LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白48〜黒53



白48

若獅子戦翌日は、いつもの院生研修日であった。
昼食の為に棋院近くのマクドナルドにやって来たヒカル達は、それぞれカウンターで注文した後、店内の窓際の一角を占居した。


この日のランチメンバーはヒカルの他、和谷、伊角、本田、奈瀬、福井そして小宮。
それぞれ食べ始めると、自然と昨日の若獅子戦の話題が出てきた。

小宮がポテトをつまみながら言った。
「それにしても、昨日の真柴さんの顔は見ものだったな」
奈瀬も同意して頷く。
「伊角くん、良くやってくれたわよ。マジすっきりしたもん、私」

それに対して伊角は頭を掻きながら苦笑いをして答えた。
「でもオレ、二回戦はダメだったしな」
「まあ、それはそれ。とりあえず、真柴をやっつけてくれたところが嬉しい訳よ」
「そゆこと。あの人何か勘違いしてるよな」

そこで和谷が自分に指差してアピールした。
「オレもがんばったろ?」

だがこれには誰も同意しなかった。
「オマエは腕力でがんばるな」
「ははは」
笑ってごまかす和谷に福井ことフクが訊いた。
「和谷くん、あの後、先生に怒られた?」
「おう。すっげー怒られた」
「馬鹿じゃん?」
「棋士は碁で勝負でしょ」
それに和谷は反論した。
「組み合わせで真柴さんに当たらなかったんだからしょうがないだろ」



 そこで伊角は、ぼけっとしてコーラのカップについたストローを噛んだまま、周りの会話に参加しないヒカルに気が付いた。
「進藤、まだ落ち込んでるのか」
声をかけられたヒカルは、面倒くさそうに目線だけ伊角の方に向けた。

「・・・・・別にそんなんじゃないよ」
「元気出せって。勝つ日もあれば負ける日もあるんだからさ」

和谷も言う。
「そうさ。結局一回戦勝ったのは伊角さんと越智と足立さんの三人だけで、二回戦も勝ったのは越智一人だったんだからな」
「それも寂しいけどね」
「なあ」

ヒカルはまた黙り込んでしまった。

「・・・・・」

「・・・・・」

「だーかーらっ、負けたのはオマエだけじゃねェっつってんだろ! いい加減落ち込むのやめろよ、進藤!!」

「・・・・・うん」

本田が言った。
「進藤って、プロ相手に勝って当然って思ってるところあるよな」
それを受けてフクが言う。
「進藤くんって負け慣れてないんじゃない?」

流石のヒカルもこれには呆れて口を開いた。何千局と打って、ついに一度も勝てなかった相手がいるのに何を言う。
「冗談じゃねェよ。森下先生の研究会じゃ、プロの先生相手にしょっちゅう負けてるって」


「進藤でもまだ、プロには力及ばずってことなのかな」
本田の言葉にヒカルは言った。

「でも、あの一戦は大事な対局になったよ」


今回はただの棋譜並べだったかも知れない。
しかし、一回目に打った時は、負けはしたが、「この一局で自分は強くなった」と確信できる、そんな対局だったのだ。
佐為と打っている時とは違う。
レベルが近い相手とのギリギリの真剣勝負。こんなワクワクする対局をしていたら、自分はまだまだ強くなれる。
そう思えた一戦だった。



―――――― ただ今回は、最初から負けると結果が分かっている碁だっただけだ。

そのために、自分と打ちたいと思っている塔矢アキラを失望させてしまった。
そして自分も塔矢アキラと本気の勝負が出来るチャンスを失ってしまった。

・・・・・それが悔しい。

ヒカルはテーブルの下で拳を握り締めた。






「話変わるけどさあ・・・」
小宮が言った。

「和谷と進藤には前に話したけど、オレ、イトコにパソコン貰ってさ、ネット碁っていうの? やってみたんだよ」

ヒカルと和谷は小宮の方に顔を向けた。

和谷が訊く。
「何だ、自分で設定出来たのか?」
「うん、まあ何だ。コツさえ掴めば出来るもんだな。設定の仕方も画面開けば書いてあるしな」

「何の話?」
奈瀬が聞いてくるのに、和谷は以前小宮がパソコンを手に入れるのを期にネット碁デビューを目論んでいた経緯を説明した。

「へーっ、ネット碁」
「対局してみた?」
本田の問いに小宮は答えた。
「みたみた。 本当にいろんな人が打ってたな。」
「段位別なの?」
「うん。他の人が打ってるのを観戦するだけっていうのも出来るし、結構面白かったよ。ああいうのもアリだよな」
「だろ?」
和谷は嬉しそうに言った。
「すごく強いって言われなかった?」
そこはそれ。院生様なんである。小宮は照れて頭を掻いた。

「言われた。まあ、オレ院生なんで当たり前なんだけど」

ネット碁のプレイヤーは殆どアマチュアなので、当然そうなる。
ただ、トップクラスになると、先日の世界アマに出てくるような実力者を始め、お遊びでプロが打っていたりするので侮るわけにはいかないが。

「でさ、前に和谷が言ってた、ええっと‘サイ’だっけ? オレはまだ打ててないけど、観戦はしたよ」



「!・・・・・・・・」
心臓が一瞬止まったかとヒカルは思った。



「saiが居たのか?」
和谷が小宮に尋ねる。
「居た。居るのは大体夜だけど、打ちまくってた」

ふーん、と和谷は関心なさそうに鼻を鳴らした。

「で? 強かった?」
それに対して小宮は、「はあ?」と声を上げた。

「強かったよ! そもそもプロより強いってオマエが言ったんじゃないか」
和谷は手をブンブン振った。
「そうだけどさ。saiはあのサイトで有名だったから、消えてからも名前を騙るニセモノが沢山いたんだよ。その中の一人かと思っただけさ」

「有名って何で分かるんだ?」
と本田が訊いた。
「分かるさ。去年の世界アマの出場者がsaiは誰だって訊きまわってたもんな。それに」
和谷は一度言葉を切り、効果を確かめるように次の言葉を口にした。

「あの塔矢アキラだって、プロ試験サボってまでsaiと打ってたんだぜ」
「えっ、初日の塔矢の休みってそれか!?」
小宮の問いに和谷は大きく頷いた。

これには事情を知っているヒカル以外の全員が息を呑んだ。
ネット碁のためにプロ試験をサボるなど、常識では考えられない。

ここにいる全員、何のために院生をやっているのか。
ただのお稽古事ではない。
彼らの唯一最大の目標。プロになるために院生でいるのだ。
そして、その過程としてプロ試験がある。

それをサボるとは塔矢アキラは、一体何を考えているのだろう。
彼にとって、プロ試験はそんなに軽いのか。

騒がしい店内で、彼ら七人、しばし沈黙した。





最初に沈黙を破ったのは奈瀬だった。
「そのサイってプロじゃないの?」
これに和谷が答えた。
「皆おんなじこと言うな。違うよ。大手合いの日だっていたんだから」



だが、それに対して小宮が首を傾げた。
「大手合い? ・・・いいや、それは関係ないだろ」
「え?」
「だって、ソイツの国籍って韓国だったもんな」

「・・・・・・・・」



ヒカルと和谷は顔を見合わせた。
「何だって?」

「仮にサイが韓国のプロだったとしても、対局スケジュールは日本と違うと思うぜ」

「それは、そうだ・・・けどさ」

(そんなワケあるかよ!!)

