LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白40〜白42



白40

「あっれえ? 進藤君じゃないか」
日本棋院の一階ロビーに響いた声にヒカルは驚いて振り向いた。

「・・・芦原さん」
ヒカルを見つけた芦原は嬉しそうに近寄ってきた。
出版部に書類を届けにきただけという彼は、ヒカルが見慣れたスーツではなく、カジュアルな黒のジャケットにデニムパンツ姿で、そういう格好をしていると彼もまだまだ若いということがわかる。
「今日はどうしたの? 森下先生の研究会の日じゃないだろ?」

今日は平成十二年最初の院生研修日である。
先日、院生試験に(あっさり)合格したヒカルは、この日、院生として初めて棋院にやって来たのだった。
「うん、オレ今日から院生なんで」

ヒカルの言葉に芦原は意外そうな顔をした。
「・・・・・進藤君、院生になったの?」
「・・・・・何で? おかしい?」
「いや、そんなことはないけどさ。ちょっと意外な気がしただけ」
(何で意外なんだ? 自分だって院生出身じゃないか)
と、ヒカルは思ったが、芦原がひっかかっている理由は別のところにあるようだ。

芦原は更に訊いてきた。
「アキラは、この事知ってるの?」
「何で? 知るわけないよ。だってアイツには関係ないじゃん」
「ええ? 関係ないの?」
「・・・・・・ない・・・よ? 何で?」
「だって、友達だろ?」
「・・・・・」

(塔矢って友達か?)
そう言われれば、そういう気もするが、何か違うような気もする。いや、多分違う。

「いいや、違うね。塔矢は友達じゃなくて、ライバル」

ヒカルは声を大にして言い切った。
芦原は、それを聞いて困ったように頭を掻いた。
「友達じゃないのか・・・・・。ううう、ライバルで友達っていうのでいいんじゃないの?」
(何言ってんだ? この人?)

「ライバル、だよ」
ヒカルは念を押した。

「・・・・・そっか」
芦原は肩を落とした。
アキラに同い年の友達が出来たと思って喜んでいたが、そういうわけでもないらしい。同い年のライバル。今はそれで良しとする他なさそうだ。

二人が話している間、院生らしい子供達が彼らをチラチラ眺めながら通り過ぎていく。

「・・・・・」
芦原はヒカルの少し不機嫌そうな顔を眺めた。
「進藤君は今年プロ試験を受けるんだよな」
「去年アイツ合格したからね。今年はオレが合格する約束だから」
そう。ヒカルとの約束を守って、塔矢アキラはプロ試験において初戦を除く全ての対局を全勝し、入段を決めていた。
間もなくお披露目の新初段シリーズで座間王座と対局することになっている。



芦原は小さく溜息をつくと、ヒカルの肩をたたいた。
「まあがんばれよ。君には色々期待してるんだからな」

「・・・・・・あー・・はい。どうも」

ヒカルのあいまいな返事を聞いて、芦原は「じゃね」と声をかけ、玄関から出て行った。

(変なの)








「聞いて!! 聞いて聞いて!」
日本棋院六階。エレベーターから降りた一人の院生が、研修の為に集まってきていた子供達の中に走り寄って叫んだ。


「さっき、一階で知らない子がプロの人とオソロシイ話をしてた!」

「恐ろしい話って?」
集まっていた中の一人、本田敏則は、その院生に問いただした。
「自分は塔矢アキラのライバルだって言ってた!」
「はあっ?!」

その場にいる者全てが一瞬絶句した。そこにいる何人かは昨年のプロ試験で塔矢アキラと対局している。もちろん全員負けてここにいるわけだ。

「塔矢アキラのライバルだ・・・?」

「伊角さん、それって、この前、伊角さんと和谷が言ってた・・・」
本田は横に立っていた伊角と顔を見合わせた。伊角も頷く。
「・・・・・アイツだろうな」





 やがて、エレベーターが再び止まり、金髪メッシュ頭の非常に目立つ少年が降りてきた。

「おはよう」
進藤ヒカルが声をかけると、その場に居た子供達は一斉に彼に注目した。

気まずい雰囲気を解こうと、努めて明るく、伊角はヒカルに声をかけた。
「おはよう、進藤」
「伊角さん、よろしく。みんなも」
ヒカルはそれを受けて、愛想良く挨拶した。
そして、伊角の隣に立つ本田に気が付くと、更に嬉しそうにニッと笑った。
今回は初対面だが、前回ヒカルは本田とも親しかったのだ。



