LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒31〜黒35



黒31

ネット碁のsaiは貴方か、との問いに対して日本代表の島野は「違います」と言下に否定した。

今日、ここ日本棋院で行われている国際アマチュア囲碁カップ。
開催回数二十を数え、参加五十ヵ国に及ぶ世界でも有数のアマトーナメントである。

韓国代表の 金は、大会が始まる前にスタッフから紹介された日本代表に先の質問をぶつけてみたのだった。
しかし島野は頭を掻いて、「実はネット碁はやったことがないんです」と答えた。
「・・・・・」
アマ日本代表もsaiではない。ではやはりプロか。



金は出国前日、研究生時代からの友人であるプロ棋士の兪七段から電話をもらっていた。
旧友からの久しぶりの電話に話も弾んだその後で、兪は本題を切り出した。
つい先程、日本の囲碁サイトで打っていて負けてしまったというのだ。
そして、『日本に行ったらsaiは誰か聞いてきてほしい。saiは絶対日本のトップ棋士だから』と彼は金に頼んできた。

何をわざわざ日本のサイトで。兪君も物好きだな、と金は思ったが何のことはない、
囲碁雑誌の企画で、「世界のネット碁事情」という内容のコラムの執筆依頼を受けていて、実際に各国のサイトで打っていたのだという。
『まさか負けるとは思わなかった』と兪は溜息まじりに語った。そして『自分を負かした人物が誰なのか是非知りたい、それ程saiは強かったのだ』と金に訴えてきた。

請合ってはみたものの、金は国際大会に出るのは初めてで、海外には殆ど知人がいない。
出来ればこの会場内で情報を得られればいいと考えていた。
昨今ではインターネットの普及により、ネット碁でレベルアップするアマチュア棋士が多くなっていることでもあるし、ここに来ればsaiを知っている人物にも出会えるだろう、というわけだ。
島野がsaiを知っていてくれれば一番良かったのだが、ネット碁をやったことがないのであれば仕方がない。
機会を捉えて他の棋士に尋ねてみようと彼は思った。



その後、一回戦を勝ち終えた金は、雑談がてら同じく対局を終えた他国の棋士にsaiのことを聞いてみようと周囲を見回した。
既に半数以上の対局は終了しているようだ。
碁盤に打たれる石の音とは別に、小声ではあるが、そこここで会話がかわされている。

すると、少し離れた場所が妙に騒がしい。
随分と人が大勢集まっている。何だろうと耳をすまして聞いていると「sai」という言葉が切れ切れに聞こえてきた。中国代表の李と日本の緒方九段が、saiがプロかどうかという話をしているようだ。

金は椅子から立ち上がってその人々の輪に入って行くと、兪七段の一件を皆に話してみた。
それを聞いて「saiはプロではない」と断ずる李に、saiはプロに違いないという確信がある金は、「では兪七段は誰に負けたというのか」と反論した。

自分自身は志半ばでプロ入りを断念せざるを得なかったが、兪とはかつて共に切磋琢磨した間柄であり、今でも会う度に対局している。彼の強さはこの場にいる誰よりも自分が良く知っている。彼が名もないアマチュアに負けることなどあり得ないのだ。


金はsaiの件で集まってきた面々を見た。
全く、打ちも打ったりという感じだ。
この会場だけでも、これだけの人々がsaiと対局したというのか。

彼等が語るところによれば、どうやらsaiという人物はネット棋士達の中でかなり噂になっており、そしてそれが何者かを誰も知らないという。
saiは実に頻繁に現われ、相手を選ばず、チャットに応じない。
誰もsaiの情報を持っていない。
そして、皆、この大会に来ればsaiのことが分かるだろうと期待していたというのだ。

sai。まさにインターネットに潜む謎の棋士であった。



その時、一人の少年が興奮した様子で話に加わってきた。saiについて言いたいことがあるようだが、日本語なのでその場にいる大部分の人々には意味が通じていない。
傍にいた大会の委員が、英訳したところによると、

『saiはプロではないと思う。彼の手筋は本因坊秀策に似ており、しかも秀策が現代の定石を学んだかのように時を追うごとに強くなっている』

ということだ。

金はあっけにとられてしまった。
(今度は秀策の幽霊か?何なんだそれは。段々話が変な方向に向いてきたぞ。兪君、君が打った相手は一体どんな奴なんだろうな)

その少年、和谷は更に『夏休みに当たる期間にsaiが現われるのは子供だからだと思う』と言い、実は自分はsaiとチャットを交わしたことがあり、その時saiは『強いだろ、オレ』と誠に子供っぽい返事を寄越したのだと語った。