ヒカルは心の中で叫んだ。
何しろ佐為は千年も日本人をやって来たのだ。今更国籍を変更する訳がない。最も幽霊に国籍もへったくれもないが。

ヒカルの目の前で、フクが手にしていたオレンジジュースをズズーーっとすすり上げた。
「あああ、終わっちゃったあ」

だが、ヒカルと和谷はのん気なフクに気遣う余裕はなかった。

「それは、多分saiじゃ、ないと思う。saiは日本国籍で打ってた」
和谷が言った。
ただし、ネットの世界でのプロフィールは匿名性が高い。名前、性別、国籍。全てが本当とは限らない。


「サイってどういう字?」
伊角が訊いた。

「サイ? ‘psy’」
小宮が答えた。

「ピー、エス、ワイ? 違うよ。saiはエス、エイ、アイだ」
和谷はホッとしたように言った。
「別人だ! 何だよ、脅かすな」


殆ど口を挟まなかったヒカルもホッとして半ば笑って言った。
「オレもびっくりした。大体、ぴーから始まるんじゃ、サイじゃないじゃん。ぴーから始まるのはパピプペポだろ?」

しかし、それに対して小宮も伊角も奈瀬も本田も同意してくれなかった。

奈瀬は言った。
「進藤って、多分英語、苦手だと思う」
「ええっ」

何故それを!! とばかりにヒカルは胸を押えた。

本田が言う。
「ピーから始まるからってパピプペポとは限らんよ。例えば、映画の「サイコ」は‘PSYCHO’だろ」
「心理学の‘PSYCHOLOGY’とか」
「超能力の‘PSYCHOKINESIS’とか」
「他にも‘PHYSICAL’とか‘PHYSICS’とか」

和谷とフク以外の全員から畳み掛けるように指摘されて、ヒカルは「あー、」とか「うー」とか返事をするしかなかった。

和谷は「みんなっ、進藤を責めんなよ、コイツ馬鹿なんだからさ!」
と良く分からない庇い方をしたが、ヒカルは(絶対、和谷も分かってねェ!!)と確信していた。
フクはヒカルより年下なので分からなくても仕方がない。


それはさておき、サイ違いで紛らわしいが、気にはなる。

(久しぶりにワールド囲碁ネットを見に行ってみるかな)
と、ヒカルは思った。



考え事をしていて、また手元が留守になったらしい。
伊角がヒカルに声をかけた。
「進藤、食べ終ってないのオマエだけだぞ。さっさと食べちゃえよ」
時計を見ると、そろそろ休み時間も終わりだ。
「あ、うん」
ヒカルは残ったチーズバーガーを口に押し込んだ。


黒49

ところで、帰宅したヒカルはインターネットを利用するにあたって、一つ問題があるのに気が付いた。

財布の中を見てみたら残高が127円だったのだ。
「・・・・・金がねェ・・」


棋院への交通費には親からもらったお金で地下鉄の回数券を買っているが、いつもの六本木のネットカフェに行くためにはそこから自腹だし、祖母の家に行く作戦もあまり多用すると怪しまれる。そうかといって、ネットカフェに行きたいからお金下さいと言って親が出してくれるとも思えない。

交通費だけではない。家の近くのネットカフェに行ったとしても、やはりタダという訳にはいかないだろう。



(早く社会人になりてえな)

プロになればお金が入る。しかしそれまでは、ヒカルも何かと不便なお子様稼業なのだ。
何か手を考えなければならない。





 悩みは尽きず、月曜になって学校に行ってからも、休み時間中ああでもないこうでもないと考えながら、廊下の窓の桟に手をついて校庭の木を眺めるヒカルであった。
風に揺れる若葉の木漏れ日が美しい。もう季節は初夏に移ろうとしているのだ。


「あれ?」
ヒカルは窓越しに目の前の木の枝をマジマジと見つめた。
(・・・・・こんなトコに木なんてあったっけ?)


答えは背後からやってきた。
「ソコの桜って、この休み中に植えたんだってよ」

ヒカルが振り向くと藤崎あかりが立っていた。

「植えた?」
「そう。美咲って園芸部だから、さっき教えてもらったの。休み返上で作業だったって」
「だって木だぞ? どうなってんだあの部。いよいよ土木工事部か?」
「まさか生徒には出来ないよ。業者が来て植えて、その後のこまごまとした作業を園芸部がしたんだって」
(へえ・・・)
ヒカルは改めて目の前の桜の木を眺めた。青々と茂った葉が目の前で揺れた。

「春にはここから花見が出来るね」
「・・・そうだな」

(植えてすぐ咲くものだろうか)と、ヒカルは思った。
前回にこの場所に桜が植えられることはなかったので、どうなるのかは分からない。

卒業するまでに花が見られるといい。佐為は桜の花も好きだった・・・。



ヒカルは小さく溜息をついた。
感傷はいい。何れにせよ、また歴史が変わってしまったということだ。




 そんなヒカルの気持ちを知ってか知らずかあかりは言葉を続けた。
「そうだ。もうすぐプロ試験が始まるね。いつからだっけ?」
「・・・オレは今回予選免除なんで八月からだな」
ヒカルの言葉にあかりは怪訝そうな顔をした。
「・・・・・今回って、ヒカル受けるの初めてじゃないの?」

「えっ?」
いかんいかん、ウッカリしていた。
ヒカルは言い直した。
「・・・初めてだよっ」
「夏休み中でもネットで確認してるからね、がんばって」
「おう」

あかりの言葉に、(そうか、インターネットでも確認出来るもんなあ・・・)とぼんやり思ったところでヒカルは動きを止めた。


「あかり、今、ネットで確認するって言った?」
「え?」
「ネットって、何処で見てるの?」

ヒカルの声が俄かに真剣味を帯びる。世間話のつもりで軽く言ったあかりはちょっと引いてしまった。

「何処でって・・」
「オマエまさか!」
「ええっ?」
ヒカルがあかりの二の腕を掴んだ。
あかりは心臓が一瞬止まったような気がした。

何だこの展開は。
ヒカルが出した大声に周りの生徒達がチラチラこちらを見ているのが横目に入る。
ヒカルが、更にずいっとあかりに詰め寄った。

「ヒ、ヒカル?」
「あかり、パソコン持ってるのかっ!?」


あかりは一瞬何を言われたのか分からなかった。





「・・・・・・・・・はい?」
「だからパソコンだってば」

今やものすごく真剣な目で、今や学校の廊下で両肩を掴まれて詰問される藤崎あかりである。


「持ってるけど・・・・・」


その言葉にヒカルの表情がみるみる喜びに溢れてくる。その顔にあかりは思わず見とれてしまった。
(か、かわいい・・・・)
ヒカルはあかりの肩を離すと、ニコニコして言った。
「貸して」

「・・・・・え?」
「だから貸して。パソコン」

「貸す?」
「うん。どうしても使いたい用事があるんだけど、オレ持ってないんだ。だから」

ヒカルはニコニコしたままだ。
こんなヒカルの顔を見るのは何年ぶりだろう。それを思うとあかりとて期待には答えたい。しかし、あかりはうーん、と首を傾げて唸った。

「ダメ?」
ヒカルが訊いてくる。
「ダメというか・・・そのパソコンってお姉ちゃんと共用だし、それに、」
「うん」
「・・・ノートじゃなくてデスクトップパソコンなの。だから、はいどうぞって貸す訳には・・・」

