OVER AGAIN 白64〜黒67
白64
その日のプロ試験は大方終わり、残っているのは数組になっていた。
その内の一組が対峙する碁盤の周囲に、声もなく囲む受験者達。
それはもちろん成績上位陣のうちの一人が戦っていたからだ。
上位陣の勝敗は今後の展開を左右する。勝ち続ければ、他の者達の合格の可能性が消えてゆき、負ければ望みが繋がるのだ。
そして、彼らが見に来たのは、当初合格最有力と見られていた一人の院生だった。
彼は、完全に無表情のまま碁盤を見つめている。
今は相手の手番。静かに次の手を待っている・・・ように端からは見えた。
相手の長考が続く。緊張の時間。だが、ついに「ありません」の声が彼の耳に入ってきた。
一気に緊張が解かれ、周囲から溜息が漏れる。彼らの合格の望みがまた少し遠のいた瞬間だった。
ヒカルは、緊張した顔を崩さなかった。低い声で礼を言うと、検討することもなく、すぐに「片付けるよ」と断わって碁石を碁笥に仕舞いだす。そしてそれを止める者は誰もいなかった。
片付けが済み、勝敗表にハンコを押すと、ヒカルは黙したまま部屋を出た。
そこで行きなり肩をドンと押された。
ヒカルが驚いて振り向くと奈瀬だった。
「さー、終わった終わった。みんな帰ろ」
みんなと言われて返事をしたのは、和谷と小宮だけだったのだが。
「あれ、伊角さんは?」
「さっき本田さんと出ていくの見えたよ。先帰ったんだろ」
カバンの紐を肩にかけながら、奈瀬は鼻歌を歌っている。
「奈瀬、元気いいな。今日は勝ち?」
と、小宮は余計なことを言った。
「うるさいよ」
と急速冷凍された声で言われて、和谷の方を向くと「バカ。今日は対椿戦で負けたんだよ」と解説が来た。
「げ」
「ヒゲに負けたっ!!悔しい! 絶対にアイツにだけは勝つつもりだったのに!! ちょっとあんた達今日は付き合いなさいよ!」
「ひいいい」
こうなったら、付き合うほか男達に残された道はないのだった。
結局四人で連れ立って研修センターを出、バスで総武線の駅に向かった。
幕張本郷駅の階段を上がり、改札の手前にあるプロントに入る。
うまい具合に奥の禁煙席がキープ出来た。それぞれ飲み物を買って席についたところで小宮がさり気なく口を開いた。
「進藤さあ、さっきのアレ、負けてたな」
ヒカルは嫌そうな目で小宮を見た。
「・・・・・」
「小宮君、それ言っちゃあ」
奈瀬が小宮を止める。だが和谷も小宮に同意した。
「オレなら見逃さない。立山さんは見落としが多いらしいな。バカだよな。折角逆転出来たのに」
「・・・・・」
ヒカルは少し顔を赤くして口をへの字に曲げた。
今日のヒカルの対局相手は外来の立山孝ニだった。
昨日の今日である。
気持ちを落ち着かせることが出来なかったヒカルの今日の碁は、自分でも最悪の出来で、立山にうまく打ちまわされ、かなり際どい展開になった。
後半挽回して僅差でリードしたものの、まだ相手に逆転の手があることに気付き、手に汗をかいていたのだ。
が、なかなか立山がその手を打ってこない。まさか気が付いていないのか、と思ったところで
(気付くなよー、気付くなよー)
と必死で念じた。
結果、何とヒカルの念力は通じたらしく、「ありません」でこの度の対局は終了。
ヒカルは何とか勝ちを拾ったのある。
だが、周囲の微妙な空気は感じていた。観戦者で気が付いていた者もいたはずだ。
「・・・・・今日はまずい碁だったよ。やばかった・・・」
ヒカルは神妙に白旗を揚げた。
「すっげえ追い上げだったじゃないか。見てる方には面白い碁だったけどな。調子悪いのか?」
「そういうワケじゃないけど、ちょっと気になってることがあって・・・」
小宮の問いにヒカルは答えるかどうか躊躇したが、結局白状することにした。相談に乗って欲しい気持ちもあったのだ。
そして。
「えええええええええええっ―――!!!」
と、店に奇声があがり、何事かと他の客達が一斉に振り向いた。
何時いかなる時でも他人の恋愛は最大の娯楽のひとつである。
ご多分にもれず小宮と奈瀬の二人はこの話に食いついてきた。
「進藤が!! 進藤がそんな悩みを持つなんて!!どーしたことだそりゃ!!!」
「おとなになっちゃって――!!」
「その幼馴染みって、なんて名前?」
「あかり・・・」
「あかりちゃん!! あかりちゃんかあ・・・。あかりちゃんはかわいいのか?どんな顔だよ」
「べ、別に。普通だよ」
ご想像通り、たちまちヒカルは後悔した。何故この二人はここまでヒートアップしているのだろう。会ったこともないのに。
「じゃあ、奈瀬と比べてどうよ。どっちがカワイイ?」
「えええ・・・?」
ヒカルは途方に暮れた顔で奈瀬の顔を見た。奈瀬は、客観的に見てかなり容姿レベルが高い。彼女よりかわいい、もしくは美人となれば話は更に面白い。
「わ、わかんないよ、そんなの。だって奈瀬はカワイイというよりコワイじゃないか」
