OVER AGAIN 白36〜黒39
白36
夏休みが終わった。
中学校に登校したあかりは、とにかく女子部員を集めなければ、と燃えていた。
六月に行われた区の囲碁大会。その応援に行った彼女は、次は絶対に自分も参加しよう!と心に決めたのだ。
応援と称して会場を訪れた彼女であったが、別に声援を送れるわけでもなく、対局を見ていただけである。
それに葉瀬中のメンバーの後ろにずっと貼り付いているのも邪魔な気がして、対局の始めと終わり以外の時間は控え室と会場の壁ぞいを行ったり来たりしていた。
そんなことをしていれば、次の機会には見ているだけより自分で打ちたいと思うのも無理はない。
そんなわけで、大会の日は暇を持て余していた彼女だったが、早々に対局を終えた他校の女子部員がめずらしがって声をかけてきてくれたので、午後からは図らずも和気あいあいとした楽しい時間を過ごすことが出来た。
「今日は応援で来たの」
とあかりが言うと、彼女達は、是非、次は参加すべきだ、と熱心に誘ってくれた。
「だって、やっぱりどの学校も男子部員が多いよ。特にこの大会は女子の参加校が少なくて、毎年同じ学校との対局になっちゃうし」
「そうすると、海王とか強い学校が勝って、すぐ終わっちゃうもん」
「私達、負けちゃった後、男子が終わるまで、別の部屋で打ったりおしゃべりしたりで、結構楽しくやってるよ」
「まあ、確かに勝てるに越したことはないけどさ」
(うちの学校とはノリが違う・・・)
と、あかりは、ちょっとしたカルチャーショックを受けていた。
葉瀬中では初出場ながら、というか、念願の初出場だからこそ、とにかく優勝を目指せ!という勢いで、猛特訓が続けられていた。
しかし、学校によっては、楽しく部活動、楽しく参加、ということも確かにあるようだ。
見ていて、彼女たちは実に楽しそうに碁を打っている。
いろいろな楽しみ方があって、それもいい。
誘われれば嬉しいし、対局前はライバルでも、終わってしまえば交流も出来る。囲碁友達も出来そうだ。これはいいかも、とあかりは思った。
(でも、私は強くなりたいし、勝ちたいけどね)
ヒカルは忙しいらしく、あまり相手をしてくれないが、筒井や三谷は随分あかりの面倒を見てくれたので、最近では一応、碁になってきたな、と自分でも思えるようになってきていた。
次は大会に参加したい。そのために女子部員を二名集めて次回に間に合わせるのだ。
誰を誘うか。それが問題だ。
親しい友達は、夏休みに入る前に、それぞれの希望の部に入部してしまっていたので、誘えるのは残り少ない帰宅部ということになる。
一応、小学校からの友達に声をかけてみようと、あかりは授業の合間の休み時間に各クラスを回ってみることにした。
まずは一番仲良しだった山田サヤカから、と思ったが、会えなかったので別のクラスに行き、同じグループだった布川美咲を呼んだ。
「え、囲碁部?」
美咲は明らかに当惑した顔で、手を振った。
「ごめん、私、夏休み前に結局、園芸部に入っちゃったんだよね」
(園芸部なら時間取れるかも)
と、あかりは少し希望を持った。
「あ、じゃあ、空いてる時間だけでもいいんだけど」
美咲はすまなそうに、再び手を振った。
「それがウチの部長、マニアでさ。園芸部というより土木工事部なのよ。学校側が任せてくれたことをいいことに、人海戦術で花壇どころか学校管理の植え込みまで、レイアウト変更の嵐なんだよね。私が入部してから、もう花壇の形が変わってるよ、知ってた?」
と美咲は語った。
「す、すごいね・・・」
「変わらないのは、桜とか樹木だけだって二年の先輩が言ってた」
そんなに忙しいなら、掛け持ちは無理だな、とあかりは肩を落とした。
「分かった。他の人誘うから平気。ありがとね」
「他の人って、あかり、誰を誘うの?」
「一応、サヤカに聞いてみるつもりだけど・・・」
その名を聞いて、美咲は微妙な表情をした。
「・・・・・あかり、夏休み終わってからサヤカ見た?」
「え?」
知らないんだな、という納得顔で、美咲は続けた。
「見たら驚くよ。今すっごいよ、あの子」
「すごい・・・?」
「会ってみてのお楽しみ。夏休みを過ぎると人は変わるのだよ」
美咲はそう言って、自分の机の方に帰っていった。
(どういう意味?)
