LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白10〜白14



白10

とにかく一度見たら忘れられない顔だと和谷義高は思った。

顔というより頭だ。何なんだこのツートンカラーな頭は。
黒髪をベースに前髪の外側だけ見事に金髪でメッシュを入れている。
いや、今どきこんな頭はいるけど。
金髪だって別にめずらしいわけじゃないけど。
この前髪メッシュをキープするのは大変だろうなあ。

と、進藤ヒカルに対する和谷の感想は、彼を初めて見た大抵の人々同様、そんなところだ。
とてもじゃないが、碁を打つようなタイプには見えない。
右手に持った扇子だけが、彼が棋士志望であることを主張していた。


ここは日本棋院。今日は森下九段の研究会が行われる日だ。プロ三段の冴木と院生の和谷は、六階の対局場で師匠の森下や他の高段者が来る前に碁盤や座布団を運ぶなど準備をしていた。

今日、白川道夫七段が小学生を研究会に連れてくるという。
自分が講師をしている囲碁教室にただならぬ才能を感じる子が来ている。
と、少し前に語っているのは聞いていた。
その才能の程を師匠筋の森下に見てもらいたいというのだ。


「良かったな和谷、やっと年下が来て」
と話を振る冴木に
「まだわからねェよ」
と和谷が口を尖らせた時、白川が現れた。
「やあ、ごくろうさん」
と、二人に声をかけた白川の後ろに小柄な少年が立っていた。
彼は和谷の顔を見ると何故か非常に嬉しそうな顔をした。しかし、ふと何かに気付いたようにポーカーフェイスに戻り、そして軽く頭を下げた。



そして、前述の和谷の感想に戻る。
しかし碁は本人の見てくれではなく棋力が全てだ。

その後しばらくして森下がやって来て、白川がその少年、進藤ヒカルを紹介した。
そして二言三言、言葉をかわした後で
「じゃあ、見ようか」
と森下はヒカルに声をかけ、他の棋士達から少し離れた場所に碁盤を移して対局を始めた。


同時に和谷達も対局を始めたのだが、何となく気になって和谷は進藤ヒカルの方へ何度となく目をやった。
院生生活が長い彼のことである。強い小学生など見慣れているが、この新入りはちょっと様子が違うような気がする。
変な言い方だがオーラが違うというべきか。
「和谷、やる気あるのか?」
しまいには対局相手の先輩棋士に怒られた。




その後終局を待たずに森下は「もう、この辺でいいだろう」といって碁石を置いた。

「進藤君といったね」
「はい」
「碁を始めてからどの位になる?」
ヒカルは一瞬言葉につまったが、小さい声で言った。
「・・・あ・・あの・・・せ、先月から・・・・・」

「はあ!!?」
部屋中から一斉に声があがった。

「うるさいぞ、対局に集中しろ!」
森下は怒鳴ると腕組みをしてヒカルを睨みつけた。森下は小柄だがガッシリとした体格で勝負師らしい凄みを持った、なかなか迫力ある人物である。だがヒカルの方に臆したような気配はない。
「白川君のところで碁を覚えたってわけか」

「ええと、詰碁とか棋譜並べとかよくやります」
「それだけを二ヶ月間?」
ヒカルはものすごく困った顔をしながら頷いた。

「詰碁と棋譜並べをしてるって言ったってな・・・」
森下は言葉を切って、改めてヒカルを見た。
いかにも不審そうな顔である。

「そんなこと言ったって、おめえさんそれだけってわけにはいかんだろう」
「・・・打ちたいです」
「強い相手と」
「はい」

ふん、と森下は鼻を鳴らすと顎に手をやった。
どうしたものかと思案している様子である。



「・・・・・・」
「・・・・・・」

「・・・じゃあ、進藤、ここに通ってくるか?」
ヒカルはホっとした表情をすると
「はい!!」
と大きな声で返事をした。



 ヒカルは残りの時間を他の棋士達の対局や検討を見学して過ごしたが、研究会が終わると白川に、「これから森下師匠と話があるから一階でしばらく待っているようにね」と言われて部屋を出た。


それを見送ってから森下は和谷に近づくと、大きな手で彼の背中をバチーーーンと叩いた。
驚く彼に森下はドスの利いた低い声で言った。
「和谷・・・、おまえ、しっかりしねえとな」

