LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 白78〜黒81



白78


その後もアキラは、ヒカルの思わせぶりな言葉を不審に感じながらも、日々の仕事や勉強に明け暮れ、また来るべきヒカルとの対局に思いを馳せていたが、いよいよ明日がヒカルとの対局という四月のある夜、事件
は起きた。


 アキラが日本棋院での用事を済ませて帰宅し、玄関を開けると、家の中から母親の鋭い声が聞こえてきた。
いつも朗らかで優しい物言いの母である。その声の様子から異常を感じてアキラはカバンを玄関の横に置くと、声のする方へ走った。

座敷の襖を開けると、父の行洋が胸を押さえて倒れこんでいた。肩をさすりながら、母の明子が、大きな声で夫の名を呼んでいる。
明子は襖が開いた音を聞いて顔を上げた。
「アキラさん、救急車を呼んで。早く!!」
アキラは、言われるまま、部屋を飛び出て電話のある玄関に走って戻った。受話器を取り上げて、あっと声を上げた。
「救急車って何番だ?」
119番がすぐに頭に浮かばなかった。つまりその位彼は慌てていた。
「・・・あ、そうか」
思い出して番号を押した。押しながら指が震えているのに気が付いた。

しっかりしていると見られている塔矢アキラも、囲碁以外の部分では普通の中学生に違いはなかったのだ。
先方から住所氏名や電話番号等の他、容態や心肺停止状態か否かについて訊かれたが、父親が倒れているところを見ただけで、詳しい状態は分からなかったため、再び座敷に行き、母親に呼吸と心音の状態だけ訊いて、それを伝える。

座敷に戻り、どうしていいかも分からず、母親の傍らに座った。
行洋は胸が酷く痛むらしかった。苦しそうに時折うめく。

時間の流れがいつもと違って感じる。いやに遅いような気もするし、救急車のことを考えれば早く進んでいるような気もする。

だが実際には、幸いなことに救急車の到着は早かった。搬送先については、比較的家から近い中央武蔵病院の受入れが決まった。院長が行洋の中学時代の友人だったため、明子が待っている間に電話を入れておいたのだ。
準備が出来ると、明子とアキラは行洋に付き添って救急車に乗り込んだ。



救急車の中は狭かった。走り出すと、サイレンの音が鳴り響く。
街で見かけることがあっても、自分がそれに乗る日が来るなどと、アキラは考えたこともなかった。

父の行洋は、苦しそうに目を閉じたままだ。明子はずっと夫の手を握っていた。
その握られた手からアキラは目を離すことが出来なかった。
(この手が、もう二度と碁石を持てなくなったらどうしよう・・・)

それは父がいなくなることそのものに匹敵する恐怖だった。
アキラにとっては、塔矢行洋は父親であること、それ以上に囲碁の師匠であり、囲碁界の重鎮であり宝物だったのだ。
だが、今、彼に出来ることは、家族として、父と母に付き添うことだけだった。
その時、行洋がうっすらと目を開けてアキラを見た。
「お父さん」
アキラが声をかけると、行洋は苦しい中、酸素吸入器の覆いの下で口の端を上げて笑って見せた。
その笑顔を見て、アキラの視界は涙でぼやけた。




 病院に到着後、医師に告げられた診断結果は急性心筋梗塞。つまり心臓の冠動脈が詰まってしまい、心筋が死につつある状態だという。
発症から時間があまり経っていないため、カテーテルを手首から心筋まで通し、冠動脈ステント留置(バルーンで血管を広げた後、ステンレス製の筒を詰まった部分に留置して再狭窄を防ぐ)を行うとの説明を受けた。
心筋梗塞と聞き、胸を開くのだろうと覚悟していたので一瞬安堵したが、危険な状態であることに違いはない。


行洋が治療のためにCCU(冠状動脈疾患管理室)に入ると、母子二人、廊下の長椅子に並んで座った。
「アキラさん、大丈夫?」
息子を気遣う声は、いつもの母のものだった。自分は今でもうろたえきっているのに、明子の意外な強さにアキラは驚いた。
「お母さん、お祖父さんと囲碁関係の方に電話してくるから、ここに居てね」と言い、手帳を持って公衆電話の方へ歩いていった。

母親の姿が見えなくなると、アキラはやっと息をついて周囲を見回す余裕が出てきた。
夜の病院の外来フロアは静かだった。一部を除いて減灯されていて薄暗く、不安が増殖してくる。あわてて彼は頭を振った。


塔矢行洋が倒れたことを連絡すれば、棋界は大騒ぎになるだろう。
特に明日は十段戦第三局が行われる日であった。
現在の十段位保持者は塔矢行洋。挑戦者は緒方精二九段だ。
対局が行われる愛媛へ持って行くはずの荷物は、ほぼそのまま病院へ持ちこまれることになった。今となっては何のための準備だったのか。

(緒方さん、明日はどうするんだろう)
処置が済んでも数日は絶対安静だと医師は言っていた。緒方が愛媛に向かったところで名人が行ける可能性はない。不戦敗だ。


不戦敗といえば、父だけではない。
(進藤との直接対決は流れてしまったな・・・・)
アキラは溜息をついた。

パーティ会場で最後に進藤ヒカルと交わした言葉が頭をよぎる。
『体調に気を使って誰か必ず付いてろよ』

どういうつもりで言ったのか知らないが、棋院かどこかで父の具合の悪そうなところを見たのだろう。家族や門下の者でも気が付かなかったというのに。
進藤ヒカルは不思議発言が多いので聞き流してしまったが、もう少しあの一言を気にかけていれば良かった。
後悔先に立たずである。流石のアキラも少し落ち込んでしまった。


 その後不安から物思いに耽っていたが、それもすぐ終わることになった。
母親が電話を終えて帰ってきて暫くすると、祖父母はもとより、門下の者から後援会長、棋院関係者や記者に至るまで、ぞくぞく関係者が押し寄せてきたからである。
タイトル戦最中の名人の急病と入院は、囲碁界にとっても大事件だったのである。
CCUでの処置が終わり、医師から説明のために呼ばれるまでアキラはその応対に追われることになった。






