OVER AGAIN 黒15〜白20
黒15
数日後、葉瀬中学校の理科室。
この春からこの場所は、理科のタマ子先生の好意で放課後のみ囲碁部(仮)の部室として使えるようになっている。
何故なら、今年ついに自称囲碁部長、筒井公宏の待望の新入部員が入ってきたからだ。
「・・・で、ココは二子にしてから捨てた方がいいんだ。」
「うん」
「取られた後、ココに放り込んだら白が取るから、こっちに打ってアタリにするわけ。で・・・」
「うんうんうん」
(しかも自分より、ずっとずっと強い新入生が!!!)
あまりの嬉しさにどーしても顔がにやけてしまう筒井であった。
「筒井さん・・・」
「ん?何?進藤くん」
「・・・・・不気味だから、その百面相やめてよ」
「えええ、そっかなあ?変?ごめんね、あんまり嬉しくてさあ」
これが喜ばずにいられようか。
思えば苦しい日々であった。
筒井は小学生になった頃から碁を打ってきて、中学生になったら囲碁部に入るぞ!と意気込んでいたにもかかわらず、入学した葉瀬中学校に囲碁部はなかった。
仕方がないので自分で創ろうとしたが、常時入部募集をかけるも、ずっと一人。それは部として学校から認可されないことを意味する。自称、囲碁部。それが2年間。
我ながらよくがんばったよなあ、と、自分で自分を褒めてやりたい筒井であった。
次の瞬間、感慨にふける筒井の頭がスッコーンと音をたてた。
「痛って!!」
「新入生に教えてもらってにやけてるんじゃねェよ」
「加賀!」
加賀鉄男はたった今、筒井をはたくのに使った、トレードマークの「王将」扇子をバッと開くと、気持ちよさそうに扇ぎ出した。
「何しに来たんだよ、将棋部長」
「ふん、自称・囲碁部長のヤニ下がったツラ拝みに来たんだよ」
そう。葉瀬中には将棋部があり、こちらは大会でも多くの実績を上げており、囲碁部(仮)とは対照的に多くの部員を擁し、活況を呈していた。
「自称ってなんだよ」
「二人じゃ部じゃねえだろ、しかも団体戦出れねェし」
加賀の言う通り、部の認可は三人から。団体戦も三人。
その時、筒井の隣で一緒に指導碁を打ってもらっていた藤崎あかりが声をかけた。
「あの、そしたら私、囲碁部に入るよ。それで三人でしょ?」
「ありがとう!!藤崎さん!よーし、これで三人だ」
「馬鹿か。部になったところで大会には出られねェぜ。団体戦は男女別だろ」
加賀が、かかかっと高笑いした。
「言っとくがオレは出てやんねェからな、将棋部が忙しいからよ」
「誰がオマエなんかに頼むかよ!」
「前に頼みに来たじゃねェか」
うっ、と筒井は唸った。大会に出たさ故のミステイク。過去の屈辱が蘇る。
実はこの加賀鉄男、ただ者ではない。
将棋部での実力はナンバーワン、区の大会などの学校対抗はもちろんのこと、全国区の大会でも上位に食い込む実力の持ち主であった。
しかも、将棋を本格的に始めたのは小学校六年生から。それまではある囲碁棋士が開いていた上級者向きの囲碁教室に通っていた。
その棋士は塔矢名人の古い友人で、教室には勉強のために一時期、塔矢アキラが通ってきていた。
囲碁でも確かな棋力と才能を見せていた加賀だが、塔矢アキラにはどうしても勝てない。
最後にはアキラに手加減されたのにブチ切れて将棋に転向してしまった。
そういう訳で、彼は碁を打ってもその辺の囲碁部員などは敵ではない。
囲碁部長よりも囲碁が強い将棋部長なのである。
ところで、この加賀と筒井は同学年で中学一年生から同じクラス。
『オレはもともと、将棋の方がやりたかったんだー!』と叫びつつもかつては真剣に囲碁に取り組んでいた加賀である。中学校で囲碁部を創るために孤軍奮闘を続けるクラスメートが気になって仕方がない。で、協力する気などないと言いながら、ついつい様子を見に来てしまうのであった。
そんなある日、筒井が「経験者の一年生が入った」と自慢しに来た。
「ほお、物好きな。ではソイツの棋力をオレ様が試してやろう」
と、その日の放課後、理科室にやって来た加賀は早速その一年生と対局してみたのだった。
そして結果は加賀の中押し負け。
礼が済むと彼は暫くの間、愛用の扇子をバサバサ扇ぎながらヒカルの顔を値踏みするように眺めていたが、
「面白え。ここまでスカっと負かされたのは久しぶりだぜ」
と、負けに似合わぬ不敵な笑みを浮かべた。
そしてヒカルの方に手を伸ばすと、ほっぺたをブニっと引き伸ばし、その顔を筒井に向けて
「今のうちに精々コイツに打ってもらっておくんだな」
と言った。
そして、現在の理科室。筒井と加賀のやりとりを横目で見ていたヒカルは言った。
「心配いらないよ筒井さん、メンバーは揃うから」
「どういうこと?」
ヒカルはそれには答えず、頬をさすった。
「・・・、筒井さん、悪いけど明日は囲碁部お休みするね」
「いいけど、どうしたの?」
「明日はね、ワルモノ退治に行かなきゃならないんだ」
そんなヒカルを
(また、訳わからないこと言い出した)
と、あかりは不安そうに黙って見つめていた。
白16
人間誰しも、時間を巻き戻してやり直したいことがあるものだ。後悔していること。チャンスを逃がしたこと。さまざまだ。
そして、それは進藤ヒカルにとっても例外ではない。
もちろんヒカルが最も後悔していることは、佐為に何も言えないまま彼を逝かせてしまったことだ。
一度だけだが、確かに佐為は自分の消滅を予告したのだ。それなのにヒカルはその真の意味を取りこぼした。そんなことは可能性すら考えなかった。