「・・・・・子供?まさか!!それはないだろう?」

とその場の人々が口々に叫んだところに、大会のスタッフの一人がノートパソコンを持ってきた。
大会中の揉め事を聞きつけて、気を利かせてくれたらしい。
先ほどの和谷少年が、パソコンにLANケーブルを繋げて立ち上げ、件の囲碁サイトに接続し、緒方に席を譲ろうと立ち上がった。
緒方九段はそれを彼の連れらしい、いつの間にか会話に参加していたもう一人の少年に打ってみるようにと言った。


塔矢行洋名人の息子だというこの少年は、先程の和谷と同じく、今日は大会の手伝いで来ていたのだ。
そう、それは塔矢アキラであった。



彼がパソコンを前に椅子に座ると、その周りを人々が取り囲んで画面を覗き込む。

いつも居ると皆は言うが、うまい具合に今saiがいるものだろうか、と金が思ったところで、
「いた」
と、アキラはつぶやいた。

ざわっ、と一同どよめく中、アキラはリスト画面を見つめていた。そして「対局を申し込みます」と皆に告げてマウスに手をかけたところで、
「あ」と言って手を止めた。

「saiが対局を申し込んできた!」

対局を受ける旨を相手に伝えたアキラは、画面にサインが出ていることに気が付いた。

「・・・・・saiが先手を希望してきた・・・」

アキラがそう言うと、後ろで画面を見ていたアメリカ代表が
「そうです。私の時は後手を指定してきました」
と言って画面を指差した。
すると、皆が口々に自分も先手か後手の指定を受けたと言い出した。
「嫌だと言ったらどうなるんですかね・・・」
と言ったのはオランダ代表だ。

それに対してアキラは「僕はどちらでもかまいませんよ」と言って、saiに了解のサインを送った。




そして、対局が開始された。
画面に黒い点が現われる。黒17の四、右上スミ小目。

それに対しアキラは白4の四、星に打つ。
次にsaiは黒16の十七、右下スミ小目に打ってきた。

ひと息置いて、アキラは白4の十七、左下スミ小目に打つ。
次いでsaiは黒15の三、小ゲイマジマリ。

アキラの眉がかすかに上がった。


「・・・・・・」
しばらく画面を見つめて、彼は白17の十五、カカリに打った。


「・・・・・・まさか」
アキラのマウスを持つ手が微かに震えている。

「・・・・・アキラ君?」
緒方のかけた声にも気が付かないようだ。



やがて画面に黒点が現われた。
黒15の十六。

「秀策のコスミ・・・・・・」




パソコンの画面を食い入るように見つめていたアキラは緒方を振り返った。
「緒方さん、もしかすると、saiは・・・」
「アキラ君。saiに心当たりがあるのか?」

彼を取り囲んでいた一同がどよめいた。
「・・・・・ちょっと待ってください」

アキラはそう言うと、マウスを動かして白17の十一に打った。

「さあ来い、進藤!」
彼は画面に向かって、挑戦的に呼びかけた。


白32


「進藤!?」
緒方と和谷は同時に訊き返した。

「アキラ君、進藤というのは、この前の大会で対局した進藤君のことか?」

アキラは兄弟子の質問を右手をあげて制した。黙してsaiの次の手を待つ。
「・・・・・・・・」
周りのギャラリー達も固唾を飲んで画面を見つめている。
やがて、相手の答えが画面上に現われた。


「・・・・・4の十四か」

アキラはムッとしたような顔で画面を見つめた。そして暫く何かを考えていたが、一つ深呼吸すると、投了ボタンをクリックした。

「アキラ君!」
皆が驚いて彼を咎める。何故ここでやめるのか。
それに対してアキラは、このまま打ち続ければ大会に支障をきたしかねないので、日を改めて再戦を申し込む、と皆に説明した。

アキラの申し出にsaiは応じた。ただし、対局は次の日曜日午前十時と指定してきた。
それに了解した旨を伝えて、彼はログアウトした。


ノートパソコンを閉じて立ち上がったアキラに和谷が声をかける。
「・・・・・塔矢、オマエまさかsaiが進藤だと思ってるんじゃないだろうな?」
「・・・・・」
アキラは和谷に視線を向ける。緒方も和谷の方に向き直った。