「ちょっとアンタ・・・」
「わはは、そりゃそーだ」
「小宮」
奈瀬が小宮をはたく。「まあ、アレよ。進藤にとってカワイければいいんだから」
と、話を元に戻した。
「それでその後、そのコのこと追いかけなかったの?」
「追いかけないよ。だって、オレにはどうしようもないもん」
奈瀬は、不満そうに声を荒げた。
「何でよ! だって進藤そのコのこと好きなんでしょ?」
ヒカルは頭を抱えた。
「いや、だって、あかりは幼馴染みなんだから、そういうのとは違うんだって」
奈瀬と小宮は顔を見合わせた。
「何言ってんの、幼馴染みを好きになっちゃいけないって誰が決めたのよ」
「そ、そりゃそうだけど」
小宮は「あーりえねェ〜」と、ぼやいた。
「アンタそのコのこと好きなんだと思うよ」
「・・・そうなのかな・・・」
「じゃなかったら、何でうろたえて、調子を崩すのよ」
「うろたえてって・・・」
「鈍感なヤツ。大体アンタ何? それでホントに現代の中学生なの?」
「見ての通りだけどさ」
「自分の気持ち、分かんない?」
「こ、心って難しいよな」
こういう話で一番ちゃちゃを入れそうな和谷は、めずらしく聞き手に回って腕を組んだまま三人の会話を聞いていた。
「もしかして、今までそのコとでも他の女の子とでも、好きだと思ったり、ときめいたりとかなかったの?」
「え?」
ヒカルは奈瀬を見た。
「そ、それは・・・」
それはヒカルにはあまりにも酷な質問であった。
ヒカルとて健康な男子中学生であるからには、それなりの感情の芽ばえはある。というかあったはずなのだ。
だが、彼にはあえてその感情を押しつぶさなければならない事情というものがあった。
もちろん、それは彼に数年とり憑いていた、とある幽霊のせいである。
佐為は、とり憑いた当初、あかりがヒカルのことを好きなんじゃないかと言い、ヒカルをけしかけようとしていた。
そしてやはりヒカルは「あかりはただの幼馴染み」と言い、佐為を黙らせてきたわけだが、
そこは流石に「ヒカルの心」に棲んでいる幽霊のこと、ヒカルよりヒカルのことを分かっていたのかどうか、ある日彼はこんなことを言い出した。
『ヒカル、あかりちゃんが好きなら、やることはひとつですよ』
ヒカルは佐為を睨んだ。
『オマエ、何回おんなじこと言わせるんだよ、あかりは幼馴染みだって言ってるだろ』
『ふふふ。私にはみーんなお見通しなんですからね。いいですか、ヒカル。夜になったら、あかりちゃんの家に行って、あかりちゃんの部屋へお邪魔するんです』
『・・・・・』
『そして、想いを遂げるんですよ!』
『・・・・・想いを遂げるってオマエ・・・』
要するに、家宅不法侵入及び婦女暴行のお薦めである。
ヒカルは半眼になって、佐為を睨みつけた。
『オマエはオレを犯罪者にする気か?』
佐為は不思議そうな顔をした。
『えええっ? 何でですか?』
『そんなこと出来るわけねェだろ。バカかオマエ』
『私の時代は、それが普通です。学校で習ったでしょ?』
『そんなの寝てたから知らねェよ。ていうか何だよ。まさかオマエ、生きてた時そんなことしてたのか?』
『だ、だって、それが普通だったんですよ。その前に歌を送ったりもしましたけど・・・』
『犯行予告かよ!! 第一オレに歌をどうしろって!? 』
それを聞いて流石の佐為も黙った。
『確かにヒカルが和歌を詠むのは夜這うより難しそうですね・・・』
『オマエ、もう黙れよ』
『そう言えば虎次郎も、私がこの話をすると賛成してくれませんでした・・・』
『良かったな。虎次郎がマトモで』
『男女の理に時代なぞ関係ないものを・・・』
佐為は不満そうにいつまでも口の中でぶちぶち言っていた。
それがうるさくて、ヒカルは言い聞かせるように言った。
『もし、そんなことして捕まったら、オレ、きっともうプロにはなれねェんだからな』
『えっ!』
『もちろん塔矢の親父と打てる日も来ない』
みるみる佐為の顔色が変わった。
『ダメ――――!!! ヒカル、そんなの絶対ダメですっ』
ヒカルは、これで佐為を黙らせることが出来たと、一瞬ホッとした。だがヒカルの思惑通りに事は運ばない。
『ヒカル、打ちましょう! ヒカルがプロとして一人前になって、私とあの者を打てるようにしてくれるまで、女の子は禁止です!!』
『はあっ!?』
『厳禁ですっ!!』
『ちょっと待て、どうしてそうなるんだ―――!!!!』
そしてそれ以降、ヒカルが少しでもいいなあ、と思う女子と出会う度、心に棲む居候に邪魔され続けてきたのだった。
だが佐為は、あかりだけは、何故か傍に居る事を認めてきたのだ。
それは、ヒカルが「幼馴染み」と断言してきたためか、いつかは何とかしてやろうと思っていたからか、単に佐為があかりを気に入っていたからか、それは本人に訊かなければ分からない。