オレとアイツはオレが死ぬまでずっと一緒。
そう思っていた。思い込んでいた。
しかし、時間を遡っても佐為はいない。やり直すためには佐為を取り戻さなければならないのだ。
そして、もう一つの心残り。
それは三谷祐輝との関係であった。
三谷はヒカルと同じ葉瀬中の一年生だ。
前回、三谷の棋力が高いことを知ったヒカルは、中学の囲碁大会に出場するために、彼を口説き落として囲碁部に入ってもらったのだ。
そして二回戦で海王中に敗れたものの、葉瀬中は念願の初出場を果したのだった。
しかし、せっかく三谷が部に馴染んで、また大会に向けてがんばろうという時になって、ヒカルは日本棋院の院生になるために囲碁部をやめてしまった。
当然三谷は怒った。
そして三谷も囲碁部を去り、その後戻ったものの、ついに彼はヒカルを許すことはなかったのである。
『院生の決まりごとなんて知らなかったんだ』と言い訳しても仕方がないので、くどくどしく口にしたことはないが、やはり(アレはまずかったよなあ)と三谷を思い出すたびに後悔するヒカルだった。
と、いう訳で今度はうまくやるぞ、と心に決めている。
翌日の放課後。
ヒカルは駅前の碁会所の扉を開けた。
裏通り、古い薄汚れたビルのしかも地下。
なんとなく胡散臭そうで、良い子の中学生には近寄りがたい雰囲気が漂っている。
(いた)
客は一組のみ。
ヒカルの視線の先で、赤茶の髪、カラーシャツにサスペンダーの中学生が碁を打っていた。三谷である。
相手はいかにもワケあり風のゴツイ中年の男。
ヒカルにとっては見覚えのある男だ。
賭け碁を打ってはイカサマで小遣い稼ぎをする三谷に困った席亭が呼んだ「仕置き屋」である。
予定通りなら、これから三谷はこの、世の中の裏街道まっしぐら風の男に碁でコテンパンにのされて掛金一万円を巻き上げられることになっている。
(やめろって言ったのに)
実はヒカルは昨日も囲碁部の後でここに来ている。
出来れば、今回は三谷にこんなマネをしていてもらいたくなかった。
普通に碁会所で楽しく打っていてもらいたかったのだ。
だが、幸か不幸か歴史は変わっていなかった。
三谷は整地を誤魔化すイカサマをヒカルの前でやってのけたのだ。
そして今日、ヒカルは学校が終わって帰ろうとする三谷に声をかけ、昨日の一件を諌めて囲碁部に来るように誘ってみた。しかし、
「オマエ、ひどい目に遭うぞ」
と、忠告するヒカルを三谷は嘲笑ってそのまま立ち去った。
人間、痛い思いをしないと分からないものらしい。
打つのかと席亭に聞かれたヒカルは「見るだけ」と答えて対局中のテーブルに向かった。
三谷はヒカルに気がつくとフンと鼻で笑った。
盤上は三谷が優勢に見える。これも前回と同じだ。
その時はヒカルの後ろには佐為がいて、一緒にこの対局を見ていた。
佐為は千年前、対局相手のイカサマによって失脚し、入水自殺をした人物である。
よって、目の前で行われる不正行為を見逃すことなど出来ようはずもない。
佐為はイカサマをする三谷を見て
『一局を汚してまで得る価値のあるものなどこの世にない』
と言ってやめさせようとした。
死してなお囲碁を愛した彼は、未来ある若者が汚れた碁を打つことに耐えられなかったのだ。
(今日はオレ一人)
ヒカルはそっと肩ごしに後ろを見た。
そこに望む影はなかったけれど。
(大丈夫。今のオレには出来るから)
そして、ヒカルは黙って、前に見た光景がそのまま繰り返されるのを見つめていた。
(ここまでは予定通り)
三谷が出て行った後、ヒカルは溜息をついた。
かわいそうだが、三谷には良いクスリだと思う。しかし心配は無用だ。これからは囲碁部で活躍してくれればそれでいい。
ヒカルはそう思って、横で「修さん」と呼ばれている席亭と「ダケさん」と呼ばれている
仕置き屋がオトナの会話をしているのを、空いている席に座って聞いていた。
オトナの会話とは、ダケが請け負った仕事の代金「たしなめ料」の支払いの件だ。
修はレジから三万円を取り出し、ダケに差し出した。
その受け渡しが済むと、ヒカルはダケに言った。
「いい商売だな、おじさん」
「何だおまえ、まだ居たのか」
ダケはダミ声を上げてヒカルを見下ろした。
ヒカルは立ち上がった。立ったところで、まだ身長の低いヒカルが大人のダケを見上げる形に変わりなかったが、気分の問題である。
「これからオレとおじさんが勝負して、もしオレが勝ったらさっきの一万円返してくれない?」
「何だ、どういう意味だ?」
「オレ、さっきのヤツの友達なんだ」
ダケは笑った。
「オトモダチのために一肌ぬごうってか?いいねえ。さっきのあんちゃん、心がけは悪いが、いい友達持ってるじゃねえか」
「で、どうなの?」
ヒカルが聞くとダケは肩をすくめた。
「勝負は勝負。打つなら、おまえが負けた場合は一万円もらうぜ。わかってるんだろうな」
それを聞いた修が「げっ」っと声を上げた。
「ダケさん!子供相手に何言ってんだい、そんな勝負はダメだヨ、さっさと帰ってくれ」
冗談じゃない、やめさせられてたまるか、と、ヒカルはあわてて叫んだ。
「わかった!負けたら払うよ!」
ダケは顔に凶暴な本性を現してせせら笑い、先刻、三谷と勝負した席にどっかり腰を下ろした。
「気に入ったぜ坊主。たいした度胸だが、いってえ、どの位強いってんだ?」
「えっ?」
どの位強いかだって?それは、やっぱり、