 その数日後。ヒカルは名人が入院する病院を訪れていた。
手には見舞いの菓子を入れた紙袋。母親に頼んで用意してもらったものだ。
前回も、名人の急病を聞いて見舞いに来ていたが、その時は手ぶらで来てしまって気まずい思いをしたの
で、今回は準備万端抜かりなしというわけだ。人は失敗から学んでいくものなのである。



 名人が倒れた翌朝を振り返れば、進藤ヒカルは前回と同じく棋院にいた。
その日は、プロになって初めての大手合の日だった。既に開始時間は過ぎている。
大広間の与えられた席に座り、来ぬと知っている相手を待つ。
部屋に響く他の棋士達の碁石を打つ音が空しかった。

塔矢アキラには不審に思われる危険をおして警告をした。何かしら養生をした結果、名人は倒れず、アキラはここに現れるかもしれない・・・・。それを確かめたくて、朝は開始時刻の一時間前に来てしまった。が、それも
無駄だったようだ。
やがて前回の展開通り、棋院の事務の人がやってきて彼を廊下に連れ出すと塔矢アキラが来ないことと、その理由を告げた。
分かっていたことではあっても、この事実はヒカルの胸に重く響いた。
時の流れは変わっているようで、変わっていないところもある。
変わらないなら、それならそれで彼にはやることがあった。



 面会の受付を済ませ、病棟の塔矢名人の病室の前に立つと、中から複数の人間の話し声が聞えてくる。
声の主は緒方九段、中野の碁会所の市河と常連の広瀬、そして名人か。

(は、入りづらい・・・・・)
ヒカルは躊躇した。が、意を決してドアをノックし、ドアを開けた。

部屋に入ると、正面に応接セットと大きなテレビが見える。ベッドがあるのは突き当たって左側だ。流石は名人、特別室なわけである。

先客の三人はベッド脇のソファに座っていた。その中の一人、市河が意外そうな声をあげた。
「進藤君?」
「こ、こんにちは・・・」
緊張から若干ひきつった笑いを浮かべたヒカルに緒方がバッサリ言う。
「君がお見舞いに来るとは意外だな」
「えっ」
そう言われてしまうとヒカルには返す言葉がないが、新初段シリーズで打ってもらっているので、お見舞いに来るのが変ということはないはずだ。ここは開き直るしかない。
更に笑って誤魔化し「これお見舞いです」と、前回は持ってこなかった見舞いの品を市河に渡した。その時、名人の枕もとにあるノートパソコンが目に入った。
(あった!)
それを見て、ヒカルは自分の脈拍が速くなるのが分かった。
ズバリこれが目当てだったのだ。急に汗が吹き出てくる。

「あ、あのう、具合とか大丈夫ですか・・・?」
と、訊く声も上擦ってしまいそうだ。
そして病状についてのやりとりがあり、前回通り名人は「もう、何ともないよ」と笑って答えた。
その間も、ヒカルの視線は名人の枕もとにあるノートパソコンに向けられている。

「塔矢先生、パソコンするんですか?」
と、思い切って話題を振ってみた。
それを聞いて緒方が、「院長の許可をもらってセットしたんだ。先生もネット碁を覚えれば退屈しないと思ってね」と答えた。
「教わったのは碁を打つことだけなんだ」と名人も楽しそうに受ける。
「以前、先生はネット碁に興味がないと仰っていたので、どうかと思いましたが、嫌でないなら良かったですよ。ここにいても好きなだけ碁が打てますからね。」


「・・・・・」
ヒカルは、思わず拳を握りしめた。
「ネット碁、打つんですね」
「難しくはなかったよ。碁を打つのは得意だしね」
名人は冗談も言うらしい・・・。

そこで広瀬が「我々はこの辺で・・・」と切り出したのを潮に、先客三人は席を立った。
緒方は去り際、ヒカルの様子をじっと見ていたが、ヒカルは全く気付かなかった・・・。




 病室にはヒカルと名人の二人が残された。
ヒカルはつばを飲み込んだ。手が震えてくる。まずい。うまくやれるのか。

名人はそんなヒカルに笑いかけ、席を勧める。そして、自分が倒れたためにアキラとの対局が流れたことを謝した。
名人はヒカルに気を使ったらしい。ネット碁に興味があるとみて、自ら話題を振ってくれた。
「そういえば、今朝はネット碁でアキラとも打ったんだよ。入院していても、碁を打てるのはありがたい。碁石の感触が手に残らないのは性分に合わんので、入院している間だけになるだろうがね」


名人の言葉を聞きながら、緊張から喉がヒリつくのを感じる。しかし、ここはどうしても乗り切らなければならなかった。
「先生・・・」
「ん?」


「お願いがあります」

黒79


「お願い?」

「は、はい、あのう。」
話の切り出し方は何度も考えたはずなのに、本人を前にすると、絶対に失敗出来ない緊張感から声が詰まってしまう。

「オ、オレの友達で、ネット碁をやっているヤツがいます。で、そいつは、塔矢先生と、とても、打ちたがっています」

「・・・・・」
黙して聞いている名人を前にヒカルは更に緊張してくる。手に滲む汗と室内の空調の音がいやに気になった。

「ネットでのそいつの名前は、sai。エス・エー・アイでsaiと言います」
「・・・知っているよ」

その言葉にヒカルはゴクリと唾を飲み込んだ。
お気づきの通り、この会話は前回、ヒカルが佐為のために名人に対局を依頼した時とほぼ同じものだ。
前回通りの展開で対局に漕ぎつければ良かったのだが、相手のあることで、そのままの繰り返しにはならなかった。

「以前、緒方君やアキラがそのsaiの話をしてくれたからね」
「・・・・・・」
そこで名人はヒカルを見た。
「君がsaiじゃないのか?」
「ええええっ?!」
ヒカルは飛び上がった。

「ちっ違います!違います違います!! saiは、そのう、友達です。でも、事情があって、そいつのことはナイショにしてもらいたいんです」

名人は黙ったままだ。
ヒカルには、名人の沈黙が怖かった。なので、取り繕うとして、しどろもどろになりながらも、言葉を繋ぐしかなかった。
「saiは、ずっと、先生と打ちたがってたんです。でもアイツはネット碁しかやらなくて、だから・・・」
「君とは友達なんだろう? 名前は? 君と同じ師匠についていた人か?」
「・・・・・すみません、事情があって、言えません。本当にネット碁しかできないんです」
「病気か何かで?」
「・・・・・」
いえいえ、病気どころか、もう死んでるんですよ、とは流石に言えなかった。