「違うぜ。アイツはsaiじゃない」
和谷はそう言ってニヤリと笑った。

「・・・・何故、君にそんなことが言える?」
アキラは不機嫌そうに和谷に尋ねた。
「それが言えるんだよ。だって、アイツの登録名は別にあるんだからな」
「何?」
アキラは驚いて和谷に詰め寄る。
「彼はネット碁をやるのか!?教えてくれ!彼の登録名は何なんだ!?」
「・・・・・何でオレがオマエにそんなこと教えてやらなきゃならないんだよ」

アキラに対して、してやったりという気分の和谷は意地悪気に口の端を上げた。


その二人の話を通訳してもらった周りの人々は、各々の言葉で話し出した。
金も、英語で和谷に話し掛けた。
和谷にとっては「******」である。

「えっ?何?わかんねェ!!」
折角、得意になっていた和谷だが、あわてふためいて頭に手をやった。
「進藤がsaiである可能性について訊いているんだよ」
アキラは和谷に言うと、「棋風が似ていると思ったが思い違いだった」と英語で皆に説明した。

これで、この大会における小さいイベントはお開きとなった。



結局saiのことは何も分からないまま終わってしまい、情報を求めていた人々は落胆したが、saiが対局するところを参加者同士で見られたのは良かったと話し合った。
また、お互い情報交換することを約束し合うなど、思わぬ国際交流が出来たようである。

金もsaiの件はここまでだと思った。兪七段にもこの話で納得してもらうしかないだろう。
そう、彼は本来saiのことを調べに来たのではなく、自国の代表として碁を打ちに来たのだ。
saiよりも次の対局に意識を向けるべきであろう。
そして三々五々、この場を離れていく人々に彼も続いた。




それを見送っていた和谷だったが、
「和谷くん、だったかね」
「は、はいっ?」
突然緒方に話し掛けられて飛び上がった。

「進藤君の件なんだが・・・」
と続けられて、和谷にはこの先の展開が読めた。
(冗談じゃない、絶対にここでアイツの登録名を吐くもんか)
と思った彼は
「あっ師匠が呼んでますっ!!どうも、失礼します!!」
と、勢い良く緒方に向かって頭を下げると、先程の人の流れに向かって駆け出した。



それを見送った緒方は
「やれやれ・・・・・逃げられたか」
といってアキラを振り返った。
アキラは興味無さげに先程のノートパソコンを見つめている。


「・・・・・で、本当のところ、君はどう思ったんだ?アキラ君」
緒方の言葉に、アキラは即答出来なかった。


(進藤、君か。君がsaiなのか・・・?)
先ほどの対局。八手目までは、父親の碁会所で進藤ヒカルと二回目に対局した時と全く同じだったのだ。
しかし、九手目で、saiは前回と異なる手を打ってきた。
他人の偶然か。進藤の故意か。
日曜日の対局でそれは明らかになるのだろうか。

和谷によれば、進藤ヒカルは確かにネット碁をするが、登録名は別だという。
もちろん、登録名を使い分けることは可能だろう。だが、そんな意味のないことをするだろうか。
では、やはりsaiは別人と見るべきか。
あの時の棋譜を見た進藤ヒカルの関係者である可能性も充分ある。
例えば、彼の友人、あるいは師匠。
同じ手を打ったからといって相手が進藤ヒカルとは限らないのだ。





「わかりません緒方さん。確かに途中までは進藤を疑いました。でも、最後の一手でわからなくなってしまったんです」
「・・・・・・」


「次の日曜日はプロ試験の初日じゃないのかい?」
「・・・はい」
「プロ試験を休んでまでsaiと対局か?」
「・・・・・」

緒方は肩をすくめた。
「まあ、君の人生だ。だが名人をがっかりさせるのはよしてくれよ」
緒方の言葉にアキラは一瞬だけ強い視線を向けた。
「・・・・・分かっています」

そして
「では、僕はこれで」
とアキラは短く挨拶をすると、この場を立ち去った。



緒方はフンと鼻を鳴らすと、
「進藤ヒカルか。saiかどうかはともかく、興味深い」
と独りごちた。
如何に進藤を疑ったからとはいえ、プロ試験を一つ落としてまで対局したいなど尋常なことではない。
そこまで対局に執念を燃やすアキラを緒方はこれまで見たことがなかった。

しかし、今のところ緒方にとって進藤ヒカルは、院生でもなければたいした実績もない、噂で聞いただけの囲碁好きの少年に過ぎない。
この先表舞台に出てこなければ、それまでのことだ。