とにかくそんな事情で、佐為がいる間、ヒカルが女子に想いを寄せる余地はなかったということだ。
そして佐為がいなくなってからは、それこそ、「それどころではない日々」であったため、この手の話は全てスルーしてきてしまったのである。
ヒカルはやるせない顔で奈瀬を見た。
「オレは、とにかく碁を始めてからは碁ばっかりで・・・。」
「ふーん、で、突然、目の前が開けちゃったワケ?」
「う、うーん、まあ・・・そうなの・・かな?」
ヒカルは顔を赤らめながら、頭を掻いた。
「・・・・・」
その時、小宮がいきなり立ち上がった。そして、
「オレ、ちょっとコンビニで買い物」
と言って、足早に店を出て行った。
「あ、あたしも」
と奈瀬もその後を追う。何故か二人とも口を押さえて何かを我慢している風だ。
大方、大爆笑したいのを我慢しているのだろう。
(ちぇっ、笑いものにしてろよ)
ヒカルは口をとがらせながら、二人を見送った。
そして、視線を戻すと、険悪な気配に気がついた。
「和谷?」
ずっと腕を組んだまま黙っていた和谷が、険しい顔で口を開いた。
「オマエ、ふざけんのも大概にしろよ」
黒65
「え?」
ヒカルは和谷の顔をマジマジと見た。
バカにされるかもとは思っていたが、怒られるとは思わなかったのだ。
「オマエなあ、今オレ達はプロ試験中なんだぞ。真剣勝負で星の潰し合いやってんだ。
それを何で、よりによって今、女なんかにひっかかってるんだよ」
「べっ、別にひっかかってなんかねェよ」
和谷は舌打ちした。
「バカ。ひっかかってるんだよ。じゃなかったら何だよ今日の碁は」
「・・・・・」
和谷は既に飲み終わったジュースの氷をストローでガチャガチャかき回した。
「以前オマエに言ったよな。去年のプロ試験の初日、塔矢アキラがプロ試験すっぽかしてネット碁やってたって話」
「あ、うん」
「あれでオレはスッゲーむかついたんだ。本当ならアイツが一敗して喜んでいいはずなのによ。オレ達が必死でやってるプロ試験をこんなに軽く考えてるヤツがいるってのが許せなかったんだな」
「・・・・・」
そこで和谷がストローを氷の中に突き刺した。残った氷がガチっと締まった音をたてる。
「以前、伊角さんがオマエと塔矢が似てるって言ったことがある」
「え?」
「そんときゃ、変なヤツってところがって話だったんだが、他にも色々似てるのかもな。
今日の話聞いてて、そう思った」
「オレ、別に軽くなんて見てねェよ! そんなこと決まってるだろ!」
歴史通りだから、という訳じゃない。一日でも早くプロになって棋士としてスタートを切りたい。
そして、塔矢アキラに追いつき追い越し、少しでも佐為の高みに近づかなければならない。佐為と会った時に恥ずかしくない自分であるために。
「・・・オレは今度でプロ試験は四回目だ。もういい加減受かりたいんだよ。何年も合格出来ない気持ちなんてオマエに分かるか、バカ」
「・・・・・」
「絶対受かる、オレは。今度こそ」
和谷が今度は独白のように呟いた。
それを聞いてヒカルはもう何も言えなくなってしまった。
前回は一発合格し、今回も当然それを狙う。
そんなヒカルには、何年も挑戦し続ける思いや苦労は、想像出来ても自分のものではない。
それに、確かに今日は落ち着きをなくしていたし、それを見ていた和谷には、浮ついていると見えたに違いないのだ。そしてそれが彼には不快だろうということは、流石のヒカルにも分かる。
それから何となく気まずく、ずっと黙り込んでいた二人の元へ、隣のコンビニに行っていた奈瀬と小宮が帰ってきて、それを潮に四人はJRのホームへ向かった。
ところで藤崎あかりは、学校でヒカルと話をして家に帰ってきてからというもの、自分の部屋に閉じこもり、気分は地の底まで沈みこんでいた。
頭を過ぎるのは最後のヒカルとのやり取りだ。
何であんなことを言ってしまったのか分からない。
もう駄目だ。絶対ヒカルに嫌われたと思う。
あの直前、山里に言い寄られて、ここにヒカルが来てくれないかと密かに期待していたのに。そして「あかりは自分が好きなんだから手を出すな」と言ってくれたら。
と、そこまで考えて、あかりは首を横に振った。あのヒカルがそんなことを言うわけがないではないか。妄想もいいところだ。
そんなことを考えていたとヒカルが知ったらきっと嘲笑うだろう。
だが、山里と別れた後、ベンチに座り込んでいた自分のところにヒカルは来てくれた。
その時、本当はものすごく嬉しかったのだ。
恐らく自分が三年生に告白されたことを聞いて、心配して来てくれたんだろうに、あんな八つ当たりのようなことを言ってしまうなんて。
全く最悪だ。自分は何をやっているのだろう。そう思うと涙が出てくる。
(いっそのこと、あの時、ヒカルが好きだって言ってしまえばよかった)
そうしたら、例え玉砕していても、こんなウジウジしていなくてもよかったかもしれないのに。
