LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒1〜黒3



黒1 


翌日退院したヒカルは自分の部屋に座って考え込んでいた。

自分の身に何が起きたかを整理する必要がある。
何で自分だけ3年半も時間が戻ってしまったのだろう。
あれから何回鏡を見たか知れない。
部屋のパースまで違って見える。ヒカルは今日何十回目かの溜息をついた。

(小6の時のオレって随分小さかったんだな)

そういえば初めて佐為と会った時、ヒカルは小学6年生としても背が低い方で、佐為の顔を見るためにかなり首を傾けなければならなかったのだ。
そんな時、佐為はいつも微笑みながら視線をヒカルに合わせるためにかがんでくれたものだった。もっとも当時のヒカルはそれを腹立たしく思っていたのだが。



(・・・・佐為)

ヒカルは彼がかつて失った、親友であり師匠であり兄のような存在であった人のことを想った。



藤原佐為とは1年前までヒカルに取り付いていた幽霊の名である。
彼が生きていたのは遥か千年も昔のことだ。
生前、帝の指南役を務める程の囲碁の達人であったが、同僚の罠にかかり失脚、実質上追放されたのを悲観して入水自殺をしたのだという。

しかし死してなお囲碁への情熱冷めやらず、彼の魂は碁盤に宿り、この千年間を永らえたのだった。



その間、佐為は二度現世に姿を現した。

一度目は江戸後期。佐為の碁盤は流れ流れて安芸は因島にあった。
そこで出会った子供。名を桑原虎次郎という。

囲碁で身を立てることを望んでいた虎次郎は佐為の才能に驚愕した。そして自分を通して佐為の碁を世に残すことを選んだのだった。
つまり身代わりである。
自分以外の人間には見えない、存在しない佐為に代わって虎次郎は打った。
その後彼は江戸に移って本因坊家に入り、棋聖、本因坊秀策として歴史に名を残すことになった。


時は移る。

佐為の碁盤は平成の東京の、とある家の蔵にあった。
ある日、一人の少年がその碁盤の前に現われた。

「何だろう、このシミ・・・」

碁盤の表面に付いた血の跡のような染みが気になって、つぶやいた彼にふいに圧倒的な光が襲いかかった。



『・・・私の声が聞こえるのですか・・・?』



少年、つまり進藤ヒカルが振り返るとそこに烏帽子に狩衣姿の青年が立っていた。
そしてその時のショックで彼は倒れ、病院に運ばれることになったのだった。





ヒカルと虎次郎の違いは、ヒカルが囲碁に全く興味を持っていなかったことである。
というよりヒカルにとって囲碁というのは、年寄りが定年後に茶をすすりながらするボードゲームであるという認識に過ぎなかったのだ。
少なくとも彼の祖父を除けば、彼の周囲には囲碁を打つ人間は皆無であった。


そんなわけで、押しかけ幽霊の佐為がいくらなだめすかそうが、「教えてあげますからあ」、と言おうが、ヒカルは囲碁をやろうとは思っていなかった。


(碁が打ちたい・・・)
いつまでたっても乗り気にならないヒカルに業を煮やした佐為はついに実力行使に出た。

ヒカルが碁を打つことを心の中で拒絶すると、途端にヒカルは体調を崩した。
佐為の言い訳によれば『碁が打てない私の悲しみがあなたの意識を包んだため』ということだったが、このあたり囲碁オバケの面目躍如というところである。

そこまで言うなら、というので始めた囲碁であったがこれが結構、いやかなり面白い。
藤原佐為という、幽霊ではあるが優れた師匠に師事し、塔矢アキラという何かとちょっかいを出してくるライバルや、院生時代には和谷義高や伊角伸一郎など良い仲間も得て、ついにヒカルはプロの囲碁棋士になったのだった。

さあ、これからだ。

佐為がヒカルの前から突然姿を消したのはそんな時であった。





遠く懐かしい思い出。
しかし時間軸としては、まさに今現在の話のはずだ。
時間が戻ってもいい。いや良くはないが戻るなら正しく戻れと言いたい。つまり佐為がコミで戻らなくてどうするのだ。意味がないではないか。


神様。

佐為はよく「囲碁の神様が」と言った。

囲碁の神様は自分にも何かをさせようとしているのだろうか。

自分には囲碁の才能があると思う。いつかは神の一手も極めてみせる。
しかし、今はまだそれ程特別な人間とは思えない。特別だったのは佐為だ。

佐為が鍵だ。

部屋にあぐらをかいて座り込んでいたヒカルはふとあることに気付いて顔をあげた。


(もしかして)

このままではこの時代に佐為がいないことになってしまう。
塔矢が。緒方先生や塔矢先生が。そしてオレ自身が追い求めた佐為がいない。
もちろんオレは知ってる。絶対に佐為を忘れることなんてない。
でも他の人にとっては・・・。

佐為はただ、打つだけ。
打つことによってのみその存在を現していた。
打たない佐為は存在しないのと同じだ。



・・・・・では打っていたら?
・・・・・棋譜が残っていたら?