答えないヒカルに、名人は少し不機嫌そうに口を歪めた。
「弟子が話していたところでは、そのsaiとやらは、ネット碁を打つ者達の間で随分話題になっていたそうだ。
君もネット碁をするなら、そのことは承知しているんだろう。なのにそのことをずっと黙っていたというのは何故だ?」
「だって、それはsaiのことは誰にも言えないから、です」
「私と打ってほしいと言いながら、私に正体も明かせないというのでは納得できないな」

(駄目か)
ヒカルは固く目を瞑って俯いた。
天下の五冠棋士に対して、この申し出は無礼にして無謀過ぎることは流石のヒカルにも分かる。
というより、前回より少しだけ世間が見えている分、その無茶ぶりは自分でも空恐ろしい程だった。

だが。
前回打たれた佐為と名人とのネット対決は、佐為がヒカル以外の人間と打ち切った最後の碁だ。
それも、佐為がヒカルの元にやってきた頃から、対局を切望していた相手。
佐為の存在を、世に広めるために手を尽くしてきたヒカルが、最後にどうしてもやり遂げなければならないミッションと言えた。
もし、佐為がこの世の何処かに居るのなら、再現すれば佐為は必ずそれを見るであろう。
佐為に現れる気がないとしても、ヒカルの佐為を想う気持ち、その感謝の心は伝わるはずだ。

そしてヒカルは、この碁が再現出来たら、もう佐為を探すのをやめると決めていた。

それは悲しい決断だ。
時間を遡って以来、ヒカルは二年以上佐為を探し続けてきたのだから。

しかし、それも限界だ。
ヒカルは再びプロになった。
これからは、前に進んでいくために過去に囚われている余裕などないはずだった。そして佐為もそれを望んでいると思う。

佐為を思い切るためには、どうしてもこの碁を世に出さなければならない。
もちろん名人が打ってくれても、歴史が変わって再現できないかもしれないが、それでも挑戦だけはしないわけにいかなかった。


時を遡る前のこの場面、名人に対局の交渉をした時は佐為が居た。そして自分の声が聞こえないのを承知で佐為は叫んだ。
『私はここにいる!』と。そしてその想いと存在は恐らく名人に届いた。
だからこそ、対局後に、佐為との再戦を望んでくれたのだろう。
この世の者ではないと名人は知らなくとも、それは希代の棋士同士の「出会い」だったのだ。

今日、この対局を承諾して貰えなければ、このやり直しの世界での名人と佐為の「出会い」はない。


どうしたら、打ってくれるだろう。
ヒカルは、名人の顔を見ながら、必死で考えこんでいた。
(考えろ。何処かに必ず抜け道があるはずだ。オレと佐為の石が生きる道が)


「・・・saiが塔矢と打った碁は見たんですよね? saiの力は知っているんですよね?」
ヒカルの訴えに対し、名人は「いいや」とそっけなく否定した。
見ていないのなら何を言っても無駄だろう。唇を噛んで俯くヒカルに名人は言った。
「いっそのこと君と打つか?」
「えっ?」
それはそれで嬉しいが、別の機会にして欲しい。
弱り切ったヒカルは一か八かの勝負に出た。


「・・・オレは、真剣勝負でsaiに勝ったこと、ありません」
「?」
「というより、saiが誰かに負けるところを見たことないです。アイツはネット碁しか打てないけど、
日本だけじゃなく韓国の高段のプロとやって負けなかった。先生なら、アイツに勝てますよね?」

姑息すぎるこんな手に塔矢行洋が乗るだろうか・・・。ヒカルは泣きたくなってきた。
しかし必死過ぎるヒカルを見て、名人はついに吹き出した。
「ははは。私は負けんよ」
「じゃあ、打ってください。それでアイツを負かしてください」
名人は意地悪そうに笑った。
「そうだな、君がそこまで言うなら気晴らしに打ってもいい。それで負けたら、・・・・・そうだな。引退でもしようか」
(やっぱり、引退かよ!)
前回でも名人は対局直後、引退を発表して世間を驚かせた。そのニュースを知った時の衝撃、記憶が蘇る。
ヒカルは天を仰いだ。といってもこの場合病室の天井だが。
「・・・・・何でそうなるんですか」

名人はもともとフリーになりたいという希望を持っており、佐為との対局はそのキッカケに過ぎなかったことはヒカルにも分かっている。しかし、自分の行動が日本のトップ棋士を引退に導いたというのは、やはり胸潰れることに違いなかったのだ。
引退を思い止めたいが、それが正しいのか分からない。止めても無駄だとも思う。結局ヒカルはそれ以上何も言えなかった。

「・・・・・・」
名人はしばらく押し黙ってどうするか考えているようだった。
ヒカルは次に発せられる言葉をただ待つしかない。

「よかろう。打とうか」
やがて名人は承諾の言葉を発した。
一度決めると後は早い。淡々と前回と同じ対局設定をヒカルに告げた。
つまり一週間後の午前十時開始で持ち時間は三時間。その日は面会も全て断り対局に臨む、と冷たい口調で一方的に告げられてヒカルは内心震え上がった。余計な言葉を差し挟むことは出来なかった。
ただ「ありがとうございます」と深く頭を下げて、彼は病室を辞した。


「やっべえ・・・。緊張した」
廊下に出たヒカルは深く息を吐き出して、その場にしゃがみこんでしまった。
高段者との対局をした後並みの疲労度を感じる。流石は名人のプレッシャーだ。
対局は叶ったが、勝負は完敗と感じた。
遮二無二にかかって行ったヒカルに名人が手心を加えたのだ。
やはりヒカルはまだまだ経験を積む必要があるようである。

座り込んで放心しているヒカルに通りかかった看護師が声をかけてきた。
「大丈夫?気分が悪いの?」
流石は病院だ。ヒカルはあわてて立ち上がると「大丈夫です」と返事をして歩きだした。