「・・・・・・・・・・・・プロ初段」
黒17
ひょおおおっ、と歓声を上げてダケは手を叩いた。
「すげえなあ、あんちゃん、プロ志望かい。じゃあ未来の本因坊のお手並み拝見といこうか」
(だってホントだし)
ヒカルも先程まで三谷が座っていた席に座った。
「ニギるぜ」
ダケが碁石を掴んだ。
結果、ダケが黒、ヒカルが白。ここまでは前回と同じ。
ダケが左手で一手目を打つ。
次はヒカルの手番である。
ヒカルは碁盤をしばらくの間見つめて考え込んでいた。
「・・・・・」
いきなり長考かと思われたが、やがて顔を上げてダケを見た。
「オシオキだよ。おじさん」
ヒカルは右手で白石を取りあげ、握り締めた。
「前の時、おじさんをやっつけたのはアイツだけど、おじさんなんか、オレで十分だ」
「何だ、どういう意味だ?」
(本当なら、アイツの碁をアンタに見せなきゃいけないんだろうけど、生憎、覚えてないんだよ)
ヒカルの記憶力は囲碁に特化していて、佐為の碁や自分が打った碁はほぼ完全に覚えている。しかし流石に初心者だった頃の碁は、後日改めて教えてもらった分以外は把握していないのだった。
前述したように塔矢アキラと初めに打った二度の対局は、後で並べてもらったので知っていたが、この仕置き屋と佐為との対局の内容は(佐為ってすっげーー!)という感想以外おぼろげで、再現することは出来そうもなかった。
佐為の碁を現して、佐為を生かすことが今の自分の成すべきことであるのに、全く痛恨の極みであるが、出来ないものは仕様がない。佐為に代わって自分がこの男と対決するより他になかった。
どんな世界でも同じであるように、碁打ちが全て善人というわけにいかないことは、ヒカルにも分かっている。棋士仲間の雑談でかなりダーティーな話を聞くこともある。
しかし、仮に予定通りでなくとも、自分の目の前で友達がやりこめられて、それを放っておくわけにはいかない。
(このオヤジはオレがやる)
ヒカルはこの男が嫌いだった。
ヒカルは石の持ち方から始まって、囲碁の全てを藤原佐為に教わった。
佐為は比喩でなく、死んでも碁を打ちたくて、この世に居残ってしまった男である。彼は神の一手を目指すのは別にして、基本的に打てるだけで十分幸せだったので、相手が上手だろうが、下手だろうが全然選り好みをしなかった。
何も知らないヒカルにも、それはそれは楽しく碁を教えていたものだ。
だから佐為も、教わっていたヒカルも自覚していなかったかも知れない。
進藤ヒカルは最強かつ最高の師匠に、自分が打った碁を一手残らず把握され、管理され、更に恐ろしいことには思考までチェックされて育った究極の秘蔵っ子であった。
冗談で打った手。遊びの手。どんな悪手をヒカルが打っても佐為は(おおげさに騒いでは見せたが)怒ったりしなかったし、むしろ初心者のうちはどんどん好きなように打たせていた。ただし、ある程度以上脱線すると即座に軌道修正してきたし、盤上の礼儀には非常に厳しかった。
佐為は強かったが、勝負と同時に精神性を大切にしていて、ヒカルに教える時にもそれを徹底した。
どこで、誰と打っても。行きつけの渋谷の碁会所でも。院生との対局でも、森下九段の研究会でも。
ヒカルの碁はヒカルのものであるが、その碁の中にはいつも佐為の教えが光っている。
(オレの碁の中に佐為がいる)
それが今のヒカルの誇りであり、心の支えなのだ。
その大事な大事な碁をヤクザな道具に使う奴が目の前にいる。
ただ、相手を無残にやりこめるのが目的の碁。そしてイカサマ。
不思議な位、囲碁に対して真摯に取り組んでいる人間とばかり打ってきたヒカルにとってダケは別世界の人間であった。
碁を覚えた頃には(金儲けできるかも)などと不埒なことを考えていたヒカルも、だんだん佐為に感化され、また佐為がいなくなってからは更に、囲碁に対して潔癖になっていたのかも知れない。
(コイツを放っておくわけにはいかない)
ヒカルは目の前の男を睨みつけて、ようやく白石を碁盤に置いた。
それからしばらく対局は進んだ。
ダケはニヤニヤ笑いながらタバコに火を付け、深く煙を吸い込んだ。
対局が始まってすぐにヒカルの強さには気付いている。
子供だからといって侮れない。先程やっつけた子猫ちゃんを相手にするのとは訳が違う。
(プロ初段級ってのはウソじゃねえな)
ハッタリと思って序盤で油断した。今から立て直せるか。それにしても。
(何て早碁だよ)
ダケが打つ度にヒカルは間髪入れずに攻め立ててくる。
ダケは顔付きと態度だけは余裕しゃくしゃくで、目の前の子供の打ち込みをかわした。
(コイツにイカサマや誤魔化しは効かねえ)
とダケが心の中でぼやいた時、ふと、ヒカルが入り口の方に目をやった。
「・・・・・・・」
何かに驚いたような顔をしている。
視線をヒカルの見ている先に移すと、そこにセーラー服を来た少女が立っていた。
「なーんだ、今度はお嬢ちゃんかい」
少女は明らかにオドオドしながら、ドアの前で鞄を胸に抱えてヒカルを見つめていた。
どうやらガールフレンドらしい、とダケは見当を付けた。
ダケが自分の手番を打つと、ヒカルも盤上に目を戻して次の手を打つ。
だが修に、「打ちに来たのかい?」と声をかけられて、女子中学生がシドロモドロに返事をしている声が聞こえてくると、ヒカルは気がかりそうに、またそちらの方を見た。
オジさん達に声をかけられて、彼女は一層萎縮したようだった。
(何でココにあかりが来るんだ?)
