LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒43〜黒47



黒43

「もう、あきらめろ。おまえには才能がない」
目の前の男が諭すように告げた。

「・・・・・」

「これ以上続けたって、ムダだって事くらい分かるだろう? それともそんなことも分からないのか」
「・・・・・あと、もう少し」

だが、それを横から見ていた別の声が容赦のない言葉を投げつけてくる。
「信じられない。こんなに弱いヤツ見たことがない」

そしてそれをたしなめる声。
「一生懸命やってるんだから、そんな風に言わなくたっていいじゃない」


手が盤上をさまよう。
だが、それは手元に引き戻された。
「ううう」




「おい・・・」
「だから、もうちょっとだけ待てってば!!」

性懲りもなく盤上を見つめて考え込むのに業を煮やしたその男は、ついに持っていた扇子で机を叩いた。

「いい加減にしろよ進藤!! 何をどうやったって、この対局はもう終わってるんだよ!!」
そう怒鳴ると、加賀鉄男は扇子をバッと開いて扇ぎ出した。

「くううううう・・・・・・」

ヒカルは肩を落として、ついに投了した。
「マケマシタ」
「遅せェ」



加賀は鼻を鳴らして嘲った。
「だーめだ、コイツ全然弱っちいの。プロ棋士志望が聞いて飽きれるぜ。そっちの兄ちゃん達の方がよっぽど指せるんじゃないのか?」
そういうと、横に立っていた三谷と夏目の方を見た。
「そりゃ、コレよりはマシだな」
と、三谷は指で丸椅子の上に置かれた携帯用将棋盤を指差した。
そしてもう一人、昨秋に入部してきた、ヒカルと三谷と同学年の夏目は困ったようにモジモジして愛想笑いをした。この内容を見てコメントの仕様がないのが見て取れる。

昼下がりの葉瀬中の理科室兼囲碁部室。
三月に入り、学期末試験もひと段落、三年生は卒業を間近に控えて今日は登校日になっていた。
そのタイミングを見計ってヒカルが加賀に将棋の指南を頼んだのはつい一昨日のことだ。

「だろう? オレ様に教えを乞うには千年早えんだよ。最後の王手からどれだけ時間かけてんだ。いい加減にしろよな、ガキんちょ」
と、加賀は口の端を上げてせせら笑った。


「・・・・・・いい加減にするのは、おまえだ加賀っ! 囲碁部に将棋部の飛び地を勝手に作るな元将棋部長!!」

いつの間にか加賀の背後に立っていた元囲碁部長、筒井公宏は、将棋盤を前に調子に乗りまくる加賀の頭上に、買って来たばかりのウーロン茶のペットボトルを落下させた。
それをひょいと避けて加賀が椅子から立ち上がる。
「何言ってんだか元囲碁部長。コイツが頼んできたんだぜ? 卒業する前にオレ様に将棋を教えてくださいってよ。な?」
加賀はそう言ってヒカルをの方にアゴをしゃくった。

「ホントなの? 進藤君」
「うん・・・」

「けど、コイツ全然指せやしねーのよ。つーか、おまえ駒の動かし方分かってねェだろ?」
「一応、知ってるつもりだったんだよ」
「成った後の駒の使い方からしてダメダメ」
「もう、いいよ。ちぇっ」
ヒカルは膨れっ面をしてプイと横を向いた。

「でも何でまた・・・」
筒井は聞かずにはいられない。それはそうだろう。進藤ヒカルは囲碁のプロ棋士志望の院生なのだ。それなのに何故ここで将棋を習っているのだろう。
「別に」
ヒカルは気まずそうな顔でそっぽを向いたままだ。

理由はある。ヒカルには将棋で雪辱を果たさなければならない相手がいるのだ。
その名は北島孝一。あの塔矢名人の碁会所の常連の「北島さん」だ。


碁会所は、囲碁だけでなく将棋サロンも兼ねている場合がある。
塔矢名人の碁会所はもちろん囲碁専門だが、実は将棋盤も置いてあったりするのだ。

前回、つまり時間が戻ってしまう前、ヒカルはしばしばその碁会所に行っては塔矢アキラと碁を打っていたのだが、アキラが何かの都合で約束の時間になっても碁会所に現われないことが何度かあった。
そんな時ヒカルは、受付の市河や周囲の客と雑談をしたり、雑誌を読んだりして過ごしていたが、ある日北島がヒカルに将棋の勝負を持ちかけてきたのだ。

ところで北島は度を越したアキラ贔屓である。
その為、アキラのライバルだと言い張るヒカルがどうにも気に入らないと、顔を見れば何かにつけてちょっかいを出してきていた。
それはもちろん、プロのヒカルと、趣味で打っているアマチュアが囲碁で勝負になるわけがない。
それで将棋、というわけだ。
対局はヒカルの惨敗に終わり、その時の北島の喜びようは碁会所の語り草になっている程だ。北島がその後、事あるごとに、
『わしは進藤に勝った! わしに勝てない進藤が若先生に敵う訳がないのだ』
という、意味不明の自慢話をし続けたのだから無理もない。

「囲碁と関係ないじゃん」
と、ヒカルは相手にしなかったが、気分は良くない。
折角時間を遡ったことであるし、ここで加賀に教えてもらっておけば、いずれ来る対決の時に、あの時程無様な負け方はしないだろうと思ったのだ。

だが、そんなことは筒井や、他の部員に話して聞かせたい話でもない。
(やっぱり囲碁だ。オレには囲碁しかねェ!!)
と、一瞬でも囲碁から余所見をしたことを反省したヒカルである。
だが実のところ、囲碁棋士は将棋も強い人が多かったりするのだが、それはまた別の話だ。










「何? ここって将棋部なの?」

聞きなれない声にその場にいた全員が振り向いた。
「あ、金子」
ヒカルが声の主の名を呼んだ。

それと同時に藤崎あかりが椅子から立ち上がった。
「金子さん、違うよ。囲碁部だよ! 来てくれたんだ」

理科室に入ってきた彼女の名前は金子正子。
バレー部員だが、碁が打てるというので、前々からヒカルとあかりが勧誘を続けていた、やはり同学年の女子生徒だ。
バレー部優先という条件付で入部してもいいという話はしていたが、なかなか時間が取れないということで、顔を出すのは今日が初めてである。
金子は運動部らしい精悍な雰囲気と、肝っ玉母さんのようなドッシリ感を持つ、頼りがいがありそうな少女だ。
彼女が入部すれば、今日は休みの津田久美子と合わせて女子部員が三名。囲碁大会への出場が可能になるので、あかりは金子の入部をずっと心待ちにしていたのだ。

