは彼の幼馴染み、高永夏の自宅である。家にあげてくれた女性は永夏の姉だ。
彼女は居間に秀英を通すと、永夏を呼びに部屋を出て行った。

秀英は緊張した顔のまま、居間の書棚にビッシリ並んだ碁関連の書物や、これまで永夏が手にしてきた大会の優勝トロフィーを眺めた。
この家に来るのは約半年ぶりだった。これらは彼にとって見慣れたものばかりなのだが、それも遠い昔のような気がする。

かつては秀英の家も同じマンション内にあったので、小さい頃は随分この家に遊びに来させてもらっていたものだ。しかし最近、特に碁のスランプに陥って研究生の順位が落ちてきてからはめっきり顔を見せなくなっていた。

何故か。それはプロになって快進撃を続ける幼馴染みと、研究生としてもくすぶっている自分とを比較してしまえば、色々複雑な感情も出てくる。
小さい頃から教えてもらったりしてきたので顔を合わせにくい気持ちもあるし、
そもそも、そんな自分など、もう相手にしてもらえないのではないかという恐怖感もあった。
それでも、と彼は思う。


(これはケジメなんだ)

受け入れてもらえなくてもいい、永夏に今の自分の決意を伝えるんだ。後は自分でそれを証明するまでだ。

秀英は緊張で汗ばんだ手をズボンで拭った。





「よお、まだ生きてたか」
自室から出てきた高永夏がダルそうな声で呼びかけた。

秀英は、緊張に気付かれないよう、精一杯笑顔を見せて挨拶しようとして、そのまま固まった。
「・・・・・いつ髪染めたの!?」

その様子を見て、永夏はニヤッと笑った。
「第一声がソレか」
「あ、いや・・・」

最後に会った時の永夏は黒髪で短髪の典型的な優等生タイプの髪型だった。数ヶ月会わなかっただけでここまで印象が変わるのか。

短髪なところは一緒だが、固めてところどころツンツン立っているし、なにより色が明るいオレンジ系ブラウンだ。一瞬別人かと思ってしまった。


「少し驚いただけだよ。に、似合ってると思う」
「だろ?」
永夏は不敵に笑った。白い歯がキラーンと光る。
「オマエ、雑誌読まないんだな。もうこの頭で何度も写真載ったと思うけど?」

秀英は知らない。そして雑誌掲載後、女性達の人気が鰻登りで追っかけまでいることも。
彼はスランプだったし、夏休みは日本に行ったりしていたからだ。

「なあ、オレ今度は髪を伸ばそうかと思ってるんだけど、どう思う?」
「・・・あ――・・・さあ・・・」

秀英が返事に窮していると、永夏の姉が紅茶と菓子を運んできた。

「お茶淹れたわよ。二人とも座ったら?」
「ありがとう姉さん」
「すみません」
永夏の姉はニッコリ微笑むと、キッチンに戻っていった。

「親父が釜山に転勤になってしまったんだ。お袋はソウルと釜山と行ったりきたりで、ここ暫く留守なんだ」
「じゃあ、お姉さんも大変だね」
「まあな。・・・座れよ」


それで二人は床に座った。
秀英は、いざ永夏を目の前にすると、何と言えばいいのか分からなくなって、口ごもった。
そんな秀英を見透かすように永夏が先に口を開いた。

「噂には聞いてたんだ、オマエのこと。随分クラス落として、最近は棋院にも来てないって」

秀英は少し驚いて三歳年上の幼馴染みを見た。
(気にしてくれてたのか)

「・・・で、ここに来たってことは碁はやめないってことなんだろうな」
「・・・・・うん」

永夏は肩を竦めた。
「そりゃー、そうだよな。小さい頃、あれだけ打ってやって、教えて面倒みて、それで、ちょっと調子が悪くなったら、もうヤメルなんて言ったら、もうオレの前に姿なんて見せられないよな」
「・・・・・」

相変わらずのこの口の悪さ。覚悟はしていたが。

「あ、悪い悪い。今でも小さいか」
身長のことらしい。秀英はそれは横に流して、言うべきことを口にした。

「ボクは碁をやめない。絶対プロになる。それを今日は言いに来たんだ。」

「・・・・・・・決意表明?」
「そうだ」

秀英の瞳の強さに何か感じたのか、永夏は揶揄するのを止めた。


「何があった?」

秀英は何と言おうか、また口ごもったが、遂に口を開いた。

「・・・・・・この夏は、東京にいるおじさんの家に行ってたんだ」
「・・・・・」

「気分転換にさ。初めは観光したり、テーマパークとか行ってたけど、後半はずっとおじさんがやってる碁会所で、お客さん相手に打ったりしてたんだ。そんなある日、アイツが店にやってきた」