あかりには美咲の言うことが今ひとつ分からなかったが、会えば分かるのだったら、まあいいか、と、その休み時間を終えた。
そして次の休み時間、あかりは噂のサヤカの教室に再び赴いた。
すると、丁度教室から出ようとした女子生徒とぶつかってしまった。
「きゃっ」
「あ、ごめん」
低い声であやまってきたその女子生徒を見て、あかりは思わず大きな声をあげてしまった。
「え!? あなたサヤカ?」
「・・・・・」
その言い方が癇に障ったらしく、女子生徒は眉をひそめてあかりを見た。
「そうだけど?」
親友のつもりが、余所余所しい態度で睨みつけられ、あかりはひるんだ。
しかも美咲の言うとおり、あまりの変わりように度肝を抜かれてしまい、声を出すのがやっとであった。
「あ、あのっ」
「・・・・・・・」
「・・・私、サヤカに用事があってきたんだけど」
「私に用? 何?」
聞くだけ無駄な気もしてきたが、外見で人を判断するのは良くない。
ヒカルだって、碁打ちっぽくないがプロを志望するくらい強いのだ。
(でも、でもでも、この人囲碁部に入ってくれるかなあ?)
しかし、あかりは勇気を出してサヤカに勧誘を試みようと決心した。
でもその前に、やっぱり聞いてみたい。これだけは。
「サヤカのそれって、ガングロ・・・・・?」
平成十一年。そう、忘れてはいけない。この前後数年は、恐れを知らない乙女達が、ガングロブームと称して、後先考えずに無謀にも珠の柔肌を焼きまくった、あの熱い頃なのであった。
あかりは、努めて平静を装いながら、サヤカに微笑みかけた。・・・・・つもりだったが、傍から見ればどうみても、ひきつった笑顔でサヤカを観察しているようにしか見えなかっただろう。
(肌を焼きすぎただけなら、まだいいけど)
その脱色しすぎて真っ白な髪をドレッドにしているのはやりすぎなんじゃないか。
真っ黒になった顔に白い隈取と、白いリップは如何なものか。というか学校で化粧していいのか。
耳に七個もピアスホールを開けたりして、痛くなかったのか。
まだ慣れないらしいマスカラが一部落ちて、白い隈取にくっついているのは、カッコ悪いから早く何とかしなよ。
等々、あかりの脳裏を様々な言葉が通り過ぎた。
(でもそんなのは、本人の好き好きだし、私がとやかく言うことじゃない)
と、いうことはあかりも理性ではわかるのだが。
(でも元の顔が想像できない程、変わっちゃうのは、困る)
(最後にサヤカに会ったのは七月の終わりだったから、その後だよね)
(こういうのが好きな友達が新しく出来たのかな)
「見ての通りだけど?」
ようやく、サヤカが口を開いたので、あかりは我に返った。
「・・・・・あー・・・びっくりした。何時からやってるの?」
「八月に入ってから。似合う?」
「・・・・・よくわからない。ごめんね」
「・・・・・正直だね、あかりは」
そういって、サヤカは笑った。
(あ、笑った顔は変わってない)
中身まで変わったわけじゃない、とあかりは、胸をなでおろした。
「先生、何も言わないの?」
「何かあったのかって聞かれたけど、それだけ」
「この学校甘々だもんね」と言ってサヤカはまた笑った。
確かに葉瀬中は自由な校風で売っているだけに、服装関係には甘いと、あかりも思う。
そうでなければ、ヒカルの前髪メッシュが許されるわけがないし、三谷のカラーシャツにサスペンダーもアウトだろう。
そうは言っても、酒とたばこは普通にきびしい。あたりまえだが体に悪いものは許さない、ということだ。
教室の出入り口に立っていると他の生徒達の邪魔になるので、二人は廊下の壁際に移動した。
廊下を通り過ぎる生徒達が、チラチラこちらを見ている。
高校生ならともかく、流石に中学一年生でここまでやる生徒はめずらしいのだろう。
「あかり、私のヤマンバぶりを見に来たの?」
「え? あ、違う違う。用っていうのは部活の勧誘なの。サヤカ、囲碁部に入ってみない?」
それを聞いてサヤカはちょっと言葉につまり、次に吹きだした。
「あかり、囲碁部なの?」
「うん! それで大会に出るのに女子部員集めてるの」
サヤカはドレッドヘアをかき上げながら、ボソッと呟いた。
「あかりって分かりやすすぎ・・・」
「え」
サヤカは右手を左右に振った。その爪に塗られたラメ入りパール系のマニュキュアがきらめく。
「なんでもなーい。私、囲碁は全然知らないし、興味もないし。悪いけど入部は遠慮しとく」
(やっぱり無理だったか)
ダメもとだったので、あかりはすぐに引き下がることにした。
「分かった。興味出てきたら、いつでも来て? 理科室で活動してるから」
「期待しないでね」
「あはは・・・じゃあね」
そして二人は手を振って別れた。
「それにしても、本当にビックリした・・・」
自分の教室に入ると、思わずあかりはつぶやいた。
「何が?」
「えっ」
気が付くと、同じクラスの津田久美子が隣に立っていた。
「あかりって、独り言が多い人?」
とっさにあかりは口を押えて、照れ笑いをした。
「そんなこともないと思うけど」
あかりと津田久美子とは中学生になって初めて知り合った。
入学式で、たまたま席が隣になったのが縁で、いまではクラスで一番仲がいい。
入学してすぐに人間関係をどう作っていくかが、その後、クラスの中で気分良く過ごすための大きな要素になる。久美子は気持ちのいい少女で、気が合うし、友達になれて本当に良かった。自分は運が良い、とあかりは思っていた。
始業のチャイムが鳴り、あかりと久美子は自分達の席に向かった。
「・・・・・そうか、久美子がいた」
あかりは、久美子の背中を見てつぶやいた。
「?」
「久美子、帰宅部だよね」
席に着くと、あかりはにわかに勧誘活動を開始した。
「・・・・・?」
「囲碁部に入ってみない?」
「・・・・・ええ?」
「囲碁、やろうよ」
「囲碁って・・・・・? 将棋とは・・・違うんだよね」
あかりはニッコリ笑った。
「もちろん違うよ」
「ルール知らないよ」
「教えてくれる人がいるから大丈夫」
「・・・・・」
「とりあえず、見学だけでも」
「・・・・・」
「お願い」
久美子はしばらく考えていたが、やがて仕方ないという風に答えた。
「・・・・・とりあえず、見学だけだよ」
(やった!)