そう、それはもちろん藤崎あかりである。
またしても予定外の出来事。
ヒカルはガックリ肩を落として溜息をついた。
(何だ何だ?余所見してる場合かよ、坊主)
今まで集中して打っていた中学生が突然意識を他所に向けた。
女子中学生に向かって、「その辺の椅子に座って待ってろ」などと指図している。
「あんちゃん、ガールフレンドかい?」
「違うってば。ただの幼馴染みだよ」
「まだチビ助のくせにやるねえ」
「だから違うって!」
ヒカルは少し赤くなって、バチンと大きな音を立てて白石を打った。
あかりの方を振り返って様子を見る。
あかりも赤くなって、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
(こりゃ面白い)
ダケはニヤリと口の端を上げて、あかりに声をかけた。
「お嬢ちゃん、そんな遠くに座ってないで、おじさんの隣に来て観戦しなよう」
「あかり、いいからそこに座ってろ」
ダケは、近くの椅子を自分の隣に引き寄せて、あかりに向かって「おいでおいで」と手を振った。
「修さんよォ、お嬢ちゃんにお茶出してあげて。あ、ジュースがいいかなあ」
あかりは思いっきり引きまくって「私、ここでいいです」と言って、椅子ごと後ろに下がった。
「そんなこと言わないでさあ、カレシの対局見たいでしょ〜」
「・・・・・よせよ、オッサン」
「なあ、あんちゃん、最近の中学生は発育いいよなあ」
「・・・・・・・」
ヒカルは不愉快そうに上目遣いにダケを見た。
「で、どこまでいってるんだよ、あんちゃん」
(どこまでって何処まで?
何カンチガイしてんだこのオヤジ。
あかり相手に何処にどう行くんだよ、バカか?)
ヒカルの険悪な表情を見てダケが更に、
「カノジョ、オッパイ大きいねえ」
と言って、いやらしい口ぶりでヒヒヒと笑うと、
「いい加減にしろよ!!」
ヒカルはとうとう怒って大声を上げた。
そこに隙あり、と見た。
いや、三谷と打った後のノリでウッカリ指がすべったというべきか。
隣に置いた椅子をぽんぽんとたたき、再びあかりを手招きする。
(・・・この石さえズラせば・・・)
後日ダケはこの日の対局を思い出し、馬鹿やったもんだと後悔したものだ。一年後、ヒカルを週間碁の記事で見てからは尚更である。バレるに決まっているではないか。
ヒカルが視線を盤上に戻す。
(・・・・・)
ヒカルは目を見開いた。
やっちゃったな、おじさん。
さあ、どうする?
こんな時、アイツは何て言えって言ったっけ?
「おじさん、『バレバレだよ、もっとうまくやれよ』」
白18
「で、オレに話って何?」
ヒカルは目の前にいる藤崎あかりに不機嫌丸出しの口調で尋ねた。
ここは王子駅前のモスバーガー。
ダケとの対局に勝利し、きっちり一万円を貰うと、ヒカルはあかりの手を引いてさっさと碁会所を後にした。
事情を知らないあかりは、ヒカルが手にしている一万円札に恐ろしい物でも見るような目を向けた。そして「話があるの。私が奢るから」と言ってこの店に入ったのだ。
(モスバーガーだって。コイツ金持ち〜)とマック専門のヒカルは思ったが、心は社会人のプライドにかけて、そんなことは言わなかった。
一階で注文をして、飲み物だけ先に貰うと三階の禁煙席に向かった。
座席はほぼ埋まっていたが、窓に近い席が丁度空いたので、そこに向かい合わせで座る。
あかりはしばらくの間、先程ヒカルに掴まれた右手を握ったり開いたりしていたが、ジンジャーエールの入ったカップにストローを突き刺すと、一口飲み、おもむろに切り出した。
「ヒカル、何か隠し事してるでしょ」
ズバリ、来た。
(コイツほんっとに、カンはいいんだよなあ)
ヒカルは妙に感心してしまった。
「隠し事って?」
「さっきの一万円、何?」
「あ、あれはなあ」
「ヒカル、何か悪いことに手を出してないでしょうね」
「ばっ!バカ言ってんじゃねェよ!何でそうなるんだよ!!」
「だって!最近ヒカル変なんだもん」
(・・・・・変なのか?)