「進藤、ちょっと」
伊角はヒカルを廊下の角に連れて行った。
それで他の院生は研修会場へ向かったが、本田は二人の後ろについて行った。



「進藤・・・一階で誰かと話してたか?」
「ああ、塔矢門下の芦原さんだよ」
「・・・・また、芦原先生か・・・」
伊角はボソっと呟いた。

「あの人変な人だよなあ。オレのことなんて、たいして知らないはずなのに何をどうオレに期待するっていうんだろ?」

「きっ期待・・・・・?」
後ろで聞いていた本田は思わず声を上げた。
院生初日に、同門でもないプロの先生から声をかけられて「期待している」と言われる。
それは、どう考えても尋常ではないように思われた。

伊角は頭痛がするというように頭を押えた。
「伊角さん、どうしたの?」
「いや、何でもない・・・」

本田は、ちょっと引いて、薄気味悪そうにヒカルを見た。
(何なんだよ、コイツは!?)






 そして院生の研修会場、洗心の間。
ヒカルが部屋に入っていくと、彼を遠巻きにしてヒソヒソ声が聞こえてくる。

(アイツ? 塔矢アキラのライバルって)
(多分そうだよ。院生試験の後、和谷と伊角さんがその話してるの見たもん)
(さっき、玄関の前で自分でそう言ってたって聞いた)
(マジで? 本当にそんなに強いのかよ)
(言うのは勝手さ)
(何処の門下?)



(聞こえてるんだって)
ヒカルは苦笑しながら、部屋を見回した。
森下九段の研究会と場所は同じだが、いるのは子供達ばかりで雰囲気が全然違う。
周りの反応を余所に、彼は久しぶりに会う仲間の少し幼い顔を見て、一人で懐かしがったりしていた。


そんな自然体のヒカルの姿を見て、院生も四年目になる飯島良は顔をしかめた。
「次から次へと邪魔者がやって来やがる・・・」
すると丁度やって来た越智康介はすれ違いざまに
「ココに来なくったって、プロ試験で当たるんだから関係ないよ。それより、ライバルの手の内が分かる方がいいじゃないか」
と言って、そのまま自分の席に向かった。

「ちっ」
飯島は顔をしかめてその後姿を睨みつけた。




 ヒカルが部屋の奥の方に目をやると和谷が手を振っていた。

「よう、やっと来たな」
「来たよっ」
ヒカルが和谷の方に来ると、和谷はゴツっと彼の頭をこずいた。
「聞いたぜ。オマエ、下で芦原先生と良からぬ話をしてたんだってな」
「・・・・・確かに会ったけどさ、何だよ良からぬ話って」
「塔矢アキラと何とかって」
「しょうがないだろ、ホントにライバルなんだから」
「・・・・・・オマエな」

和谷の突っ込みに答えず、そんな当然のことはどうでもいいと言わんばかりのヒカルは、
「ええっと、オレの席はっと・・・」
と、もらった対戦表を見て自分の席を探し始めた。

「二組のドンジリからスタートなんだからな、オマエの席あっち」
和谷はそう言ってシッシッと手を振った。
この当時、院生は二組制で、席も二つに分かれていた。

「・・・分かってるよ。まあ、すぐこっちに来るけどね」
「かわいくねーっ」
和谷は立ち上がって
「おい、オマエら、新入りに負けんじゃねェぞ!」
と二組席に向かってはっぱをかけた。

(多分ムリだろうがな)

和谷は出会った始めのうちこそ院生になるのを勧めていたが、最近では、そもそも進藤ヒカルに院生研修など必要あるのか疑問を抱いていて、院生試験の前には本人にもそう言っていた。
それに対して、ヒカルは「場慣れしたいんだよね」などと分かったような分からないような言い訳をしていたものだ。



 ヒカルが二組席に来ると、対局相手の少女が「場所ここだから」と教えてくれた。
ヒカルが自分の席につくと、間もなく院生師範の篠田がやって来て彼を皆に紹介し、そして、対局が始まった・・・。








「ありません」
まもなく、ヒカルの前に座った先ほどの少女の声が部屋に響いた。

(早っ!!)
(瞬殺だな)
(やっぱり塔矢アキラのライバル・・・)