前回の大会の時は用事があって断わったのを気にしていたという金子は、次の大会はここで鍛えて参加すると言ってあかりを喜ばせた。

しかしそんな二人を前に、気掛かりそうに
「早い・・・」
と、ヒカルは呟いた。
誰も知らないことだが、本来の時間の流れでは、金子正子の入部は二年生になってからのはずなのだ。






「・・・・・あらあ、何コレ。ヒドイ出来ねえ。誰のよ?」
金子は先程の将棋盤を覗き込んだ。
「これって進藤が指した将棋?」
「・・・・・」
「その通り。これが院生様が指した将棋だ。ちなみに負けた方だぜ」
無言のヒカルの代わりに嬉しそうな声で答えたのは三谷だ。
「へえええ!」
金子は感心したように将棋盤とヒカルを見比べた。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ三谷! いいんだよコレは! ここは囲碁部なんだから。さ、将棋なんてヤメヤメ。あかり、碁盤出せよ」
ヒカルはそう言って、将棋の駒を片付け出した。

「まあ、才能なくて悪かったけど、今日はサンキューな、加賀」
一応礼を言うヒカルに、加賀は肩をすくめて扇いでいた扇子を閉じた。
「まあ、何度も指して、玉の囲い方や戦法も覚えていきゃ、もうチッとはマシになると思うけどよ、それよかやっぱりおまえ、囲碁に専念した方がいいと思うぜ?」 

(加賀もたまにはまともなことを言う・・・)
「そうする」
言葉少なく同意したヒカルである。
北島にはイライラさせられるが、気にしなければいいだけのことだ。

あかりと夏目が碁盤の用意を始めたのを横目に加賀は再びヒカルに声をかけた。
「おい進藤、ところで院生はどうなんだ? 」

囲碁部では、つらつらと院生の話をすることもあるが、将棋部の加賀にそんな話などしたことがなかった。
加賀鉄男は、将棋を本格的に始める前は親に習わされて、囲碁もかなりの腕前だ。
院生がどんなものか興味はあるらしい。

「まあ順調だよ。院生手合いも勝ってるしね。今年のプロ試験は通るつもりさ」
「ほーっ! 自信満々だな」
加賀は愉快そうに笑った。

筒井も微笑んだ。
「本当に去年まで、一人で囲碁部を作ろうと躍起になっていたのがウソみたいだ。金子さんも入ってくれて、女子も大会参加出来そうだし、後は・・・」
「後は?」
「男子にもう一人入部してもらわないと。進藤君は大会参加出来ないから」
筒井の目が遠くなった。それに対し、三谷が悪態をつく。
「だーから、コイツが院生になるのが悪いんだよ。中学卒業してから外来受験すりゃ苦労ないのに」
だが、加賀はフンと鼻を鳴らした。
「何だ、そんなことか。だったら話は簡単だ。進藤が変装して偽名で大会参加すりゃ済むだけのことじゃねーか」
(結局それかよ!!)

前述したが、小学六年生の時、賭碁に負けたヒカルは、加賀に命令されて葉瀬中生を騙って大会に参加したことがある。ただしバレて失格したが。
今回は手違いでその時の大会には出場していないが、やはり同じ人物の発想は時は違えど似たものが出てくるものらしい。
「お、それいいな、おい、進藤そうしようぜ」
あっさり賛成した三谷にヒカルはあきれて答えた。
「乗るなよ三谷。ぜってーバレるって」
「それはオマエの変装次第だな」
「イカサマ禁止!」
「盤上じゃないだろ」
「ダメっ!!絶対ダメ」
「フン、何だよケチ野郎。ネットじゃオレの名前騙ってるくせに」
痛いところをつかれてヒカルはぐっと詰まった。

「何の話?」
碁盤の準備が終わって、あかり達もヒカル達のところにやってきていた。
「コイツ夏休み中、オレの姉貴のバイト先のネットカフェでネット碁やってた時、登録名にオレの名前使ってたんだよ」
「へえ、ネット碁! 私もやってみようかな。そしたら進藤、私とも打ってくれる?」
金子も興味を持ったようだ。
「何でだよ! 別にネットじゃなくたってオマエらとはここで打てばいいだろ」
「それはそうだけど、面白そうじゃない?」
彼女はそう言って豪快に笑った。

「でも何で三谷君の名前なの?」
あかりは首を傾げて訊いた。
「・・・ログインする時にとっさにいい名前が思いつかなかったんだよ。三谷に紹介してもらったわけだし、お姉さんも三谷なんだから、ってそれだけ」
「・・・簡単だな」

前回自分は打っていなかったし、自分の名前で打つと塔矢アキラがうるさいだろうという気がしたのだ。もっとはっきり言えば、自分の名前でなければ何でも良かったのである。

「まあ、そんな訳だから、三谷、お姉さんによろしくな」
もう一回、ネット碁を打つ予定があるのを念頭に、ヒカルはそう三谷に断わりを入れた。
だが、三谷は意外な答えを返してきた。

「残念でした。もう姉貴はネットカフェやめたぜ」
「ええっ?!」

(そうか。だから佐為と名人の勝負の時に、三谷のお姉さんはいなかったんだな)
と、ヒカルは当時を思い出して納得した。
前回、ヒカルと三谷は疎遠だったので、そんなことすら確認出来なかったのである。

「そうなんだ・・・」
「そういうことだ。これからはちゃんとカネ払って打てよ」
「・・・・・うん」


話は終わったと見て金子が言った。
「ねェ、入部したんだから、私、早速打ちたいんだけど。誰か私と打ってくれない? 一番強い人は・・・進藤か。どう?」

「いいよ」
そうして、ヒカルは丸椅子に置かれた碁盤の前の椅子に腰掛けた。
その周りを三谷、あかり、夏目が囲む。
やっと囲碁部の本来の活動開始である。




その様子を少し離れた所で加賀と筒井は眺めていた。

加賀が言う。
「おまえの作った囲碁部、ちゃんとカタチになったじゃねェか」
筒井はハッとしたように加賀を見た。

「孤軍奮闘、実際おまえは良くやったと思うぜ」
「加賀・・・」
筒井は少し言葉につまったが、すぐ態勢を立て直した。
「当たり前さ。もっとも一年生が支えてくれたからだけどね」
「ふん」