完璧に十二歳当時を演じているつもりのヒカルはちょっと傷ついた。
「変じゃねェよ、変なのはオマエの方だろ?何であそこにいたんだよ?まさかつけて来たんじゃないだろうな!?」
ヒカルは机を拳で叩いた。大きな音に店内の客が振り返る。
「そうよ!つけたわよ!!だって心配だったんだもん!!」
あかりも負けずに怒鳴り返すと下を向いた。
(何よヒカルのバカ!怖かったんだから)
最近急に変わってしまったヒカルが今日、何か仕出かすらしいと踏んだあかりは放課後、学校を出たヒカルを尾行したのだ。
そしてやってきたのが、駅前の裏通りにある怪しげな事務所風の店。
ヤクザな雰囲気バリバリである。
いや、実際には古いビルに入っているというだけで、別にヤマシイことなど何もない普通の碁会所なのだが、中学一年生の女子生徒にはイカガワシく見えたということだ。
誰しも、未知のものは色眼鏡で見てしまいがちという良い例である。
そんな訳であかりはヒカルが店に入ってしばらくは、ウロウロと店の入り口とビルの前とを行ったり来たりしていた。
これからどうしようと悩んでいると、真っ青な顔をして葉瀬中の制服を着た男子生徒がビルから飛び出してきた。あのコは知っている。同じ一年生で三組の三谷君だ。
どういうことだろう?何かあったのか?
そして、その好奇心もあって、ついにあかりはその碁会所のドアを開けたのだった。
あかりがつい先程の出来事を思い出している間にも、周囲からの視線を感じる。
女子大生風の三人組がこちらを見て「かわいい〜」などと言っているのが聞こえてきた。
(恥ずかしいな、もう)
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・ええと」
「オマエ泣いてないだろうな」
いつまでも黙っているあかりに心配になってヒカルが声をかけると、下を向いていた彼女は顔を上げた。セーフ。泣いていない。
いくら幼馴染みでも、二人でいる時に目の前で泣かれるのは御免である。
「泣いてないけどね」
泣いてはいないが、ふて腐れているらしい。
なーんだ、痴話喧嘩はもう終わりか、と見たギャラリー、もとい、他の客は二人に興味を失ったらしく、自分達の会話に戻っていく。
そうこうしているうちに、注文していたハンバーガーとオニポテを店員が持ってきた。
「ヒカルは、もう社会保険センターの囲碁教室には行かないの?」
「・・・・・何でオマエそんなこと知ってるんだよ?」
「それは・・・、ヒカルのお母さんがそう言ってたから。・・・・・やめちゃったんだって?」
「うん」
「何で?」
「先生に、もうちょっと上級者用の教室を紹介してもらったから」
「ヒカル、上級者なんだ?」
「まあね」
あかりは不信感も顕わにヒカルを見た。
「やっぱり変だよ。だって、ヒカルって前はヒカルのおじいちゃんにどんなに誘われても全然囲碁に興味なかったじゃない。ジジくせーっとか言って」
「・・・・・」
「急にハマっちゃってさ、あっという間に上手くなっちゃって」
「・・・・・」
「そしたら、成績もあがって」
「・・・・・」
「最近変なことばっか言うから、後つけてみたら裏通りの汚いビルでおっかなそうなオジさんと打ってるし」
「・・・・・」
「勝ったらお金もらっちゃって」
「・・・・・」
「あれって、賭けてたんじゃないの?ヒカル何か変なことに首つっこんでない?」
「・・・・・」
「ひょっとして最近、囲碁のうまい家庭教師かなんか頼んでて、ソイツが悪い人だったりするんじゃ・・・」
「・・・・・」
(・・・・・・・・・・面白すぎる)
すげェぞ、あかり。すごい想像力だ。と、ヒカルはまたまた感心してしまった。
佐為がヒカル専属の(囲碁と日本史と古文と漢文限定)の家庭教師だとすれば、かなりいい線いっている。ただし、今ではないが。
「家庭教師なんて冗談じゃない。別にオマエが心配するようなことなんかねェよ。それにあれは賭けてたんじゃなくて取り返したの!」
ヒカルはオニオンリングをひとつ口に入れた。よしよし、ホドよく冷めてもう火傷しなくてすむ温度だ。
「昨日言ったろ?ワルモノ退治するって」
あかりは目を丸くした。
「どういうこと?」
ヒカルはコカコーラの入ったカップを取り上げてちょっと笑った。
「だからさ、囲碁部員勧誘のための布石というやつだな」
「・・・・・?」
相変わらずヒカルの言うことは全然わからない。
「三組の三谷って、この前オマエが言ってた奴いるじゃん?」
「さっき碁会所にいた・・・あと学校の囲碁部のポスターの詰碁に正解を書いたコだよね」
ヒカルはポケットから先程の一万円札を取り出してあかりの目の前にピッと立てた。
「大会に出るために三谷をスカウトする。これはそのための出場料」
あかりは今度こそひっくり返らんばかりに驚いた。
「えええええっ!!??」
のけぞって叫ぶあかりを見てヒカルは笑った。
イタズラを企むようなその子供っぽい顔は、あかりのよく知っている幼馴染みのヒカルそのものだった。
黒19
翌日の放課後、帰ろうとした三谷は、教室の前の廊下でヒカルに「昨日の件で用がある」と、理科室に引っ張っていかれた。