(だめ。それでヒカルに引かれでもしたら、もう、囲碁部にも学校にも行けない! ヒカルの顔も見られないよ)
学校で、自分とヒカルのことが噂されているのは知っている。自分が囲碁部にいるのも、囲碁がやりたい訳ではなく、単にヒカル狙いだと言われているのも知っている。
そういう風に見られるのは、本当はすごく嫌だった。
でも、囲碁部にいれば、たまにはヒカルが来てくれるし、自分が囲碁部員だから時々はヒカルの家で指導碁も打ってもらえるのだと思えば嬉しかったのは確かだ。
それだけで今までは満足だったのに。
こうなると山里が恨めしく思えてくる。彼が告白をしてこなければ、今まで通り楽しく一緒にいられたのだ。
あかりはベッドに座りこんで頭をかかえた。
ところで、あかりの部屋は、間仕切りがあるとはいえ、部屋の作りとしては姉のかおりとの二人部屋である。
当然、あかりが閉じこもっていれば、かおりは締め出される道理だ。
姉は妹の様子がおかしいのにすぐに気が付いた。
時々、部屋のドアをノックして「あかり、どうしたの。大丈夫?」などと訊いて来た。
返事もしないでメソメソしていたあかりが、ようやく部屋から出て行くと、かおりはもう何も訊かずにコンビニの袋を手渡し、
「あかり、これあげる。早く元気だしな」
と言い、一階に降りて行った。
あかりが袋の中身を見ると、プリンが一つ、スプーン付きで入っていた。
「もう。子供じゃないのに・・・」
あかりは、思わず吹き出した。しかし、姉の気持ちが嬉しくてまた涙が出てきた。
落ち込んでいて、部屋に閉じこもっていたくても、朝になれば学校に出かけなければならない。
ヒカルと会った翌日は、プロ試験のためにヒカルと顔を合わせることもないので、まだ気楽だった。
しかし、そのまた翌日は却って緊張して家を出ることになった。
どんな顔をして話せばいいのだろう。
いや待て。話せればまだいい方だ。もしかすると、もう口を利いてもらえないかもしれないではないか。
(今日はヒカルにも山里さんにも会いたくない)
あかりはそう思って、その日は殆ど教室から出ずに過ごし、放課後になると、急いで帰ろうとホームルームが終わるや否や校舎を出た。そこで、自分を呼ぶ声がする。
振り向くと山里であった。嬉しそうに手を振っている。
(ああ、会っちゃった)
と、ぼんやり思っていたら、近くで誰かが走ってくる音がした。
「あかり!」
聞き慣れた男子生徒の声が近づいてきて、いきなり腕をつかまれた。
驚いて顔を上げる。
「えっ?ヒカル」
息を切らしてあかりを掴まえたのは今日、一番会いたくなかった進藤ヒカルその人だったのだ。
「勝った!」
「何がよ?!」
「先手必勝!!」
ヒカルは意味不明に叫ぶと、あかりの腕を握ったまま、校門の方向へ走り出した。
当然、あかりは引きずられる形になる。
山里があっけにとられた顔で、振った手を上げたまま固まっているのが目の端に見えた。
「痛い! 何よヒカルったら何処連れて行く気?」
しかしヒカルは答えず、周囲の生徒達を押しのけながら、そのまま走り続け、学校から1ブロック程離れたところで漸く止まり、あかりの腕を放した。
二人とも息が上がっていたが、先に態勢を戻したのは、ヒカルだった。
この時点で二人の身長差はほぼ同じ位。しかしやはり男子生徒の方が体力があるということだ。
「悪い悪い。アイツに先に持ってかれちゃうかと思ったら焦っちゃってさ」
「・・・・・は?」
何の話だか、またもやあかりにはサッパリである。だが、構わずヒカルは話を続けた。
「今更だけど、あかり今日、これから空いてる?」
本当に今更である。
「どうしたの急に」
「・・・今日、あかりに来てもらいたいところがあるんだ」
あかりは、どうしたものかと躊躇した。昨日あんなに落ち込んでいたのは何だったのか。
「来てもらいたい所?」
オウム返しに訊き返すと、ヒカルは珍しくためらいがちな顔をしてあかりの顔を覗き込んだ。
「うん、オレのじいちゃんの家に、一緒に来てもらいたいんだ」
「・・・・・」
それは意外だった。何故ヒカルの祖父の家に自分が行くのか良くわからない。
小学生の頃は、お爺ちゃんっ子のヒカルに連れられて時折行っていたが、ヒカルが蔵で倒れた一件からは、一度も行っていない。
「どうしたの?」
の問いが出るのは当然だった。だがヒカルは更に困ったような顔をして、「ダメ?」
と訊くのみである。
良く分からないが、何か理由があるのだろう。これで関係が修復できるなら良しとするべきだ、ということで、結局あかりは同意したのである。
それからヒカルがあかりを連れて行ったのは祖父の家というより祖父の家の蔵であった。
かつてヒカルがいきなり倒れたあの蔵である。
あかりはヒカルに連れられて蔵のに立つと
「懐かしい」
と思わず呟いた。
「そう?」