筒井は感慨深く、彼の後輩達と、たった一年だけ彼が居ることの出来た囲碁部室を眺めた。まもなく彼は卒業していく。
その後もどうか囲碁部が続いてくれますように、と彼は願わずにいられない。




「おい筒井。感傷に浸ってるところ悪いがな」
「何だよ」
「気が付いているかどうか知らんが、オレ達が行く高校な、将棋部はあるが囲碁部はねェぞ」

筒井は目を閉じた。嫌なことを思い出させてくれる。この男は。

「・・・また一から作らなきゃならんとは、おまえも苦労するな」
「・・・・・」

筒井はゆっくりと再び目を開けた。
また一からやりなおし。
いいさ。何度でも作ってやる。そして、また出会おう、素晴らしい仲間と。
彼は握った拳に力をこめた。


白44

四月も半ばの、ある院生研修日のこと。
「カンタンだって、ネット碁なんて」
という和谷の声が、研修会場に入ったヒカルの耳に飛び込んできた。
声のする方へヒカルが目をやると、既に来ていた和谷と小宮が何やら話し込んでいる。


「おはよう」
ヒカルが声をかけると二人が振り返った。
「おはよ。なあ進藤。小宮もネット碁始めるってよ」
と和谷が話を振ってきた。それに対し小宮英二は慌てた様に手を振った。
「カンタンって和谷、オレはパソコンのことなんて何にも知らねーんだぜ。ただイトコが買い換えるんで古いのくれるっていうからさ」

小宮は同じ一組で和谷やヒカルと親しく、昼食もしばしば一緒にとる間柄だ。
前回、プロ試験に合格した和谷が一人暮らしを始めて、若手プロや院生との勉強会を自宅で始めた時も初めからメンバーに入っていた。

「問題ないって。いいか? この進藤でさえ出来るんだ、誰だって出来るさ」
「え、そーなのか進藤? 進藤もネット碁やるんだ。じゃあ大丈夫か」
「そうだろう」
「ちょっと待て。どういう意味だ?」
黙って聞いていれば何を好き勝手なことを言っているのか。
と、ヒカルはストップをかけ、和谷と碁盤を挟んで向かい合わせの席に座った。
今日のヒカルの一局目の相手は和谷なのだ。

しかし和谷は無視して話を続けた。
「機種は?」
「わかんね。とにかく使い方教わったら、やってみるからネット碁のこと教えてくれよ」
「おっけー」
ヒカルですらやっているというのが効いたのかどうか、小宮はとりあえずやってみることに決めたようだ。

「でもネット碁って一般の人向けだろ? 強い人いるのか?」
という小宮の質問に対し、和谷は、「そこそこ居る。プロも時々混じってるしな」と答えた。
そして以前、本名で登録していた一柳棋聖と、まさかの対局をしてのされたエピソードを披露した。


「プロだけじゃないぜ。一ヶ月と少しの間しかいなかったけど、プロより強いと思ったヤツもいたし・・・」
と和谷は懐かしそうに言った。
「プロより強いって・・・プロだろ?」
「皆そう言うんだけど、結局わかんなかったんだよ。ネット碁ファンの間じゃ有名だったんだぜ? オレ去年の夏の世界アマに手伝いで行ったんだけど、その時も‘sai’は誰だって大騒ぎさ」

「サイっていうんだ、そいつ」
「うん」
「そいつの打った碁、和谷は見たか?」
「観戦もしたし、オレも打った。で、のされた」

それを聞いて小宮は笑いだした。
「何だ! オマエ自分が負けたからプロ並みなんて言ってるんだろ」
「ばっ、バカ言うんじゃねェよ、ちげーよ!!」
和谷は顔を赤くして怒鳴った。
「その時の優勝者だって負けてるし、韓国のプロだって負けた人がいるって言ってたんだからな!」
「・・・いや、わかったから。ムキになんなくていいから」
小宮は両手を上げて和谷を諌めた。
むかっ腹をたてて横を向いた和谷は、ヒカルが会話に加わらずに自分達を注視しているのに気が付いた。
「なあ、進藤、そういえばオマエはあの後saiと打ったのか?」

二人の会話を黙って注意深く聞いていたヒカルは、急に話しかけられて、びくっと肩を揺らした。
「あー・・・・っと、そう言えば、オレあの後、一回もネット碁やってないや」
とだけ、おとなしく答えた。

「何だよ、つまんねェな! じゃあオマエは結局saiの碁は見てないんだな」
「う、うん」
佐為の碁はヒカル自身が打ったのだからこれはウソだが、当然ながら白を切った。


「ほらほら、どうなんだよ和谷、本当そいつって強いのかあ?」
ニヤニヤしながら小宮が和谷をつっつく。

和谷はふてくされた顔をして「わかってねェんだよオマエらは」とボヤいた。
その時、ためらいがちにヒカルが口を開いた。

「あのさ、アマ碁大会の後、ホントに和谷はsaiのこと、よく言ってたよ」
和谷は横目でヒカルを見た。ヒカルは少しだけ視線を泳がせながら、ぽそぽそ言葉を続けた。
「オレも他でsaiのことは聞いたし」
「他って?」
「ふ、藤井さんとか」

藤井三段は‘mitani’がネット碁で打ち負かしてしまったプロ棋士だ。
和谷に‘mitani’の正体がヒカルだとバレてから、冴木と一緒に話をしに行ったのだが、確かにその時に‘sai’の話も出た。
藤井自身は打っていないが、確かにすごい打ち手だと思い、観戦は頻繁にしていたのだという。ついでにいうと、内外のプレイヤーからチャットで‘sai’は誰かという問い合わせを随分受けたと言っていた。

「はーん、藤井プロねえ」
その名を聞いて、和谷も当時のことを思い出したようだ。

「ま、他にも色々、話題を振り撒いたヤツがいたよな」
と和谷はヒカルを見てニヤリと笑い、小宮に向き直って言った。
「まあ、とにかくネット碁も結構面白いぜ。試しにやってみろよ。」

「ああ」
と小宮はうなずいた。

小宮が自分の席に行ったところで、ちょうど篠田院生師範が部屋に入ってきた。

皆が自分の席で居住まいを正している。
「始めてください」
篠田の合図を聞いて二人は頭を下げた。
「お願いします」











 その日の対局が終わり、ヒカルが対戦表にハンコを押していると、背後に人が立っている気配がした。
ヒカルが振り返るとやはり同じ一組の奈瀬明日美が対戦表を覗き込んでいた。
「奈瀬、勝ったの?」
「うん」