口ごもりながら言うあかりに、ヒカルは「なーんだ、そんなことか!」と半ば笑いながら明るく答えた。

「そしたら、オレ、オマエん家行くよ! それなら問題ないじゃん」


「・・・・・・・」

あかりの心臓が今度は勝手に爆走を始めた。
(・・・・・うっそ)

「オマエん家って行くの、そういえば、すっげー久しぶりだよなあ、オマエはウチに来るけど、オレがオマエん家に最後に行ったのって小学四年の時だっけ?」

(・・・・・うっそ)

あかりが口をぱくぱくさせていると、始業のチャイムが鳴った。

「あ、チャイム鳴ったぞ。それじゃ行く日は放課後、囲碁部で決めようぜ。じゃな」

ヒカルは片手を上げると、鼻歌まじりに軽い足取りで、さっさと自分のクラスに帰っていった。



「うっそお・・・・・」
あかりが固まっていると、少し離れたところで様子を観ていた津田久美子が、足早に近づき、体当たりしてきた。
「きゃっ」
あかりは思わず悲鳴を上げたが、久美子は構わずあかりの肩を叩いた。
「あかりっ、やったじゃない!!」
「・・・・・ええっ?」
「進藤君のことだよっ! 良かったね!」
その言葉を聞いて、あかりの顔がみるみる赤くなる。
「・・・・・やだ、そんなんじゃないよ!!」

「何言ってるのよ」
久美子はあきれたように言った。

はっきり言って、「藤崎あかりが進藤ヒカルにラブっている」というのは、学年で知らぬ者のない有名な話だ。
クラスは別だが、休み時間や移動教室の際にヒカルを見つめる目を見てれば、誰が見てもバレバレなのであった。
そうなると当然、ヒカルの方もからかわれたりするので、もちろん本人も噂は知っているのだが、当のヒカルは「バカなこと言うなよ、あかりは幼馴染みなの!」の一点張りで取り合おうとはしない。
普通なら、それでも少しは気にしそうなものだが、ヒカルは佐為に会うことと、碁のことで頭が一杯で、それ以外のことに気が回らないのだ。
考えてみれば、結構かわいそうなあかりであった。


ところがである。
何やら話し込んでいたかと思うと、満面の笑顔で「オマエの家に遊びに行くからよろしくね〜」などという声が聞こえてくれば、これはもう、カップル成立だと周囲が思うのも無理はない。
中学生たるもの、主な興味の対象といえば、ファッション、芸能ニュースか受験じゃなければ恋愛に決まっているのだ。

久美子は報われないあかりを間近で見てきて、この二人を何とか出来ないものかとずっと気にしていたので「良かったねえ、あかり」と、しみじみと言った。

「だ、だから違うって・・・」
小さい声で反論していても、久美子はうんうんと、頷くばかりであった。

白50


その後のヒカルの行動は早かった。
放課後、あかりが囲碁部に行くと、既に待ち構えていたヒカルは、明日あかりの家に行くことを一方的に通告すると、さっさと帰っていった。
そして翌日、訳知り顔の久美子に送り出されて、ヒカルとあかりは藤崎家へ並んで向かうことになったのである。


 藤崎家はヒカルの家から徒歩十分程のところにある、洋風の一戸建て住宅だ。
道を曲がって、家の門が見えると
「うおー、懐かしーな」
と、ヒカルは声をあげた。
あかりの母親が趣味で作っているコンテナガーデンの横を通り抜け、玄関の扉を開けると、家には母親も、姉のかおりもいてヒカルを出迎えてくれた。

「・・・・・。えーと、こんにちは・・・」
「いらっしゃい」
勇んでやってきた割には、母親と姉を見て緊張してしまった風のヒカルがあかりには可笑しかった。
しかし、四年ぶりに来たというのは表向き。実はヒカルがこの家にやって来たのは八年ぶりなのである。
「ヒカル君、ちょっと見ないうちに随分大きくなったわねえ」
という、あかり母のお決まりの言葉に、ヒカルはあかりの方を見た。
まだ若干あかりの方が背が高い。
「いや、まだまだです」
と、ヒカルは小さい声で返事をした。


「ヒー君、パソコン使いたいんだって?」
「うん・・・」

かおりは右手を上げておいでおいでをして、ヒカルを呼んだ。
ヒカルがかおりの傍に行くと、かおりは口をヒカルの耳元に寄せてささやいた。
「使うのはいいけど、有料エロサイトとか見やがったらコロすよ」
「ぶっ」
ヒカルは吹きだした。
「かおりねーちゃん、相変わらずだなあ」
かおりは、笑いながら「ごゆっくりー」と声をかけ、そのまま玄関から出て行った。ちょうど出掛けだったのだ。
しかし、それで緊張が解けたらしい。「まいったな」と言って頭をかきながらもヒカルは思わず笑ってしまった。



 さて、あかりの部屋に入るとヒカルはぐるりと部屋を見回した。
「部屋の作りが変わってねェ?」
最後に来た時は姉妹の二人部屋だったが、来ない間に部屋の間に一部仕切りが取り付けられており、それぞれ独立した部屋になっていた。

「うん、お姉ちゃんも私も勉強するには別々の方がいいからね。パソコンはお姉ちゃんの机の上なんで、こっちだよ」
あかりはそう言って、デスクトップパソコンのある姉の机を指差した。
「おー、すげえすげえ」
ヒカルはパソコンを見るなり駆け寄り、うきうきとかおりの机の前に座った。
あかりが横から電源を入れる。
「サンキュ」
ヒカルはワールド囲碁ネットに接続し、いつもの登録名‘mitani’でログインした。
その様子を机の横から見ていたあかりはヒカルに訊いた。
「変なの。何で登録名が三谷君なの?」
「進藤でもヒカルでもまずい訳があったんだよ」
そう言いながら、ヒカルは画面を見つめた。



 一旦パソコンに向かうとヒカルはひたすら無言であった。打つでもなく、ただ他のプレイヤーの接続状況と碁のチェックをしている。
しばらく一緒に画面を覗き込んでいたあかりもそのうち退屈になってきた。
ヒカルの邪魔になるのも悪いので、自分のテリトリーに戻って塾の宿題を片付けることにした。




 それから約二時間、お茶やトイレ休憩はあったものの、二人はたいした話もしないまま時は過ぎた。
勉強もひと段落してあかりが自分の机で伸びをしていると、背後にヒカルが立っているのに気がついた。
「わっ、びっくりさせないでよ」
「・・・・・あかり、ありがとな。今日はもう帰るよ」
そう言われて、あかりは時計を見た。
「・・・あ、うん、もう六時だもんね」
「明日、また来る」
「・・・・あ、そう」

ヒカルは来た時とは打って変わり、うかない顔をして部屋を出て行った。
モタモタしている間にヒカルが母親に挨拶している声が聞こえる。あかりはあわてて後を追った。

「ヒカルっまたね」
玄関先であかりが声をかけると、ヒカルは「おう」と小さく返事をして帰っていった。

その様子にあかりの母親も少し気になったようだ。
「ヒカル君、どうかしたの?」
しかし、あかりは「さあ・・・」と答える他なかった。





 翌日、学校に行くと、早速久美子が事情聴取にやって来た。
「どうだった?」
「どうだったって・・・何もないよ」

だが、久美子の表情は疑わしそうだ。
「本当かなあ」
「本当だよ。ヒカルはパソコンで調べものをして、それだけで帰っちゃった」
「でも何か話とかしたんでしょ?」
「・・・あんまり・・・・・」
あかりは肩を落とした。少しも期待しなかったといえばウソになる。
だが、これ以上はない位、色めいたことは何もない訪問だったのだ。