あとは、「その日」に備えるだけだ。





 「・・・・・・やっぱりそうだ・・・・よなあ」
和谷義高は、自室のパソコンのディスプレイを前に首をかしげた。

彼がプロ試験に落ちてから半年が経っていた。
試験当時中学校三年生だった彼は、家族会議の結果、高校へ進学することになってしまった。
その時点で何とか合格出来そうな学校を中学校の先生に選んでもらったのだ。
今では不本意ながら高校生だ。

去年のプロ試験はプレーオフまで粘り、あと一歩のところで落としたこともあって、不合格の落ち込み方は相当なものだった。
師匠の森下は「ここまでくれば、来年はプロだ」と熱く激励してくれたが、内心落胆しているだろう。それも申し訳なく思う。
また、門下ではないが、師匠の勉強会で一緒の進藤ヒカルに思わず八つ当たりをしてしまい、そんな自分にも腹が立った。その後もヒカルと勉強会では顔を合わせるが、多少の気まずさを覚える。何とか関係を復旧したいものだ・・・、と思いながら、ただ時間ばかりが過ぎていった。
それらを考えると、高校進学は落ち込んだ気を紛らす役にはたったかもしれない。

しかし、それでも高校は彼にとって、万が一プロになれなかった場合の保険でしかない。
ただ行っている、というだけで、全てが無駄な時間のように思えた。
もともと学校の勉強は好きな方ではない。
院生仲間で仲が良い伊角は高校に行くのが苦ではなかったようだが、所詮、伊角は口では何と言っていようと勉強も出来る男なのである。
プロ志望者としての一般論として、高校に行きたくない和谷の気持ちに理解は示してくれても、「勉強も嫌なんだよ!」という切実な想いまでは分かってくれないようで、一抹の寂しさを感じていた。

そういう訳で、心ならずも高校へは通っているがプロをあきらめる気は毛頭なく、日々の生活は囲碁中心なのは言うまでもない。
プロになったら高校は直ちに退学するつもりだ。家族にもそう宣言してある。


 今日も高校から帰るなり、カバンを部屋の隅に放り投げ、勉強中の棋譜を取り上げたが、ふと何かの予感に誘われてパソコン立ち上げ、いつものワールド囲碁ネットに接続した。

すると観戦者数が尋常でない数に上っている対局があった。
片方は‘ichiryu’。そしてもう片方は‘toya koyo’。
「一柳先生もそうだけど、名前がまんま過ぎだろ。これってホントに名人か?」
と、呟きながらも見過ごせるわけもなく、観戦に加わる。
塔矢行洋と親しく話す機会などないが、ネット碁をやるようなタイプとは思えなかった。
しかし、碁の内容を見ればどう考えてもアマチュアではない。
「これってマジ? 名人ってネット碁やるのか? 入院中じゃねェのかよ」

疑わしく思っているのは観戦者だけではなく、これは予てからネットプレイヤーとして知られている当の一柳棋聖も同じだったらしい。少々甘いと思われる手を打つと、途端に‘toya koyo’に叩かれていた。
こんな芸当が出来るプレイヤーが一般人にいるわけがない。
「うおお、本人だ。間違いねェ。すっげえ!!」
終局と同時に‘toya koyo’は画面から去って行ったが、こうなるとサイトに行くのをやめることなど出来なかった。
外出している時は無理だが、家にいて時間さえあれば、とにかく画面を確認しに行ってみる。


数日後、接続してみると‘toya koyo’は ‘L・L’と対局していた。
‘L・L’は中国のトップアマの李臨新のことだ。昨年の国際アマチュア選手権の優勝者で、会場には和谷も行っていたので顔は知っている。
その‘L・L’がなす術もなくやられている。相手が強ければ強いほど容赦するつもりはないらしい。
少々イメージと違うが、入院を期に名人はネット碁にハマってしまったのだろうか?
名人が声をかければ、病室で碁を打ってくれる棋士などいくらでもいるだろうに。

和谷には訳が分らなかった。しかしチャンスではあるので、彼も何度か‘toya koyo’に対局を申し込んでみたが、残念ながらそれは叶わなかった。同じことを考える人間は多く、‘toya koyo’が現れる度に全世界から対局申し込みが殺到していたからだ。

誰も想像しなかったに違いない。
まさか塔矢行洋名人が、あるアマチュア棋士とのネット対局に備えて、ネット碁に慣れておくために「練習」をしていたなどとは。



白80


「あら、あかりちゃん、いらっしゃい」
学校帰りのヒカルが、あかりを連れて玄関にいるのを見て、母親の美津子は笑顔で声をかけた。
「おばさん、こんにちは」
あかりも笑顔で挨拶を返す。

「でも、どうしたの? 今日は部活じゃなかった?」
首をかしげる母親にヒカルはぼやいた。
「囲碁部の他のヤツらは用事があるんだってさ! オレとあかりだけならウチで打ってた方が、近所なんだし、あかりも帰りが楽だろ」
「すみません、おばさん」
頭を下げるあかりに美津子はあわてて首を横に振る。そして、後でお茶とケーキを持っていくと請け合った。



 ヒカルの部屋に入ると「ごめんね、いそがしいのに」と、あかりはまた謝った。
「いーよ。六月の大会がオマエ中学最後だろ。ちっとは棋力の底上げしないとな」
言いながら、ヒカルは碁盤の前に座った。向かいにあかりも座るように促す。
あかりは「はいはい」と慣れた様子で座り、
「二月の冬季大会は、女子は二回戦で負けちゃったけど、次は優勝出来るようにがんばるからね」
と、ガッツポーズをして見せた。
「そーだな」
ヒカルは腕組みして囲碁部の影の監督らしくうなずく。

 ちなみに男子は準々決勝まで勝ち進んだ。負けた相手は宿敵(?)海王中学校ではない。
決勝まで進めば海王中と戦えたのに、と三谷は悔しがり、「オマエがプロになるのが悪い!」とヒカルを罵倒した。
部員でもプロ入り決定のヒカルは当然参加出来ない。
顧問の大菅タマ子と葉瀬中の校長と一緒に観戦していただけである。実質は監督のようなものであった。
従来と異なり、その時校長がついてきたのは、自校からプロ棋士が誕生したので興味を持ったのと、状況把握の為と、その他の大人の事情の為である。
結果的に校長の世話係タマ子先生と解説員進藤初段のような体裁になってしまい、ハッキリ言えばやりにくいことこの上なかった。