対局場にヒソヒソ声が広がった。それに対して「静かにしなさい」と篠田の声が飛ぶ。


それで再び碁石の音以外は聞こえなくなったが、
院生師範に聞こえないように、飯島は対局相手の和谷にコソっと囁いた。
「和谷は今日入ってきた奴と親しいんだって?」
和谷は上目使いに飯島をチラと見た。
「・・・・・」
「アイツそんなに強いの?」
「・・・・・打ってみりゃ分かるさ」
和谷はそっけなく答えた。
「・・・・・」
飯島はどうにも、新入りが気になっていた。
彼自身、この数ヶ月で席次を落とし続けていて焦っているのだ。
(そんなことより、自分の対局に集中しろよ)
と和谷は思わずにいられない。


(ほら見ろ、勝負あったぜ)
盤上を見て、和谷は思った。
飯島も自分のヨミ違いに気がついたようだ。間もなく投了を宣言してきた。

「・・・・・ありません」
「ありがとうございました」
気を他所に向けて負けて「バカだオレ」と飯島はしきりに悔しがった。
そんな飯島を見て、和谷は一つだけ忠告してやろうと声をかけた。
「いいこと教えてやるよ」
「何?」
「進藤な。アイツを気にするとバカを見る」
盤の上を指差しながら、あれこれ他の手を検討していた飯島は顔を上げた。
「・・・・それ、どういう意味?」
「そのうち分かる」

進藤ヒカルは、碁を始めてまだ(自称)一年程だが、プロ並に強く、言動は意味不明。
いちいち、気にしていたら付き合っていけないのである。

飯島は顔をしかめて、再び進藤ヒカルの方を振り返った。
もう、とっくに盤を片付けて、他の院生と雑談しているのが目に入る。

そして、その二人の会話をたまたま隣で聞いていた越智もチラと噂の新入りの方を見てフンと鼻を鳴らしたのだった。






 しばらくして二局目が始まったが、先程と同じように、やたらと早く進藤ヒカルの組は対局を終えた。
全く容赦する気がないらしい。


「アイツはやっぱり大人げねェ」
と、和谷は小さく呟いた。

黒41

その後も進藤ヒカルは連勝に連勝を重ね、着実に院生順位を上げていった。
そして、真偽はともかく、彼が塔矢アキラとライバルだということに対して、誰も揶揄する者がいなくなった頃、それは起きた。



 その日、院生研修のために棋院に現われたヒカルは、めずらしく緊張しているように見えた。
自分の席に座った後も、誰かを待つように辺りを見渡したり、話し掛けられても上の空だったりで、明らかに浮ついている。
午前の対局者は(もしかして、これってチャンス?)と思った程だ。
もっともそれがヒカルの碁に影響することは全くなかったのだが・・・。

そして、午前の対局があらかた終わってそろそろ昼休みという頃、ヒカルと昼食の相談していた和谷が「それ」に気が付いた。



「・・・・・・塔矢アキラだ」
「えっ」
ヒカルがあわてて研修会場の入り口の方を見ると、確かに塔矢アキラが立っていた。
誰かを探すように、部屋の中を見回している。



ヒカルの顔に思わず笑みが浮かんだ。
(チェックポイント一個クリア!)

前回も塔矢アキラは、進藤ヒカルが院生になったのを確かめるため、研修会場を覗きに来たことがあるのだ。
そして、ヒカルを確認するとそのまま立ち去って行った。
時間の流れが変わってきてしまったのではないかと心配して、今朝からそわそわしていたヒカルは、予定通りアキラが顔を見せたことで胸を撫で下ろした。


アキラはさりげなさを装い、遠い目であちこちを見ている。

(オレを見に来たくせに、関係ない顔しちゃって、かわいくねェよなあ)
ヒカルの顔が思わず緩む。
(でも良かった。そんなに歴史は変わってないんだな。ちゃんと塔矢来たし)


アキラはついに進藤ヒカルを見つけたようだ。
こちらを向いてムッした顔をしている。

(そうそう、それでオマエはそのまま、すまして帰っちゃうんだよ)
と、ヒカルはニヤニヤしながら考えた。


しかし、塔矢アキラはそのままヒカルを睨みつけている。

「・・・・・・え?」
何故か胸騒ぎがした。


「おい、アイツこっち睨んでるぜ?」
「・・・・・そう思う? やっぱり」
和谷の問いかけにヒカルは半ばひきつった声で答えた。

(何でアイツ帰らないんだ? おかしいじゃないか。スケジュールと合わねェぞ)