「そのうちうまくいくから、元気だしなよね」
他に言い様もないらしい久美子のなぐさめを聞いてあかりは自分のクラスに向かうのだった。
(そうだよ、ヒカルは今日も来るって言ったしね)
あかりは自分を納得させるように小さく頷いた。




 それからヒカルは毎日放課後、あかりの家にやって来てはパソコンで他人の対局を見て過ごしていた。
そして数時間後、決まってがっかりした表情で帰途に着く。
ヒカルが来る度(今日こそは!!)と思うあかりだったが、画面をみつめるヒカルの熱心さに、なかなか声をかけられないでいた。


 ところでその間、ヒカルは姉の机の上にあるパソコンを占拠している訳である。
姉は高校生。ずっと机が使われているのは何かと問題がある。姉本人はともかく勉強をしてもらいたい親が気にし出した。
「ヒカル君、まだパソコン使いたいの?」
夕飯の時にそれとなく訊かれて、あかりも困ってしまった。




 そして、その翌日、ぶつぶつ言いながらパソコンの画面を見つめるヒカルに、意を決してあかりは声をかけた。
「ヒカル、ずっと画面眺めてるばっかりで、全然打たないけど、何見てるのよ」
「ああ?」
存在をすっかり忘れていたかのような顔をして、ヒカルは首だけあかりの方に向いた。
「・・・・・何見てるわけ?」
「・・・何回おんなじこと言わせるんだよ。ちょっと気になる打ち手がいるんで、そいつが碁を打つのを待ってるんだってば」

随分気の長い話である。

「それで? その人は現われたの?」
「・・・・まだ」
「ふうん」
あかりは画面を見た。多くの登録名が並ぶ。国籍もJPNが多いが様々だ。



そして暫くそのまま沈黙が続いた。
何か話さなければ、と思ったあかりは、あることを思いついて、それを口にしてみた。

「・・・・・ねえ、待ってるだけなら、私、その間にちょっと打ってみてもいいかな」
「え、オマエ打つの?」
一応囲碁部員である。そんなに驚くことはないではないか、と、あかりは思った。

「いいじゃない、やり方教えてよ」
ヒカルは少し目線を外に向けて何か考える風だったが「まあ、オマエのパソコンだしな」と言って、席を譲った。
しかし、あかりが座ってマウスを持ったところでヒカルはストップをかけてきた。

「ちょっと待て。オマエが打つんなら、登録名変えろ?」
「・・・・・ヘボじゃ不満?」
「そう言う訳じゃないけど、どうせ打つんなら自分の登録名があった方がいいだろ?」
そう言うとヒカルは横から手を出して、一度ログアウトして再接続した。

「何にする?」
「そうねえ・・・」
「‘natsume’は?」
(バカか? この男は)
「何で夏目君だよ!?」
ヒカルはうーんと唸って天井を見た。
「・・・さあ・・・部長だから?」
「関係ないじゃない」
「じゃあ、‘koike’」
小池仁志は今年の春に囲碁部に入部してきた一年生である。
「やだよ!」
「嫌われたもんだなあ。じゃあ‘tsuda’か‘kaneko’か好きな方を選べよ」
それなら‘shindou’でもいいではないか、とあかりは思ったが、流石にそれは露骨すぎて口にしかねた。
「あのねえ、囲碁部員の名前じゃなきゃいけない訳?」
「・・・・・あ、それもそうだな」

やはり、この男は少しおかしい様である。

「だったら、何か自分で考えろよ」
あかりは暫く考えて、そして、一つの名前をあげた。
「じゃあ、じゃあ・・・‘light’にする」

「ライト?」
「うん、あかりの意味でlight」
「ほーっ」
自分の名前の英語読みということもあるが、ヒカル転じて「光り」も同じである。これはいい考えだとあかりは思った。

「ライトねえ・・・」

ちょっとワクワクしながら、画面を見ていたあかりだが、打ち込まれた文字を見て眉をひそめた。

「ちょっとヒカル、‘right’って何?」
「ライトだろ」
「あかりのライトだよ! それじゃ‘右’じゃん!!」

ヒカルも眉間にシワを寄せて、画面を見た。
「・・・・・似たようなもんだろ。たった一文字じゃないか」
「・・・・・」
一文字違えば意味は大違いである。
あかりは少々不安になってきた。。
「ヒカル・・・・・やっぱり少しは学校の勉強もした方がいいんじゃ・・・」
「うるせェな」
「だって、やっぱり高校受験とかあるんだし」
それに対して、ヒカルはニヤリと笑って答えた。
「オレ受けね―よ」
「えええっ!!!」
あかりは驚いて思わず大きな声をあげた。
「ヒカル高校行かないの?」

「バカ言ってるぜ。オレは来年プロになるんだぞ? プロと言えば社会人。学校なんてもう行かなくていいんだ」
プロで高校生もいるが、そんな都合の悪いことは絶対に言わないつもりのヒカルである。

(ヒカル、一度でプロ試験に合格する気なんだ・・・)
あかりは、改めてヒカルを見た。
プロの世界など無縁でも、プロ試験にまつわる悲喜劇は、囲碁雑誌等で見て何となく知っている。
何度も受けて、やっと受かるような試験ではないのか。
(塔矢アキラに勝つ位なんだから、確かに実力はあるんだろうけど)

正直、あかりの実力では、プロ試験に合格出来る実力のレベルがどういうものか見当もつかない。

あかりが言葉を失っている間にヒカルは‘r’を‘l’にして再接続した。
「じゃ、やるか」
ヒカルはやり方を説明しだした。


それを聞きながら、あかりは横目でチラとヒカルを見た。
高校に行かないというのには驚いたが、とにかく今日は、二人並んで、パソコンに向かっている。

(これって、少しは前進?)


ヒカルが自分をどう思っているのかは分からないが、少なくとも明日は久美子に報告できることが出来たな、
とあかりは思った。


黒51

「あ、投了してきた!」
「うん」


あかりがネット碁を始めて三日目。
始めた時は自信がなかったが、やってみるとそこそこ勝てるので、あかりはだんだん面白くなってきた。
今も、相手が投了してきたのが嬉しくて、ヒカルにガッツポーズをして見せた。


「ヒカルが変なこと言うから全然ダメかと思ってたけど、私でも結構勝てるのね」
それを聞いてヒカルは苦笑いをした。

「それは、オマエに合ったレベルで打ってるからだよ。それに囲碁部ではオレが教えてるんだから勝てるのは当たり前だろ」
「うわ、すごい自信」
「オレ、自分でも教えるのは上手いと思うぜ。現に囲碁部の奴ら、みんな棋力アップしてるしな」


囲碁部顧問のタマ子先生は、囲碁そのものには全く不案内である。
皆に何とか教えられる実力があるのは、三谷と金子くらいだが、三谷はサボりが多いし、金子はバレー部と兼部なので、あまり来られない。

前回は囲碁部に出入り禁止になっていたので、そんな状況の中で運営されている囲碁部を心配しつつも手が出せなかったヒカルは、今回は時間が取れる限り協力しようと考えていた。

ヒカルの師匠、藤原佐為は最強の打ち手であるとともに、非常に優秀な教授者でもあったので、自分が初心者だった時に彼がどういうやり方で教えようとしていたかを思い出すと、
囲碁部で教える時の参考になる。