「・・・・・アイツって?」

「進藤ヒカル・・・・・日本棋院の院生さ」


変なヤツだった。初めて会ったはずなのに、自分の顔を見ると旧知の人間に会ったかのように声をかけてきた。もちろん日本語なので何を言っているのかはサッパリだ。

声をかけてきたのはコンビニで買い物をしている時。
怪しすぎる。言葉の分からない外国で、妙に馴れ馴れしく近づいてくる人間に警戒しなかったら馬鹿だ。しかもヤツには仲間までいた。
からまれてはたまらない。これは早々に立ち去った方が良さそうだ、と秀英は店を出た。しばらく街をブラブラしてからおじさんの店に行くと、何故か彼らがそこにいた。

そして進藤ヒカルは、店に入ってきた自分を見るなり、さあ、打とう今すぐ打とうと言う。


(何でボクがコイツと打たなきゃならないんだ)
と、思った。

対局を断わると、ヤツは身の程知らずにも「オレに負けるのが怖いんだろう」などと言い出した。

バカか? コイツは韓国棋院の研究生のレベルが分かってないのか?

(吠え面かかせてやる)

彼は勝負を受けることにした。対局が始まり、そして。







「負けた」
秀英は悔しそうに言った。

永夏は黙って全てを聞き、最後に言った。
「・・・・何やってんだオマエ」

「うん・・・物凄く悔しかったよ。アイツは想像以上に強かったんだ。
でも、それでボクは分かった。ちょっとクラス落ちした位で、ふて腐れて投げやりな碁を打って自滅してたことに。本気で打つ感覚を久しぶりに思い出した」

「・・・・・」
「・・・・・だから、ボクはこのままじゃ終われない。絶対ボクはプロになって進藤ヒカルと勝負して勝たなきゃならない。そしてボクの名をアイツに覚えさせてやるんだ」
「・・・・・」
秀英は永夏を正面から見た。

「・・・こんな話、研究生の皆には言えやしないけどさ。永夏には聞いてもらいたかったんだ。・・・・・永夏はボクの目標だから」


永夏はそれまで組んでいた腕をほどいて、額をポリポリ掻き、彼のトレードマークの長い睫毛を瞬せた。

「そうか」


秀英は、大きく深呼吸すると「言ったらスッキリした。ありがとう永夏」と小さく言った。

そんな彼を見ながら、永夏は温くなった紅茶を一口飲むと、何か考えるように、遠い目をした。暫くそうしていて、視線を秀英に向けた。







「秀英。・・・オレもオマエに聞いてもらいたい話がある」

秀英は、驚いて目を見開いた。
「もちろん。どうしたの? どんな話?」

永夏は一瞬、嫌そうに眉を顰めた。




「・・・・・オレが、アマに碁で負けた話だ」


黒61


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

秀英は眉を顰めた。
「永夏が? ウソだろう?」

前述したが、高永夏と言えば韓国棋院の若手ナンバーワンのプロ棋士だ。
この年は春蘭杯世界プロ囲碁選手権戦(予選)にも出場している。その彼が何処のアマチュアに負けたというのか。

「だ、誰に?」

永夏は腕を組み直して、うーん、と唸った。
「分からない」
「分からない?」

「そうだ。ソイツのことは、日本人アマらしいということ以外何も分からない。」
「何それ」

「秀英は金成勇(キム ソンヨン)さんを知ってるか?」
突然聞かれて、秀英は戸惑った。
「ええっと・・・」

永夏は言葉を続けた。
「金成勇さんは、去年の夏に東京であった国際アマチュア囲碁カップの韓国代表だよ。
オレが棋院の研究生になった頃、成勇さんもまだ研究生で、色々世話になったんだ」
「へえ」
「結局彼はプロになるのを断念してしまったが、その後はアマ碁で活躍している人だ。今でも時々メールのやり取りをしているんだが・・・」
「・・・・・・」

「先日、気になる話を成勇さんに聞いたんだ。」
そこで永夏は金成勇から聞いた、日本のネット碁に現われた異様に強いプレイヤー、‘sai’の一件を秀英に説明した。

金成勇は日本に発つ直前、兪七段から、『日本の囲碁サイトで日本人のネットプレイヤーと対局していて負けてしまった。彼は恐らく日本のトップ棋士だと思うから誰だか訊いて来て欲しい』と頼まれた。
しかし日本に行っても誰も彼(または彼女)のことを知らない。それどころか、その場にいた各国代表の多くがその‘sai’と対局して負けているという。
そして誰も彼もが‘sai’の正体を知りたがっていた・・・。

国際アマの会場ではこの話題で盛り上がり、遂にはパソコンが持ち込まれて囲碁サイトに接続したところ、その‘sai’がエントリーしていた。
そこでその場にいた塔矢アキラ初段が‘sai’と対局を始めた。

「塔矢アキラ初段っていうのは塔矢行洋名人の息子だけどな」
と、永夏は注釈を加えた。

そしてその対局は大会中のため、一旦中断されたが、後日に再戦が行われた。それは金成勇もネット観戦したという。

「勝敗は・・・」
「‘sai’が勝った」

秀英は眉を顰めた。
「それ絶対プロだよ。永夏が日本のアマに負けたなんていうからビックリするじゃないか」
「・・・・・」
「塔矢アキラがどの位強いか知らないけど、兪七段といえばリーグ戦にも食い込む実力者だ。それを破る日本のアマチュアなんて、変だよ」