理科室の扉を開けると筒井とあかりは既に来ていて、部活動の準備をしているところだった。あかりはヒカルの後ろに立つ三谷に気が付くと不安げにヒカルの様子を窺う。
三谷はふてくされたような顔をしながら理科室に入って来て、西日の差し込む教室内をぐるっと見回した。
四人しか居ない教室は妙に閑散として見えた。
囲碁部の部室といっても、実験用の机の横の丸椅子に古い碁盤がひとつ置かれているだけだ。
(これで囲碁部ねえ・・・・・)
三谷は肩をすくめた。
「筒井さん、コイツ一年三組の三谷」
ヒカルが紹介すると、筒井は飛び上がった。
「・・・進藤君、じゃ、ひょっとして、彼が!」
「そうそう」
ヒカルが答えると、三谷は不機嫌そうに言った。
「なーにがひょっとして、だよ」
ヒカルは三谷の真正面に向きなおると、本題を切り出した。
「今度、北区の囲碁大会がある。それに参加してもらいたい」
すると三谷は馬鹿にするように片方の眉をつりあげて
「バカじゃねーの、何でオレがそんなのに出なきゃなんないんだよ?」
と言って、一度机に置いたカバンを再び手にした。
そして「オレそんなのに付き合ってる程ヒマじゃないから」と三人に背を向けて歩きだした。
「待てよ、三谷」
ヒカルは三谷の前に回りこんで、その鼻先に昨日取り返した一万円札を突きつけた。
「・・・何だよ」
「もちろんタダじゃねェよ、これは出場料」
ヒカルの言葉に帰りかけた三谷は動きを止めた。あかりは手で顔を覆い、筒井は立ち上がってヒカルに詰め寄った。
「進藤君、何を言い出すんだ!?」
三谷は筒井を無視してヒカルを睨んだ。
「コレってまさか昨日の・・・」
「オレが取り返した。取り返したんだから、今はオレの金」
「・・・・・」
「大会に出るために囲碁部に入ってもらいたい・・・ただし、その後、部に残るかどうかはオマエ次第でいい」
「進藤君!!」
話が見えない筒井はヒカルの腕を掴んだ。すると今度は筒井に向かってヒカルは言った。
「ゴメン、筒井さん。今度の大会だけは、オレも筒井さんと葉瀬中囲碁部として出たいんだ。だから多少強引だけど、今回だけコイツを助っ人で頼むことにした」
「進藤君」
「それから」
そう。これだけは最初に言っておかなければならない。
「オレ、二学期中に院生試験受けるつもりだから」
「・・・・・・え?」
「だから、オレは・・・オレは大会には今回しか出られない・・・・」
「・・・・・・・」
ヒカルの腕を掴んでいた筒井の手が落ちた。ヒカルを見つめる目の際に水分がゆっくりとたまっていく。
「ごめん・・・ごめんなさい・・・筒井さん」
プロ養成機関である日本棋院の院生はアマチュアの大会には出られないのである。
筒井はヒカルから目をそらし、脇にあった椅子に腰を下ろした。
握り締めた拳が小刻みに震えている。
「進藤君、プロ志望なんだ?」
「うん」
それを聞いてあかりは手で口を押さえた。
「プロ・・・・・?まだ中学生なのに?」
「院生なら、中学生がプロ試験を受けていたって全然おかしくないんだよ、藤崎さん」
筒井は疲れたように言った。
「『・・・・・せいぜい、今のうちに打ってもらっておけ』、か・・・。加賀には分かっていたんだな、君の実力が」
「・・・・・・・」
(三年生になるまで、ずっと一人でやって来て、やっと部が作れると思ったのに・・・)
筒井は更に深く俯き、額を理科室のステンレス製の机にそっとつけた。ひんやりしていて気持ちがいい。気持ちが良すぎて、ついでに額を机に打ちつけてやりたい位だ。
何故だろう。何でうまく行かないんだ。何で囲碁はこんなにマイナーなんだ?
筒井はこの二年間、一人で勧誘活動を続けてきて、時には変わり者呼ばわりされてきた道のりを想った。
平成十一年当時、残念ながら囲碁は若年層においてマイナーなゲームだったのである。
(僕はただ、部を作って大会に出たいだけなのに)
「・・・・・わかったよ、進藤君。今回だけだって、とにかく参加できるんだ」
「筒井さん・・・」
「がんばろう。そこの、三谷君だっけ?君も」
筒井は机から顔を上げて、三谷に声をかけた。
「何か知らないが、よーするに、オレがその大会に出てやれば、そのカネくれるんだろ?」
(ミもフタもない言い方する奴だな)
筒井は少し不安になって、三谷を見た。
「そーゆーこと。じゃ、決まりね」
「めんどくせえなあ」
三谷はだるそうに頭を掻いた。
「三谷、断っとくけど、この大会が終わるまで、イカサマはナシだぜ」
「ええっ?」
ヒカルが念押しすると、筒井は今までの落ち込みは何処に行ったのかという勢いで立ち上がった。
「い、い、イカサマ・・・ってイカサマって何!!?」
「イカサマというのは、対局中にインチキするというか、ズルをして勝つという意味で・・・」
「語句の説明求めてるんじゃないよ!何なの、三谷君ってインチキするの?」
三谷は嬉しそうにニヤニヤ笑った。
「オレのイカサマはちょっとスゴイぜ」
「スゴクねェよ」
「勝ちたいんだろ?」
「・・・・・・・」
筒井はだんだん泣きたくなってきた。
たった一度だけの大会でも、精一杯戦って、いい思い出にしようとたった今!決心したのにコレかよ!!