あかりは手を合わせた。
「ありがとう! 久美子!!」
「・・・・・見学だけだってば」
「ありがとう!」
(多分、これは押し切られる)
津田久美子は、藤崎あかりが顔に似合わず押しが強いということを、この時初めて知ったのである。
黒37
それからしばらくした、ある秋晴れのさわやかな日曜日のこと。
和谷義高は地図を頼りに、初めて進藤ヒカルの家を訪れようとしていた。
同じような一戸建て住宅が並ぶ中、目指す家の表札をやっと見つけて玄関の呼び鈴を押すやいなや、当のヒカルがまさに飛び出てきた。
「はーいっ!! はいはいはいはい!」
それに答えて和谷が手を上げて
「・・・・・・よっ」
と声をかけると、無礼千万にもヒカルは
「・・・・・何だ、和谷か」
と落胆したように首を下げた。
「何だよ! オマエが遊びに来いって呼んだんじゃねェか!!」
「・・・・・あれ? 今日だっけ?」
「今日だよ!!」
ヒカルはしばらく首をかしげていたが「まあいいや、丁度いいのかもな」と、和谷を家に迎え入れた。
「おじゃましまーっす」
と言いながら和谷が玄関に入ると
「お母さん! 和谷が来た!!」
と、ヒカルが家の奥の方に向かって怒鳴っていた。
息子の声を聞きつけて母親が玄関に来ると、遠方から来た和谷をねぎらった。
「遠いところを大変だったでしょ。家の場所すぐわかった?」
「あ、ハイ!」
その時、再び呼び鈴が鳴った。
ヒカルが和谷を押しのけて、玄関のドアを開ける。
そこに立っていたのは宅配の配達人だ。
「今度こそ来たぜっ」
配達人からダンボール箱を受け取ると、ヒカルは玄関先で、慎重に梱包を解き始めた。
明らかにヒカルは和谷ではなく、その荷物を待ち受けていたのである。
何が出てくるのだろう、と和谷がヒカルの背後に立って見ていると、出てきたのは碁盤と碁石であった。
碁盤は足付きであった。桂の三寸盤。使い勝手はいいだろう。碁石は「本蛤」「那智黒」と袋の上書きにある。
(新調したのか。それで配達を待ちかねてたんだな)
と、和谷は思った。
「・・・・・」
ヒカルはしばし黙り込んで碁盤を見つめた。
彼の母親が声をかける。
「立派じゃない。おじいちゃんにお礼ちゃんと言った?」
「・・・・・うん」
ヒカルは言葉少なに返事をした。
やがて、自分の後ろに立ったまま様子を見ていた和谷の方を上目使いに見て、「へへへ、じーちゃんに買ってもらったんだ」
と嬉しそうに説明した。
「そーかそーか良かったな」
和谷は「運ぶなら手伝うぜ」といって、碁盤に手をかけようとしたが、
とっさにヒカルはその和谷の手を掴んで止めた。
「・・・・・何だ?」
「えっ、あ、その、自分で運ぶからいいんだ」
ヒカルは、慌てたように言うと、碁盤の上に碁笥と石の入った袋を乗せて、玄関を上がってすぐのところにある階段を上がって行った。半分登ったところで、思い出したように和谷の方を振り返り「オレの部屋二階だから」
と声をかけて、さっさと自分の部屋に向かった。
「じゃあ、ごゆっくりね。和谷君」
あっけにとられた和谷は、ヒカルの母親の声で我に帰り、ヒカルの後を追った。
和谷がヒカルの部屋に入ると、ヒカルはフローリング床にラグを敷いたその上に碁盤を置いて位置を確かめていた。
そして碁笥に、袋から出した白黒それぞれの石を慎重に詰めていった。
「和谷、悪いけど、ちょっとだけ待っててくれる?」
ヒカルは、ドアの前に立つ和谷に言った。
「おう」
(せっかく来たのにこの扱いって何?)