「オレもそう思ったんだがな」
永夏の口調は、彼には珍しく歯切れ悪かった。


「兪先生が、知ってる日本の棋士に聞いても誰も心当たりないと言っているそうだ。成勇さんの東京での聞き込みでも同じ。それに‘sai’は日本のプロの対局時間でもエントリーしているんだとさ。」
「プロじゃないっていうアリバイか」

「それでオレも面白半分で、その日本の囲碁サイトにエントリーしてみたんだよ。ヤツに当たったらラッキーって位の気持ちでな。ま、なかなか当たらずに素人ばかり相手にしてたんだが」

永夏はそこで、紅茶を一口飲んだ。

「自分の仕事の方が忙しくなってきて、もうやめようという頃になって、とうとう、ヤツがエントリーしてきたんだ」
「‘sai’が?」
「そう。で、オレが負けた。」

「日本のプロじゃないのかも」
「確かにな。しかしヤツはチャットで日本語の返事を寄越したそうだ。それにもう一つ」
「うん」
秀英はうなずいた。

「世界アマで、塔矢ジュニアが ‘sai’の正体を知っているようなそぶりを見せたっていうんだ」
「え?」

「後でやっぱり間違いだったって言ったそうだが、どうも臭いというのが成勇さんの意見だ。その時に彼が口にしたのが、」
永夏は、秀英の顔を見た。
「shindoh」


「・・・・・・・え、えええ?」

秀英の脳裡に、東京で会った進藤ヒカルの顔が浮かんだ。
「どうだ。面白いだろう」
永夏はニヤリと笑った。

「う、うそだっ・・・、いくら進藤だって永夏に勝つなんて、そんなっ!」

「本当に‘sai’の正体がオマエが東京で会ったって言う進藤ヒカルだったら面白いよな。デキすぎな位だ」

永夏は不敵な笑みを浮かべながら、長い睫毛を伏せた。
「院生ならアマチュアっていうのは、語弊があるかもしれないが」

どうやら、彼はは自分が得体の知れない相手に負けたショックより、秀英の話に出てきた日本の院生の方に興味が移っているらしい。もはや、状況を楽しんでいるようだ。



「オマエ、さっさとプロになれよ。そしてその進藤とやらの正体を暴いてやれ」
「え――――――っ!!!」

話がドンドン別の方向に走っていき、秀英は付いていけなくなってきた。
「だって、ボクがプロになるっていうのは、その位の覚悟があるって意味で、進藤もプロ試験に勝って、ボクと対局出来るかどうかは別だよ?」
だが永夏は取り合わなかった。

「バカ言うな。ヤツが院生で‘sai’なら、来年にはプロになってるぞ。そして、「あっ」とう間に上がって来て国際棋戦にも出てくる。当然オレはその場に居るが、オマエ、その時、蚊帳の外でいいのか。オマエの覚悟ってそんなもんか」


「・・・・・」
なんということを言う男か。

秀英は口をパクパクさせることしか出来なくなっていた。


その秀英を尻目に、永夏は部屋の隅から碁盤と碁笥をはこんできた。

「オレとヤツの碁を並べてやるよ、オマエも進藤と打った碁を並べろよ。」
「・・・・・・」

秀英は目を大きく開けて固まったまま、幼馴染みの青年を見上げた。


「いつまで固まってるんだ。検討するぞ。・・・オマエの打った碁がヘボかったらぶっ飛ばすからな」

ぶっ飛ばされる気遣いはいらなかった。あの日進藤ヒカルと打った碁は永夏に胸を張って見せられるレベルだったと思う。
そもそも、これは彼に見せるつもりの碁だったのだ。秀英は碁盤の前に座りなおし、永夏が並べ始めた碁を見つめた。













 その頃日本では、隣国でそんな噂をされているとは夢にも知らない進藤ヒカルが、放課後の学校内の廊下を歩いていた。

最近は忙しくて囲碁部にも顔を見せていない。悪いとは思うが、プロ試験が済むまでは顧問は休業である。
だからだろうか。久しく顔を見ない囲碁部員が廊下で声をかけてきた。
「進藤君!」

振り返ったヒカルの視線の先に津田久美子が立っていた。
「・・・・よう」

ヒカルは少々戸惑いながら、挨拶した。
正直なところヒカルにとって、彼女は「藤崎あかりの友達」という位置付けに過ぎず、囲碁ヌキの話をしたことがなかったのである。

その津田久美子は思いつめたような顔で、ヒカルに近づいてきた。
「何?」

「進藤君、最近あかりと話した?」
「・・・あかり? いや、しばらく会ってないよ」

何だ、やっぱり、あかりの話か、とホッとして返事をしたところで、久美子は眉を吊り上げた。
「・・・進藤君、今、すっごく忙しいのは分かってるけど! でも、少しはあかりのところに行って、話してあげてよ!」