「進藤先生だもんね」
あかりはからかいの笑みを浮かべた。
「プロ試験に受かったら、それ洒落じゃねェからな」
(その為にもプロ試験は落とせねェ)
とヒカルは思う。




「さて、終わったんだから、エントリー表見せろよ」
「うん」

ヒカルはパソコンの前に座ると、画面を切り替えて現在エントリーしているプレイヤーのリスト画面にした。
そしていつものように画面をスクロールして、お目当ての登録名を探す。
といっても‘psy’の段位が低いわけもないので、九段か十段を中心に探せばそれで終わりだ。
あかりの家でパソコンの画面を眺めて何百回更新しても、例のヤツは現われない。
小宮の言うように夜、つまりもう少し遅い時間を狙うべきだろうか。しかし流石にあかりの家でそれは出来ない。
今日も多分ダメだな、とヒカルは半ばあきらめていた。しかし。


「あっ、居た!!」
「えっ」

画面上に‘psy’の名前があがっていたのだ。

ヒカルとあかりは呆然と顔を見合わせた。
プロ試験前のこの忙しい時期、この家に通いに通って十日。そろそろ断念しようかと思い始めていた、その矢先のことである。

「・・・・・ヒカル、観戦しなきゃ」
「お、おう」


あかりに促されたヒカルは、唾を飲み込むと観戦ボタンを押した。
(どんな碁だよ?)
すると碁盤が現われ、その時点までの碁が一手ずつ高速表示されていく。
この時点で手数は九十二手。psyは白番で十段格。相手の黒は九段格だ。

「・・・・・・・・」

小宮が言った通り、確かにpsyは強かった。というより、黒は相手になっていない。
(だがこの白。佐為じゃないけど、誰かの碁に似てる・・・・・)

碁の流れを見つつ、ヒカルは頭の中のライブラリーから、該当する棋士を近似検索していく。

「・・・・・・・・」

嫌な予感がした。

一方、画面を見つめるヒカルの顔がにわかに険悪な表情になっていくのをあかりは不安な気持ちで見つめていた。

「ありえねェ・・・・・」
「ヒカル、心当たりあるの?」

ヒカルもあかりの顔を見た。
心配そうな顔をしている。もしかすると自分は顔色を変えているのかもしれないと、ヒカルは自分の頬に手を当てた。
時計を見る。もう七時をまわっていた。
画面に視線を戻すと、黒が投了するところだった。

会話するかと思いきや、psyはたちまちプレイヤーリストから名を消した。
「早えーよ」
ヒカルは小さく舌打ちすると、ログアウトした。
「ヒカル・・・」
あかりが再び声をかけるのに応えるようにヒカルは立ち上がって言った。

「帰る」
「えっ?」
「これ以上見てても、今日はもう、ヤツは打たないと思う」
ヒカルはそう言って、自分のカバンを取り上げた。
そして、あかりの母親に声をかけると、いつものように玄関から出て行った。

それを見送って、あかりは自分の部屋に帰りながら、
(今日はヒカルのお目当てのプレイヤーが現われて良かった)
と、ぼんやり考えた。
(明日も現れるといい。そしてヒカルが対局出来るといいのに)







 そのヒカルは、日が暮れて薄暗くなってきた道を自宅に向かって歩きながら、先程の碁を頭の中で反芻していた。


‘psy’は 韓 国 の プレイヤー と し て 打っている、と小宮は言っていた。

psyの碁を見ていて、韓 国 流 の 打 ち 手 であることはすぐにわかった。
だからといって、psyが誰かなどすぐに特定できるものではない。
プロでなくても、ものすごく強いアマチュアなどいくらでもいるのだ。
ヒカルが何日もかけてネット碁のサイトを見ていたのも、実のところ「サイ」繋がりから来る単なる興味でしかなかった。

それに例えプロだとして、中韓の棋戦もそれなりにチェックはしているとはいえ、今だヒカルもそれほど海外の棋士について詳しいわけではない。


だが、それでもこの碁から、ヒカルはある人物を思い浮かべずにはいられなかった。


無駄に尊大な態度。ヒカルを含む公衆の面前で何の脈絡もなく秀策を見下すかの態度を取ったあの男。





「高永夏・・・・」


ヒカルは口の中で小さくつぶやいた。




 高永夏(コ ヨンハ)三 段 は 韓 国 の 若 手 ナンバーワンの呼び声高い棋士である。
プロになったのは十三歳の時。プロになったばかりの頃は成績が低迷するも、すぐにメキメキと頭角をあらわし、タイトルを取るのも時間の問題だといわれている。
国際棋戦もこの年、第三回春蘭杯世界プロ囲碁選手権の出場者に選ばれる程の実力者であった。


そして運命の平成十四年五月の日中韓ジュニア北斗杯のレセプション。
彼はヒカルの顔を見ながら壇上でこう言い放ったのだ。
『本因坊秀策など、もし今現れてもオレの敵じゃない』と。

その日だけではない。
週刊碁の古瀬村記者によれば、その前にもインタビュー時に『本因坊秀策なんかたいしたことない』と語ったのだと言う。

本因坊秀策といえば、まさに棋聖である。過去の偉人として尊敬をもって扱われるべき存在だ。・・・・・というのは本当だが、理屈でもある。
碁の布石や定石も日進月歩である以上、『敵じゃない』と言えば、そういう面が全くないとは言い切れない。
しかしヒカルの頭の中では「秀策」イコール「佐為」なのである。
ヒカルにとっては、


『藤原佐為など、もし今現れてもオレの敵じゃない』
『藤原佐為なんかたいしたことない』

と言われたのも同然であった。

(何だとお! よくも佐為を馬鹿にしやがって。許せねェ!!)

と、ヒカルは佐為に代わって、どうしても高永夏を倒さなければならないと思いつめるに至ったのである。




 実は高永夏の最初の発言は、稚拙な翻訳に端を発する誤解だったのだが、この時点でヒカルはその事情を知らない。
しかも、それを知った高永夏が面白がってレセプションでの発言につながり、ヒカルの誤解は解けることなく放置されてしまったのだ。

北斗杯の直前、以前からの知り合い(今回はまだ出会っていないが)の洪秀英(ホン スヨン)に、「永夏は小さい頃から知っているが、彼がそんなことを言う訳がない、誤解だ」と言われた。
「彼は本当に碁に対して真摯だし、勉強家だし、尊敬している友人なんだ」とも言っていた。

そうとも。だから秀英にとってはいい人でいい兄貴分なんだろう。そこまでは否定しない。だが、自分にとっては・・・・・
ヒカルは再びあの日の高永夏の顔を思い浮かべた。
「・・・・・」

(やっぱりイヤな野郎だぜ―――――― っ!!!!!!)





 その北斗杯では団長だった倉田厚六段に頼み込んで、大将にしてもらったのに半目及ばず高永夏に負けを喫した。
そして、その直後に・・・・・・・それが何故だか全く分からないのだが、小学六年生の時点に逆戻りしてしまったのである。



「何でアイツが、今ここに出てくるんだろう、っていうか、psyって本当にアイツなのかな」
そういう気がするというだけで、ヒカルにも断定は出来ない。

過去の碁だということもある。
ヒカルが知っている平成十四年五月時点の碁と比べれば、棋風も変わっていないとは言い切れない。先ほどのネット碁では、黒との実力差もあって、psyの白は力半分で打っているということもある。

「psyが高永夏だったとして、前回もアイツはワールド囲碁ネットで打っていたんだろうか」
これも今となっては確認の取りようもない。


分からないことだらけであった。







 そのようにあれこれ考えているうち、ヒカルは自分の家に着いた。呼び鈴を押して玄関を開けてもらう。
いつものように、ヒカルは靴を脱いで家にあがろうとした。が、それは出来なかった。それを阻むように母親の美津子が立ちはだかっていたからだ。


「・・・・・何?」
「ヒカル。アンタあかりちゃんの家で勉強していたんじゃなかったの?」

白52

勉強していたんじゃないのかと、帰るなり母親に問い詰められてヒカルは困った。

「う・・・勉強・・・してたよ」
「何の?」
「だからパソコンで、」
「碁を打ってたのよね」
(知ってるんじゃねェか!)