いないはずの佐為を生かせるのは世界で唯一人、佐為を知ってるオレしかいない。
そうだ。神様はオレに佐為を自力で生かして見ろといっているんだ。きっとそうだ。

もし。もし出来たら。
みんなが佐為の存在を認めたら。

もしかしたら。

もしかしたら、オレはもう一度佐為と会える・・・?





この思いつきはヒカルにとってこの上なく魅力的だった。
理由もなくこんなことが起きるはずがない。自分の中身だけ3年半逆行するなどという異常現象の前には何でもアリであっていいはずだ。


佐為にもう一度会う。それはもうあきらめたはずの夢だった。
それがかなうならオレは何だってやる。

見ていろ、神様。
オレは必ず佐為をこの世に生かして、佐為に会う。

そして、

そして、

そして、





・・・・・そして、アイツにあやまって・・・・ありがとうって言うんだ・・・。



白2


「ホントに大丈夫なのヒカル?」

 翌朝学校に行くというヒカルに母親の美津子は心配して声をかけた。
何しろ退院したのは昨日である。また倒れでもしたらと思って心配しているらしい。

「へーき・・・ちょっと眠いだけ」
「眠いって、アンタ昨日一日中寝てたじゃないの。まだ体調が戻っていないってことでしょ?」
 そうなのだ。昨日は部屋に閉じこもってずっと寝ていたことになっていたのだ。
しかし事実はそうではない。
あれからヒカルはめずらしく机に向かってほとんど徹夜で年表を作っていたのだ。

年表といっても学校の宿題ではない。
佐為に会ってから自分達に何があったか、何をしたかを記した年表だ。

(自分のことなのに、結構忘れているものなんだな・・・)

とヒカルは思ったが、結構というより、全然覚えていないに等しかった。
普通、人間は三年以上前の何月何日の何時に誰と何をして何を言ったかなどと克明に覚えていないものだ。
たとえヒカルが棋譜の暗記にかけて天才的な能力を持っていたとしてさえそれは不可能と言っていい。

しかし、やらねば。
佐為に会うためには何でもベストを尽くすのだ。




 眠い目をこすりつつ、ヒカルが昔懐かしいランドセルを担いだ時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰だ?こんな朝っぱらから」
ヒカルがドアを開けると、そこに巨大化した藤崎あかりが立っていた。


「お、おはよう、ヒカル・・・もう、大丈夫なの?」
学校に行く支度をして玄関に立っているヒカルにおそるおそるという雰囲気であかりは訊いた。
ヒカルは見たくないものを見た気がして一瞬下を向いたが、意を決して上目遣いにあかりを見上げた。
そう。"見上げた"のだ。

(でけえ・・・)


「あら、あかりちゃん、ヒカルのこと迎えにきてくれたの?」
「おはようございます、おばさん。気になって様子を見に来たんです。ヒカルもう大丈夫なんですか?」
「と、本人は言ってるのよね。ヒカル、本当に大丈夫ね?」

しつこいな。とヒカルは思った。
具合が良かろうが悪かろうが、前回、学校を休んでない日なのだから行くしかないじゃないか。

前は倒れて病院で気がついた後、入院なんかしなかった。
既に歴史は変わってしまっている。これ以上の変更は避けたいところだ。

「じゃあ、あかりちゃん、よろしくね」

という母親の言葉に送り出されてヒカルは家を出た。


 
 「ヒカルが入院したっていうんで、昨日は教室大騒ぎだったんだよ」
と、登校中にあかりはいろいろ話し掛けてきたが、ヒカルは内心ショックで、ほとんど上の空だった。
三年半の間に少しずつ「背が縮んできた」はずの藤崎あかりが見上げるような大女(自分比)になってしまっ
ていたからだ。
ヒカルは横目で、かつ不本意ながら、やや上方に視線を向けた。
心配顔の幼馴染みの顔。
溜息が出た。

頭では分かっていても男としてショックなものはショックである。
だが、時間が戻ってしまったのだから仕方がない。小学六年生当時のヒカルはかなり小さい方で、整列する時も前から二番目だったのだ。

これからいくらでもこのようなことに遭遇するのだろう。
一々へこたれてなどいられない。
しつこいようだが何でもするって決めたのだ。



でも。


(神様も罪なことするぜ)