大会という位であるから、囲碁ファンの集まりとも言える訳で、むしろ観戦している新初段進藤ヒカルの方が出場者より注目の的であった。
誰彼を問わず、すれ違う人たちから「おめでとう」と声をかけられ、至る所で携帯で写真を撮っている音が聞こえていた上、サインを求める気の早い者もいた。
久しぶりに会った海王中の囲碁部顧問の尹をはじめ、強豪校の顧問達からも祝いと激励の言葉をもらった。
その様子を見て校長とタマ子先生は、やっと「これはスゴイことなのかも知れない」と思ったらしい。
校長は「遅くなったけど、今度、全校集会の時にみんなに言いましょう」とヒカルの肩を叩いて請け合った。
創部時の状況を思えば葉瀬中囲碁部は随分出世したものである。

小池は大会後「進藤先輩のおかげで春には新入部員が大勢来ますよっ!」と明るい展望を語っていた。
結果として見学者は多かったものの今のところ入部者はなく、ヒカルは苦笑いをする他なかったのだが・・・。

結局のところ「スゴイ」のは進藤ヒカル個人の話であった。当然ながら大会に出場する部員達は別に頑張らなくてはならない。




 「三谷もサボってばっかりいないで部活に来ればいいのにな」
「三谷君、意地張って今でもヒカルに教えてもらうの嫌がるもんね」
ヒカルは首をすくめた。
意地っ張りは、三谷の個性だから仕方がない。それに『進藤センセー』などと三谷に言われたら、それはそれで引きそうな気がする。
「嫌なのはしょうがねェよ。あれこれ言わなくても打てばアイツは勝手に学習するし。ちゃんとその分強くなるからな」
「それはそうだよね」
「ただ、全然部室に来ねェ」
「ヒカルだって何時も来られるわけじゃないんだから、ヒカルが部活にいる時に来てくれなきゃね。だって、他に三谷君の相手できる人いないんだし」
今でもヒカルを除けば、葉瀬中学校のエースは三谷である。その次に強いのは金子だが、その金子も自分では三谷の練習相手にはならないだろう、と言っていた。
結果、馴染みの碁会所に入り浸っているらしい。三谷曰く、その方が強くなるという理屈だ。


 碁笥の蓋を開けたあかりは、碁盤を指差して訊いた。
「ええと、九子置いていい?」
「おう」
ヒカルの了解を得て、あかりはいそいそと石を置いた。そして
「よろしくお願いします。進藤センセイ」
と頭を下げた。
「おう」
ヒカルは頷いてあかりを見つめた。
あかり改めて黒石を取り上げると、碁盤の上に置いた。

 明日は塔矢行洋名人とのネット対局を取り付けた日であった。
前回も塔矢行洋との対局前日にこうして、この部屋であかりの指導碁を打ったのだ。
佐為の気が散るだろうと思い、断ろうとしたヒカルに佐為は「私、打ちたい」と言う。
あかりと打ってピリピリした気持ちを落ち着かせるのも悪くないというのだ。
今となっては、ヒカルも成程と思うことがある。
交際するようになって指導碁の数が増えて分かったのだが、あかりと打つと確かに気分が落ち着くような気がするのだ。

学校で、あかりのことを癒し系だという声をよく聞くが、その通りなのかもしれない。
目の前のあかりは、「えーと、えーと」と呟きながら碁盤を見つめている。

前回は全く感じなかったのだが、そうしている姿は非常にかわいらしく、あの時告白して本当に良かったと思うのであった。
「何、ニヤついてるの?」
あかりがヒカルの顔に気がついて、上目づかいに訊いてきた。
「別に」
指導碁中だ。ヒカルは、あわてて真面目顔を作った。






 そして、翌朝、ヒカルは塔矢名人との対局のために六本木のネットカフェを訪れていた。
今は父親の書斎でネット碁を打てる環境にあるが、前回通りの碁を再現するため条件を同じにしたかったのだ。
店内を見回すと、幸い当時打った時のパソコンが空いていて胸をなでおろす。

受付のカウンターに行き、三谷の姉がいないか一応確認する。三谷が言った通り、やはりアルバイトはやめていた。三谷姉がいれば無償で使わせてもらえたのだが、今日は全てにおいて「前回と同じ」であることが重要だったので、むしろ望むところだ。ヒカルは受付係に希望の端末を伝え、手続きを終えると早速席に向かった。

パソコンを立ち上げると、早速いつものワールド囲碁ネットにアクセスする。
まだ‘toya koyo’はいない。
壁にかかった時計を見ると、九時五十五分だ。ヒカルはゴクリと唾を飲み込んだ。そのまま暫く待つ。
数分でも不思議なほど長く感じられ、自分の心臓の音が気になった。
そして十時。

(来た・・・・・)
画面に‘toya koyo’が現れていた。




 その日、緒方精二九段は車で塔矢行洋の入院している病院に向かっていた。
塔矢名人は、二日前に入院中なのを押して彼との十段戦の対局をこなしていたので、その後のお見舞いというわけだ。タイトル戦中とはいえ、その辺りは弟子の立場を忘れない男だった。

緒方が名人の部屋に着くと愕然として立ち尽くした。部屋には面会謝絶の札がかかっていたからだ。
(容体が悪化したのか?)
とにかく事情を訊こうとナースステーションに向かおうとした時、ちょうど名人の病室から看護師が出てきた。
「塔矢先生・・・何かあったんですか?」
あわてて呼び止める緒方に看護師は振り向いた。
通常、容体など身内でなければ教えてもらえないところだが、一番弟子として頻繁に出入りしていたのが功を奏して看護師は気軽に教えてくれた。
「この札なら心配いりませんよ。今、すごく集中してパソコンで碁を打たれてます」
「ネット碁ですか?」
「そうです。一日邪魔されずに打ちたいから面会謝絶の札を出してくれって」
「・・・・・」
「食事も手つかずで・・・。病院食も治療の一部なんですから食べてくれないと困るんですけどね」
そして立ち去り際「身内の方からおっしゃってください」と何故だか緒方が注意されてしまった。