一体何の話だ?
クラスが違うので、あかりとは囲碁部以外で会うことはあまりなかった。
自分が知らないところで、彼女に何かあったのだろうか。

「どうしたんだよ、あかり、何かあるのか?」

「えっ」

久美子には珍しく、勢いよく詰め寄ったものの、聞き直されて言葉に詰まった。

「それは、あったというか、別にというか・・・良くある話というか」
「津田、何が言いたいんだよ。全然わかんねェよ」

久美子はどう言えばいいのか自分でもよく分からないらしい。
手を握り合わせたり首を振ったりしていたが、
「いい。やっぱりいい。余計なお世話だった。ごめん、やっぱり何でもない」

「・・・・・何だそれ」

「で、でも、進藤君が少しでもあかりのこと気にかけてるなら、話をした方がいいと思う」

久美子はそれだけ言うと、踵を返して走り去った。

後に残されたヒカルはあっけに取られてそれを見送った。

どんな用件なのかさっぱり分からなかったが、どうもあかりに何かあったらしい。
普段話さない津田久美子が、あれだけ必死に何かを伝えようとしているからには、きっと、話をした方がいいのだ。

明日にでも、あかりに声をかけてみようか、と思ったところで、
「おっと。明日はプロ試験じゃないか」

と思い直した。では、声をかけるのはあさってだなと、思い決め、ヒカルは学校を後にした。



白62

(告白されてしまった・・・・・)

 藤崎あかりは、浮かない顔で教室の窓際を行ったり来たりしていた。
授業も、終業のホームルームも終わって随分時間が経つ。
そろそろ囲碁部に行ったほうが良いと思うのだが、どうも気が乗らない。

囲碁部には津田久美子がいる。この話は避けて通れないだろう。
それに今は碁を打っても集中できるとは思えない。
(サボっちゃおうかなあ・・・)
窓の外には花壇が見える。その美しい配列を見ながら、彼女は今日何十回目かの溜息をついた。
それは恋の予感にときめく乙女の姿というよりは、ただひたすら困惑しているように見える。



 十四歳ともなれば、好きだの付き合ってよだのという話が出てきてもおかしくない。しかし、これまで彼女に交際を申し込んだ者は誰もいなかった。

あかりは、容姿も標準以上に可愛らしかったし、明るい性格で友達も多い。
それなのに何故と言われれば、それはもちろん、彼女に好きな相手がいるというのは学校で周知の事実だったからだ。

しかし、世の中にはチャレンジ精神旺盛な人がいるものなのだ。
その男は、あかりの気持ちを百も承知で「付き合って」攻撃を仕掛けてきた。

それは一昨日のこと。用事があって校庭を通りかかったあかりに声をかけた男子生徒がいた。
その男子生徒のことをあかりは知っていた。というか彼は有名人だったのだ。
あかりの小学校時代からの友人、布川美咲が所属している土木工事部、もとい園芸部の前部長、山里隆弘である。



当然あかりは、気になっている人がいるからと、彼の申込みを断わった。

「進藤君でしょ?」
直球が来た。

「え、別にヒカルだなんて、私は全然・・・」

と、この期に及んでトボけて見せようとするあかりに、山里は微笑んだ。

「でも進藤君は今、就職活動で忙しくて、恋愛どころじゃないんじゃないかなあ」
「就活・・・・・」

少々ギャップを感じるが、プロ試験とは即ち、日本棋院の「棋士採用試験」である。ナルホドこれは就職活動だったのだ。

「そっか。そうね。でも山里先輩も高校受験間近じゃないですか。三年生なんだから」
「どうやら推薦取れそうなんで、心配いらないよ」
「・・・・・それはオメデトウございます」

では、なんと言って断わろうか、まごまごしているあかりを見ていた山里は、
「今日は気持ちを伝えたかっただけだから。あっさり断わらないで、しばらく考えてみてよ。じゃまたね」
と、やわらかい口調で言い、にっこり笑うと、校舎の方へ歩いていった。

その後姿を見て、あかりは見慣れない背中の広さに気が付いた。






 別に悩むことはない。改めて丁重にお断りすればいいだけのことだ。
と、あかりは思っていたが、話は彼女の望みとは別に広がっていたのだ。

「あかり!! ぶちょーにコクられたって!!?」
告白された二十分後、美咲があかりの教室に飛び込んできた。放課後だったのはあかりにとって僥倖だった。教室にいたのは、あかりと津田久美子だけだったのだ。

「そんなこと大声で言わないでよっ」
あかりは慌てて美咲を制した。
「何で知ってるの」
「だって、さっき、ぶちょーが、ウチの部室で」

しゃべったのか。
(随分オープンな人だな)
あかりは、少し引いてしまった。


「部長って、‘元’部長でしょ。三年生なんだから」
「だって、今でも実権握ってるの山里さんだもん」

久美子は、あかりに訊いた。
「あかり、それでどうしたの」
「・・・断わったよ」
美咲は、肩を竦めた。
「でも諦めなかったでしょ。あの人しぶといもん。あのしぶとさで、普通なら絶対許可されない校庭改造に取り組んできたんだよ。やり手だよ」