ヒカルは扉を開け、戸のすぐ横のスイッチで白熱灯をつけると、木の階段を上っていった。
その慣れた様子から、ヒカルが頻繁にこの場所を訪れていると知れた。
古い木造建築特有の臭いと湿った空気が肺に入ってくる。人気のない建物の中はシンと静まり返っていた。
あかりが恐る恐る後について二階に着くと、ヒカルは部屋の真ん中辺りに置いてある古い碁盤の前にしゃがみこんだ。
「あかり、この碁盤覚えてる?」
ヒカルは碁盤を指差してあかりに訊いた。
白66
あかりはヒカルの傍に寄って碁盤を上から覗き込んだ。
かなりの年代もののようだ。
碁盤の良し悪しなど良く分からないが、恐らく良いものだろうと思われた。
この碁盤を覚えているかと訊かれても、以前来た時は、倒れたヒカルのために慌てて大人を呼びに行ったので、そんな細かいところまで覚えていない。
覚えているのは、倒れる直前にヒカルが「誰だ?」と大きな声を出したことくらいだ。
「覚えてないよ。前来た時は、ヒカルが倒れてバタバタしてたし」
それを聞いてヒカルは顔を上げ、あかりを見て微笑んだ。
「うん。あかりはその場にいたんだよな。」
「・・・・・」
「だから、今日ここに呼んだんだ」
「え?」
ヒカルは掌で碁盤の埃を拭きながら言葉を続けた。
「何であの時あかりがいたのかなあって、オレは思ったんだ」
「・・・・・」
「まあ、オレが連れてきたからなんだけどさ」
そりゃそうである。
ヒカルが何を言おうとしているのか、あかりには分からなかったが、何か大切なことなのだろう。あかりは息をつめて次の言葉を待った。
「知ってるか? オレが囲碁を始めたのって、あの時からなんだぜ」
「・・・・・」
そう言えばそうだ。あの日までヒカルが碁を打つところなどあかりは見たことがない。話にも出たことはなかったと思う。
ヒカルは頭を掻き掻き言った。
「あかりはオレのスタートの立会い人なんだよ。だから・・・」
そして、ヒカルはふいに顔を赤くして目をそらした。
「だから、この後もそうかなと思ったんだけど、さ」
「・・・・・」
「オマエに彼氏が出来ると、そういうワケには行かなくなるのかと急に気になってきてさ」
「・・・・・」
「そ、それで」
「・・・・・」
ヒカルは、そこで大きく、息を吸った。
「笑うなよ。もし、もしな。オレがオマエのこと好きかも知れないって言ったらどうする?」
あかりは思わず口を開いた。今ヒカルは何を言ったのか。
「・・・・・」
「へ、変? 今更」
ヒカルは慌てたように、言い足した。
今朝は、(もうこの先、ヒカルとは話も出来なくなるかも)と思って家を出たあかりである。
今のヒカルの言葉には驚いてしまって咄嗟には声も出ない。
なので、何度も小さく首を横に振った。
「オマエがどうしても、アイツが好きなら、しょうがないけど、まだOK出してないなら、一応、ダメもとで言っときたかったんだ。後で後悔したくないし」
こんなことが起きるなんて想像もしていなかった。あかりの目に涙が溜まってそれが光った。
「あ、オマエ泣いてる! 泣くほど嫌? 怒ったのか?」
よっぽど恥ずかしいらしく、今やヒカルは顔から耳まで真っ赤だ。それを見て、あかりは噴出した。
「嫌じゃないよ。・・・ヒカルってホントに馬鹿だよねえ・・・」
「え、馬鹿?」
それを聞いて更にヒカルはうろたえた。
今を置いて自分の気持ちを伝える時はないだろう。その言葉は自然に口から出て行った。
「私はヒカルのことずっと好きだったよ」
「そうか、そうだよな、やっぱり好きだと・・・え、好き?!」
驚いたヒカルを見て、あかりは微笑んだ。
「うん」
「オマエ、オレのこと好きなの?」
「うん」
「・・・・・え―――・・・」
それを聞いたヒカルは気が抜けたらしく、そのまま横倒しに倒れた。
「・・・うっそお、オマエいつの間に・・・」
「ヒカルがニブいんだよ」
あかりはイタズラそうな目でヒカルを見た。
ヒカルは、頭が真っ白になった体である。
「そっか、やっぱりオレは鈍いのか・・・」
そして、ヒカルは起き上がるとガックリと首を垂れ、佐為の碁盤に突っ伏した。
「聞いたかよ、あかりオレのこと好きだってさ」
「・・・・・誰に言ってるの?」
「碁盤」
何故碁盤に?
「この碁盤って何なの?」
ヒカルは碁盤から体を起こしてあかりを見た。そして言うか言うまいか悩んでいる風だっが、ようやく口を開いた。
「あかりは聞く資格があると思うから、秘密を教えてやる。この碁盤は碁の神様の使いみたいなヤツが宿っていたスゲえ碁盤なんだ」
「・・・・・・」
「秘密だからな」
あかりは何と返事をすれば良いか分からず、ただ目を丸くして碁盤を見つめた。
「秘密?」
やっと訊き返すとヒカルは厳かに頷いた
「秘密は分かったけど、宿ってたって、今は?」
「もう引っ越した。」
「は?」
あかりは首をかしげた。
(そういうもの?)