ヒカルは彼にしては珍しく、冷たい目で三谷を見た。
「石をずらそうが、整地を誤魔化そうが、相手に分からなくても横で打ってるオレの目は騙せないぜ。バカな真似はよすんだな」
「オレのイカサマばらしたら、葉瀬中が不利になるだけだろ」
「おまえが反則負けしたって、オレと筒井さんが勝つんだから問題ないさ」
うええっと筒井の口からうめき声が漏れた。
予想外のヒカルの強気な発言に、三谷はちょっと退いて筒井に聞いた。
「何コイツ、すごい自信だけど。そんなに強いの?」
「強いよ、めちゃくちゃ強いよ、進藤君は!」
筒井は殆ど叫ぶように言った。
「院生試験マジで受かる気なわけ?」
「あたりまえだ」
「・・・・・・・・・ふーん」
三谷は思案げに首を傾げた。
「じゃあ、今からオレと打とうぜ。そんなにデカイ顔して、オレあたりに負けてたら話にならないからな」
そうは言っていても、三谷は自分が勝つと思っているらしい。
ヒカルは笑った。
「いいとも。でもオレが三谷に勝ったら、金輪際イカサマとは縁切りにしてもらうぜ」
「何だか自分が勝って当然だと思ってるみたいだな」
「あはは」
ヒカルはタマ子先生から譲られた古い碁盤を椅子に置き直しながら、筒井に声をかけた。
「じゃあ、この対局が終わったら、筒井さん、三谷と打ってみてくれる?」
しかも、短時間であっさり勝てると思ってやがるわけ?
(コイツ絶対負かす!)
三谷はヒカルを睨みつけながら椅子に座った。
(葉瀬中囲碁部は・・・葉瀬中囲碁部はどうなってしまうんだ?本当にこんなので大会に出られるのか?)
筒井は二人の様子を見ていると段々頭痛がしてくるような気がして頭を押さえた。
白20
伊角慎一郎は五階建てアパートの階段をゆっくり上がっていった。
埃っぽい階段の踊り場ごとにダンボールや子供用の自転車が邪魔をしていて、なかなか通りにくい。
和谷の家に来るのは久しぶりだ。
長い付き合いだが、いつも棋院で会っているので、お互いの家の行き来は、そう多くはない。最後にここに来たのはもう一年以上前のことだ。
三階に着いて、「和谷」と書かれた表札を確認すると玄関の呼び鈴を鳴らす。
すぐに扉が開き、ランニングシャツにショートパンツ姿の和谷義高が、彼を出迎えた。
「いらっしゃい伊角さん」
「邪魔するよ」
「・・・・・アイツ、来てるぜ」
和谷はそう言って自分の部屋を指差した。
伊角は家に上がると玄関のすぐ脇にある和谷の部屋に入った。
部屋の設えは一年前に来た時と変わっていない。
和室にベッド。青いカーテン、机にはデスクトップのパソコン。畳敷きの床に置かれた碁盤。
その碁盤の前に座っている子供が、静かに伊角を見上げた。
開いた窓から吹き込む六月の心地よい風が、その子供の金色のメッシュが入った髪を揺らしている。
「やあ」
「・・・・・・こんにちは」
その子供、進藤ヒカルは伊角が声を掛けると嬉しそうに微笑んだ。
何故かその笑顔が懐かしいような気がする。
「伊角さーん、何突っ立ってんの、座って座って」
後ろからコーラのペットボトルとグラスを持った和谷が伊角を急かした。
「打ってたのか?」
「うん」
ヒカルの手元に黒石の碁笥がある。つまり和谷が白だ。
形勢はやや和谷が優勢というところか。
「伊角さん、コイツ前に話した進藤ね」
「よろしく、進藤君」
ヒカルは照れたように頭を掻いて小さく「よろしく」と返した。
(うっわー、伊角さん久しぶり!オレ的には半年ぶりだもんなあ)
と、言うわけにはいかない進藤ヒカルである。
ヒカルは前回、院生になった時、見知らぬ世界にちょっと気後れしてしまったのだが、一人っ子の割に面倒見のいい和谷と、院生みんなの兄貴役のような伊角が何くれとなく世話を焼いてくれたので、ものすごく助かったのだ。
以来、よく三人で行動を共にする、年は離れているが親友同士だったのである。
もちろん、勝負の世界であるからにはプロ試験ではライバル同士。
来年(!)のプロ試験で通ったのはヒカルと和谷と、越智康介。伊角の合格はその翌年であった。
和谷はグラスにコーラを注ぐと二人に手渡した。
「サンキュ」
「伊角さん、進藤、院生試験受けるってさ」
「・・・・・そっか。がんばれよ、進藤君」
「うん」
ヒカルはまた照れ笑いをしながら頭を掻いた。
「・・・でも、まだ先の話だよ。今度の日曜日に中学の大会があるし」
「囲碁部に入ってるんだって?」
「そうそう」
伊角の質問に答えるヒカルを見て、和谷は肩をすくめた。
「中学の囲碁部だなんて大人気ねェって思っていたんだよオレは。そしたら、その大会に塔矢アキラも出るっていうんだぜ。あきれた話だよな」
「・・・塔矢アキラが?」
伊角は驚いた。
「塔矢アキラは名人からアマの大会に出ることは止められているって聞いているけど?」
「そこだよ」
和谷が親指をヒカルに向けた。
それを見てヒカルが答えた。
「それは、オレが出るから」
「・・・え?」
「塔矢はオレと打ちたくて、大会に出るんだ」
「・・・どうして?」
「塔矢とオレはライバル同士だから」
ヒカルはこの上なく嬉しそうに言った。
伊角は言葉を失った。直接会ったことはないが、彼が所属する囲碁塾の九星会で塔矢アキラの噂はさんざん