(今後次第だな)
と、結論付けると、彼も控え室の方へ向かった。





 で、あるため、緒方も、アキラも和谷も、その後ここに残った参加者達の会話を聞くことはなかった。

ぎりぎりまで検討していて、ようやく席を立った参加者達が、昼食の為に解散しようとした時、その中の一人が、ふと、思い出したように周囲の人々に尋ねたのだ。

「そうそう、ネット碁をやる人で‘mitani’を知っている人はいませんか?」

・・・・・ただ、残念ながら、その場にネット碁をする棋士はいなかったのだ。


黒33

そして次の日曜日の夕刻。塔矢家に一本の電話が入った。
日中外出していて、丁度帰宅したところの塔矢名人の夫人、明子がその電話を取ると、相手は夫の後援会長の山根であった。

山根からの電話の内容に明子は驚愕した。
そして連絡してくれたことに対する礼を言うと、電話を置き、そのまま真っ直ぐ息子の部屋へ向かった。


「アキラさん!」
部屋の襖を開けて入ってきた母親の顔を見て、アキラはバツの悪い顔をした。
仕方ない。どうせすぐに分かってしまうことだ。
彼は読みさしの囲碁雑誌を脇に置くと、畳の上に座りなおした。

「・・・・・お帰りなさい」
「アキラさん、あなた、今日、プロ試験に行かなかったって本当なの!?」

「・・・・・うん・・・」
「どうして?・・・朝は元気だったのに、具合でも悪くしたの?」
「・・・・ううん・・・」

明子は襖を閉めると、息子の前に座った。
「今、後援会の山根さんが電話を下さったの。今日アキラさんが不戦敗になっているのはどういうことかって、訊いていらしたのよ」

「お父さんは・・・・・?」
「お父さんは、まだよ」


 今日は塔矢名人も所用のために朝から出かけていた。
親が二人とも、不在。
家でsaiと対局するには絶好の日と言えた。
如何に話がわかる親といっても、例の一件を説明してプロ試験をサボるのを許してくれるとは思えない。出かけてくれていなければ、アキラもネットカフェか何処か、パソコンが使えるところへ行かなければならないところだった。

おかげで今日は心置きなくsaiと勝負が出来た。
だが、その後には仕出かしたことに対するツケがまわってくるという訳だ。



「どういうことか、お母さんにわかるように説明してちょうだい」
「・・・・・・どういうことかって・・・」

どう説明する?saiを進藤ヒカルと疑ったから、と答えて、この母親が納得するとは思えない。
それなら、別の日に会って打てばいいではないか、と言われるのがオチだ。それはそうなのだが、進藤が本当にsaiだったとして「実はそうなんだよ」と自分に正体を明かすとは、アキラには到底思えなかった。

“ネット碁で強い人がいる。その人と対局するために、プロ試験の一戦目をサボりました”
と、言うしかなかった。

「その人ってアキラさんの知っている人?」
「ネット碁は知らない相手と打つのが普通なんだよ」
「知らない人と打つために、試験をお休みしたの?」
「・・・・・・・・」


彼の母親は暫くの間、息子を黙って見つめていたが、居住まいをただして、口を開いた。

「アキラさん。アキラさんがやっとプロになる決心をしたというので、お父さんも、お父さんのお弟子さん達も、後援会の皆さんもどんなに喜んでくれたか忘れたの?」

確かに。彼は何年も前から試験を受けることを周囲から勧められていたのを、「まだ自分は父の元で修行に専念したいから」と断わっていたのだが、今年、進藤ヒカルの一件もあって、ついに受験することを決めた。
それが知れると、まだ受かってもいないのに周囲は、にわかにお祝いムードになっていったのだった。

代わるがわる、アキラを激励するために父親の関係者が家にやって来た。
門下の棋士達も前祝と称して食事に連れて行ってくれたりした。

それだけアキラは門下の人々にかわいがられ、期待をかけられていたと言える。
プロ試験予選に通るのは当然、本戦の結果も皆が注視しているのはアキラも承知の上であった。

アキラは知らないことだが、賭けの対象にもなっていた。そしてそれは「受かるか、落ちるか」ではなく、「全勝するか、しないか」であった。
サボって一敗したと知れば、全勝に賭けた者は、さぞかし怒ることだろう。

アキラが誰とも知れない相手とネット碁で対局するために初戦をサボったのは、こうした環境下であったのだ。



 彼の母親は更に「それにね」と続けた。

「お母さんがあなたにこんなことを言うのもどうかと思うけど、アキラさん、碁の対局は相手のあるものでしょう?
プロ試験は皆さん、自分の人生を賭けて対局しているんです。
いくら自信があるといっても、一局でも疎かにするなんて、お母さんには許せない」