「何処に引っ越したの?」
「それを探しているんだ」
腕を組んだヒカルは大真面目だ。
「神様の使いみたいな人・・・って」
しかし、碁盤に宿れる位だから人間ではなさそうである。
「オレに黙って何処か行っちまってよ。ひでェだろ?」
ヒカルは口を尖らせてぶうぶう言い出した。
「だから時々こうやって、ヤツの古巣を見に来ているんだ」
で、空家(?)になった碁盤と何事か語らいあっているらしい。
「・・・・・・」
大丈夫か、この男。
というのが、普通の反応だろう。
想いが通じて嬉しい時に、また良く分からないことを言われたものである。
しかし、からかわれている気はしない。
そして、どう反応すればいいものか悩む間にも、不安そうに自分を見つめるヒカルの様子も気になった。
「それって、前にネットで探してた人?」
碁の神様もどきの引越し先をインターネットの囲碁サイトで探していたのだろうか。古典的なのか現代的なのかよく分からない。
「それは別件」
「・・・・ふ、ふーん」
疑問は沢山あったが、あまり追及せずにあかりは頷く。
「よくわかんないけど、見つかるといいね」
「おう」
あかりの言葉に、ヒカルはホっとしたように、何度も頷いた。
ただの冗談。
の割りにはヒカルの様子は真剣すぎるようで少々気になったが、彼の機嫌の良い様子を見ると自分の返事は正解だったようだ。
二人は微笑みながら見つめあった。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・あの・・」
どちらからとも無く、声をかけたその時、
階段を上がってくる足音が二人の耳に入ってきた。
「おーい、ヒカル、お茶が淹ったぞ」
祖父の平八がひょいと顔を出した。
あかりが首を伸ばして声がした方を見る。
「あ、ヒカルのおじいちゃん」
「あかりちゃん、碁を始めたんだって? ワシと一局どうかな」
ヒカルとあかりは顔を見合わせた。
「はい、お願いします」
あかりはにこやかに応じ、ヒカルは渋い顔をして天井を振り仰いだ。
そして次の月曜日。
「すみません」
あかりに頭を下げられ、山里隆弘は「うーん」と首を捻った。
数日前とくらべて明らかにあかりの様子が違う。朗らかで、顔色も良いようだ。
「・・・進藤くんと何かあった?」
「・・・・・」
「はあ、まあ」
あかりは、照れたように微笑んだ。
山里は口を尖らせた。
「目の前で拉致られるとは思わなかったもんなあ」
「すみません」
「君があやまることじゃないよ」
しかし、あかりはもう一度深々と頭を下げた。
「すみません、山里さんとはやっぱりお付き合いできません」
随分キッパリな振り様に聞こえるかも知れない。だが、お断りの口上もこれで五回目ともなれば、遠まわしな断りが出来なくなるのも仕方がないだろう。
山里は溜息をついた。
「分かった。今まで振り回して悪かったね」
あかりは首を横にぶんぶん振った。
「じゃ、ね」
山里はそれだけ言うと、後ろを振り返りもせずに校舎の方へ歩いていった。
ヒカルとは違う広い背中を見送って、あかりはもう一度頭を下げた。
校舎の角を曲がったところに園芸部所有の花壇がある。
山里はそこにしゃがみこんで、風に靡くコスモスを見つめた。今の彼の表情を隠してくれるはずの、少し長めの前髪も風に散らされ、あまり役たっていないようだ。
そこに声がかかった。
「振られたね」
山里が顔を上げると、白髪に隈取のヤマンバ少女が立っていた。山田サヤカである。
「うるさい。そんなナリで声かけるなよ」
「何よ、せっかく幼馴染みがなぐさめてあげようと思って来てあげたのに」
「幼馴染みか・・・」
山里は大きく溜息をついた。
「ちっくしょ。進藤の大嘘つき野郎が。何が幼馴染みだよ」
山里は、忌々しそうに言った。
サヤカはそんな山里をニヤニヤ笑いながら見下ろした。
「隆弘がバカなんだよ。あそこは進藤がどう言っていようがキマリだって言ったじゃん。そう思ってなかったの隆弘だけだよ」
「そうさ。俺だけは信じてやったのに裏切りやがったんだ。進藤め」
サヤカは山里の隣に並んでしゃがみこんだ。
「気安く座るなよ。お前が横にいると、深夜のコンビニの前でしゃがんでる気がしてくる」
「わ、へんけーん、ていうかコンビニの前に座って何が悪いの」
山里は横目でサヤカを見た。
「何でこんな子になっちゃったかねえ・・・。昔近所に住んでた頃はお前だって可愛らしかったのに。引越し先
が悪かったんだな」
この二人。実は幼馴染みである。
サヤカが小学三年生で引っ越すまでは近くに住んでいたので、当時は殆ど兄弟の様な関係だったのだ。引っ越した後は小学校が変わり、会うこともなかったが、サヤカが中学生になって中学校の学区が一緒になったため、久しぶりに交流が再開したのであった。
「そのキテレツな化粧と髪型はいつまでやる気だ?」
「見かけで人を判断するの、良くないって知らない?」
「見かけは重要だ。そのナリを民族学か民俗学的見地から実験的にやってるってのなら俺も見方を変えてやるがな」
「ミンゾクミンゾクって何よ。そーいう風にいちいちコ難しいこと言ってると最終的に女の子にはモテないんだよ」