 緒方はとまどっていた。ネット碁を名人に勧めたのは彼自身だが、名人は「手すさび」だと言い、「性に合わない」と言っていた。それが、ここ暫くは頻繁に打っているらしい。そういう噂を聞いてはいたが、入院中に面会を断ち、食事も取らないで打つなど、只事ではない。

「誰と打っているっていうんだ・・・」
面会謝絶の札を出すように依頼したということは、予め約束をしていたということだ。
夫人が知っているかもしれない、と緒方は携帯を取り出したが、思い直して車に向かった。
名人はネットに詳しくない。接続しているのは緒方が教えた「ワールド囲碁ネット」で、登録名は彼が設定した‘toya koyo’以外にない。ならば訊くのは後にして、今はその対局を観戦した方がよい。碁を見れば相手の見当もつくかもしれない。彼は、愛車を急発進させて自宅へ向かった。




 「これか」
緒方は、自宅に戻るなり、パソコンを立ち上げ、件のサイトに接続した。
一見して尋常ではない数の観戦者数の対局が目に入る。
‘sai’ vs‘ toya koyo’だ。
「saiだと?」
その名を見た時、緒方は驚きより「やはり」という気持ちの方が強かった。
普通の棋士なら、わざわざ入院中に、ネットで、しかも人を遠ざけてまで打つ必要などない。

世界アマの後に打たれたsaiと塔矢アキラのネット碁対局を緒方は観戦している。
この‘sai’はその時のsaiであると緒方は確信した。
既に対局は終盤に入っていた。わずかに黒の名人が優勢に見えたが非常に細かい碁になっている。
名人とこんな碁が打てるのはプロでなければsai位だ。

 いつ、どうやってこの対局の約束をしたのだろう。
名人はパソコンを使わないし、携帯も持っていない。つまり電子メールでのやりとりは考えにくい。
おそらく緒方が病室にパソコンを持ち込んでから、昨日までの間の見舞客の誰か、または十段戦第四局で出会った誰かがsai本人、またはsaiに対局を取り持ったのだろうと思われた。
緒方は目を細くして画面を見つめる。

アキラがかつて、進藤ヒカルがsaiではないかと疑っていたのを思い出す。
彼は後にそれを否定したが、内心、まだ何か引っ掛かっている様子だ。
だが、画面上に現れた碁盤の白は若獅子戦で観戦した進藤ヒカルの碁とは別人のものに見えた。
が、棋風は似ていると思う。進藤ヒカルの関係者ということは十分に考えられる。
「sai・・・一体誰だ?」
思わず呟いた。
緒方は暫くの間、画面を見ながら考え事をしていたが、やがて携帯電話を取り出すと芦原弘幸の番号を押した。





 ヒカルは興奮していた。
そして同時にほっとしていた。
ついに始まった名人と佐為の直接対決は、ヒカルの望み通り前回と同じ展開を辿っていたからだ。
ネット碁なのにもかかわらず、画面から感じられる迫力も前回通り。
今日は『棋譜並べ』のような碁、とは絶対に思われたくない。そこは細心の注意を払わなければならないと思っていたが、名人からのプレッシャーから手が震え、打ち間違えないように必死で、そんな疑いをもたれるような心配はなかった。
あの時、佐為の考えも名人の考えもヒカルには見えたように思えた。あの日の佐為の思考を辿って打とう。
あとは師匠の藤原佐為の渾身の碁をここで再現しつつ、この対局の中心で巨匠同士の戦いを再び体感すればいいのだ。




 そして、その対局相手の塔矢行洋名人。

彼は病院の自分の個室で進藤ヒカルが打つ、藤原佐為の碁と対峙していた。
行洋は藤原佐為を知らない。
本人も碁も。

彼が知っているのは、インターネットの囲碁サイトでプロに勝つ程強く、息子や弟子たちが興味を持っていて、息子がライバルと目する進藤ヒカルという新初段の、ネット碁しか出来ない「友達」だということだけだ。
いくら入院中とはいえ、何故進藤ヒカルの申し出を受けたのか、自分にもよく分からなかった。
ただ、何か、予感がしたのは確かだ。
彼は自分の実力と同じくらい、自分の運と勘を信じてもいた。

先日「友達」の為に必死に頼み込むヒカルを見て、どう断ろうか考えていた。しかしその時、この勝負は必ず受けねばならぬと彼の勘が教えていた。

だから受けた。
受けたからには全力を尽くす。そのつもりで、ネット碁の練習までしてこの日を待った。


そして今。行洋はsaiが、対局するに不足のない棋士だと知った。
国名は「JPY」だが、やはり思い当たる棋士はいない。
誰なのだ?と、多分にもれず行洋は思う。勝ったら進藤ヒカルは教えてくれるだろうか。
ヒカルは友達と言ったが、子供の打つ碁ではないと思う。恐らく師匠筋だろう。


ここまでの対局。中盤では白のsaiに良いように展開していると見せかけつつ、盤上進むうち、いつの間にか形勢は名人の黒に傾いていた。
かなり細かい。黒はこのまま手厚く打ち進めば良いようで、この白はそれでは済ますまい、と行洋は思った。


その時、何故かひやっとした空気が首筋を通り過ぎた気がした。
病棟は温度管理に気を使うものだ。不審に思い、行洋は窓の方を見た。特に開いている様子はない。
パソコンの画面に目を戻す。

画面を通して、対局相手の気迫や威圧感が伝わってくる。それはずっと感じているものだ。しかし。
何故だろう。

今、それに独特の冷気が加わったような気がした。
この感覚には覚えがある。



(ああ、そうだ)





これは新初段シリーズで進藤ヒカルから感じたものと同じだ、と行洋は思った。



黒81

塔矢行洋にとって、アキラは自慢の息子であった。
生まれてきた時は、必ず囲碁棋士になって欲しいと思っていたわけではない。しかし、ほんの小さい時分から将来を期待するに充分すぎる程の才能を見せるわが子を見て、彼は喜んだ。
教えれば教えるほど吸収し、生真面目な性格で、自分のことを尊敬してくれている。そして囲碁以外では優しい子供であった。