と思わなくもないが、進藤ヒカルが変わっているのは今更である。いちいち気にしても仕方がない。
和谷は念願の碁盤を買ってもらって感動の余韻に浸りたいらしいヒカルを余所にヒカルの部屋を見回した。
採光の良い角部屋の八畳間。案に相違してその部屋は片付いていた。机とベットと本棚。
テレビに何故か冷蔵庫。なかなかに恵まれた部屋である。
本棚に目をやる。囲碁関係の本はあまりない。
マニアの証明「完本本因坊秀策全集」はともかく、あとは囲碁雑誌が数冊と下段に古い「週間碁」が積んであるだけだ。残りのスペースには漫画雑誌やゲームの本が並んでいた。
(コイツ碁は独学だなんて言いやがって、本もろくにねえじゃねェか・・・・・・どうやってこんな短期間に腕を上げたっていうんだ?)
ヒカルの棋力を知る他の棋士達同様、和谷もヒカルが自分ひとりで強くなったという戯言を全く信じていなかった。
家に遊びに行くついでに、誰が師匠なのか、その痕跡を見つけてとっちめてやろうと決めてやって来たのだ
が、部屋の中に碁に関するものがあまりにも少ない。
(そういえば、進藤は知り合った頃、囲碁の資料や棋譜が見たいと周囲の棋士に聞きまわっていたんだった)
自分も道策やら昨今のトッププロの本やら何冊か貸した。
(研究会に来るまで本当に借りるツテがなかったのか?)
この才能を前に親は何をしているのか。
和谷の家は裕福ではないが、それでも本気でプロを目指す息子の為に完全にバックアップしてくれている。
本だって勉強の為といえば多少は買ってもらえる。
(じいさんが碁盤を買ってくれたってことは、応援してくれているのは親じゃなくてじいさんだってことだよな)
囲碁人口の多くを中高年が占めるこの国では、ありがちな話だ。
和谷はヒカルの方に目を向けた。
碁盤を前に正座した進藤ヒカルは、碁笥を二つとも自分の膝元に置き、碁盤を両手で左右から挟むように置き、目を閉じていた。
その姿に
(まるで、何かに祈っているみたいだな)
と、和谷は思った。
やがて、目を開けたヒカルは一人で、石を並べ始めた。
誰の打ち碁だろうと思い、和谷は石の並びを立ったまま上から見ていた。しかしヒカルは十五手でその手を止め、手を膝に戻し、そのまま物思いに沈んだように碁盤を凝視したまま動かなくなってしまった。
「・・・・・・」
和谷はその不思議な儀式らしきものを黙って見つめていた。
何が何だかわからない。
呼ばれたから来たものの、やはり今日は遠慮した方が良かったんじゃないかと、だんだん不安になってきた。
ヒカルは、ふっと窓の外を見た。ガラスごしに近隣の家々の屋根が並んでいるのが見える。
そして視線を再び盤上に戻して石を崩すと、やっと和谷の方を振り返り、
「おまたせ」
と言って笑った。
「・・・・・今の何だ?」
「おまじない」
ヒカルは悪びれずに答えた。
「・・・・・悪霊払いかと思ったぜ」
「失礼な。どっちかっていうと逆だぜ」
「?」
「碁の神様にお願いしてたわけよ。これからこの碁盤で打ちまくって、オレがドンドン底なしに強くなりますようにってな」
「・・・よく言うぜ。ま、いいさ。オレもそれにあやからせてもらおうかな」
「おー、あやかれ、あやかれ。この碁盤は縁起物だぜ? 何せ碁の神様に愛された碁盤だからな」
「・・・・・」
(何故そんなすごいモノが、因縁のカケラもなさそうな新品の碁盤でしかも過去形?)
と心の中でつっこまずにはいられない和谷である。
そこでふと和谷はあることに気が付いてヒカルに尋ねた。
「ところでオマエ前に使ってた碁盤はどうした?」
「え?」
ヒカルはキョトンとして和谷を見た。
「前に使ってた碁盤って、いつも和谷と打ってるマグネットの携帯用碁盤だよ」
「・・・・・・・・何だって?」
「・・・?」
和谷は研究会の後で、いつものマクドナルドに寄って打つ時、ヒカルがリュックから取り出す携帯用碁盤を思い出していた。確か近所のスーパーで五百円くらいで買ったと言っていたヤツだ。
「・・・・・持ってた碁盤ってソレだけ?」
「そうだよ」
(プロを目指そうってヤツが?)