丈の短い長袖Tシャツにローライズのジーンズパンツと、ラフな格好をした奈瀬は、嬉しそうに微笑んだ。余程良い出来だったと見える。
「一緒に押しとこうか」
「うん」
ヒカルは自分の分に続いて、奈瀬の欄にもハンコを押した。

「すごいね進藤、ほとんど負けなしじゃないの」
奈瀬は対戦表についたヒカルの白丸の列を見て、感心したように言った。
流石のヒカルも全勝ではない。時には新しい手を試してみて失敗することもあるのだ。
「ははは、まあね。奈瀬も二連勝じゃん」

それを聞くと奈瀬は更に笑みを深くした。
「よく訊いてくれたわよ。最近調子悪くってさあ、このままじゃ若獅子戦もやばくなっちゃうと思ってたんで、いい験直しになったわよ」
「良かったな」
「このままバシバシ順位あげるわよー。覚悟しなさい院生一位」
「・・・・・おう」
負けが続けばそれ相応に落ち込むが、勝ちを拾うと途端に元気になるポジティブシンキングの女子高生、奈瀬は調子付くと確かに手強い。油断は禁物である。
「でもオレ負けないぜ」
「私だって負けないわよ」
やはり立ち直っているようである。



 そこにまた別の声がかかった。
「済んだら、どいてくれないか」

越智康介である。
ヒカルより三ヶ月早く院生になり、伊角伸一郎から院生順位一位を奪ったのもつかの間、あっさりヒカルに首位を奪われ、かなりのライバル心を持っているといわれている。今日も当然勝ったようだ。
前回の時の流れではヒカルと同期入段。
確かな棋力とプライド。
このまま順当に行けば、今回もプロ試験を突破するのはコイツだろうとヒカルも思う。

「あ、ごめん。付けとくよ」
「いい。自分で付ける」
「・・・・・・あ、そ」

ヒカルは立ち上がって越智に席を譲った。そのまま奈瀬と一緒に荷物置き場に向かう。
奈瀬がヒカルに耳打ちした。

「越智、相当意識してるわね」
「・・・・・うん」

それはそうだろう。
今のヒカルも気は抜いていられない。自分の力を信じてはいるが、彼とて発展途上の身には違いないのだ。
越智や奈瀬を含めてここに居る院生達、特に一組の上位は皆ライバル。その意識がないと、何が起きてプロ試験を取り落とすか分からない。





「進藤。奈瀬も終わったのか?」
荷物置き場には和谷と伊角が待っていた。
「お待たせ」
「腹減ったな。帰りにマック寄るか?」
伊角の一言に、賛成の声があがり、彼らは部屋を出た。






若獅子戦の日が近づいてきていた。


黒45


「じゃあ、アキラ君は若獅子戦に出るのは初めてなんだね」
「ええ。僕は院生にはならなかったので」


 塔矢行洋名人の研究会の後で、遊びに来ていた後援会長の山根に質問されたアキラは、微笑みながら答えた。
対局や検討を終えて門下生の大方は帰ったが、名人と山根、そして残っていた数人の棋士達で雑談に花が咲く。
 山根は齢七十になったばかり。中肉中背、白髪混じりの品の良い人物だ。
某企業の経営者で、碁も好き、人を育てるのも好きという男で、行洋が若い頃から注目し、後ろ盾になってきた。そして今、行洋がトップ棋士として後継を育てているのを手助けしてもいる。
行洋の一人息子のアキラがプロになるのを心待ちにしていた山根は、四月に入ってプロ生活を始めた彼の様子を見に、足繁く塔矢家を訪れていた。


「もしかすると倉田君と当たるかもしれないな。知ってるかい? 倉田五段」
「はい。この間の免除授与式でお会いしました」
「はっはっはっ! そう、会ったの!? 面白いでしょ? 彼」
「・・・・・・」


 倉田厚五段は若手の最有力棋士として、またその奔放な言動、そして何よりその大食漢ぶりによって知らぬものがない有名人だ。
塔矢アキラと対局したら「面白い」んじゃないかという話は良く振られるので慣れっこである。
プロになった以上、いずれは対局することになるだろう。しかし、
「残念ながら、倉田さんは年齢制限を越えられたそうですよ」
と、いうわけだ。

「え、何、もう二十一なの?」
「オレと同い年なんですよ」
と、これは芦原。
「あ、そう・・・。いや、残念だねえ」
「倉田さんとはまた機会がありますから」

アキラは初対面の時の倉田を思い出しながら答えた。

彼は開口一番
『よっ塔矢! オレ未来の名人の倉田! よろしく!!』
と、現名人の息子に向かって自己紹介をしてきたものだ。
確かに「面白い」人物・・・と言えなくもない。

(もう少しマシな挨拶が出来ないものか)
どうも自分の周りには変わり者が多い気がする・・・と、アキラは自分のことを棚に上げて考えた。
まあ、変人だっていい。心躍る対局が叶う相手なら。
その意味で倉田と若獅子戦で戦えないのは確かに残念だ。



 アキラがそうして考え事に気をそらしたその時、緒方が口を開いた。
「アキラ君は若獅子戦で他に戦いたい相手がいるんだろう?」

「・・・・・」
アキラは少し困ったような顔をして斜め前に座っている緒方を見た。
彼に代わって芦原が答える。
「進藤ヒカル君だろ?」

「進藤ヒカル?」
山根は首をかしげた。頭に手をやり、何かを思い出そうとしているようだ。

「進藤・・・・・進藤・・・・ね。知らないな。何年入段?」
「院生ですよ。進藤君は」
「お」、と声をあげ、山根は手で膝をポンと叩いた。

「院生か。そういえば溝口九段のところの若い人が話してたよ。今年の初めに入ってきた院生でかなり打てる子がいるって」
「それですよ」
芦原はうんうん頷いた。
「何? 友達なの?」

アキラは即答せずに、少し考えてから答えた。
「・・・・・・知り合いです」
「前に中野の碁会所に来たことがあるんですよ」
芦原が注釈を加えた。
「ほう」

「楽しみだろう?」という緒方に、アキラは返答に窮した。
楽しみです。というのは簡単だが、果たして進藤ヒカルが、自分とまともに対局してくれるのかどうか分からないのだ。