小学校にあがる頃には、同じ年頃でアキラに敵う子供はいなかった。それで他の子供たちの才能の芽を潰さないように息子に大会に出るのを禁じた。そしてプロや院生の弟子たちと研鑽をつませ、頃合を見てプロ試験を受けさせるつもりだった。
プロになれば、その後は自分の足で未来を切り開いていくだろう。


その息子が、自分の経営する碁会所にふらりとやってきた小学生に二回連続で負けたという。
聞いた時は信じられなかった。
進藤ヒカルは、息子が初めてライバル心を剥き出しにした最初の人間となった。
進藤と対局するために、中学校の部活に入りたいと言い出した時は正直驚いた。
プロ低段の弟子には負けることも少なくなった息子が、中学校の部活とは。部員の子供たちに迷惑にならなければよいと気をもみ、妻に学校の顧問に電話をかけさせたりもした。

しばらくすると中学校の大会があり、アキラは希望が叶って進藤ヒカルと対局出来、そして負けた。
まさかと思った。
居間に息子を呼び、その時の碁を並ばせた。

息子がまずい碁を打ったわけではないと知り、安堵した。
しかし。

相手の進藤ヒカルに違和感を覚えた。

これ程打てる子供が全くの無名だったというのもあるが、出てくると同時にプロや関係者が一斉に彼に注目し出した、その登場の唐突さにだ。
記者の天野はその件について「謎です」と言う。と同時に取材先で彼の話が出ることは多いと認めた。
ただ、才能はともかく危うい碁を打つことも多く、不安定な部分があるという。「アキラ君のライバルと言えるかまだわかりませんよ」と語っていた。
子供にはよくあること。しかし、院生になったと聞いた頃に棋院で見かけた進藤ヒカルは、子供らしい風貌をしている割に妙にもの慣れていて、とても棋院に出入りし始めたばかりの子供には見えなかった。
子供と大人が入り混じる年頃と言えばそれまでだが、進藤ヒカルはこれまで行洋が面倒を見てきたどの子供とも違っていた。
どこが、と言われれば、自分にもはっきりと言えない。
強いて言えば、雰囲気が、としか言いようがない。


それで、新初段シリーズで彼を指名する気になったのだ。
どんな子供か興味があった。

新初段シリーズの対局が始まってすぐは、これまで打ってきた新初段とそれ程違いがあるとは思えず、先日の違和感は気のせいかと思った。
しかし対局が進み、黒の進藤ヒカルが失着を打った頃から、奇妙な感覚が名人を襲った。
相手から突然、凍るようなプレッシャーが彼に押し寄せたのである。
対局相手が桑原本因坊なら、然もありなんというところだが、目の前に座っているのは中学生の新初段である。

それで手が止まる名人ではないが、その時の異様な感覚は今でも体が覚えている。

今、パソコンの前に座っていて、一瞬感じたのはその時の感じに良く似ていた・・・。
行洋は汗ばむ手を握り締めた。

その瞬間、白が気合いの一手を打ちこんできた。





その時、アキラは若手棋士達との勉強会に参加中であった。
アキラは入段後、同門棋士達の紹介もあって、様々行われている碁の勉強会に積極的に参加しているのだ。
父親と親しい高段者の老練な碁を見るのは非常に勉強になるが、若手棋士達の若い視点からの取り組みに参加するというのも十分意義のあることだったのだ。
そして今日も、親しい棋士に誘われてやってきたのであった。
息抜きで雑談が始まった時、入院中の名人がネット碁にハマっているという話で盛り上がった。
それで今も参加しているか見てみようということになった。


果たして、ネット上では‘sai’ vs‘ toya koyo’対局の真っ最中である。アキラは全身の血が逆流するかと思った。
何故、父とsaiが対局しているのか全く分からない。
だが、他の棋士達はタイミングの良さに大喜びし、直ちに観戦に入った。当然ながらアキラもその輪の中に入る。
その時、自分の携帯の着信音が鳴った。
(何だこんな時に!)とアキラが怒りを覚えつつ出ると、芦原であった。

「あ、アキラ、今どこ?」
いつもながらの能天気な声が癇に障った。
「・・・勉強会中です。どうしたんですか?」
ちょっと低めの声で応対すると、芦原は意地悪そうに言う。
「あ、機嫌悪そうだな。いいのかい?ビックニュースがあるのに」
「何です?」
「今、ワールド囲碁ネットで、」
「saiがお父さんと打ってるんでしょ?」
携帯電話が一瞬沈黙した。

「なーんだ知ってたのか」
「芦原さんもネット碁打つの?」
意外だった。パソコンは苦手と聞いていた気がする。
「そうじゃないよ、緒方さん情報。でもせっかくだからアキラにも教えてやろうと思って」
親切な男である。一応礼を言うと、芦原はその緒方から頼まれ事の最中なので、といって早々に電話を切った。

緒方もこの対局を見ている。普段ネット碁を打たない人達までこの対局に注目しているのだろうか。と、アキラは思った。
画面で見る限り、観戦者は既に尋常ではない数になっている。恐らく世界中のネットプレイヤーがこの対局を見ているのだろう。

何故父が、と思うと腑に落ちない。
そう言えば、父の行洋は今日、ネット碁に集中したいから病院には来なくていいと、母に言っていたらしい。
そして、去年の夏にネットから姿を消していたsaiと対局している。
これが偶然であるわけがない。

(お父さんはsaiを知っているのか?)
だとすればどうやって知り合ったというのだ? 十段戦の時でなければ、見舞い客の誰かか。
その時、碁会所の市河が病院で見舞いに来た進藤に会ったという話を思い出した。
(進藤・・・進藤もこの対局を観戦している?・・・あるいはまさか)
画面を見ると、二年前のネット対局が目に浮かぶ。そして、画面上のsaiは、最初に会った頃の進藤ヒカルと何故かダブるのだ。
そこまで考えて、アキラは首を振った。
進藤とsaiが同一人物というのはあり得ない。そう結論付けたはずだ。
(明日、病院に行って、お父さんに確かめよう。答えてくれるかどうかは分からないが・・・)
本当は約束していたとしても、偶然ネット上にエントリーしていただけだと言われればそれまでなのである。