確かに、いつでも打てて便利というので携帯用碁盤をメインに使う棋士もいないわけではない。しかし「それ」しか持っていないというのは珍しいのではないか。
「後は、じーちゃんの家で打つ時は古いちゃんとした碁盤で打ってるけど」
「あ、そーか。じーちゃんね」
成程。コイツの師匠はじーちゃんである可能性もあるわけだ。
昔プロだったとか、アマ碁で有名な人とかか?いずれにせよ名のある人物なら師匠に聞けばわかるかもしれない。
そう思って和谷はヒカルに尋ねた。
「オマエのじーちゃんって何て名前?」
「進藤平八」
「・・・・・聞いたことないな・・・」
ヒカルはムッとしたように言い返した。
「バカにすんなよ! オレのじーちゃんはクツワ町の井上さんに勝った位強いんだぜ」
(誰だよ? クツワ町の井上さんって!?)
実はヒカルも知らない。ついでに言うと、クツワ町自体、昭和三十年代の町村合併の波の中に消えてしまい、今は存在しない。
祖父の平八が何かというと「井上さん」を引き合いにして威張るので、ついヒカルも言ってしまっただけだ。
「じゃ、打とうか?」
ヒカルに言われて和谷はヒカルの向かいに座り、ついで碁盤を指さした。
「縁起ものって言ったよな・・・・・何か出てきやしねェだろうな」
すると、ヒカルは急に真顔になってポツリと言った。
「・・・・・・・・・・そんなの大歓迎だぜ」
「・・・・・」
(・・・・・コイツ、ついて行けんわ)
だが、ヒカルは和谷の心中などそ知らぬ顔で
「じゃ、ニギってよ」
と言い、白石が入った碁笥を和谷の方へ押しやった。
白38
「それにしても、オマエよく帰ってきたよなあ」
ヒカルはそう言って碁盤を撫でた。
和谷が帰った後、ヒカルは買ってもらったばかりのそれを、ためつすがめつ眺めた。
年輪の模様を見れば、まぎれもなく毎日打っていたあの碁盤だと分かる。
初心者だった頃から佐為とずっと打ってきた思い出の碁盤。
誰も知らない佐為をこの碁盤だけは知っている。
そう思えてならないヒカルはこの日を一日千秋の思いで待っていたのである。
(碁盤が帰ってきたら、最初に何を並べようか)
ヒカルは考えて、やっぱりアレにしようと決めた。
それは佐為が消えた時に打っていた碁だ。
あの日。
ヒカルがプロ棋士として行った、地方のイベントの仕事を終えて家に帰って来た時、佐為は、『一局打ちましょう』と思いつめたように言ったのだ。
そして、佐為が十四手目を打ち、ヒカルが一五手目を打ち、そして、なかなか次の手を打たない佐為に業を煮やしてヒカルが顔を上げた時、もう佐為の姿は何処にも見えなくなっていた。
初めヒカルには何が起きたのか分からなかった。
ただ、その時から、ヒカルの心の中から、佐為の存在が全く感じられなくなってしまった。心の中だけに聞こえていた佐為の言葉も聞こえなくなった。
それがアイツの最後の碁。
その碁を最初に並べよう。
それまで、あの碁盤は誰にも触らせたくない。
と、まあ要するにヒカルは感傷的なことを考えていたのだ。
しかし、まさかそこに和谷が現われるとは思わなかった。
「和谷のヤツ、変に思わなかったかな」
願掛けしたり、おまじないをしてみたり、オレも適当なこと言ってるよ、とヒカルは自分でも思う。
(でも、いいんだ。佐為が帰ってくれば)
ヒカルは碁盤を再び見つめた。
想いは佐為が消えたあの日に還っていく。
静かに座していた佐為。
五月の暖かな日差し。
窓の外で翻るこいのぼり。
そして打ち切られることなく盤上に置き去りにされた碁石。
なあ佐為、早く帰って来いよ。
そして、あの碁の続きを打とう。
「五万円? ヒカルが親父にもらった碁盤が?」
「そうだって。私びっくりしちゃったわよ」
珍しく早い時間に会社から帰宅して風呂から上がったばかりのヒカルの父、進藤正夫は肩にかけたタオルで濡れた髪を拭いながら、冷えた缶ビールを片手に妻を振り返った。
夫のために夕飯の支度をしていた美津子は、夫がキッチンに入ってくるのを待ちかねたようにヒカルがもらった碁盤の礼をどうするか訊いてみたのだ。
「良くは知らないが、ああいうモノは値が張るっていうからなあ。足付きなら安い品でもその位はするかもな」
平然と答える夫に美津子は訴えた。
「困るわよ。私そんなに高い物だなんて知らないから、ヒカルがお義父さんにねだったって聞いても、あまり気にしなかったのよね」
しかし正夫は、「まあ、いいよ」と軽く流した。
「親父の囲碁好きは若い頃からでさ、僕もずいぶん相手をしろって言われてたのを逃げ回ってばかりいたからな。ヒカルが打つようになって親父も喜んでるんだよ」
「でも・・・」
「来週、出張の帰りに何か土産でも買ってくるから、それで挨拶すればいいさ」
「・・・・・」
正夫は、居間のソファに座るとビール缶のプルトップを開けた。プシュッと軽い音が鳴る。
そして、キッチンにいる妻に声をかけた。
「君も飲む?」
「半分」