「うるさい。今、俺は傷ついているんだ。傷口えぐるな。」
山里は、近くにあった小石で足元の硬くなった土をガリガリ削った。
サヤカは「どうして幼馴染みは付き合わないって決め付けたのよ」と訊いた。
「・・・俺とサヤカは幼馴染みだが、俺はオマエと付き合いたいと思ったりしないだろ? つまり幼馴染みは兄妹みたいなもので、好きになることはない。と、俺は実感したんだな。だから、藤崎さんと進藤もくっつくことはない、と思った訳だ」
「・・・・・どう反応すべきなのかな。ここは怒るところよね」
「何で? サヤカ俺が好きになっちゃった?」
「は――!? バッカじゃないの? ちょっと女の子に騒がれてると思って自惚れてる?」
山里は膝に顔を埋めた。
「本命に好かれなきゃ意味ねー」
「・・・・・」
サヤカは少し言葉につまって山里を見た。
「・・・・・あかりの何処が良かったの?」
顔を上げた山里は少し考えるそぶりをした。
「・・・・・ 目かな」
「・・・・・・何それ」
「藤崎さんて、本当に進藤のことばかり見てるじゃないか。あの直向きな目が気に入ったんだよ。いつもあんな風に気遣ってもらえたらいいなあと思ったんだ。だから進藤にその気がないなら俺が立候補したっていいじゃないかと」
「・・・・・はあ」
「・・・・・でも、流石に進藤にはやられた。噂通り行動が読めないヤツだな。お前、小学校の時から知り合いなんだろ、アイツってどんなヤツ?」
「・・・・え?」
「アイツの年輪ってちょっと他とは違うからさ」
黒67
サヤカは口をヘの字に曲げた。
「変なこと言い出さないでくれるかな。造園マニアでオカルトマニアか」
だが、山里は真顔だった。
「人も木と同じさ。人は輪切りに出来ないし、したって分からないけど、その人間なりの生きてきた年輪ていうのはあるんだよ。もちろん一年に一つじゃないけどな」
(そういえば)
と、サヤカは額に手を置いて思う。
かつて、この男は出会う人ごとに、その人間の『人生あてごっこ』なる遊びをしていた。
当時は人相見のようなものかと思っていたし、(子供が他人の人生の何を語る?)と思っていたものだ。中学生になってもまだやっていたらしい。
「進藤は違うわけ?」
サヤカはめんどうくさそうに訊いた。
それに対し、山里は言いにくそうに口ごもった。
「うまく言えないけど・・・、何となく、二重になっているところを感じるんだ。そんなヤツ見たのアイツが初めてだ」
「言ってること全然分からないんですけど」
「一人だけど、二人居る」
山里は難しい顔をしてサヤカを見た。。
「二人居る。・・・いや、居た。かな? 人生が二重になっている」
「多重人格者?」
「・・・・・・分からん」
サヤカはついに溜息をついた。
「ちょっと、マジやめてくれない? キモすぎだって。」
「・・・・・・」
山里は黙したまま、考え込んでいた。
「隆弘って、あかりが好きだったのに何で進藤を気にするのよ」
「バカだな。敵を知り己を知るだろ」
「の、割りには結構あっさり引いたよね。いつもはしつこいのに」
山里は、ジロリとサヤカを睨むと「俺、もう行くわ」と言った。
「・・・怒ったの?」
「これでも落ち込んでるんだって。この心を慰めるために花壇のレイアウト変更を行う。これから部室で打ち合わせだ。じゃな」
「え、また?」
山里は校舎の方に歩き去る。
サヤカはそれを見送り、あきれたようにつぶやいた。
「打ち合わせって、三年生は部活引退してるくせに・・・」
そして、次のプロ試験の日の朝。
幕張本郷駅でバスに乗り込んだ和谷はヒカルを見つけた。
座席は既に埋まっており、ヒカルは窓の外をぼんやり見つめて立っていた。
あれからもヒカルは調子が戻っていないようで、翌日曜日もやっと勝ちを拾っているような状態だった。
これ以上何を言えるでもなく、和谷はその日、ほどんど口も利かずに帰宅したものだ。
今日も気まずい気持ちのまま、声をかけづらいと思っていると、ヒカルが先に声をかけてきた。
「おはよ和谷」
「・・・おう」
和谷がヒカルの隣に立つと、間もなくバスは発車した。
ヒカルを見ていて和谷はすぐに異変に気が付いた。
ヒカルが日曜日と打って変わって妙に明るい。屈託ない様子を不審に思い、和谷は思い切って例の件を訊いてみた。
それに対してヒカルは黙ってVサインをして見せる。
和谷は場所も忘れて食って掛かった。
「あああ? 何だとオマエ!!」
「声大きいってば」
ヒカルはニヤニヤ不敵に笑っている。一昨日の落ち込んだ様子とはえらい違いだ。
和谷は、あきれて暫く言葉が出なかった。それでもやっとのことで、今度は小声で訊いた。
「オマエ、カノジョとあれから何とかなっちゃったのか?」
「さあね」
「おい」
「・・・・・」
「言えよ。気になるじゃねェか!」
その時、バスがカーブに差しかかり、大きく揺れた。
「わっ」
近くに空いているつり革がなかったヒカルは、代わりに和谷の肩に掴まった。
「悪りい」
和谷は頷いた。そして言った。
「掴まり賃として、事情教えろ?」
「あははは」
それを聞いて流石のヒカルも笑ってしまった。