今は他の棋士達とともに、画面上に展開される碁を注視するより他なかった。






名人の手が止まった。
ネットカフェで、ヒカルは背筋を伸ばした。
佐為の渾身の一手。これで黒良しと見られた碁の形勢が白に傾いた。

当時の碁を並べているだけとはいえ、ヒカルはその時の佐為の気合いに引きずられるように気が張っていた。
今、自分はネットカフェに居るはずなのに、何故か他の気配を感じなかった。
激しい戦いの中にありながら、静かだった。自分と佐為と碁盤と塔矢名人。この場にはそれだけしかなかった。
話せなくとも佐為はこの碁の中にいる。そして今自分も佐為と一緒に居る。それが実感出来る。
それが嬉しい。

(佐為はすげェよ・・・そして塔矢先生も)
佐為が消えてからも、そして時間を遡ってからも、何度この日の碁を並べたか分からない。
(かっこいい)
自分もこんな対局をしていきたい。何度もそう思った。

続くヨセ。全てが前回通り。ヒカルが指摘した逆転の手も名人は打たなかった。
もう、棋譜は動かない。
全てが終わろうとしていた。



そしてついに黒は投了した。
ヒカルは祈るように目を瞑り、心の中で祈るようにつぶやいた。
まだ近くに佐為の気配が残っている気がする。
あの日の佐為が浮かべた感無量の表情、そして笑顔はまだ目に焼き付いている。
(終わったよ、佐為)


これが前回、世界が知った藤原佐為の最後の碁。
(佐為、どこかで見ていてくれた?)

誰かの中で。でなければ生まれ変わって。あるいは、昔のように自分の後ろで・・・・・。
そして、ヒカルが期待を込めて恐る恐る後ろを振り向こうとしたその瞬間、彼の両肩が後ろから何者かに押さえつけられた。
「えっ?」
そして次の瞬間、聞き覚えのある声がヒカルの耳元で響き、彼は文字通り凍りついた。


「おまえが!」
「・・・・・」
「おまえが、saiだったのか!」

ヒカルは身動き出来なかった。押さえつけられていることもあって、ディスプレイ画面を落とすこともパソコンの電源を切ることも出来なかった。
喉が干上がった気がする。それでもやっとのことで声を絞り出した。

「緒方先生・・・」







それから、ヒカルはほとんど引きずられるようにして、インターネットカフェを出ることになった。
塔矢アキラならいざ知らず、何故緒方九段がここに現われたのか全く分からない。
緒方は道の路肩に停めている車に乗るように言ったが、それは断固として拒否した。このまま緒方の車に乗ったら、拷問された揚句に東京湾に沈められるか何処かの山中に埋められる気がした。いや、そんなことがあるわけないのだが、そういう物騒なことを想像させるような剣幕だったのだ。
緒方も無理強いすると、誘拐犯に間違われると思ったのか、一度開けた車のドアを大きな音をたてて閉めると、近くにあった喫茶店を指差した。



そして、喫茶店の店内。
緒方は店の奥の方へヒカルを追いこんでいった。出口に近いと逃げられると思ったらしい。そして、一番奥の端の席に座るように命令した。
生きた心地もなく身を縮めて座るヒカルにメニューを差出し「何がいい?」と言ったところで答えられるわけもない。
緒方はブレンドコーヒーとオレンジジュースを勝手に注文すると、ヒカルに向き直った。


「・・・・事情を説明してもらおうか」
「じ、事情って?」
ヒカルは、真っ青になりながら訊きなおした。
緒方は、無言のまま煙草をポケットから取り出し火をつけた。抜け目のない緒方は初めから喫煙席を選んで座っていたのだ。中学生に気を使わない男である。

「おまえが、何故、囲碁歴を偽るのか、何故若獅子戦で負けたのか、何故saiであることを隠すのか。・・・・他にもあるが、取りあえず今はそれだけ答えろ」

ヒカルは目をきつく瞑った。目の前の緒方が見えなくなれば、今日のことが全部チャラにならないだろうか、と一瞬現実逃避したくなったのだ。だが、そんなことは無駄なことはヒカルが一番よく分かっていた。
対局は成功したが、下手を打ったのだ。感傷など捨てて父親の書斎で対局すれば良かった・・・。

それからしばらくして、ヒカルは目を開いたが、緒方の顔を見る勇気がなかったので、下を向いたまま、小さい声で答えた。

「囲碁歴はウソじゃないです。若獅子戦は自分のヨセが甘かったから負けました。それに」
前方から押し寄せる怒りのプレッシャーが半端でなく、ヒカルは圧死しそうになりながら続けた。
「オレは・・・オレはsaiじゃないです」

「なーんだとお・・・・」
じゃあ、さっきのは何だ!という緒方の怒鳴り声が店内に響き渡った。
店内が一瞬で静まり返り、従業員と客が一斉にこちらを見る。緒方は右手を挙げて謝罪した。

それから間もなく、店員が恐る恐る注文した飲み物を持ってきたが、双方、口をつけることはなかった・・・。



「これからオレと打ってもらう」
「今日はムリです」
ヒカルは小さく、だが即座に断った。どう考えてもまともな碁が打てる気がしなかった。
「断れる立場だと思ってるのか?」
「だから、オレはsaiじゃないんですってば」
「いい加減にしろ!さっきオレの目の前で打っていたんだぞ、おまえは」
「でもオレじゃない!」
ヒカルは、顔をあげて、緒方を真正面から見た。
「それでもsaiはオレじゃないんです」
緒方は腕組みしたままヒカルを見据える。

ヒカルもまた緒方を見つめた。が、その視線はすぐに外れ、助けを求めるように周囲を彷徨う。

(いない・・・・やっぱり、いないんだな。佐為)


ヒカルはあきらめたように肩を落とした。
そして、言った。
「緒方先生は・・・佐為と打ったのに」
「・・・・・?」

「折角佐為が打ってくれたのに」
「・・・・・・」
「何でだよ。何で酔っぱらってたんだよ、あの時」

「・・・・・・何の話をしている?」
「佐為は緒方先生とだって打ちたがってたよ。だから最後に打ってくれたんじゃないか!」

知らずにヒカルの目からは涙がこぼれていた。それを拭うこともせず、ヒカルはついに言った。

「知りたい?」
「・・・・・・」




「知りたい? 緒方先生。オレと・・・佐為のこと・・・・・」