美津子はキッチンからコップを持って来て夫の向かいに座った。正夫はそのコップにビールを注ぐとテーブルの上に乗っていたリモコンでテレビをつけた。
野球中継を伝えるアナウンサーの声が部屋に響く。
話が終わっていない美津子はリモコンを取って音量を下げ、言葉を続けた。
「ヒカルが院生試験を受けたいって」
「院生試験? 何だ院生って?」
夫の問いに、妻の美津子は首を振って「さあ」と言った。
「ヒカルが言うには上級者の子供のための囲碁教室だって」
「囲碁の教室なら、今だってプロの先生に教えてもらってるんだろ?」
「そうよ。それとは別に通いたいんですって。それでその教室に入るための試験があるからそれを受けたいって言うのよ」
「二つも行くことないじゃないか。どちらかでいいだろ?」
「それはそうだけど、もうあの子、通うことに決めちゃってるみたいなのよ」
「・・・・・何だ、本当に熱心だな」
「ええ、そりゃあもう」
と美津子は肩をすくめた。
「まあ、そこは君がちゃんと話しておいてくれよ」
「・・・・・・」
正夫はビールの缶に口をつけると一気に飲み干した。
話は終わったとばかりにテレビの方に目を向ける。
美津子はかまわず言葉を続けた。
「ヒカルといえば、おととい学校の三者面談だったんだけど」
「ふうん」
気のない返事に美津子は眉をひそめた。
「・・・・囲碁ばかりしてるんだもの、成績はどんどん下がってるわよ。一年生でも、そろそろ本腰入れて勉強しないとまずいって先生に釘刺されちゃったわ」
「・・・・・」
「囲碁の教室より、学習塾に行かせたいんだけど、あの子全然言うこと聞かないのよね」
「・・・・・」
「ちょっと、聞いてるの?」
「・・・・・」
正夫は面倒くさそうに頭を掻いた。
「・・・・・無理に行かせたって、どうせ身が入らないだろ。だったら今夢中になってることをやらせておいたらいいさ。男の子はいざという時にはやるんだからそれまで様子をみたら?」
美津子は溜息をついた。
「私はあなたみたいに、のんきに構えていられないわ」
「平気さ、僕もそうだったから。それよりヒカルにそこまで入れ込むものがあるっていうことを評価したいね」
「今まで、何をやってもすぐ飽きちゃってたあの子が、囲碁だけは続いてるのよね・・・」
「そういうことだな」
もともと進藤ヒカルは何事につけても、飽きっぽく、軽く、ドライで、冷めた子供であった。
どちらかと言えば器用な方で、コツを掴めば人並み以上に出来るのだが持続しない。
一人息子に期待しがちな若夫婦としては、それが悩みの種であったのだが、今はもう中学生。
高校受験のことを考えると、一つのことだけに熱中されすぎても困る時期に入ってきてしまっていた。
「・・・・・」
美津子は思案顔で立ち上がり、空のコップと空き缶を持ってキッチンに帰っていった。
それを見て、今度こそ話は終わったと思った正夫は、再びテレビのリモコンを取り上げ、音量を上げた。
黒39
そしてその日の夜遅く、美津子は息子の部屋に向かい、親の話し合いの結論を伝えたのだった。
それを聞いて、棋譜並べをしていたヒカルは文字通り飛び上がった。
「えええええっ何で!? 何でダメなのお母さん!!」
「真夜中なんだから大きな声出すのはやめなさい。だから今言ったでしょ。森下先生の教室に行っているんだから、そこでがんばればいいじゃないって」
ヒカルは言葉を失った。
院生になるのを止められるとは思わなかったのだ。
それは、今のヒカルの実力なら外来受験でも合格は可能だろう。
現に受験の話を研究会でした時、森下は「そうか」と言ったきり、あまり良い顔をしなかったものだ。
その真意を正確に測ることは出来ないものの推測は出来る。というかヒカルにも自覚はあった。つまり、塔矢アキラが院生にならないのと同じ理由だ。
だが、アキラとは違い、ヒカルには院生にならなければならない事情がある。
「そんなこと言わないでよ。どうしてもオレ院生になりたいんだ」
「その院生の教室って何処にあるって言ってたっけ?」
「研究会と一緒。市ヶ谷だよ」
「遠いわねえ・・・・・」
「・・・・・・」
市ヶ谷で遠いと言われては、プロ試験の時には千葉市幕張の研修センターに行くなどとはとても言えない。
「場所も一緒。囲碁の勉強をするというのも一緒な訳よね」
「森下先生の研究会と棋院の院生は全然違うよ。」
「どう違うの?」
これをこの段階でいうのは控えたかった・・・が仕方がない。
「・・・・・だから、森下先生のは基本的にプロ同士の研究会で、院生っていうのは棋院がやってるプロ養成機関で子供しかいないの!」
美津子は「えっ」と声を上げた。
「プロ養成機関?」
ヒカルは頷いた。
「じゃあ、尚更アンタには関係ないじゃないの」
「何でそーなるんだよ! オレはプロになるんだってば!!」
「ええ?」
美津子は驚いて口に手をやった。
ついこの間囲碁を始めたばかりのこの子は何を言っているのだろう?