「でも、花壇や植木とあかりのことは別だよ」
と、久美子は反論した。
「だって、進藤のこと百も承知で言ってきた訳でしょ。こうと決めたらあきらめないよ」

あかりは「そうなんだ・・・。弱ったな・・・」と、呟いた。

「どうするの、あかり」
「どうするって、私のよく知らない人だもん、付き合えないよ」
「だよね」
久美子は頷いた。
それに対して美咲は顎に手を置き、暫く考えていたが、あかりの方に顔を向けると、あっさりした口調で言った。

「あかり、とりあえず付き合っちゃえば。何事も経験だよ」
「ちょっと、適当なこと言わないでよ」
あかりは美咲を睨んだ。

「モノは考えようだよ。山里さんって、三年の女子の間じゃ人気なんだよ。背も高いし顔もイケてるし、成績もいいって。進藤はチビッ子だしさ」

「ヒカルだって、三年生になったら伸びるよ!」
あかりは、つい言い返してしまった。

「何で、そんなこと分かるのよ」

久美子と美咲の声がハモった。同時に突っ込みを入れられたあかりは、少し困ったように、顔を横に向けた。

「ヒ、ヒカルがそう言ってたから。オレは三年になったら背が伸びるって・・・」
言っていて、顔が赤くなるのが自分でも分かった。


久美子と美咲は顔を見合わせた。
(ダメだ、こりゃ・・・)
と目で語り合った。

美咲は、
「・・・分かったよ。ごめんごめん。じゃあ、ドキッパリ部長をフりな。後は部員みんなでなぐさめとくからさ」
と言って、あかりの肩を二度ほど、ぽんぽん叩いた。

あかりは、赤い顔で小さく頷く。

教室を出て行った美咲を見ながら、久美子は自分に何か出来ることはないかと、考えていた。











「で、昨日進藤君に言ったの。あかりと話をしてって」

時間が戻って、場所は囲碁部室である。

今日は集まりが悪く、まだ久美子と金子しかいない。それを良いことに久美子は山里の一件を同じ囲碁部員、そしてヒカルと同じクラスの金子に訴えたのだった。

「ふうん、で、進藤は?」
金子は鷹揚に久美子に訊いた。久美子は悔しそうな顔をした。

「今日あかりに訊いたら何にも言ってこないって。あの人何なの? どういうつもりなのかな」
金子は笑った。
「そりゃあ、何にも考えてないんだろうね」
「何それ!!」
「だってあいつバカじゃないの」
金子正子。結構辛口である。

「院生なのにバカなんてアリかな」
「それとこれは別」
金子はそう言うと、折りたたみ式の碁盤を広げて、丸椅子の上に置いた。これがこの部の通常の対局スタイルなのである。

「どっちにしても、進藤は今日、プロ試験でお休みだから藤崎さんと話すのはムリね」
「電話でもメールでも連絡は取れるよ」
「いやあ・・・」
金子は苦笑いをした。

「進藤って、一度に色んなことが出来るような器用な人じゃないと思うよ」
「・・・・・そうなの?」
「うん。私はそう思う」

久美子は金子の顔を見た。この落ち着いた雰囲気を持つ囲碁部仲間は、クラスでも頼りにされているという。
それだけあってクラスメートのことは良く見ているのかもしれない。
久美子は一つ質問してみた。

「進藤君って教室ではどんな人?」
「一見普通。でも実は変人」
バッサリである。

「表面的には誰とでもうまくやれるし、結構ハキハキものを言うから、囲碁で休みが多い割にはクラスで浮いてないよ。でも自分の世界がガッチリあって、そこには誰も入れない感じ。バカだけど、私達から見て確かに囲碁は天才だからね。天才は変人っていうでしょ」
「どういうところが?」
金子は指を一本立てて見せた。
「津田さんだって知ってるじゃない。突然訳わからないこと言い出したり、予言ぽいこと言ったり」

予言か。久美子はあかりの言葉を思い出した。
「進藤君、三年になったら自分の身長が伸びる予言をしたって」
「それはどちらかというと願望だわね」
「・・・そっか」


他の部員はまだやってこない。二人だけの理科室兼部室は、会話が途切れると時計の音がやたらと大きく響いて聞こえた。




「津田さんて、藤崎さんのこと一生懸命なのはいいけど、自分はどうなの?」
「えっ」
自分のことを訊かれるとは予想していなかったので、久美子は驚いてしまった。
「気になってる男子はいないわけ?」

「・・・や、やだな。私はそういうの、いないから」
金子はにやにやしながら、うろたえる久美子を見た。

「津田さんは、人のことより自分で好きな人見つけた方がいいんじゃない?」
会話の風向きが変わってきた。どうやらからかっているらしいと見て、久美子はそっぽを向いた。

「私は、まだそういうのはいいよ。そういう金子さんはどうなのよ」
「私、彼氏いるよ」
「ええええええええええええええ!!!!!」
今度こそ久美子は飛び上がって叫んだ。