和谷は戸惑いつつも触らぬ神に祟りなしとばかりに
「は・・・はい」
とだけ返事をして、冴木と手早く碁盤と碁笥と座布団を片付け、そそくさと部屋を出ていった。




 自分と森下以外の全員が部屋を出たのを確認して、白川は森下に声をかけた。
「どうですか?」

森下は少し憮然としたような顔で白川を振り返った。
「白川君・・・ずいぶんと面白い奴を連れてきてくれたもんだな」

「でしょう?」
森下の言葉に白川はにこにこして答えた。白川は対局の時以外いつも穏やかで機嫌のいい人物だが、今は更に嬉しくて仕方がないような顔をしている。

「最初に囲碁教室に来た時はどんなだったんだ?」

「大人しく私の講義を聞いていましたよ。で、碁は初めてかと私が聞いたら」
「うん」
「ルールは知ってますって言ったんですよね、彼」
森下は畳に座り込んであぐらをかいた。

「それで」
「先刻と同じですよ、じゃあ、ちょっと私と打ってみようって」
そう言って白川は笑い出した。
「いやー、他の生徒さんがいるので適当なところで切り上げましたけど、正直負けるかと思いましたよ。並べましょうか、その時の棋譜」
いらんいらん、と森下は手を振った。

「あれはアマチュアのレベルじゃねえぞ。なのに院生でもなければ大会にも出たことがないって、行洋のところの倅じゃあるまいし、奴は一体何者だ?」

「さあねえ、でもだから、プロと打ちたいんじゃないですか?」
しかしプロと打つのは有料だ。ではどうすればいい?ヒカルはそう考えて、自分の教室に来てわざと目に留まるようにしたのではないか、と白川は推測する。
ヒカルが教室に来て数回。挑戦的に自分の力を見せつける彼に、ではそれに乗ってやろうと白川はヒカルをここに連れてきたのだった。



「師匠はいないって?」
「本人はそう言ってますね」



「嘘だな」


白川は先刻ヒカルが出て行った戸の方を見て少し目を細めた。

「ええ。私もそう思います」







黒11


(よかった。とにかく研究会には通えることになった)
エレベーターに乗り込むとヒカルは胸をなでおろした。



 一人で勉強出来ることはいくらでもある。詰碁や棋譜並べもそうだ。
詰碁は、もはや解くより作ることの方が多いヒカルである。これに問題はない。
では棋譜並べはどうかといえば、今のヒカルの境遇では、肝心の棋譜すらもなかなか手に入らない状態である。
「週間碁」や囲碁雑誌は図書館で読むことが出来るが、古い棋譜の本や年鑑は「大人」のコーナーにあり、小学生には貸してもらえないのだ。
インターネットで検索しようにも家にパソコンはない。
いや、実はあるのだが、父親の持ち物で仕事にも使っているため絶対に触らせてもらえない。前回、ネットカフェ通いをしていたのもこのためだ。



 だが、それらも対局に優る勉強はないと言えた。
最強初段と評された進藤ヒカルである。神の一手を目指す覚悟も出来ているし、佐為の碁を、自分の碁を後世に伝える義務も自覚している。
遡った時間は佐為を取り戻すためのものだが、彼の碁を前進させるための貴重な時間でもあるはずだ。
何より佐為に再会した時に自分はこれだけ成長していると誇るために。
そして、もう一度北斗杯に出た時にはもっとうまく打ってやる。

そのためには強い相手、つまりプロと打つことだ。


前回は中学一年の冬に院生になってから、和谷に紹介してもらって森下九段の研究会に参加するようになったが、背に腹は変えられず一年前倒しで白川先生に紹介してもらうように画策してみた。

・・・してみたつもりだった・・・。だが、囲碁教室の後で研究会に誘ってくれた白川先生の笑顔には何となく『全部お見通しだよ』と書いてあったような気がする・・・。



しかしスケジュール的には本来この研究会に来るのは来年の二月。
こんなに歴史を変えてしまって大丈夫かと不安を感じないと言えば嘘になる。
(しょうがねェよ。勉強しないわけにはいかねェもんな)





 一階でエレベーターを降りたヒカルは、佐為が好きだった「本物にしか見えないけど本物じゃない魚」がいる水槽のところで白川を待つことにした。

日本棋院は内なるヒカルにとって慣れ親しんだ自分の職場であるが、白川の立場からすると、仮にも小学生を電車で連れてきた以上、家の近くまでは送り届ける義務があるのだ。
もちろん白川はヒカルが中野の祖母の家に行く度に、もらった交通費で都内中をうろつきまわる不良小学生であることなど知るよしもない。