もちろん将来の夢を持つのはいいことだ。
子供の夢を簡単に摘むことは親として避けなければならないが・・・・。
確かに社会保険センターの囲碁教室講師の白川先生とやらは、随分ヒカルのことを褒めていたし、それで今の研究会も紹介してもらった。しかし、珍しく褒められて息子は少々カンチガイしてしまっているのではないのか、と美津子は訝った。
「ええ・・・・・・っと、ねえヒカル。だってアンタまだ子供じゃないの。プロだなんて気が早いんじゃない?」
「全然早くない! 和谷だって何年も前からプロ試験受けてるよ」
「・・・・・・」
「と! いう訳だから、お父さんにそう言っといてよ!!」
「・・・・・・」
「わかった?」
驚いて、次に考え込んでいた母、美津子であったが、顔を上げると息子にきっぱり言い渡した。
「・・・・・・バカ言いなさい。そんなに大事なことなら、自分でお父さんに言いなさい」
「・・・・・え」
「アンタが本当に自分の将来を考えて、その教室に行きたいのなら自分でお父さんに交渉してみたら? まだお父さん起きてるから」
「何でだよ?! そういうこと言ってくれるのはお母さんの仕事だろ?」
「そんな仕事はありませんよ。何でアンタもお父さんも一々お母さんに言わせようとするのかしら。とにかく自分で言いなさいね」
彼女はそう言い置くと、さっさと部屋を出て階段を下りていった。
「げ―――・・・・っ、そんなあ・・・お母さんのケチっ」
ヒカルは別に父親と不仲という訳ではない。しかし、朝早く出かけて夜遅く帰宅し、休日出勤も多い会社員の父親とは実のところあまり接点がない。
世間話はたまにするが、つっこんだ話というのは殆ど母親を介して行うので、父親とシリアスな話し合いをする習慣がないのだ。
前回はどうだったかというと、森下九段の研究会に行くようになったのは院生になった後で、親に話したのは事後承諾。プロ試験を受けているのを話したのも事後承諾だった。
もちろん後できっちり叱られたが、行っちゃった者勝ちの受けちゃった者勝ち、ついでに合格しちゃった者勝ちで、言うなれば親にろくな説明なしでプロになってしまった。
それが今回は勉強会に行き始める順番が違っただけで、こんなことになってしまうとは・・・。
「しょうがねェなあ!!」
ヒカルは意を決して立ち上がった。
ヒカルが階下に下りていくと、父親の正夫はパジャマ姿で居間にいた。
「おっおっ、おとうさんっ」
(やべえ、いきなりドモっちゃったよ)
「よおヒカル、まだ寝ないのか? たくさん寝ないと大きくなれないぞ」
(な、何ボケてんだこの親父・・・・)
少しばかり拍子抜けしたが、おかげで話がしやすくなった。
「・・・・・いいんだよ最近伸びてきたもん・・・あのっ、それよりオレお父さんに話があるんだ」
「・・・・・・」
息子と会話慣れしていないのは父親も同じだ。
ちょっと驚いた顔をして、「へえ、話? 珍しいな。何だ話って」
そう言って、彼はソファに腰を下ろした。
ヒカルは回り込んでテーブルを挟んで向かいのソファに座った。
「お父さん、オレ、囲碁のプロになるんだ」
「・・・・・・」
父親は母親程には驚かなかった。少なくともヒカルにはそのように見えた。
無言のままで、息子を見つめた。
「だっ、だから、そのっ、オレが院生になるのを認めてっ・・・クダサイ」
そのまま父子は沈黙したまま対峙した。
(う、うおおおお、プロの高段者との対局並みにキンチョーするぜ)
ヒカルはプロで森下九段と対局した時のことを思い出した。
「・・・おまえ、そんなに囲碁が好き?」
父親はようやく声をかけてきた。
「うん・・・・・はい」
ふうん、と正夫はつぶやき、テーブルから煙草を取った。
一本取り出し、ライターで火をつける。深く煙を吸い込んで、吐いた。
「‘なりたい’んじゃなくて、‘なる’って言ったな。実のところおまえの実力はプロになれる位あるということなのか?」
「自信はあるよ」
ヒカルは言い切った。
「どうしてそう言える?」
「そ、それは、」
そこに、母親がやってきて、父親の隣に座った。
ヒカルは言葉を続けた。
「それは、プロの研究会で打ってて、プロの人相手に勝ってるし、プロの先生がみんなオレは合格出来るって言ってくれてるから」
「それで院生になりたいというのは? 院生にならないとプロになれないの?」
「そういうワケじゃないけど、普通オレみたいな子供は棋院のプロ養成機関の院生になって、同じ年頃のプロ志望者と勉強して、プロ試験を受けるんだよ」
「・・・奨励会に入って三段リーグを勝ち抜くみたいなものか」
「それは将棋」
ヒカルもよくは知らないが、以前加賀がそう言っていた。
「違うのか?」