ヒカルを睨んだまま、塔矢アキラは、ゆっくりと、かつ、真っ直ぐ、脇目も振らずにこちらの方に歩いてくる。

「こっちくるぞ」
「・・・・・・」

激しく逃げたい気分でヒカルはアキラを待ち受けた。顔はさっきのニヤニヤ顔がそのまま凍ったように張り付いている。冷汗が一筋、こめかみに流れた。
「・・・・・・」


そしてアキラはヒカルの目の前に立った。
明らかに怒っている。険しい表情でしばらくヒカルを睨みすえていたが、何か言おうと息を大きく吸い込んだ。
「ふ」

その瞬間、ヒカルは悟った。
(来る! 「アレ」が!!)
と、とっさに耳を塞いだ。



「ふざけるなあああああああああああっっっっっ!!!!!!!」
















「・・・・・・・・・」


 爆音が古い日本棋院のビルに響き渡り、揺らした・・・・かのように、その場にいた院生達には思われた。

彼らは一様に黙り込み、爆音、もとい、騒音の元凶に注目した。


ヒカルはようやく耳から手を離し、アキラを見た。
肺の全ての空気を怒声に換えたために、肩から息をしている。

(うおお、懐かしい。久しぶりに聞いたぜ)
と、ヒカルは本題は横に置いておいて、のん気にも懐かしく思った。
(前はよく、こうやって何だかんだと怒鳴られてたもんだ)


 しかし、周囲の者達はこの闖入者を不快に思ったようだ。
次第に部屋の中が騒がしくなっていった。
もう、対局している者もいない。
ヒカルとアキラの様子を見ようと、皆が遠巻きにだが近寄って来た。


ヒカルの横にいた和谷が最初に動いた。
「何だよオマエ! 研修部屋に勝手に入ってきて何、怒鳴ってるんだよ!」
と、和谷は怒気のこもった声を出したが、アキラは気にも留めず、変わらずヒカルだけを睨んでいる。

「おいっ。何とか言えよ!」
無視されて、頭に来た和谷の手がアキラの肩に伸びるのをヒカルはとっさに腕を上げて押えた。

「わ、和谷、ストップ! ちょっと待ってよ」
「離せよ、進藤。前からコイツには言ってやりたかったんだ」

しかし、アキラは全く和谷の言葉を無視してヒカルに向かい、押し殺した声で言った。

「どういうつもりだ、進藤。何で院生なんだ? 君がやらなければならないことって、まさか「これ」だなんて言わないだろうな」


「塔矢・・・」
「答えろ進藤!」
ヒカルの喉がぐぐっと詰まる。

ついに、その場に居た院生達がヒカルと和谷、そしてアキラを取り囲むようにして事態を見守る格好になった。
(何でこうなるんだよ・・・)
と、弱りきったヒカルが逃げ道を探して周囲を見回した時、


「ちょっとそこ通してくれ」
と、事態の収拾を図るべく伊角が割って入ってきた。

「塔矢君、揉め事なら他所でやってくれないか?・・・・・進藤、彼を連れ出せ。先生が来る前に。早く」
「・・・う、うん」

ヒカルは助かったとばかりにアキラの肩を掴むと「塔矢こっち」と、出口の方に引っ張っていった。






 彼らの姿が見えなくなると、和谷は伊角に食ってかかった。
「伊角さん! 何で止めたんだよ」
「ここで騒ぎを起こして何かいい事があるか?」
「アイツ、絶対オレ達のことバカにしてるんだぜ?」
「・・・・・」


「確かにあれって、院生なんか〜ってニュアンスだったよな」
と飯島がぼやいた。
「感じ悪い・・・」
「プロ試験受かったから?」
「関係ねェよ。本人の性格だろ?」

と、院生達が口々に塔矢アキラのことを言い出して、再び研修会場が騒がしくなった頃、篠田院生師範が顔を出した。


「皆、何を騒いでるの? さっき誰かが大声出してたんだって?」

院生師範のところまで声が届いていたのか、または誰かが御注進に走ったか。
それに対して伊角は顔色も変えずに答えた。

「何でもありません。進藤が碁盤に足をぶつけて叫んだんです」
「・・・・そう。大丈夫そうだった?」
「大したことなさそうでしたよ」

(すげえ、伊角さん)