二十歳以下の若手プロと院生とで行うトーナメントといっても、院生が勝ちあがれるのはせいぜい三回戦まで。
それでも夏からのプロ試験を占う意味で、年の近いプロと自分の実力差を肌で感じるチャンスに院生は必死で喰らいついていく。

普通であれば、願掛けしているから打たないといっても、それを横に置いて全力を尽くすだろう。
しかし、相手はあの進藤ヒカルだ。
彼が「打たない」と言ったら、本当に「オレはコイツとは打てません」などといって棄権しかねない。



「・・・ええ」
結局、当り障りのない返事をするしかなかった。


「例の子か」
と、それまで黙って皆の会話を聞いていた行洋が口を開いた。

「進藤君は今年のプロ試験を受けるのかね?」
行洋が問い掛けたのはアキラだったが、反応は山根の方が早かった。
「何だ。ユキさんも知ってる子なの?」

ユキさんとは本名の「行洋(ゆきひろ)」の略だ。
「コウヨウ」という音読みを号として使い始めて長いので、最近では号の方で呼ばれる事が多いが、山根は知り合った頃からプライベートな場ではこの名で呼び続けていた。

「会ったことはありませんが、話を聞いていて興味深い子ではありますね」
と答える行洋に山根が言った。
「アキラ君の知り合いだったら、ここの研究会に呼べばいいじゃないの。なあ緒方君」
「そうですね」

それに芦原がうーんと唸った。
「進藤君ってちょっと変わってるから、大人しく来るかなあ?」
「変わってるの?」
「変わってます」
ヒカルが聞いたら『アンタには言われたくない!』と言いそうである。


「進藤は受けると言っていました。だからプロとして彼と打つチャンスはいくらでもありますよ」
「受かればね」
「・・・・・」
(受からないはずはない。自分にあれだけのことを言っていたのだから)とアキラは心の中で呟いた。


「進藤という子がそれ程の打ち手なら、早晩合格して我々プロの所までやってくるでしょう」
行洋は静かに言った。来れないのならそれまでのことである。



 山根は名人の言葉に、「進藤ヒカル」という院生の、プロ試験の経過を見ていようと決めた。
孫の様に思っているアキラのライバルになるかもしれない。この人物は才能ある人間が伸びていく様を見る
のが好きなのだ。

それからしばらくして、本来の用事であった後援会の資料を行洋に手渡すと、山根は帰っていった。







「不思議な子だな。その進藤君とやらは」
山根が帰ると、それまで聞き手にまわっていた笹木七段が言った。

「だってそうだろ? 院性になる前の実績は全然ないっていう話だし、院生になってからまだ数ヶ月だそうじゃないか。なのに、こうしてプロの間で、彼がプロになった後の来るべき対局について話し合っているなんてさ」
「それはまあ・・・」
芦原は言葉を濁した。


緒方は薄く笑いながらアキラをチラっと見た。
「笹木さんは‘sai’というのを聞いたことがありませんか?」
「‘sai’?・・・いや、知らない」
緒方の問いに笹木は首を振った。
「昨年の夏にネット碁界を騒がした、ネット棋士ですよ」
「それが?」

「内外のプロとも対局して負け知らずというので、随分話題になりました。ところで、そのsaiと進藤君の棋風が似ていると・・・・」
「緒方さん!」
「アキラ君は思っている」

アキラは目を閉じた。
あの日、プロ試験をサボってまで対局した‘sai’は、進藤ヒカルと打った初めの二局と同じ感触があった。しかし中学の大会で彼と打った碁は、saiとはまた違う印象であり、結局のところたった三回の対局では、進藤ヒカルとsaiとは関係があると断定することは出来なかった。そしてまた、ヒカル自身も否定している。

確かにヒカルの話の真偽についてはずっと気にしていた。しかしそれは初戦をサボった一件とも繋がっている話だ。何も父が居る席で話題にすることはないではないか。
アキラは目を開けると、気分を害したのを押し隠し、抑えた声で緒方に言った。

「世界アマの会場でsaiが進藤かも知れないと言ったのは思い違いでしたって、あの後言いましたよね」
「ああ」
「進藤がsaiとは無関係だと言っていたという話もしましたよね」
「聞いたよ」
「じゃあ、・・・・・関係ないんでしょう」

緒方は、ふふんと笑い、胸ポケットの煙草に手を伸ばしたが、途中で手を止めた。
この研究会は、来客時以外禁煙なのだ。彼は手を膝に戻した。

緒方はそれ以上、声を出してアキラを追及することはしなかったが、目で問い掛けていた。
(君は、それを信じたのか?)と。
そしてアキラもまたそれに沈黙で応えた。

緒方は知っている。
あれから、アキラが彼とsaiとのネット対局の碁を何度となく並べていることを。
また、進藤ヒカルとの三度に及ぶ対局も。


「・・・・・若獅子戦の進藤君を見に行こうかと思っている」
「え?」
緒方の言葉に、名人以外の三人が声を上げた。

「saiは確かに魅力的な打ち手だった。それでは進藤君はどうなのか自分の目で確かめてみようと思ってね」

「・・・すごい」と芦原が口の中でつぶやく。

「ネット碁の進藤の登録名は別ですよ。彼の友達もsaiとは無関係だと」
なおも言い募るアキラに緒方は「いいんだよ、そんなことは」とあっさり受け流した。

たまたま同時期に目を引く棋士が二人出てきた。アキラはその二人に繋がりがあるのではないかと、何故か思っているらしい。
その執着振りが面白くてずっと見物を決め込んできたが、その内の一人が「表」に出てこようとしているなら、それを見てみたい。それだけだ。
進藤だろうが、saiだろうが、将来プロとして目の前に現れる者にしか興味はない。


「先生も進藤君とsaiの碁はご存知なんですよね」
緒方は行洋に話し掛けた。

行洋は、中学の大会でアキラとヒカルが対局した時の碁の内容は知っているが、saiの碁は知らない。
アキラがプロ試験初戦をサボった時、事情は聞いたが並べさせるところまではしていないのだ。
「ネット碁にはあまり興味がなくてね」
行洋はそっけなく答えた。