 「よお、新入り」
声のする方を見ると和谷と冴木が立っていた。それを見てヒカルの頬が思わずゆるむ。

(かっわいいよなーーー)

もちろん和谷のことである。
ヒカルと一歳違いの和谷は現在中学一年生。
前回の出会いより一年若い彼は、実は中学校を卒業しているヒカルの目には自分のことは棚にあげて幼く見えた。

(子供じゃん)

ヒカルは優越感を感じてにんまり笑った。
ちなみに冴木だって若いのだが、彼は髪型が少し違う位でそう変わっていない。

「オレ進藤ヒカル。よろしく」

「オレ和谷、で、こっちが」
「冴木だ。よろしくな」
「冴木さんはプロ三段なんだぜ」
「へええ・・・」
と、言ってみた。

「和谷は?」
いきなり呼び捨てか?と見かけによらず頭が固い和谷はちょっとひっかかったが、まあいいことにする。
「これからプロになんの。院生一組」
「和谷って院生なんだ」

(院生。懐かしいなあ)
と、ヒカルは思った。

「進藤は院生になる気はないのか?」
いきなり鋭いところをついてくる。しかし今はその時ではない。
「そのうち・・・様子を見てから」

和谷と冴木は顔を見合わせた。
「プロになるつもりなら、少しでも早く手を打った方がいいんだぜ、院生になれば同じ目的で集まってる奴らばかりだ。勉強にもなるし、情報も入ってくる」
冴木の言葉に「わかった」とヒカルが答えたところで白川が降りてきた。
「早速親交を深めているのかい?」
「そんなところです」

「白川せんせー、コイツそんなに強いの?」
和谷の問いに白川はふっふっふっと笑って請合った。
「強いよ〜」
おお、白川先生がオレを褒めてくれているぜ。と、ヒカルはちょっと得意になった。なので「そうそう、オレは強いよ」
と調子に乗って断言した。

「何だとコイツ?」
腰に手をやり「ホントだぜ」とうそぶく自信満々なヒカルに和谷は後ろに回って羽交い絞めにすると頭をぐりぐりと小突いた。
冴木もその上からメッシュの髪をかき回した。
「じゃあ、オレらでこの次、締め上げてやるよ」
「囲碁でね」
「そ、囲碁で」
ヒカルはとうとう声を上げて笑い出した。
時間を遡って二ヶ月、正確には一ヶ月半と少し。
自分のいるべき場所に少し近づいたような気がした。





白12


「ちょっと待て!今なんて言った!?」

その日、葉瀬小学校の給食の時間も終わろうという時、教室にヒカルの声が響きわたった。
振り向きざま詰め寄ってきた、ただならぬヒカルの様子に、藤崎あかりは驚いて手に持っていたポッキーを落としてしまった。余談だが菓子を学校に持って来ることは禁止されている。

「な、何よ」

クラスのルールで給食は班ごとに机を寄せ合って食べることになっている。
偶然あかりと背中あわせに座っていたヒカルの耳に聞き捨てならない情報が飛び込んできた。

「オマエ昨日、葉瀬中の創立祭に行ったの?」
「行ったけど・・・?」


ヒカルは信じられないというように目を見開いて黙ってしまった。
「ヒカル、あの・・・」
不安になったあかりが声をかけようとすると
「来週じゃなかったっけ・・・」
というつぶやきがヒカルの口から漏れた。



 今年の四月からヒカルが通うことになっている葉瀬中の創立祭は何故か一月に行われている。これは文化祭も兼ねた葉瀬中最大の催しものであり、受験等のことを考えれば常識はずれもいいところで父兄の非難の的になっていたがこの際それはどうでも良い。


 ヒカルはその創立祭で大事な用があったのだ。
予定では、あかりに誘われて創立祭に行ったヒカルは、一人で囲碁同好会をやっている筒井公宏と将棋部長の加賀鉄男と出会い、囲碁の勝負をして才能を見込まれ、小学生でありながら「なんちゃって中学生」として中学校の区大会に出ることになっていた。というか前回はそうだったのだ。

そうして海王中学校で開かれた大会に出たヒカルは「たまたま」学校見学に来ていた塔矢アキラに、佐為と海王中の生徒が打った「美しい碁」を見せなければならなかった。そういうスケジュールだった。