「くっそお。何でオマエばっかり」
「へへへ」
「オマエなんか今日は負けちまえ」
「やだね」
そして、この後、和谷は完全に復調したヒカルを見ることになる。
全く、人の心とは難しいものなのだ。
ところで、「人の口に戸は立てられない」の言葉どおり、ヒカルが「女性問題(!)」で不調らしいという話は、あっという間に研修センターを飛び越え、棋院の院生達にまで届いていた。
この手の話は、口から出たら何がどうでも広がってしまうのがこの世の中なのである。
院生らしき子供達が、用事で立ち寄った日本棋院のロビーで「たまたま」その話をしていたところ、とある人物がやはり「たまたま」通りかかった。
「あの進藤君が?」
「合格確実視されてたのに、調子悪いらしいよ」
その人物は彼らの会話を耳にすると立ち止まった。売店で商品をそれとなく選ぶフリをしながら、聞き耳を立てる。
「・・・・・」
院生達はその人物に気づかず、話を続けた。
「まさか、進藤君が恋わずらいで、トラブルなんてな!」
「ヤツもフツーの中学生なのさ」
「これで今年の合格者はわからなくなったな」
やがて、彼らの待ち人が上の階から降りてきて、そのまま連れ立って外に出て行った。
「・・・・・」
その人物、つまり塔矢アキラは、その時持っていた、売り物の扇子をギリギリ握り締めた。
その尋常ならざる様子と、商品を救出するために店員があわてて声をかけようとしたその時、彼を呼ぶ声が聞こえた。
声のした方向には「週刊碁」の天野記者が立っている。
眼鏡と恰幅の良さがトレードマークの彼は、アキラに向かってにこやかに手を振っていた。
アキラはあわてて扇子を元の場所に戻した。眉を顰めている店員に頭を下げると、彼は天野の方に向き直った。
「こんにちは」
「どう?最近」
愛想良く近況を尋ねる天野にアキラは上の空で答えた。
「まあまあです」
「まあまあ? プロになって無敗なのにかい? 流石だね」
「・・・・・」
アキラは軽く頭を下げた。
そして一瞬逡巡した後、彼は質問をぶつけてみることにした。
「あの、天野さんは今年のプロ試験も取材されているんですよね」
「そりゃ経過は把握しているよ。どうして?」
「え」
聞いておいてアキラは沈黙した。何を訊くというのだ。進藤ヒカルの調子をか?
バカなことを。女で調子を崩してプロ試験を落とすような相手など、ライバル失格ではないか。
「・・・去年のプロ試験で対局した人も多いですからね。それは気になります」
と、言って誤魔化した。
しかし天野は、
「昨年は受けてないけど、院生の進藤君は知っているんだよね」
と、最初に進藤ヒカルの名前を挙げてきた。やはり彼の期待度は高いのだ。
「・・・・・はい」
「前評判どおりというワケにはいかないみたいだよ」
「どういうことですか?」
天野は肩をすくめて「それが試験てものだから・・・」と言いよどむ。
「進藤君は有望株だと皆言うね。森下九段の周辺から彼の話はよく聞くし。それで僕も若獅子戦から彼には気を配っていたんだが、その若獅子戦からして彼は初戦で負けてしまったわけだ。プロ試験もあまり調子が出ないようだし、彼の力はどうにも波が激しいようだな」
「・・・・・」
「塔矢アキラに匹敵するって言う人もいるようだけど、君はどう思う?」
「え、」
アキラは言葉に詰まった。
戦歴を見る限り、実はアキラはヒカルに一度も勝ったことがない。
このことが、いつもアキラの心から消えないのだ。彼がプロに上がって来てくれないとリベンジすら出来ない。
(今、打ったらどうだろう)
プロになり、上位者との対局の機会も増えた分、自分は確実に優位に立っている。
(負けはしない)
と思う。
しかし同時に、‘sai’が進藤なら、まだ自分には足りないものがあるような気もする。
(進藤の今の力が知りたい・・・)
そこまで、自分に執着させておきながら。
(何故、女なんだ!!?)
(何がどうなっているんだ進藤!!)
もう長い間進藤ヒカルには会っていない。
直接対決した区の大会からも随分たっているので、あれからの彼の成長ぶりは推測するしかない。
若獅子戦は観戦したものの、あまり参考にする気になれなかった。
プロ試験の勝敗はネットで確認出来ても内容までは訊かなければ分からない。
レッスンで会う越智も、あまり多くを語ってはくれない。
それで記者の天野に訊いてみたのだが、却って天野の言葉はアキラの心に陰を落とすことになったようだ。
こんな時思い出されるのは、最初に打ったあの二局。あの碁を打ち、初めて自分に壁を感じさせた男がプロ試験で立ち往生するのを、どうにも彼は受け止めかねていた。
相手は自分同様、青春真っ只中の中学二年生だという発想は、このストイックな男にはないのである。
天野は笑って
「そんなこと言っても答えようがないか。スマンスマン」
と、頭を掻いた。
たいした情報を得られないと知り、アキラは謝して帰宅の途につく。
だが、腹の中は煮えくり返っていた。
(僕のライバルともあろう者が、女だと!? 惰弱な!!)
彼は棋院の建物から出るや否や、ギリリと奥歯を噛み締めた。