「まあ、そうでしょうね。パソコンで碁を打たれる先生はちょっと想像がつかないなあ」
笹木はその場を取り持つように明るく言った。


「緒方さんが行くならオレも行こうかな。応援するぜアキラ」
「芦原君、来週の名人戦二次予選は鯨井八段だろ、そんなヒマあるの?」
「うっ」
笹木の一声に芦原は胸を押えるマネをした。
「・・・そうでした。じゃあ、応援は緒方さんにお任せします。がんばれよアキラ」
「・・・・・はい」





そのやりとりを視界の隅に入れながら行洋は腕を組み直した。
何かが始まろうとしている。そんな予感がした。

 

白46

そして若獅子戦当日の日本棋院。
塔矢アキラが会場に入っていくと、真っ先に進藤ヒカルが目に入った。
今日の初戦で対局するのはプロ十六名と院生十六名の合わせて三十二名に過ぎないが、観戦者、スタッフ、記者などで、会場にはかなりの人数が集まってきていた。
その中でも、ヒカルの金色の前髪は良く目立つ。

(来たか・・・)
アキラはホッとして息を吐いた。
もしかすると、すっぽかすのではないかと危惧していたのだ。
院生達と一緒に居たヒカルの方も彼に気付いたようで、遠くから「よう」と挨拶するように右手を上げた。アキラも頷いてそれに答える。
それで充分だった。アキラはそのままヒカルと言葉を交わすことなく、プロ達が集まっている方へ歩いていき、先輩達に挨拶して回った。



 今日のトーナメント戦でヒカルとアキラは早くも二回戦で当たることになっている。
それが事実上の決勝戦になる、と思う程にはプロになってからの経験がないアキラだが、本気の勝負ともなれば、それに近いものになるはずだと思う。
実のところ一度も進藤ヒカルに勝ったことがないアキラは「今日こそ進藤に勝つ!」と思い定めてやって来たのだ。プロを含め他の参加者達には目もくれなかった。


だが、アキラ自身は今日の参加者達から注視されていた。
プロになりたての彼だが、その実力は噂に違わないということが知れ渡った結果と言える。
現在院生一位のヒカルも注目されていたが、そこはプロとそうでない者との差というもので、他の院生達に紛れてしまっていた。

アキラは談笑しているヒカルを見た。緊張も気負いも全く見られない。
自分はやはり相手にされていないのだろうか。それとも・・・。




「塔矢アキラがオレを見てる・・・」
ヒカルの隣に立っていた本田敏則が、半ばひきつりながらつぶやいた。

今日、アキラとの第一戦に臨むのは本田である。
分の悪い相手ではがあるが、この際、全力で当たるより他にない。
しかし、何故あの塔矢が自分を睨みつけているのだろうか。
プロテストで散々やっつけたはずの自分を・・・。

しかし周りの院生は(見てるのは本田さんじゃなくて進藤だと思うけど・・・)と、無情にもあっさり結論づけた。
本田は自分のことで一杯一杯なのだろう。
指摘するのもめんどうなので、皆、口々に励ましてみた。

「がんばりましょう、本田さん」
「お、おう。そうだな」
本田が右手をぐーにして頷いた所で、開始のアナウンスがあった。

「ただいまより第九回若獅子戦を開催します」



そして、各人に、一回戦の席が割り振られる。
ヒカルの相手はプロの村上信一二段。
前回の筋書きでは負けた相手だ。
しかしプロになった後、再戦した大手合では雪辱している。

「進藤、村上ニ段なんて眼中にないんだろ」
和谷がヒカルに耳打ちしてきたが、ヒカルは
「・・・・・どうかな」
と短く答えるに留めた。




 対局者がそれぞれ着席し、それを十七位以下の院生をはじめとする観戦者達が取り囲む。
そして「始めて下さい」の合図とともに対局が始まった。

第一戦は必ず院生対プロ。そして院生が黒を持つのが若獅子戦の決まりだ。
対局前の挨拶の後、ヒカルも黒石を取り上げ、初手を打った。
対局時計を押すと、すばやく村上二段の様子を伺う。

村上が二手目を打つと、ヒカルは盤上を見て、自分に何かを納得させるように小さく頷いた。





 この日は取材のため、「週刊碁」の記者、天野も会場を訪れていた。
天野は現在四十五歳のベテラン記者だ。気さくな人柄、公平な記事の書きぶりで高段者達からの信頼も厚く、インタビューを受けるときに天野を指名する棋士も多い。

今日は若獅子戦の取材で来たのだが、特に塔矢アキラ初段に注目していた。
プロになる前はプロを目指している名人の息子として。そしてプロ試験合格後は新初段シリーズ、そして今は順調に勝ち星をあげ続ける囲碁界期待の星として、天野はアキラの取材を一手に引き受けていた。もし、彼が今日優勝するとすればこれまでの取材記録から記事の扱い方も変わってくるだろう。

しかし、今日はもう一人、取材をしたい人物がいた。
プロではない。院生の進藤ヒカルだ。

囲碁を始めて、まだ一年半。院生になるまでの実績はなく、森下九段の研究会に通っている以外に決まった師匠はなし。というのは関係者の間では既に有名な話だ。
にもかかわらず、今年の一月期に院生になって、ほぼ負けなしで順位を上げ、現在は院生一位が定位置になっているという彼の生い立ちや、プロ試験、そしてプロ後の抱負などを聞いておきたい。取材は遅かった位だ。
しかも今日の二回戦は塔矢アキラとの対局が予定されている。
結果によっては同い年の二人に一緒に話を聞いてみようか、などと天野は考えていた。



 天野が会場の隅で、一緒に来ていたカメラマンと出場棋士のスナップ写真の相談をしていた時、会場に入ってきた人影に気が付いた。

「おい、緒方九段だ。」
「ですね」


緒方は先日、塔矢名人の研究会で話していた通りに会場にやって来た。
誰かを探すように場内を見渡すと、ゆっくりと歩き出す。
やがて、あるテーブルの前で足を止めた。


「・・・・・進藤君と村上二段のテーブルだ。てっきり塔矢アキラを見に来たと思ったのに・・・。どういうつながりなんだ?」

どういうつながりも何も、緒方はヒカルを見るのはこれが初めてだ。
会った事はなくとも、芦原から色々話を聞いていたので、ネームプレートを確認するまでもなく、見つけるのは容易だった。
先程と同様、やはり目立つ頭は探すのに便利なようである。