しかし。肝心の創立祭に行っていなければ大会に出るもなにもない。
塔矢アキラに佐為の打った碁を見せることが出来ないのだ。




 (一生の不覚・・・ってゆうか)
「オマエ、姉ちゃんからたこ焼きのチケット貰ったんじゃなかったのかよ?」
八つ当たりモードに入ってしまった。

「ヒカル、何で知ってるの?」
「オレは何でも知ってるんだよ。言えよ、そーいう事は!!」
あかりは面食らったが、(お姉ちゃんに聞いていたのかも)と思い、納得した。確かに姉は『ヒー君とでも行けば〜』と言っていたのだ。
「ご、ごめん」
「オマエが誘ってくれると思ってたから安心してたのに」

(ええっ!!?)
今度こそあかりは仰天した。
(それって、わ、わ、私と行きたかったってことーーーっ!!?)
あかりにとっては重大発言である。
身長こそなかなか伸びないものの、最近のヒカルは急に大人っぽくなってきてお年頃のあかりとしては気になって仕方がなくなってきていたのだ。
姉からチケットを貰った翌朝、立ち話の勢いでうっかりサヤカ達を誘ってしまったのが悔やまれる。

(私の馬鹿馬鹿!!何でヒカルを誘わなかったのよう!!)




でも何か変だ。
そんなに都合良く話が進むものだろうか。

「オマエがたこ焼きのチケットをくれてさえいればこんなことには〜」
ヒカルが恨みがましく涙目で訴えてきた。
やっぱり〜・・・とあかりはがっかりしたが、それにしても。


(泣くほどたこ焼きが食べたかったの・・・?)

「ごめんヒカル、今度、たこ焼き奢るから・・・」
ヒカルは拳を握り締めると
「いらねェよ!!」
と叫んで教室を飛び出して行った。




 ヒカルが出て行くとそれまで様子を伺っていた周りの生徒がようやく動き出し、特に女子は噛み付きそうな相手がいなくなると見るやあかりをなぐさめ出した。

「何アイツ、感じ悪い〜」
「あかり、気にしちゃだめだよ」

 あかりは聞こえているのかそうでないのか、しばらく固まっていた。
最初のショックから立ち直ると「大丈夫」と答え、残りのポッキーを箱に戻すと立ち上がって教室の後ろのロッカーに行き、ランドセルにしまった。
給食の時間に続く昼休みの後は掃除の時間なので、机にしまうと滑り落ちた時に先生に見つかる恐れがあるのだ。



その間も考え続ける。

(わからない。ヒカルが)

あの、ヒカルが食べ物を奢ると言われて、「いらねェ」というなんて。
異常だ。
あり得ない。




しかしヒカルは最近明らかに変わったのだ。
最も顕著なのは成績だ。
あかりが知る限り、ヒカルの成績は体育と音楽以外は常に超々低空飛行を続けていたのだ。
それが、ここ2ヵ月程、テストで軒並み七十点以上は取るようになっていた。
『進藤君はがんばっているわね』
と、先日、担任の先生から特にお褒めの言葉まで頂戴してしまった位だ。
もっとも本当のヒカルは中学校を卒業しているので、彼が小学校のテストで七十点台という自分の成績をどう評価しているかは疑問が残るところである。


(何があったの・・・)



そういえば。
最近ヒカルは囲碁教室に通いだしたらしい。
あの頭を使うのが嫌いなヒカルが囲碁!!?
聞いた時は驚いただけだったが、よく考えてみると
絶対おかしい。っていうか怪しい。

(秘密の鍵は「囲碁」かも知れない)
と、あかりは思った。
真に恐るべきは女のカンである。




そのヒカルが通っているという社会保険センターの囲碁教室がどんなところか、今度見に行ってみよう、とあかりは思った。


黒13

平成十一年四月。
塔矢アキラは中学生になった。
入学したのは私立海王中学校。
杉並区にある自宅から北区にある学校に通うのは楽ではないが、父親の出身校であるし、有名私立中学というのは遠距離通学など珍しくないので二十三区内なら文句を言う筋合ではない。


この日は、どうしても制服姿を見たい!という受付の市河晴美の希望で、学校帰りに父親の碁会所に寄っていた。

アキラが碁会所に入ってくるなり市河は狂喜乱舞して彼を迎えた。アキラの前から後ろから眺めては歓声を上げた。
海王中学の男子生徒の制服は学ランだが、上着が白で短いのが特徴だ。
一見、着る人間を選びそうな制服だが、アキラには似合っているようであった。