 そんな訳で、始めのうちあかりと登校するのを気まずいと思っていたヒカルだったが、その数分後には一緒に登校してよかったと思うことになる。

三年半前に通っていた葉瀬小学校。
来るのは久しぶりだ。これからまた約四ヵ月間、自分はここに通うのだ。
その昇降口でヒカルの足が止まった。

あかりはその様子をいぶかしんでヒカルに声を掛けた。
「ヒカル何してるの?」

「・・・・・」

「ヒカル?」

「・・・・・オレの・・・」

「え?」

「オレの靴箱の場所って、何処だっけ・・・?」


黒3


懐かしの小学校第一日目、ヒカルは自分の記憶力のなさにさんざん打ちのめされることになった。
あかりに頼って自分の靴箱の在りかを教えてもらったまではご愛嬌だが、教室に入ってから自分の席が分からない。
クラスメートの何人かは名前と顔が一致しない。
もともと人付き合いが淡白なタイプであるという自覚はあったが、中学生になって、私立に行ったり、学区が離れたりした者とは顔をほとんど合わせなくなるので、次第に記憶が薄れていくものらしい。


(だ、誰だっけコイツ・・・)

退院翌日のヒカルを気遣って大丈夫かと声をかけられる度に当のヒカルは気が気ではなかった。

五時間目は理科室への移動教室だったが、教科書とノートを持って歩き出すと
「ヒカル、どこ行くんだ?」
と声がかかった。
「え?」

葉瀬中学校では移動教室の場合、生徒各自が始業時間までに移動すれば良かったのだが、そういえば小学校では教室の廊下に一旦整列してから移動するのだった。

小学校の細かいルールがわからない。というか覚えていない。

(前途多難だなこりゃ・・・)





 何とか冷や汗ものの一日を終えたヒカルは、帰りも付き添おうをするあかりを振り切って急いで学校を出た。
ヒカルにはどうしても確かめなければならないことがあったのだ。

佐為の碁盤である。
本当なら病院から帰った後、すぐに祖父の家の蔵に行きたいところだったが、それは母親に止められてしまったのだ。


 「ヒカル、おまえ、もう大丈夫なのか?」
息を切らしてやってきた孫に祖父の平八は心配して声をかけた。
蔵を開けてくれと必死で頼むヒカルに平八が鍵を渡すとヒカルは蔵に走った。
薄暗く、少しカビ臭い蔵の階段を駆け上る。



 「佐為」

ヒカルは小声で呼びかけた。返事はない。
佐為の碁盤の前に座って表面にそっと手を触れる。
かつて佐為の碁盤にはヒカルだけに見える血の跡のような染みがあった。
小学六年生当時、それに気付いた直後にヒカルは佐為に出会ったのだ。
その染みはヒカルが佐為と共にあるあいだ存在し、佐為と共に消えた。


ヒカルは碁盤を見つめた。
(・・・・・ない)
心の中が少しずつ冷えていくのをヒカルは冷静に観察していた。
それは佐為が消えてから、それを認めるまで何十回と経験したことだった。

 佐為が消えた後、ヒカルはそれをどうしても認められずに、心当たりを探し回った。
少しでも可能性があると思えば何処にでも行った。
日帰りのつもりで(流石にそれは無理だったが)本因坊秀策の故郷である広島県の因島にまで行ってしまったくらいだ。

 可能性が一つ消えていくたびに心の中が冷たいもので満たされていく。

(自分が打ってばかりでアイツに打たせてやらなかったから消えたのかも知れない)

という考えが浮かんだ後は約二ヶ月間、彼は一度も碁石に触れなかった。棋院での対局も研究会も全てすっぽかした。

苦しかった。



 希望が消え、すっかり冷え切った心を抱えてうずくまっていたヒカルを再び囲碁の世界に呼び戻したのは、院生仲間だった伊角伸一郎や、タイトルリーグ入りすることでヒカルにメッセージを発し続けた塔矢アキラである。
そして伊角と久しぶりに打ってみて自分自身の碁の中に佐為が活きていることを実感したヒカルはもう佐為を探そうとするのをやめたのだった。


だが。
また、彼は希望を持ってしまった。
(オレの勝手な思い込みかも知れない)
という思いは当然、ある。




「でもオレ、やるだけやってみるよ、佐為」

ヒカルは碁盤に語りかけると立ち上がった。

 ちょうどその時、蔵の入り口から平八の声が聞こえてきた。
「ヒカル、寒いからそろそろ家に入りなさい、お茶淹れてあるぞ」

はーい、と返事をしてヒカルは母屋の居間に入っていった。
「うー、さむっ」
ヒカルはお茶を啜ると彼の祖父に言った。
「じーちゃん、オレ、碁を覚えたんだ。打ってみない?」


 ヒカルは暖かい部屋の中から窓越しに日の落ちかけた空を見上げた。
彼の二回目の平成十年が暮れようとしていた。