「・・・・・打ってたんじゃなくて他の人の碁を見たり、あかりに教えたり・・・・・」

美津子は呆れたように首を振ると、
「今日、スーパーであかりちゃんのお母さんに会ったのよ。アンタずっとかおりちゃんの机を占領してるんだって?」
「だ、だってそれは、かおりがいいって言ってたんだし」
「良い訳ないでしょ! かおりちゃんは受験生なの! 一日だけならともかく二週間もだなんて、お母さん話を聞いてすごく困ったんだからね」
ヒカルは内心舌打ちした。
(なんだよ、あかりのお母さん、ウチの親に言う位ならオレに直接言えばいいのに)

「もう、いいからあがんなさい、晩ごはん出来てるから」と言って、美津子は台所に方に行ってしまった。
機嫌の悪い母親の対応に少々不安を覚えながら、ヒカルは自分の部屋にカバンを置きに行った。
あかりの家に行くのに、勉強すると言っておけば文句は言われまいと思ったのだが、そううまくはいかなかったらしい。





 その後ダイニングキッチンに入っていき、食卓につこうとしてヒカルは立ち止まった。ヤバイと思った。そこに彼の父親が座っていたからだ。
彼は食事の前の晩酌を始めていた。そしてヒカルの顔を見ると「よう、お帰り」と声をかけてきた。


「・・・お父さん、早いね」
ヒカルは努めて平静を装い、自分の定位置の椅子に座る。
美津子も、エプロンを取って座ると「いただきましょう」と言った。

今日の献立は肉じゃがとヒジキの煮物、あじのたたきとサラダに味噌汁に御飯。和風である。
「・・・・・いただきます」
と、気分も和風に地味目なヒカルは小さい声で言った。言いながら、どうやってこの場を乗り切ろうかと、頭の中を回転させ始めた。
しかし、かわいそうな位ヒカルの頭脳は囲碁専用に出来ているようで、良いアイディアは全く浮かんでこない。結果、ヒカルはただ黙々と箸を動かすのみであった。


その不自然に静かな食卓で、最初に口を開いたのは正夫だった。
「こうやって、三人で夕飯食べてると、日曜日みたいだな」
ヒカルは少々ほっとして受けた。
「ホントだね」
食卓が(少しは)和んで良かったと思ったのも束の間、美津子が先ほどの話を蒸し返してきた。
「ヒカル、もうあかりちゃんのところでパソコンをお借りするのは遠慮しなさいね」

(せっかくpsyが出てきたところなのにそれはねェだろ)と、思ったヒカルは、不満そうに母親を見た。

「・・・あかりのお母さん、迷惑だって言ったの?」
「・・・まさか、そんな言い方はしないわよ。大人はそういうことは上手に言ってくるものなの! でも、ご迷惑になってることは確かなんだから。分かるわね?」

(分からねェよ)
そう言いたいのは山々だが、父親の前であまりブーブー言うのもまずい気がしてヒカルは黙した。雰囲気から察するに、この話は自分が帰宅する前に親達の間で話し合われたと思われる。叱られたくなければ迂闊なことは言わぬが花だ。

しかし困った。ここであかりのパソコンが使えなくなるのは痛すぎる。またネットカフェ通いに逆戻りするしかないのだろうか。しかし予算不足は解消されないままだ。
(じーちゃんに頼って何とかならないかな)
などと、仕舞いにはムシのいいことを考え始めた。


考え込むヒカルは、端から見るとふて腐れているように見える。
返事をしないヒカルに向かって美津子は更に続けた。
「ヒカルが囲碁に熱心なのは悪いことじゃないってお母さんだって思うわよ。でも限度ってものがあるでしょ。
アンタ囲碁を始めた頃は成績も上がっていたし、勉強もがんばるんだろうと思っていたのに、最近は囲碁以外はしないって感じじゃないの」
「・・・・・」
「まだ中学二年だって、のんびりしてるのかもしれないけど、すぐ高校受験なんだから少しは考えないとね」
「・・・・・」


何だか話が非常にイヤな方向に向かってきたようである。
ヒカルは答えないまま、一刻も早く食べ終って自分の部屋に退散しようと、箸を動かす手を早めた。

「お父さんも少しは言ってやってよ」

その美津子の一声で、それまで聞き役に回っていた正夫が口を開いた。

「ヒカルはパソコンを使いたいのか?」
「・・・・・・」
(あいたたた――!!)結局お父さんにも怒られちゃうのかとヒカルは暗澹たる気分になった。


「ええと、ええと、あかりの家で勉強をすると言ったのは、それは・・・」
「そんなことは訊いていない。お父さんは使いたいのかそうじゃないのかって訊いてるんだ」
「あ、そっか。ええと、ええと、使いたい・・・よ」
使いたいかどころか、家のパソコンが使えれば、わざわざ、あかりの家に日参する必要もないのである。しかし、それは父親が仕事で使っているという理由から出来なかったのだ。

「じゃ、お父さんのを使えばいい」
「ええ?!」
ヒカルは驚いて箸をテーブルに落としてしまった。
「どうしたの急に。使っていいの?」

美津子も驚いて夫の方を見た。
「待って。あなたのパソコンは仕事用じゃないの?」
「いや、それがさ」と正夫は言った。
「最近は会社の情報管理がきびしくてさ、家での作業が出来なくなったんだよ」

わが国で個人情報保護法が全面施行されたのは平成十七年四月だが、その他の企業情報漏洩防止等の理由で、施行の数年前から社外でのデータ管理や作業を禁止する企業は多かったのである。

「だからって、そんな簡単にいいの? この子ますます勉強しなくなるじゃない」
「碁の棋譜を管理するのにパソコンが必要なんじゃないかって会社の後輩が言っていたんだよ。そういう理由で使うんじゃないのか?」
話を振られて、ヒカルはどぎまぎしながら、答えた。
「そう! そうなんだよ!!(良く知らないけど)絶対必要だってば!」
棋譜管理に関しては、まだ考えていなかったが、パソコンユーザーになれば使うだろう。
やり方は和谷に聞けばいい。そう考えて、ヒカルは言い切った。

「お父さんが使ってない時だけだぞ」
「うん!!」

てっきり叱られるのだろうと思っていたら、この展開である。
碁に関してのみ、自分の運は限りなくいいらしい。というか流石は碁の神様にいいように振り回されているだけのことはある。と、ヒカルは今だけ天に感謝した。

「そういうことなら、もうあかりの家に通わなくても大丈夫だよ。明日あかりにそう言うから」
と、ヒカルは満面の笑みを浮かべて答えた。
対照的に美津子は夫の顔を睨む。ヒカルはそれを見ないようにして父親に言った。
「ね、お父さん、ごはん食べ終ったら、早速使っていい?」
「・・・いやに張り切るなあ」