「アキラ君、似合うわあ!その制服!!」
「そ、そう?」
「大人っぽくなった!」
「ありがと・・・」
「ちょっと待ってて、カメラ持ってくる!」
市河は使い捨てカメラを探しに奥に引っ込んだ。
(写真まで撮るのか?)
市河のあまりのテンションの高さに面食らったアキラは椅子に座り込んだ。


 まだ学校の授業は本格的に始まっていないため、今日は早く帰ることが出来た。
月曜日の午後、まだ早い時間のせいか客もまばらだ。

顔見知りの客が何人かアキラに気付いて手をあげて挨拶してくれた。
「ご無沙汰しています」
如才なく微笑んで答える。


と、頭の上から声が降ってきた。
「よう」
「芦原さん」
「入学おめでとうさん」
「ありがとう」


 芦原弘幸はアキラの父、塔矢行洋の弟子の一人でプロ棋士である。
この碁会所ではオーナーの方針で、塔矢門下の棋士が直接客に指導を行っている。
芦原もここでよく指導碁を打っており、アキラと会う機会も多かった。
また芦原は父親の弟子の中では年齢が若く現在二十歳。アキラのことを弟のように可愛がってくれている。
他のプロ棋士達には年に似合わぬ礼儀正しさを守るアキラも、芦原には気楽に接することができた。
傍からは「懐いている」と見られていたが、本人は「芦原さんは友達」と自分でも思い、人にも語っている程である。

どうもアキラには友達が少ないんじゃないか、と密かに心配していた芦原は、それならオレは「友達一号」として君臨してやろうと思っている。

だが、最近アキラに変化があった。




「アキラもついに中学生か〜」
芦原は「どっこいしょ」という掛け声とともにアキラとテーブルを挟んで座った。
「この間までよちよち歩いてたのにな」
アキラは嫌そうな顔をした。
「芦原さんと最初に会った時はもう小学生だったよ」
「よちよち」
「・・・・・」
芦原は意味ありげに笑っている。何かあるな、とアキラは思った。


「で、どうよ、その後」
「その後って?」
「進藤君は来た?」


頻繁に碁会所にやってくる芦原は当然アキラと進藤ヒカルの一件は聞いている。
それからというもの、アキラはその自分を負かした同い年の少年にリベンジすることだけに神経を集中している。アキラが同世代の人間に興味を持つことなど、これまでなかったことだ。
(いよいよオレも「二号」か?それとも「零号」か)
いずれにせよ目出たいことだ。

本当は囲碁と関係のない友達を作った方が良いとも思うのだが、この塔矢アキラに今それを望むのは無理だということはわかっている。
ライバルと友達とはイコールではないが、囲碁が強い人間にしかこの弟分は興味を示さないので仕方がないのである。


芦原の気持ちなど思いも寄らないアキラはそっけなく答えた。
「来ないよ」

一月に進藤ヒカルと二回目の対局をしてから三ヶ月。ヒカルは一度も現れない。
連絡先を知らないアキラは、しばらくの間学校帰りに毎日この碁会所に来てみたが徒労に終わった。最近は来る回数も減っている。

唯一の手がかりは進藤ヒカルの家の最寄駅が王子だということだけだが、JRと地下鉄が両方乗り入れしているし、そもそも電車通学をしているのでない限り、駅で待ち伏せても無駄だろう。

「・・・でも、彼はプロになるって言ってたから。そのうち会うことになるよ」
「ふーーん」

そう。彼はプロになるのだ。
あわてることはない。
この世界にいる限りいつかは捕まえることが出来るのだ。



「ごめんねえ、カメラあったわ〜」
市河が奥からでてきてアキラを入り口に近い壁際に手招きした。
ココに立ってと指を指す。
アキラはハイハイと言われた通りの場所に立ち、そして面白いことなど何もないのにニッコリ笑って見せた。