聞かされている。「塔矢アキラがプロ試験を受ける年は合格枠が一つ減るに等しい」というのが、九星会の子供達の共通認識であった。進藤ヒカルはその塔矢アキラに匹敵する実力の持ち主だとでもいうのだろうか。
「進藤君、塔矢アキラとはどういう知り合いなの?」
伊角の質問に、ヒカルはちょっと困った顔をして
「ちょっと打ったことがあるだけだけど」
とだけ大人しく言った。
「塔矢と打ったの?」
「そりゃそうだよ。だって、ライバルだもん」
「ちょっと打ったことがあるだけで、ライバルなのか?」
「・・・・・・」
「どっちが勝ったんだよ?」
「・・・・・・」
(もう、これ以上ツッコむのやめてくれ〜)
というヒカルの心の叫びは残念ながら二人には通じないらしい。
「わからねェ。オマエ、塔矢とは打たないってこの前、棋院で言ってたじゃないか」
「うん・・・」
「大会で打つのはいいわけ?」
「いいんだ」
(だって、そういうスケジュールだし)
「それでさ、塔矢と打つんで出来るだけ強い人と打っておきたくて和谷に頼んだんだ。伊角さんも協力してよ」
「・・・・・・それは、いいけど・・・」
ヒカルは、やっとこの話を終わらせられるかな、とドキドキしながら神妙な顔で伊角に協力を求めたものの、実は心の中では迷っていた。
それは「大会で、今の自分の実力で戦っていいのか」という基本的な問題である。
これまでヒカルは、前回と同じように時間を進めようと(一応)努力をしてきた。
前回と同じように、皆がsaiの存在を認め、前回と同じように塔矢アキラがヒカルの内の佐為に気付いた時、何かが起きて、また佐為と会えるはずだ・・・・・と彼は思い込んでいるからだ。
皆に佐為の存在を認めさせる為には、佐為の碁を皆の目に留まらせることが絶対条件であるが、もし時間の流れが変わってしまったら、結果的に佐為が打った場面が無くなってしまうかもしれない、とヒカルは恐れているのだ。
現に、前回小学生であることを隠して出場した区の大会は、うっかりミスで出場出来ず、佐為の碁を並べる機会を失っている。
そして塔矢アキラについては、何故、彼がヒカルの内に二人の碁打ちがいることを見抜いたのか、その理由をヒカルは知らない。
せめて前回と同じ展開で物事を進めていくことしか手立てがないのだ。
ヒカルは碁会所で打った二度の対局以外は塔矢と打つのを避けてきたが、それは大会まで打たなかった前例に倣ったにすぎない。迂闊に塔矢と打って、塔矢が見抜くチャンスを逸するようなことがあってはならないのだ。
とは言うものの、先日塔矢アキラが棋院にヒカルを訪ねてきてくれなければ、塔矢が中学の部活の大会に出ることはなかっただろう。
歴史を変えたくないヒカルとしては随分あぶない橋を渡っていたわけだ。
そうして危機を乗り越え、めでたく囲碁大会で塔矢と対局出来ることになったヒカルだが、今度は歴史を再現するために、ヘボ碁を打って思いっきり見下されるという、あまり嬉しくないイベントが彼を待ち受けている。
前回、まだ初心者だったヒカルは、大会でのアキラとの対局で、佐為が打っていた碁を途中で強引に引継ぎ、ボロ負けしているのだ。
自分より上手と戦うつもりで立ち向かってきた塔矢アキラは激怒した。
期待が高かった分、失望が大きすぎたのだ。
以来、アキラはヒカルを殆ど意地のように無視し続けた。
悔しい・・・!
いつか絶対にアイツにオレ自身を認めさせてやる!
あの時の屈辱は忘れられないが、その想いがヒカルの力の源になっていったことは間違いない。今となってみればアレはアレで良かったのだ。
ヘボだった自分がいて、努力の結果、今の自分がいる。
それは正しいことなのだ。
これまでの方針に沿って事を進めるなら、前回通りボロ負けをするべきだろう。
しかし、今のヒカルが前回のようにヘボ碁を打って負けることは、筒井と三谷を、全力で向かって来る塔矢アキラを裏切ることである。
どうする?
せっかく塔矢と打てるのに。
今のオレはアイツを失望させたりしないのに。
どうすればいい?
どうしよう、佐為。
「でも、何で塔矢が出るって分かったんだ?連絡取るの嫌がっていたのに」
和谷の言葉にヒカルは我に返った。
「それは、この前の研究会の時に芦原さんが、教えてくれたんだよ」
「また芦原先生?」
「うん。和谷がトイレに行ってる時に声をかけられたんだ」
「ああ、芦原プロは塔矢門下だったね」
と伊角が言った。
「対局をアイツ楽しみにしているよってさ」
「ほう」
「アイツ大将なんだって」
ヒカルは溜息をついた。
和谷と伊角は顔を見合わせた。
「それは・・・、そうだろ?」
ヒカルは手で額を押さえた。
「そうだよねえ・・・」
「オマエだって大将なんだろ」
「・・・・・・そうなんだよ・・・」
ヒカルは暗い顔をして、もう一度溜息をついた。
「オレ三将同士が良かったんだけどな・・・」
「・・・・・・・・何で?」
前回、ヒカルと塔矢アキラは三将同士だったのだ。しかし、そんな事情をこの二人が知る由もない。
(なるほど、確かにコイツは変わっている)
伊角はこの初対面の中学生を見て、そう思った。