「ヒカル、今度の試験、成績落としたらお母さん、考えがあるからね」
「オレにも考えがあるから平気さ」
母親の言葉にヒカルも負けずに言い返した。
(そして、永久に学校の成績がカンケーない世界に行くのさっ)

と、パソコンが使えることになった嬉しさに心を踊らすヒカルは、それから、あっという間に食事を終えると、
「先にお父さんの書斎に行ってるね」と席を立った。



ヒカルが二階に上がっていく音を聞きながら、美津子は正夫を咎めた。
「あなたはヒカルに甘すぎよ。少しはあの子に勉強させなきゃ」
「でも、これで藤崎さんの家にかかっている迷惑は解消されたんだろ? いいじゃないか、今はそれで」
「パソコン使うなら、その分学校の勉強もしろって、ちゃんとあなたから言ってやって頂戴!」
美津子はそういうと、後は黙って食事を再開した。





正夫の書斎は二階に上がって、廊下の突き当たりの三畳間だ。
何のことはない、いわゆる納戸を書斎がわりにしているだけのことである。
どんなに小さくても自分のスペースが欲しいという、男のささやかな願望の結晶がこの机が一つとオーディオセットだけが置かれた部屋なのだ。

正夫は書斎に入ると、先に来て待っていたヒカルに向かってニヤリと笑ってみせた。
「ヒカル、お父さんの城に来たな」
「えへへへ」
ヒカルはニコニコしながら、父親が机に座りやすいように場所を譲った。
正夫はオフィスチェアに座って、机に上に鎮座するデスクトップパソコンの電源を入れた。

「おまえ、使い方は知ってるんだろ」
「うん」

そこで、正夫は息子に、作ったデータの保存場所の指定やら、Eメールのアカウントの切り替えやらの注意事項を伝えた。
「開けちゃダメなところは、制限入ってるから無理にいじるなよ」
「囲碁関係とメール以外は使わないから大丈夫」
「使い終わったら、電源落とすの忘れるな」
「うん」

正夫はヒカルが早くパソコンを使いたくてうずうずしているのを見ながら言った。
「ところで、ヒカルは本当に囲碁のプロ試験を受けるつもりなのか」
「えっ?」
急に訊かれてヒカルは驚いてしまった。
院生試験に受かったところで、この問題はクリアされたと思っていたのだ。

「も、もちろんだよ。オレはプロになるんだってば」
「おまえが毎日碁の勉強してるのはお父さんも知ってるけどな」
「うん!」
「高校はどうするつもりなんだ?」


いきなり直球が来た。

「・・・・・・プロになったら行かないよ」

正夫は腕組みをして、うーん、と唸り、上を向いた。

「やっぱりか。ひょっとしたら、そういうつもりなんじゃないかとは思ってたんだ」
「そ、そりゃあ、そうだよ。だってプロって社会人だもん。学校なんて行っていられないよ」
「それとこれとは話が違うぞ。社会人でも学校に行っている人はたくさんいる」

つまり勤労学生という訳だ。ますます話はヒカルにとってマズイ展開になってきたようである。

「オレは碁に専念したい。だから行かない」
「・・・・・ふーん」
「・・・・・・・・」
「学校の勉強がイヤだから、という訳じゃないんだな」
正夫はこれを微笑みも、冗談めかしもせずに真顔で訊いて来たので、ヒカルは後ろめたい気持ちになってきた。碁に専念したいのは本当だが、興味のない勉強から解放されたい気持ちも少なからずあるのだ。

「・・・・・学校の勉強は確かに苦手だけど、でも碁のプロは中途半端でやっていける世界じゃないんだ」
とだけ答えた。
「それはそうだろう」
正夫も短く言った。そして、「まあ、実際にどうするかはプロ試験の結果の後だな」と言い、続けて、「目先のこ
とだけじゃないぞ。簡単に決めずに良く考えておけよ」と言った。

ヒカルは小さく頷くと、パソコンの画面に向き直り、いつものネット碁の画面を開いた。
手馴れた様子でプレイヤーリストを検索する。・・・・・やはり、今日はもうpsyは打たないようだ。

「・・・・ お父さん、ちょっと打ってみない? 教えるよオレ」
ヒカルはそう誘ってみたが、正夫は小さく笑って言った。
「・・・・ お父さんはなあ、おまえ位の年の頃、お父さん的に一生分打ってしまったんで、もう碁はいいんだ」

その言葉に、碁好きの祖父と父親との間の攻防戦が想像出来てしまったヒカルは引き下がることにした。
「あー・・・そ、分かった」
「今日は後ろで見てるから、好きに打ちなさい」
「はーい」

そしてヒカルはいつもの登録名でログインし、対局してもらうプレイヤーを選び始めた。


黒53

その翌日、学校に行った藤崎あかりは地の底まで落ち込んでいた。
昨日の夜までは幸せだったのに、この落差は何なのか。
もうヒカルに合わせる顔がない。絶対に嫌われたと思う。


「お母さんの馬鹿・・・・・」

あかりは教室に向かう廊下を歩きながら、昨日の夜から何十回目かの言葉をつぶやいた。
「どうしたのあかり」
後ろから声がかかる。津田久美子だ。
あかりは振り返るとジト目になって言った。
「・・・・・私、もうだめ」
「な、何があったの・・・」
あかりは久美子の耳元近くに顔を寄せ、小声で打ち明けた。
「昨日、ウチのお母さんが、ヒカルのお母さんにパソコン使うのそろそろ遠慮してくれって言っちゃったんだって」
「え―――――っ!」

「やっとヒカルのお目当ての人が昨日出てきて、ヒカルすごく喜んでたのに、ねえ、こんな時に言わなくてもいいのに」
「それで?」
「ヒカル、きっとおばさんに怒られたと思う。だってお姉ちゃんの机でやってることも言ったらしいもん」
「あらら・・・」
「・・・実は前から、いつまで使うのか訊けとは言われてたんだけど、ほら、私もつい楽しくなっちゃって・・・・・」
と、いうか下心があった訳だ。


「・・・・・いやあ・・・でも、それは進藤君だって分かってると思うよ。とにかく会ってあやまっちゃえば許してくれるよ」
「そうかなあ・・・」
「そうだよ。そもそも、あかりの方が貸してあげてた訳だし、文句言われる筋合いじゃないよ」

あかりは浮かない顔で久美子を見た。筋合いなどは関係ない。単に惚れた弱みなのだ。


せっかく二週間も自分の部屋に来てくれていたのだから、この間にもうちょっと何とかしようがあったはずなのに・・・・・と、あかりは落ち込んでいた。

だが、そういう雰囲気には全くならなかったし、それにあかりの方も折角これまで幼馴染みとして親しくしてきたのに、告白なんかして関係が崩れることが怖かったのだ。
あかりはオープンなようで、結構奥手なのである。




 その時だ。あかりは突然背中を叩かれた。
久美子が口を押えるのが一瞬見え、振り向くと、全身から嬉しさ一杯といったオーラを発した進藤ヒカルが立っていた。
「!?」
「おはよっ、あかり!!」
あかりは驚いてしまって、声も出せずに立ちつくした。

「おはよう、進藤君」
かわりに久美子が返事をした。
「おーっす、津田」
(・・・・・・・)