芦原はその撮影会を横目で見ながら
(今から営業用の笑顔を作ってどーするよ)
と思った。では崩してやろう。






「オレこの間、進藤君に会ったよ」

アキラの顔から笑顔が消え、その瞬間市河のカメラのフラッシュが光った。



白14

「と、言う訳だったんだよ」
「そんなことがあったのか」


 ここは市ヶ谷駅近くのマクドナルド。
日曜日の午後、和谷義高は院生仲間の伊角慎一郎と店内の角の席を陣取って話し込んでいた。
テーブルの上には食べ終えたビッグマックの包装紙、そしてマックシェイク、そしてこれはまだ大分残りがあるマックフライポテトが乗っている。
 今日は院生の研修日で、今はその帰りだ。
伊角は和谷とは三歳違いの高校二年生だ。年は少し離れているものの二人は気が合って、和谷が院生になった四年前からずっと親しくしている。
ちなみに伊角は昨年春から院生一位。最もプロに近い男と呼ばれながら、その切符を逃し続けている。


 先日、和谷の師匠である森下九段の研究会に新入りが来たことは伊角に既に話していた。

「アイツ、絶対何かあるぜ」

というのは和谷と冴木の一致した意見である。
打ってみて分かったことだが、とにかく進藤ヒカルは強かった。
和谷はこれまでプライベートも含めて随分打ってきて、殆ど負けてばかりだ。
和谷だけではない。プロの冴木も、他のプロの先生もどうかするとヒカルには負けている。

確かに子供の成長は早い。才能ある子供が大人が驚愕する程のスピードで上達することはよくあることだ。
しかし囲碁を覚えてふた月やそこらでプロを負かす子供など、和谷も冴木も聞いたことがなかった。

しかも、この新入りは現時点で囲碁歴四ヵ月、この研究会に来るまでは師匠なしだったというのだ。


「それはいくらなんでも、ないだろう・・・?」
「そうだろ?有り得ねェよな」

和谷はマックシェイク(バニラ)を一口すすった。

「絶対、誰かスゲェ師匠についていたはずだぜ。誰だ?って聞いても答えねェ。んで、棋譜並べて勉強してたって言うからよ、『じゃあ、オマエの師匠は秀策か』って言ってやったんだよ。そしたら」
「うん」
「『よくわかったな』だと」

「進藤は秀策が好きなんだ?」
「うん。オレも秀策の棋譜はよく並べるからさ、好きだぜ進藤の碁は」




 先週、その森下九段の研究会の後でちょっとした事件があったのだ。

研究会の後、いつも通り片付けを終えた和谷とヒカルが一階に下りていくと、ヒカルの動きが急に止まった。和谷が変に思ってヒカルを見ると、まるで幽霊でも見たような顔をしている。もっともヒカルが幽霊を見たところで動じるわけがないが。

「進藤君」
ヒカルの目の前に一人の少年が立っていた。感情を押さえようと努力をしているようだが顔付きが尋常ではなかった。目が血走っている。


(塔矢アキラじゃないか)
和谷もそれが塔矢行洋名人の一人息子の塔矢アキラであることに気がついた。
以前一度だけ、師匠の森下九段の家で名人に連れられてきた彼に会ったことがあるのだ。

「塔矢・・・、何でココにいるの?」
ヒカルはやっとのことで声を出した。

「芦原さんに聞いた。君が森下先生の研究会に出ていると」


そういえば前回の研究会で、塔矢門下の芦原先生にここで偶然会ったんだっけ、と和谷は思い出した。その時、芦原は珍獣を見るようにヒカルを見て『ふーーーん、君が。そっかーー』と意味ありげに頷いていたのだった。


「進藤君。もう、うちの碁会所には来ないのかい?僕はあれから打つたび、君ならどう打つか、答えてくれるかそればかり考えている」
ヒカルは黙って聞いている。
「・・・君をずっと待っているんだ!」


 こいつら知り合いか、と和谷は驚いた。
それにしても囲碁歴四ヵ月で伝説の塔矢アキラにここまで言わせる進藤ヒカルとは何者なのだろう。
しかしアキラの熱弁にもかかわらず、ヒカルは意外な言葉を発した。

「オマエ、なんで学校の方に来ないわけ?」
「はっ?」

「オマエ、なんで学校じゃなくて棋院に来るんだよ、違うだろ」
ヒカルは迷惑そうに言った。
そして何が違うのかアキラにはわからないようだった。

「学校って・・・進藤君の中学のこと?」
「あたりまえだろ?」
「・・・進藤君の中学って、何処?」

ヒカルはアキラの顔を五秒眺めて、その後助けを求めるように和谷の顔を三秒見つめて、最後に
「・・・・・あ、そっか」
と小さくつぶやいた。


 前回の筋書きでは、小学六年生の時に中学生と偽って出た囲碁部の大会でアキラに会っているので、当然アキラはヒカルが葉瀬中だということを知っている。そして碁会所に現れないヒカルに業を煮やして、何と葉瀬中を急襲するということまでやってのけたのだ。