 前回の時間の流れでは、ヒカルは院生十六位で出場したこともあって、全く注目されていなかったが、流石に院生一位ともなると、彼らのテーブルの周りには院生が数人集まって観戦していた。彼らは緒方の姿を見るやいなや、頭を下げて見やすい場所を譲った。


空気が急に動いたのを不審に思ったヒカルが、顔をあげて横を見ると、もろに緒方と目が合ってしまった。

「わっ」

驚いて思わず声を上げてしまい、あわてて自分の口を塞いだ。そして、肩をすくめるように小さく頭を下げた。


緒方は前回もこの会場でヒカルの対局を観戦していたが、その時のヒカルは対局に非常に集中していたため、全く気が付いていなかったのだ。もちろんその後にアキラが観戦していたことも知らない。

緒方に対して、若干の苦手意識があるヒカルが気持ちを落ち着けようと手を握りこんだ時、村上が石を置いた。
ヒカルは改めて盤上を確認し、そして次の手を打った。






 その後、対局は順調に進んでいったが、緒方が予想したような展開にはなっていないようだった。

「・・・・・」

進藤ヒカルが打つのを見ていて、他の院生達とそうレベルが違うとは思えない。
結論を出すのは早いが、塔矢アキラがライバル視するだけの力量をこの碁からは感じることが出来なかった。

中学の大会で塔矢アキラと打ったという一局。
高段者の対局と遜色ないその碁を見た時と、今の違いはどうだ。
一年間で下手になった、とは考えにくい。とすれば、一年前の碁はまぐれか。
たまたま生まれた名勝負だったのだろうか。


不機嫌そうな顔で、しかもたいして時間も使わずに打っていたヒカルだが、ある時、自分の手番で黒石を取り上げると、チラっと緒方の方を盗み見た。

(何だ?)
と緒方が思う間もなく、ヒカルはその石を上辺の白模様の中、8の四に打ち込んだ。

周りの観戦者の何人かが顔を見交わすのが目に入った。
ヒカルの表情は動かない。


(・・・・・それはうまくないだろう)

案の定、村上は即座に白8の三にツケてきた。

それで、黒がこの白模様に地を作るのは難しくなった。
打ち込んだ黒に得はなく、却って白地が強化されてしまったのだ。



つまり悪手である。

 

黒47

今日の若獅子戦、やはり注目度の高い棋士のテーブルは観戦者が多い。例えば若くとも知名度の高い人気棋士。
そして、一般には知られていなくても、知る人ぞ知る因縁の対局だ。
伊角伸一郎と、プロ初段の真柴充の組み合わせが、それと言えた。


 真柴は塔矢アキラ、辻岡忠男と共に今年プロになったばかり。昨年までは院生であった。
彼が院生だった頃、院生でプロの最有力候補と言われていたのは伊角伸一郎。
真柴は一組の上位ではあったが、それ程注目されていた訳ではない。

試験は水物という。昨年のプロ試験において、塔矢アキラが初戦の一敗のみでプロ入りを決めた他は、三敗組の争いになった。そこで三敗で踏みとどまったのが真柴と辻岡。伊角はあと一歩のところで大事な一局を落としてしまった。

それ自体は良くある話だ。
自分の実力以上の力を出しきって、上位者を押えて合格することもある。そこまではいい。
しかし、真柴は何を思ったか、自分が受かったのが意外だと言われ続けたのが気にいらなかったのか、今日の若獅子戦の前に、背広姿でやって来て伊角にこう言ったのだ。

「さっさとプロ側に来て下さいよ。プロになると院生の時のあのイヤな切羽詰まったカンジがなくなって伸び伸び打てるんです。プロはいいですよぉ」

それにカチンと来たのは伊角よりも寧ろ周りの院生達だ。
「何だ今の言い草!」
「プロになったと思って威張りだしてカンジ悪りィ」
「わざわざ、背広着てきちゃってさ、立場違うってアピールしたいのかよ」

皆でひとしきり悪口を言ってから
「勝って下さい、伊角さん!!」
と、伊角にお願いする有様であった。

それを見て越智は
「・・・・・人のことより自分のことだよ」
と言ったものだが、確かに人のことを心配している場合ではないだろう。



 そういう訳で、伊角対真柴のカードは、意外にも会場内で観戦者が最も多いテーブルとなった。
観戦者の殆どが院生という真柴にとっては気分の良くない対局環境になったが、これは自業自得であろう。
しかも真柴は「プロの自分が院生の伊角さんに負けたらカッコ悪いからリキが入る」などと口にして、更に周囲の院生の怒りを買う始末であった。


次に多いのは塔矢アキラ対本田敏則。これは塔矢の実力を測りに来たプロの観戦者達でテーブルの周りは埋まった。

ヒカルと村上二段のテーブルはその次だが、前出の二局以外は、観戦者もほぼバラけた印象だ。



対局は進む。






 先程、悪手を打ったはずのヒカルは、無表情で淡々と対局を進めていた。
早碁が好きなタイプらしい、と緒方は見た。ヒカルは持ち時間を殆ど使っていない。
それにつられたのか、村上の打つ手も早い。

そうして、しばらく盤上を見ていた緒方はあることに気が付いた。
村上の手も止まる。

「・・・・・」
先程悪手と見た黒8の四。
打った時点では確かに失着だったはずが、その後の展開で村上はその一手の為に何手も打たされ、しかも上辺と中央の白が上手く連絡出来なくなっていた。
黒が白を誘い込んだ結果、悪手が好手に化けたという訳だ。

(まさか、初めからこれを狙っていたのか?)
そうだとしたら、たいしたものだ、と思う。
その手を打つ前に自分に向けられたヒカルの視線を緒方は思い出した。


「くっ・・・」
村上は額に汗を滲ませ、ジャケットを脱いだ。それをテーブルの脇に置くと、座りなおして盤上に視線を向け、改めて挽回する手を探し始めた。



 その後も相変わらずヒカルは、持ち時間を使わず、たいして考えている風でもなく、碁を進めていった。
しかし、反対に村上は時間をかなり使って打つようになっていたので、彼らの碁がヨセに入る前に、他のテーブルの対局は次第に終わっていった。同時に残った対局の観戦者は増えていく。


越智康介も自分の対局を終わらせると、進藤ヒカルのテーブルに向かった。

院生がプロに勝つことは難しい。
だがこの大会でプロの上を行くことを自分に課している越智は、まず一勝を収め、目下最大のライバルであるヒカルの対局の行方を見に行くことにしたのだ。
そしてテーブルの近くまで行くと、そこにいた緒方をみて瞠目した。


(何故、緒方九段が?)