周りの者は伊角の切返しに舌を巻いた。
流石は、別名、院生の学級委員長である。

その後、委員長は、
「みんな、早く昼食取って。休み時間が終わっちゃうぞ」
とメシをネタに皆を解散させることに成功した。

その様子に篠田も大したことはなさそうだと納得したようで、再び部屋を出て行った。







「和谷」
まだ膨れ面をやめない和谷に、伊角は話し掛けた。

「進藤のこと気にするとバカを見るって飯島に言ったんだって? 塔矢も同じなのかもしれないぜ?」
「同じって?」
「オレはあの二人、ちょっと似てる気がするんだよ」
「・・・・・ええ?」

和谷は出口の方を見た。昼食に向かう院生達が次々と部屋を出て行く。もう、伊角と和谷の他は数人しか残っていない。


「どっちも不思議野郎ってこと?」
「まあ、それもあるな」
伊角は、小さく笑って答え、この話を切り上げた。



「さあて、オレ達もメシにしようぜ。時間ないから、コンビニでいいな」
「うん」
「進藤の分もパンぐらい買っとくか。あの調子だと多分食いっぱぐれるだろうからな」
「おう」


白42

その後、研修会場を脱出したヒカルとアキラは、日本棋院のビルを出るまで双方無言であった。
アキラが怒鳴り込む前に部屋を出た院生が数人、ロビーで彼らを振り返ったが、二人とも脇目も振らず、足早に通り過ぎた。



外に出て、建物の前の帯坂を競争するように登っていき、突き当たりを左に曲がったところで、やっとヒカルは足を止めた。

「オマエってバカか?」
開口一番のその言葉にカチンと来たアキラもやっと口を開いた。
「バカとは何だ」

アキラは思いがけないことを聞いたかのように片方の眉をつりあげた。
彼は幼い頃から、「賢い」だの「利口」だのと褒め言葉ばかり聞いて育ってきたので、こうもストレートにバカ呼ばわりされた経験がないのだ。

ヒカルはイライラと足を踏み鳴らした。一月だというのに、上着も持たずに外に出てきてしまったではないか。彼は今日、薄手のセーターを重ね着して来ていた。
部屋の中では暖かかったが、外に出ると、冷たい空気が編み目の間から直に入ってくる。
それに引き替え、外から棋院に来て研修会場に直行して来たらしいアキラは、丈は短いながらもジャケットを着込んでいる。

寒い。コイツのせいだ。と、ヒカルはアキラを睨みつけた。
前回通り、おとなしく帰ってくれればそれで良かったのに、何だってコイツは、わざわざ院生研修に乗り込んできて、騒ぎを起こすのだろうか。


「場の空気が読めないヤツはバカなんだよ、バカ!」
「・・・・・」

流石にあそこで怒鳴ったのはまずかったかもしれないという自覚があるアキラは沈黙した。

「大体なんでそんなに怒るんだよ。全然わかんねェ。オレ言ったよな? オマエがプロ試験に合格したら、次の年はオレも受けるって。プロ試験受けるのに院生になって何か問題があるのかよ」
「・・・・・」


それは確かに問題はない。しかし。
「・・・君は言った。君が一緒にプロ試験を受けないのは、去年は別にやることがあったからだと。・・・・・それが院生になることだったのか? そんなことのために、試験を一年遅らせたのか?」
「・・・・・『そんなこと』ってオマエ・・・」


(やっぱりだ)
ヒカルはうんざりしてアキラを見た。
プロ試験の時は神妙な態度でやり過ごしたかも知れないが、本音は院生を見下していることが言葉の端から
バレバレだ。
上だけを見て生きているアキラには、通過点にすらしなかった院生は眼中にないということらしい。

それならそれで、無視で通してくれればいいものを。
わざわざ乗り込んできて、ライバルであるヒカルが、院生「なんか」になったことに対する不満をぶちまけるなどとは、流石のヒカルにも予想外だった。

しかし、前回の院生時代があったからこそ、今の棋力の自分がいると思うヒカルは、アキラのその無自覚な
傲慢さが癇に障る。

(あの後コイツが、もう一言でも余計なこと言いやがってたら、オレも黙っていられなかっただろうな)
とヒカルは苦々しく思った。



だが、ヒカルの気持ちが分からないアキラはそのまま言葉を続けた。
「僕は、プロ試験で僕と対局すると願掛けが成立しないから、去年受けるのを避けたんだろうと思っていたよ」