しかしヒカルが何処の中学校か知らなければ訪ねることもできない。


ヒカルは肩を落とした。一つのミスから色々なところにほころびが出てくる。
しかしここでめげてはいけない。一目取られたら取り返すのだ。
ヒカルはアキラに向き直った。

「オレは北区立の葉瀬中学だから。場所は、あ、地図書こうか?」

(何で地図まで書く?)
また進藤の挙動不審が始まった、と和谷は思った。

「・・・学校の場所はいいよ、それより君の家の電話番号を教えてくれないか?」
アキラの言うことはもっともだったが、ヒカルは手を振った。
「・・・それは、ちょっと教えられないな」
「・・・何で?」
「何でも」

(オレには会って即日教えてくれたじゃねェか)
と、和谷は思ったが、塔矢アキラには教えたくないらしかった。

ヒカルにしてみれば、うかうかと電話番号を教えた結果、電話攻勢をかけられたり、電話帳で住所を調べられて自宅まで押しかけられてはたまらん、という訳である。


アキラは少し不機嫌そうな顔をしてメモ帳をカバンから取り出し、何かを書きつけた。
「これ、僕の家の電話番号と携帯の番号。いつでも連絡してくれ」
「おう、サンキュ」
ヒカルは自分のは教えないくせに、そのメモはちゃっかり受け取った。


「で、先程の話に戻るけど・・・」
気を取り直したらしくアキラが話しかけると、ヒカルはまた手を振って話しを遮った。

「オレはオマエとは打たないぜ」
ヒカルは言い放った。

「え、何で?」
和谷はここで初めて声を出した。それでアキラは初めて和谷の存在に気が付いたように一瞬彼を見た。が、すぐに視線をヒカルに戻す。
「・・・何故だ?何故僕と打たない?」

「それは、ええっと、忙しいから」
「忙しい?」
「だって、オレ、囲碁部の大会に出るんだもんね」


「・・・・・・・・はあっ!?」
今度こそ、和谷とアキラの叫びはハモった。中学の囲碁部の大会に出る?コイツが?

(なんって、大人気ない奴・・・・・)


アキラは咳払いした。
「君ほどの腕前で中学の大会に出るとはどういうつもりだ?」

「どういうつもりと言ったって・・・だって、オレ囲碁部に入ったんだし」
「入ったのか?」
「うん」

アキラは溜息をついて首を振った。

「だからオレは忙しいんだってば。オマエも今年はプロ試験受けるんだろ?だったら油売ってないで勉強しろよ、な?」
「だから君と打って勉強したいんだよ。今から二階で打てれば僕は満足なんだ」
ちなみに日本棋院の二階には一般対局室がある。
ヒカルは頭をかかえた。
「駄目!」
「え?」
「絶対駄目。とにかく駄目!」
それだけ言うとヒカルはカバンを抱えて一目散に逃げ出した。



「・・・何なんだアレ」
和谷は思わずつぶやいた。
アキラはヒカルが走り去った出口をしばらく睨みつけていたが、用は済んだとばかりに歩き出した。
「おい」
和谷はアキラに呼びかけたが、チラっと振り返っただけでそのまま出て行った。

そして和谷はその目つきでアキラが自分のことを全く覚えていないことに気が付いたのだった。
眼中になし、ということか。

(・・・ムカつく野郎だぜ)





和谷はその時のことを思い出して、残りのマックシェイクを一気に吸い込んだ。
ストローの先がズズーーっと大きな音を立てる。

伊角もその音に反応したようにポテトに手を伸ばした。
「囲碁部の大会に出るってことは進藤は院生になる気はないのか?」
「その辺、なんか態度があいまいなんだよ。アイツそのまま外部で受ける気かもな」
「ふうん」

院生だろうが、外部だろうが、プロ試験の合格者は三名。次に試験を受けるライバルの情報には敏感にならざるを得ない。しかも「あの」塔矢アキラがマークする人物とくれば、気にならない訳がない。

「その進藤に会ってみたいな」
伊角のつぶやきに和谷が請合った。

「会えるさ、すぐに」