「色々違うんだ。将棋は四段でプロだけど、囲碁は初段でプロだし、プロ試験も外来で受けられる。でも、オレは院生になって、それでプロ試験を受けたいんだよ」
ヒカルが院生にならなければならない理由。
一つはもちろん前回そうだったからだ。院生にならなければ、時間の進み方が全く違ってきてしまう。これまでも散々前回と違うことをしてきた気もするが、基本的なところはそれでも押えておきたい。
そして、もう一つの理由。
それは今、この場での両親との会話でも分かる通り、進藤家が囲碁界と全く無縁であるということだ。
院生仲間を思い出しても、彼らは幼少時に多かれ少なかれ「天才」だの「神童」だのと言われて育ち、プロになることを期待されて棋院にやって来ていた。
そういう「囲碁界」に理解ある家庭環境で育っていれば、仮に院生にならなくても喜んで外来受験をさせてもらえるだろう。
そう、塔矢アキラのように。
だが、プロ試験というのは学校が休みの日だけに行われるわけではない。
学校に行っている者は学校を、会社勤めをしている者は会社を休んで(または辞めて)、試験日には会場に駆けつけなければならない。
そうした事情も合格の価値も理解していない家庭の子供が、週に二日も「プロ試験だから学校を休むよ」といって簡単に認められるだろうか。
前回、プロ試験のことを親に打ち明けたのは予選の頃だった。
そして、その時の言い訳は「院生一組は全員受けるんだからオレも当然受ける」
というものだった・・・・・。
いくらヒカルがここで「研究会でプロに勝っている」と言ったところで、その研究会自体、親達は「囲碁教室」程度の認識しかないらしい。
自分が口で説明しても、自惚れているだけだと思われてしまうかもしれない。
森下に電話してもらおうかとも考えたが、ヒカルは単に研究会に参加しているというだけの身分で、実は門下生ですらない。流石のヒカルにもそこまでしてもらっていいのかという遠慮がある。
では白川はといえば、頼めばいくらでも話してくれそうだし、いざとなればそうするつもりであるが、やはりここは院生試験をあっさり通って、プロ養成機関でやっていける実力があることを見せた方が、説得しやすいという計算だ。
こんなことなら、夏休みに中学生の囲碁大会に一般参加して優勝しまくっておけば良かったのかも知れない
が、その頃はネット碁に集中していて思いつきもしなかったのだ。
「ねえ、いいでしょ? お願いしますっ!!」
ヒカルは殊勝に頭を下げた。
父親は暫く煙草を黙って吸い続けていたが、やがてそれを灰皿に押し付けて火を消した。
「いいよ。受けてみなさい」
「ほ、ほんとっ? 本当にいいの?」
「院生になるのにも試験があるんだろう? その後の話はそれに合格してからだな」
「うんうん」
(助かった!)
ヒカルは胸をなでおろした。
美津子はチラッと横目で夫を見た後、息子に言った。
「ヒカル。囲碁の教室が二つになったからって、成績を落とす言い訳にしないでね」
「うんうん」
「ちゃんと学校の勉強もするのよ」
「うんうん」
(プロ試験に合格しちゃえば関係ないもんね)
とはヒカルの心の声だが、今は余計なことを言わない方が良さそうである。
ヒカルは満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「ホントにありがと。じゃ、オレ寝るね」
「おう、おやすみ」
足取りも軽くヒカルが二階に上がっていくと、美津子は夫に言った。
「プロだって。あの子本気かしら?」
「本気のようだな」
正夫は笑みを浮かべて答えた。
「あなた嬉しそうね」
「まあね。ヒカルが自分の将来のために、あんなに必死に頼んでくるなんて正直驚いたよ。アイツも成長しているんだなと思ってさ」
「・・・・・」
「大丈夫だよ。どんな世界でもプロになるなんてちょっとやそっとじゃムリなんだから。とりあえず気が済むまで好きにさせといたら?」
「・・・・・」
美津子は夫のように気楽に受け止められないようだ。頭に手をやりながら、
「私、今度お義父さんに、碁のプロがどういうものか訊いてくるわ」
と言った。
それを聞いて正夫は、うーんと首を傾げた。
「親父のはただの趣味だからなあ、あんまり詳しくないんじゃないか?」
「そんなこと言ったってねえ」
「まあまあ、僕もちょっと調べてみるよ。あんまり深刻になりなさんなって」
「・・・・・」
正夫は居間の壁掛け時計を見上げた。すでに日付が変わっている。
「お、こんな時間だ。明日早いんだ、先に寝るよ」
そう言って正夫は部屋を出て行った。
「・・・・・・・」
夫が寝室に引き上げた後も、美津子はソファに座ったまま、いつまでも物思いに耽っていた。