あかりはヒカルの様子を観察した。機嫌が良い。何故だ?
「聞いてくれよ! オレ、お父さんのパソコンを使っていいことになったんだ」
「・・・・・え?」

「あかりのお母さんがウチの親に言ってくれたお陰だよ! いや、助かった。今までありがとうな」
「・・・・・・・う、ううん」

「じゃな」
ヒカルは、それだけ言うと、自分のクラスの方へ行ってしまい、あかりは二の句も継げずにそれを見送った。

「・・・・・」
「・・・・・あかり、進藤君怒ってなくて良かったじゃん」
「・・・・・」




今、ヒカルは何と言っていたのか、あかりは心の中で反芻していた。

『お父さんのパソコンを使っていいことになったんだ』 だって。

(何よそれ!?)
(おじさんのパソコンが使えるようになったら、もう私はいいわけ?)
「・・・・・」
(失礼すぎ)
あかりは段々腹がたってきた。

客観的に見れば、『今までパソコンを使わせてもらってきたけど、自前で調達できるようになったので、もう借りなくても大丈夫。ありがとう!』 という、ただそれだけのことなのだが、下心満載の乙女心からすると、それだけではすまないらしい。

あかりは拳を握り締め、ヒカルの立ち去った廊下の先に向かって叫んだ。
「何よっ、ヒカルのバカっ!!」
「あ、あかり・・・落ち着いて」
久美子のなだめる声が耳に入ったが、あかりの怒りはその後しばらく収まることはなかった。






 さて、その無頓着大王進藤ヒカルは、父親のパソコンが使えるようになってから毎日定期的にpsyチェックが出来るようになった。

チェックしてみるとpsyは数日ごとにエントリーしているようだ。
何のことはない。ヒカルがあかりの家に日参してパソコンを覗いていた時と時間帯が合わなかっただけのことなのだ。藤崎家にとっては要らぬ迷惑だった訳である。



 psyの碁の内容を見ていて、よくもまあ素人相手に容赦なくバッサバッサとやっつけるものだ。と、ヒカルは自分のことを棚に上げて感心していた。

一体どういうつもりで、psyはこのサイトにエントリーしているのだろう。
psyが高永夏かどうか確認したいヒカルだが、何局観戦しても対局者とのレベルの差がありすぎて判断はつかなかった。
それなら自分で打てば何か分かるだろうと、対局を何度も申し込んでみたが、タイミングが合わずに今だ対局は叶わないままだ。
ネット碁仲間でもある和谷に意見を求めても、「海外の棋士までチェックしてねェよ。psyよりはsaiの正体の方が知りたいぜ」と言われてしまって終わりである。



(他にこの件で話ができそうな人物はいないか)
と、考えて思い出したのが、藤井正弘三段。
昨年の夏休み、ヒカルがネット碁でうっかりやっつけてしまったプロ棋士である。
頻繁にネット碁で遊んでいるという話なので、psyについても何か情報を持っているかもしれない。
善は急げで連絡を取ってみようと、ヒカルは以前、冴木に紹介された時に渡された連絡先の書かれたメモを探した。

「あった」
ヒカルはカバンの内ポケットの奥の方にくしゃくしゃに折れ曲がったメモを見つけた。
携帯の電話番号とメールアドレスが書かれている。

ヒカルは折角だからEメールを送ってみようと思ったが、文字を打つのがものすごく遅い自覚があるので、それは次回に譲り、電話をかけることにした。
後年、パソコンと携帯電話で一日百件はメールを打つことになる進藤ヒカルであるが、誰しも初心者の頃はあるのだ。

ヒカルは家の玄関の脇においてある電話の受話器を取って、メモにあるナンバーを押す。発信音が数回鳴ったあと、藤井は電話に出てくれた。



挨拶もそこそこに、ヒカルは本題に入った。
「藤井さんはワールド囲碁ネットに最近いる‘psy(ピ・ーエス・ワイ)’って知ってる?・・・じゃなくて知ってます
か?」
「うん。スペル違いの‘サイ’ね」
(さすが藤井さん)とヒカルは受話器を握り締めた。
「打ったことは?」
「俺はないよ。でも最近注目されてるみたいだから、時々観戦はするよ」

「・・・・・」
「で、俺に何が訊きたいの?」
「・・・psyってプロだとオレは思うんだけど、藤井さんは誰だと思う?」
「・・・・・ああ成程、そういうことか」
藤井はそれから暫く考えているようだった。

「プロかもね。しかしあのサイトは基本的にアマチュア用だろ? プロが力半分で戦っても分からないよ。よっぽどその棋士の特徴が出てれば別だけど」

・・・どうやら、藤井はヒカルと同意見らしい。
「・・・オレはpsyは高永夏じゃないかと思うんだけど」

「・・・・・・ああ、韓 国 で 最 近 台 頭してきた若手ナンバーワンって人か。雑誌で見たことはあるけど、psyがそうかまでは俺にも分からないな」
「・・・・・」
「不勉強で申し訳ない。でもそれがどうかした?」


「・・・ううん、何でもない。ただ気になって。藤井さん、何かpsyのことで情報があったら、何でもいいんでオレに連絡もらえます?」
「ああ、それはもちろん」


ヒカルは電話を切った。お察しの通り、かなり落ち込んでいた。
「ちぇっ、何だよ! 結局何にもわかんないじゃないか。」

口の中でぶーぶー言いながらヒカルは自分の部屋に戻っていった。




 それからも、(オマエは暇なのか!?)とツッコミを入れたい位、‘psy’はエントリーしてきていた。相変わらず‘mitani’との対局はかなわないままだが・・・
しかし、画面を見ながらヒカルは一つ気が付いたことがある。

psyは‘sai’からの申込みは受けることにしているらしい、ということだ。

‘sai’とは言っても、佐為ではないので偽‘sai’だ。
偽‘sai’とは文字通り、伝説の不敗棋士‘sai’を騙って参戦する不埒者のこと。多くの場合はヘボヘボで、期待に胸膨らませた対局者や観戦者の怒りを買っていた。

(コイツひょっとして佐為と打ちたいのかな?)

psyが高永夏だとしたら、それは面白い対局だ。
何しろ、「秀策などもし今現われてもオレの敵じゃない」発言をした男である。
本当に敵じゃないかどうか、目にモノ見せてやりたいヒカルなのだ。

saiは秀策だが、高永夏の知っている江戸時代の秀策ではない。
現代の定石を知った、秀策のハイエンドモデルなのである。そうそう勝てるなどとは思ってもらうまい。


psyがsaiと打ちたがっているのなら、ヒカルが‘sai’でエントリーすれば対局は叶うだろうが、残念ながらそれは出来なかった。

ヒカルは囲碁の実力に関しては、自分にも他の棋士に対してもプロとしてシビアな目を持っていた。
自分の力を信じることと自信過剰は別物であることも(意外なことに)わきまえている。
そして自分が棋士としてまだまだ佐為には及ばないことも良く分かっていた。

北斗杯で後一歩のところで破れた高永夏ともう一度戦いたい気持ちはあるが、佐為を騙ってやっとで勝ったり、ましてや負けるなどということは間違ってもあってはならないのだ。
‘sai’として対局したいなら、あっさり高永夏を退けるだけの棋力がいる。
そう言う訳で、今日も‘mitani’は執念深く、対局を申し込んでは失敗し続けているのだ。



そして今。ヒカルが‘psy’に対局申し込もうとした瞬間、‘psy’はエントリーリストから姿を消した。

「・・・・・・・・」

ヒカルの眉間に皺が寄る。

「何だよ――――――――っ!!! ちょっとはオレと勝負しろよっっっ!!!!!」

ヒカルの怒号が家中に響き渡り、そしてその数秒後「静かにしなさいっ!!!」
という彼の母親の声が階下から聞こえてきた。