「何でそんなに驚くのよ?」
そう訊かれても、咄嗟に言葉が返せない。意外だったからとは尚言えない。
久美子は横目で金子を見た。

一言で言えば、ドッシリ。
カワイイとか可憐とか軽やかとかいう形容がどこにも見当たらない、金太郎頭の肝っ玉母さんそのものの女子生徒がそこに居た。

「え、いや、その、別にそんなことないけど」
金子は更ににやにやしながら「分かっているわよ」とでも言いたそうに口の端を上げた。

何と言ってフォローしていいのか分からない久美子だったが、数秒置いて我に返った。
これは事件である。問いたださなければ。

「だ、だだだ誰!?」
「言っても津田さんには分からないよ。この学校の人じゃないし」
「何処の中学?」
「中学生じゃないけど」

(高校生か。やるな)
と、久美子が思った瞬間、
「実は大学生なんだよね」
という返事が返ってきた。
「えええええっ!!!」

うっかりまた叫んでしまった。と同時に悟った。
(そっか。金子さんの大人っぽさはその辺に理由があるのか)

そんな久美子の様子を見て金子は手を振った。
「誤解しないでよ。もう、すっごいガキっぽい人なんで、あんまり年の差とか感じないんだよね」
彼女はそう言うと、少し遠い目をした。

「どうやって知り合ったの?」
「どうやってって・・・バレー部の練習を見てくれたOBの先輩だよ」
金子はバレー部と囲碁部を兼部しているのだ。

「それはそうと」
と言って、金子は一度咳払いをすると、話を戻した。
「人のことばかり気にしなさんな。津田さんは進藤のこと怒るけど、藤崎さんだって、ちゃんと進藤に告白してないんでしょ。それじゃ、どうしようもないじゃない」
「これだけみんなが知ってて、進藤君があかりの気持ちに気がつかないなんて有り得ないよ」
「だから進藤はバカなんだってば」
「・・・・・」
「普通なら、藤崎さんに気がないからって思うところだけど、進藤に限っては、碁以外のことは本当に何も考えてないんだと思うね」



「どうすればいいかな」
「だーかーら! 放っときゃいいんだって。周りが下手に口を出すと上手くいくものもいかなくなることがあるんだから。広く暖かく見守っておけばいいのよ」

久美子は上目使いに金子を見た。
(やっぱりこの人、大人っぽい・・・)


「さ、時間がないよ。他の人来ないみたいだから、二人で始めよ」
金子はそう言うと、碁笥の蓋を開けた。


黒63

そしてその翌日。

登校したヒカルは早速あかりを探したが、見つからないうちに予鈴が鳴ったので、仕方なく自分のクラスに向かった。

自分の席に着いた途端、前の席の男子生徒が「おい」と声をかけてくる。
「何?」
「おまえ、二組の藤崎と付き合ってたよな」
「・・・付き合ってねェけど」
しかし相手は聞いていなかった。

「・・・・・おまえが碁の試験でバタバタしてる内に、三年の男子からコクられたらしいぜ」
「・・・・・・」
「ボヤボヤしてるからだ。バーカ」
それに言い返そうとして口を開きかけたところで担任の教師が教室に入ってきた。週番の「起立!」という声が教室に響く。ヒカルは仕方なく黙って他の生徒と共に立ち上がった。
礼をして着席すると、そのまま朝のホームルームが始まる。


担任の話す連絡事項を聞き流しながらヒカルは眉をひそめた。
(何の話だ。それがオレと何の関係があるっていうんだよ)
そう思うと同時に、それをわざわざ聞かされることを不愉快に思った。


小学校時代から、『あかりと付き合っているだろう』と何十回訊かれたかわからない。
そして、ただの幼馴染みだとその数だけ答えてきた。事実その通りだったからだ。

からかわれるのも鬱陶しいので、小学校も高学年の辺りから多少は距離を置くようになっていた。
しかし、だからといってあかりを嫌いになったわけでもないし、無視し合うのも不自然だ。
自分としては、ごく自然に応対してきたつもりだったが、何故か周りは自分とあかりをカップルにしないと気が済まないらしい。

(あかりも気の毒に。オレと噂になってたら、好きなヤツが出来ても付き合えねェよな)

一昨日、津田久美子が、あかりと話をしてくれと言っていたのもこの件がらみか、と流石のヒカルにも見当がついた。

(めんどくせェな)

ヒカルは担任の話を聞くフリをしながら腕を組んだ。

(しかし、あかりがソイツのことを好きなら、幼馴染みとしては応援してやるのが義務というもんだよな)
とにかく話を聞いてやろう、と彼は思った。



 しかしどういう訳か、その日、どうしてもヒカルはあかりを掴まえることが出来ない。
あかりのクラスに行ってもタイミングが悪く、会うことが出来なかった。

それで囲碁部に出れば居るだろうと思い、放課後を待って久しぶりに部室へ向かった。

廊下を歩いていると、例の桜の木が目に入った。
そういえば、この木のことで、あかりと話をしたんだよな。と思って窓に近寄り下を覗くと、当のあかりが居た。
そして、その隣に何処かで見た男子生徒。