(そんなネタ良く覚えてるな)
ヒカルは、追求を逃れるために適当に言ったことをきちんと記憶しているアキラに感心して、少し上目使いに彼を見た。

「そ、それもあるけど・・・。色々あるんだよオレにも。だっ大体オマエって院生バカにしすぎ! オレにはちゃんと勉強になってるんだからな」

「・・・・・・・ふうん」
アキラはいかにも不満そうに返事をした。


「願掛け成立までうるさく言わないって言ってたくせに、何やってるんだよ。来年プロになったら、オマエとはちゃんと対局出来るんだから、それまでゴチャゴチャ言ってくるなよな!」


「プロになる頃には願掛け成立なのか?」
「ええ?・・・えーっと」
「・・・・・・・」

「・・・・・多分・・・」
「・・・・・・・」
そんなことが分かるはずもない。しどろもどろに答えるヒカルに対して、
アキラは、「随分いい加減だな」と言いたげな顔をした。



 ところで、この帯坂を登りきったニ七通り。日曜日であることもあって、人通りが殆どない。怒鳴り合うには丁度良かったが、通り過ぎる寒風を避けるような場所もない。
ヒカルは、一つ、くしゃみをした。

「オマエ寒くねェの?」
「別に」
流石は囲碁人間。碁のことで頭が一杯で寒さも感じないらしい。
ヒカルは両手に白い息を吹きかけて擦り合わせた。



「話は戻るけど、院生になったというなら・・・・君は当然'‘若獅子戦’には出てくるんだろうな」
それを聞いて、ヒカルは「えっ」と思わず声をあげた。

「若獅子戦だって、おい、まだ一月だぜ。気が早いな」

若獅子戦というのは、日本棋院において毎年五月に行われる、院生上位十六位までと、二十歳以下の若手
プロ棋士十六人が対局するトーナメント戦のことである。
前回ヒカルはギリギリ十六位で出場資格を得て参加していた。もっとも初戦敗退して、アキラと対局するには到っていない。

「お互い勝ち進むと何処かで対局することになるけど、その時、君はどうするつもりだ?」

ヒカルは院生になったばかり。アキラはプロ試験を通ってまだ新初段シリーズ前である。
この時点で、優勝に絡むのを前提に話し合っているのは変な話だが、実際、この年の若獅子戦で優勝した
のは塔矢アキラだったのだ。

前回は一回戦で、きれいさっぱり姿を消したヒカルは、今の棋力から言えば、それこそ塔矢アキラとぶつかるまで負けることはなさそうに思われた。
しかし、先日の言い訳で「願掛け」のためにアキラとは打てないと言っていた彼である。
口からでまかせを言っていると、辻褄が合わないことが色々出てくるものだ。

「・・・・・そんなことは勝ち進んでから考えるからいいんだよ」
ヒカルは肩をすくめて答えた。



「そんなことより、オマエもうすぐ新初段シリーズじゃんか。こんなところで時間食ってる場合じゃねェだろ?」

「・・・・・そうだな。来週には対局相手が決まると思うよ。それこそいい勉強になるだろう。僕の戦いぶりを君に見てもらいたいね」
「・・・・・ああ。それはもちろん」

ヒカルは前回のアキラと座間王座との対局を思い出していた。
あの時の塔矢アキラの戦いぶりはすごかった。タイトルホルダーのトッププロに、敢然と立ち向かう彼。攻める一手一手が気迫に溢れていた。
いつか自分もこんな対局をするのだと思ったあの雪の日を彼は忘れない。

棋院からの帰り道、興奮して佐為に『塔矢を追ってれば、名人にだって何だってなれる!』と人目も気にせず叫んだあの日。彼は本気でそんなことを考えていた。

そう。
(あの時のオマエはオレに『ここまで追って来い』って言っていたんだよな)
(そして、オレはオマエを追ってプロになって・・・)





・・・・・もう一回、囲碁人生をやり直している訳だ。
(訳わかんねェ・・・)





「・・・・・ふェ」
ヒカルはまた、今度は二回連続でくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「やべえ、マジで風邪ひいたかも。オレもう、院生部屋帰るな」
「・・・ああ。・・・・・今日は、・・・・・すまなかった」

え、コイツあやまってるぞ?と、ヒカルはちょっと驚いてアキラを見た。


「・・・・・全くだな。昼メシ食いっぱぐれちゃったじゃないか」
「君は対局中に食事を取るのか?」
「打ち掛けじゃねェよ・・・・・オマエは対局中にメシ食わないんだよな」
「・・・良く知ってるな」

(この囲碁人間め。空腹も感じやしねェ)

ヒカルはアキラの顔を見て小さく笑うとくるりと背中を見せて、帯坂を元来た方へ帰っていった。