確かに進藤ヒカルは院生の有望株かもしれないが、リーグ入りしている九段棋士がわざわぜ見に来るとはいかにも不自然だ。村上二段を見に来たのだろうか?
それなら、同門で師匠の息子である塔矢アキラの対局を見ている方が余程納得できる。
一体これはどういうことなのか。

「ちょっとゴメン」
と、他の観戦者を押しのけて、前に出た越智は盤上を見た。

「・・・・・・・」

(見慣れない石の並び。どういう手順だ?)
と、越智が思った時、ヒカルが自分の方を見た。すぐに視線を盤上に戻す。

(・・・おかしい)

進藤ヒカルの対局時の集中力は、越智も一目置くほどのものだ。
院生研修の時、大地震がきても火事に遭っても気が付かないのではないかと皆にからかわれたこともある。
その進藤が、ギャラリーが動いたくらいで気を逸らすのか?





 対するヒカルは
(越智まで見に来たのか)
と心の中で肩を落とした。

前回の、つまり本番時は必死だったので周りのことを気にする余裕はなかったのだが、こんなにギャラリーはいなかったと思う。
(やっぱり、色々変わってきてる・・・・・)

最近、どう考えても前回と違う展開で物事が進むことが増えてきている。
自分自身が遠慮なく打っているのだから仕方がないとも言えるのだが、だからといって真剣に打つ機会がなければ、勉強も進歩もあったものではない。
碁の最大の勉強とは「打つ」ことに尽きるのだ。

そのために、多少のズレは目をつぶろう、と思ってずっとやってきたのだが・・・。

だが若獅子戦は公式の記録が残る。影響度もこれまでとは違うだろう。
ここで思いきり優勝狙いで戦って、後でどんなズレが出るか分からない以上、くやしいが前回通りの碁を打って負けることにヒカルは決めていた。
もし村上が前回と違う手を打ってきたら、その時はキッパリ実力を出し切ろうと思ったが、そうはならなかったのだ。


(塔矢は怒るだろうな)
願掛けのためにワザと負けたとアキラは誤解するだろう。
自分のせいだが、気分は良くない。
そういう訳で、そのうちアキラがこの対局を見に来るのではないかと、周りが気になっていたのである。

ヒカルは盤上に視線を戻して思った。
(・・・まだ、勝てる)
まだ、互角。
前回はそこからヨセで押されまくって、負けたのだ。

(オレが、ヨセを間違えなければ・・・・・)


ヒカルは左手の人差し指を噛んだ。その手に扇子はない。

初めての長考に観戦者達は固唾を飲んで見守っている。




 その時だった。少し離れた場所で椅子が倒れる大きな音がした。
同時に誰かの怒号。
「コノヤロオッ!!」
「和谷!!」
碁笥がテーブルから落ち、石が床にバラバラッと音を立てて散らばった。

会場内の人々の注意が騒ぎの方に向けられる。
回りに立つ観戦者の数人がそちらに向かったおかげで、ヒカルにも観戦者の立つ隙間からその様子が見えた。

和谷が真柴に馬乗りになって殴りつけていた。それを篠田院生師範が羽交い絞めにして止めている。

(何やってんだアイツ)
ヒカルはあっけにとられてその様子を見ていた。
(そうか、そういえば前ん時も、和谷が何かやらかしたんだった)

対局で忙しく、取っ組み合いの現場は見ていないが、後で和谷が院生師範にコッテリ絞られたのは記憶にある。
確か、真柴が伊角に負けて、悔し紛れに『プロ試験に受からなきゃ、こんなところで勝っても意味はない』というようなことを言ったのだとか。


何故そんなことを言ったのやら。
プロになった真柴は真柴なりに焦りでもあるのだろうか。

後年、伊角がプロ試験に合格した時、真柴は
『プロに来たら上がってくのはえーだろーな・・・実力あるからあの人』
と言っていたのをヒカルは聞いている。


しかし、焦りがあろうが、結果を出せなかろうが、とにかく真柴はプロになった。
少なくともプロ棋士としてのスタートは切れたのである。

そうだ。とにかく重要なのはプロ試験であって、今日は目をつぶった方がいいのだ。

(若獅子戦だって勝ちたいけどな・・・)


そこまで考えて、ヒカルはまた和谷達の方へ目を向けたが、今度は観戦者に視線が遮られた。そのまま顔を上に上げる。

(・・・・・・)


塔矢アキラの顔がそこにあった。そして目が合ってしまった。
「・・・・・」
(・・・・・・やっぱり来ちゃったか)
そそくさとヒカルは視線を盤上に戻した。




 さて、第一戦の対局はあらかた終了し、もはや残った対局は数組だけとなっていた。
ヒカルと村上の対局はその後も続く。
残り時間が少なくなったためか、今度は村上二段の手も早い。

アキラはヒカルらしからぬ甘いヨセを不審に思った。
(ヨセだけじゃない・・・)
全体的に碁のレベルが低い気がする。しかしそれでいて石の並び方が良く分からない。

このままだとヒカルは負ける。
(何があったんだ?)
アキラは初めの方から観ていたらしい緒方に問い掛けるような視線を向けたが、緒方は盤上を見るばかりであった。

 そうして対局をしばらく見ていたアキラはふいに違和感を覚えた。
(あの時と同じだ)

あくまで真面目に、迷いなく、深く考えている風でもなく、ただひたすら決められた場所に石を置く。



(まるで棋譜並べ)

アキラはヒカルと出会ったばかりのころに打った二局を思い出していた。
あの、神の一手をさえ思わせた対局で、ヒカルはこのような打ち方をしていたのだ。
あの時は全力で挑む自分が、真剣に相手にもされないのかと、ショックを受けたものだ。

今日、進藤ヒカルは同じような打ち方をしている。
そして、恐らくは負けようとしているのだ。

(何のために? まさか僕と打つのを避けるためか)

この打ち方の謎は解けないが、とにかく「今は塔矢とは打てない」とヒカルは言っていた。願掛けのために。
聞いてはいても不愉快だ。
何の願掛けだというのだ。打ちたい相手と戦わずに何が棋士か!

アキラは踵を返して、観戦者達の輪から離れていった。
緒方九段も、程なくテーブルを後にする。







「ありません」
さびしげなヒカルの声を皆が聞いたのはそれから数分後のことである。