(アイツか。あかりにちょっかい出してるヤツって)

ヒカルは眉間に皺を寄せ、目を細めてその男子生徒を見た。誰だったか。
「土木部長じゃねェ、園芸部長・・・・・だっけ」

そういえばクラスの女子が彼のことを「かっこいいよね〜」などと言っていたのを聞いた事がある。


あかりが男子生徒に何か話し掛けている。
あかりの表情は陰になっていて分からないが、それに答えている園芸部長の顔は良く見えた。
落ち着き払ってにこやかに応対している。
確かに女子生徒にかっこいいと言われてもおかしくない程度に顔は良い・・・気がする。背も高い。

ヒカルは暫く二人の様子を眺めていたが、やがて窓から離れると再び囲碁部室の方へ歩き出した。
不安なような、イライラするような、変な気分だった。





 囲碁部室の扉を開けると、三谷が夏目と碁盤を挟んで対峙していた。
観戦していた小池が振り向いて声をあげる。
「あ、進藤先輩」
「オッス」
ヒカルはそれに答えて手を上げた。

彼は三人の近くに来ると手近にあった丸椅子を引き寄せて腰掛けた。
それを横目で見て三谷は口を尖らせた。
「院生サマにお見せするような内容じゃないぞ」
ヒカルは「つまんねェこと言うなよ」と言いながら、どれどれと碁盤を覗く。

三谷はそう言うが、なかなかいい碁だと思った。展開も面白い。対局相手の夏目も随分腕をあげたようだ。

だが、三谷には叶わない。この碁はもう勝敗が決まっている。

夏目はヒカルが来ても何も言わずに腕を組んで、次の手をあれこれ考えていたが、ふいに顔を天井に向けて
ひとつ息をつくと「負けました」と言った。

「ありがとうございました」

二人は挨拶すると、同時にヒカルの方を見た。
何となく微妙な表情である。
「何だよ」

夏目が遠慮がちに口を開いた。
「・・・・・進藤君、ここに来てる場合じゃないんじゃないの?」
「・・・プロ試験のことなら、大丈夫だよ」

「そうじゃなくって、その」
夏目が口ごもるのを、三谷が引き継いだ。
「藤崎が三年の男にひっさらわれそうなんだろ。噂になってるぞ」
「・・・・・・」

(またその話かよ)

ヒカルはうんざりして肩をすくめた。
「みんなオレにその話振るけどさ。あかりだってもう中ニなんだし、男が出来たっておかしくねェだろ」

夏目は遠慮がちに言った。
「・・・・・進藤君、本当にそれでいいの?」
「だから何が!」
ヒカルはだんだん腹が立ってきた。

「ホントうぜェな。確かに心配だよ。小さい頃から知ってるヤツなんだからな。じゃあアイツにコクったヤツと話しつけて、変なヤツなら付き合うのやめさせるよ。それでいいんだろ!」
「保護者かい・・・」
「そうじゃないなら、オレに何を期待してるんだよ!」

ヒカルの剣幕に他の三人は押し黙った。


しばらくして、最初に沈黙を破ったのは三谷だった。

「ふん・・・馬鹿馬鹿しい。オマエと藤崎のことなんか知るか。オレには関係ないし」
「・・・・・」
「だがそれで囲碁部の中がギクシャクするのは迷惑だ。練習だって大会だってあるんだからな。オマエも一応まだ囲碁部員のつもりなら少しは気を使えよ」
「・・・・・分かったよ」
ヒカルも渋々うなずいた。


三谷は首を傾けて顎をポリポリ掻いた。
「なんかシラけちまったなあ。夏目、検討する?」
「あ、うん」

それで二人は再び碁盤に向きなおったが、ふと、三谷がヒカルの方を見た。

「進藤、時々、家で藤崎と碁の練習をすることがあるって言ってなかったっけ?」
「・・・・家が近いからな。それが何だよ」

「藤崎に男が出来たら、ソレ、出来なくなるな」
「えっ?」
「普通、自分の彼女が他の男の部屋に一人で出入りするのは嫌なもんじゃないのか」

三谷はそう言うと、碁盤の一箇所を指差して「ココがさあ」と夏目に話し出した。
それを受けて夏目も身を乗り出す。
傍でずっと黙って様子を見ていた小池だけが、気掛かりそうにヒカルを見た。




ヒカルは、固まっていた。
「・・・・・・・」

(何だって?)

パソコンの一件以来中断しているが、時々あかりはヒカルの家に来ては碁を見てくれるようにせがんできた。
気晴らしにもなるので、よほど忙しくないときはヒカルもそれに付き合ってきたのだ。

それは、佐為がいた頃からの習慣のようなものだった。

当時ヒカルは自分の碁のことで精一杯で、あかりの相手など面倒臭がっていたが、佐為はあかりをいつも歓迎していた。
ヒカルとしか打つ機会のなかった彼は、初心者のあかりとでも打てればご満悦だったのだ。

それが分かるから、ヒカルはあかりが来ると佐為に打たせてやっていた。
碁盤を挟んで静かに流れる時間。
今では、その情景は三人で作り上げたヒカルの大切な思い出の一つとなっている。

だからヒカルは今でも、あかりが家に来れば指導碁を打ってやっていた。
そうしていると、佐為がいたあの頃に戻ったような気分でいられたのだ。


しかし。
あかりが園芸部長と付き合い出せば、もうそれは出来なくなる。
家に来ることもなくなるだろう。


(そんなのダメだっ!!!)
ガタッと音を立ててヒカルはいきなり椅子から立ち上がった。

「進藤先輩?」
小池が声をかける。

ヒカルは「ゴメン、用事思い出した」と言うと、足早に囲碁部室兼理科室を出て行った。


それを見送って、残された面々はしばし無言だったが、やがて三谷がつぶやいた。
「世話焼けるヤツ」
それを受けて小池が言った。
「進藤先輩、結構カワイイところがあるんですねェ・・・」





 ヒカルはあかりを探した。
廊下の窓から先程二人が居た場所を見たが、そこにはもう居ない。
(アイツと行っちゃったのか?)
それば大変だ、早くあかりを見つけなければ。と、ヒカルは焦った。つい少し前までは応援してやろうと思っていたのに、随分な心境の変化である。

彼が立っている場所の少し先に体育館へ行くための通用口がある。ヒカルはそのドアを開けて外へ出た。

そこから校庭を見渡す。
すると、彼が今居る場所から見て校舎の反対側のベンチにぼんやり一人で座り込んでいる女子生徒が見えた。あかりである。
ヒカルはホっと胸を撫で下ろした。



ヒカルはゆっくりとあかりに近づいていき、俯き加減に遠くを見ている彼女の前に立った。

「あかり」
あかりは少し肩をゆらした後、ゆっくりと顔を上げた。
「ヒカル?」

探し出したのはいいが、咄嗟になんと声をかけたら良いのか分からずにヒカルは口ごもった。それでしばらくその場であかりの顔をみていたが、とり合えず視線の位置を合わせるためにその場にしゃがんだ。

一方あかりはヒカルの突然の出現に心臓が止まりそうだった。
そして同様に何と口にしたらいいのか分からなくて黙り込んだ。パソコンの一件以来、あまり会話を交わしていなかったこともある。

「・・・あかり、三年の男子から付き合ってくれって言われたってホントか?」
口をついて出た言葉は直球、ストライクゾーンど真ん中である。

あかりは小さく頷いた。
「・・・・・うん・・・」

「ど、どうすんだ、返事はしたのか」
「・・・・・」

断わりの返事はした。だが、どうしても納得してくれない。
しかも、断わっている最中にも結構面白いことや為になる話をしてくるので、つい聞いてしまって決定打が打てないでいた。
山里は顔だけではなく、中身もかなりハイレベルな男だったのだ。
『とりあえず付き合っちゃえば』と美里が言うだけのことはある。

「あかり、ソイツのこと好きなの?」

あかりはヒカルの顔をじっと見つめた。
このバカ男は本当にどうしようもないと思った。本当に自分の気持ちに気がついていなかったのだ。彼女はだんだん投げやりな気分になってきた。

「だったらどうするの?」

あかりは小さい声でヒカルに訊いた。

「・・・・・・・」

ヒカルは返事が出来なかった。自分でも意外な程の打撃を受けた気がして一瞬息が止まった。
「・・・・・・どうって、オマエが好きなら、・・・オレにはどうしようも・・・ないよ」
「ふうん・・・」
あかりはヒカルから目をそらしてつぶやくように言った。
「・・・・・」
「山里さんていうの。いい人だよ。前から私のこと見て、いいなって想ってくれてたんだって。話もうまいし面白いし。付き合ったら大事にしてくれそうな気がする」

その様子をみて、ヒカルが何か取り返しのつかないことが起きようとしている予感に背筋がざわめいた。


「待てよ、オマエ本当にその山里のこと好きなのか?」
「何で?」
「だって好きじゃないのに、付き合うなんて変だろ。間違ってると思う」
「そうかな。でもヒカルには関係ないでしょ」
ヒカルは右の拳を握り締めた。
「関係なくない。幼馴染みのこと心配するのはあたりまえだろ」

あかりは制服のスカートの皺を手で伸ばしながら、校舎のすぐ脇に植えられた若い桜の木を見た。そのまま視線を戻さず言う。
「幼馴染みだって。ヒカルはいつもソレだよね。」
そしてあかりはベンチから立ち上がった。ヒカルも一緒に立ち上がる。

「あかり」
「今、好きじゃなくたって、そのうち好きになるかも知れないじゃない。
付き合うかどうかは自分で決めるよ。ヒカルはいつもみたいにほっとけばいいじゃない。バカっ!!」

あかりはそう言うと、脇に置いてあったカバンを手に取り、校門に向かって駆け出した。

ヒカルは、あかりが去り際に見せた泣き出しそうな顔にショックを受けてしまい、追いかけることも出来ずにその場に立ち尽くした。