いつもはやさしい母親が今日はひどく厳しい。
それはそうだろう。塔矢行洋には多くの弟子がいる。明子はずいぶん長い間、そんな門下の棋士達の世話をしてきたのだ。
その中には何度もプロ試験に挑戦しながら、夢破れて去っていった者も多かったのである。
息子とはいえ、こういう行為は認めることが出来なかったのだ。
『そんなことを言っても相手は一勝もらって喜んでいると思うよ』という理屈はここでは通じない。
母親が言っているのは心構えの問題なのだ。


「分かってるよ。ごめんなさい。もう、こんなことしない・・・・・」
しおらしく頭を下げるアキラに、明子もこれ以上叱るのはやめた。理由もなくこのようなことをする息子ではない。
恐らく余程の事情があるのだろう。


「お父さんには私から話しておくから、後であやまりなさいね」
彼女はそう言い置いて、部屋から出て行った。


アキラは溜息をついた。
我ながら馬鹿なことをしたと思っている。



だが、後悔はしていない。


 アキラは今日のsaiとのネット対局のことを振り返った。
国際アマチュア囲碁カップの会場で聞いた通り、saiは噂に違わず強かった。
それは、これまで進藤ヒカルと対局した三局以上に「高いカベ」を感じる程に。
そう、彼は力を尽くし、そして、saiに敗れたのだ。

そもそもこの対局はsaiが進藤ヒカルかどうか、それを確かめるためのもの。
勝つためにアキラは力を尽くしたが、今回に限っては勝ち負けより、そちらの方が重要であったのだ。
が、結局アキラには判断しかねた。

進藤ヒカルと行った、どの対局と比較してもsaiの棋力は明らかに上を行っていた。
万全を期したはずの対局でアキラは常に後手にまわってしまったのだ。
打っていて全く勝てる気がしない。
ここ数年、父や、家にやって来る高段の棋士以外でこんな気分にさせられる相手と対局したことはない。

相手は子供ではない。ましてアマチュアとは思えない。

しかし対局中に一度だけ、進藤ヒカルを思わせる一手をsaiは打ってきた。
その一手のためにアキラにはsaiが進藤と別人であると思い切ることが出来なかったのだ。

やはり、無駄を承知で本人に訊くしかないのだろうか。





 翌日、アキラは中野の碁会所に行ってみた。一つは門下の緒方九段に打ってもらいたかったのと、もう一つは馴染みの客に昨日の不戦敗を詫びるためだ。
アキラが店内に入っていくと、受付の市河が満面の笑顔で迎えてくれた。
そして
「ね、どうだった!?昨日」
と無邪気に訊いてきた。
「え?」
(何だ、まだ知らないのか)
と、アキラは拍子抜けした。
さぞかし市河が大騒ぎしているだろうと思っていたからだ。
どうやら後援会長は、ここには知らせてこなかったものと見える。

昨日母親に説明した通りのことを市河に伝えると、今度こそ彼女は驚いた。
アキラが心配いらないと、市河に言ったところで、入り口の自動ドアが開いた。

「・・・・・こんにちは」
やって来たのは常連の広瀬であった。やっとこの話から離れられると思ったところで、無情にも広瀬はプロ試験初戦の結果を聞いてきた。

「・・・・・・え、あ」
アキラが口ごもると、助け舟を出すべく市河は広瀬の口を封じた。
広瀬はそれでプロ試験の話はやめたが、その代わり、以前アキラが気にしていた少年の話を持ち出した。
「そうそう、ここに来る途中、あの子を見ましたよ」
「えっ?」


広瀬は幾つか仕事の事務所を持っていたが、そのうちの一つが六本木にあった。
ここに来る前に書類を届けて、その足でやって来たのだが、事務所の近くのインターネットカフェで、窓越しに進藤ヒカルを見かけたのだという。

進藤にまさかの負けを二度も演じ、その後長い間アキラが進藤をこの碁会所で待ち続けていたことは、常連なら誰でも知っている。
進藤ヒカルはその前髪の金髪メッシュが目立つこともあって、遠くからでも見分けやすい。
見かけて、すぐにでもアキラに教えてやろうという親切心だったのだ。


「場所は!?場所は何処ですか!!?」
アキラはその情報に食いついた。


白34

アキラは広瀬に教えてもらったネットカフェを見つけると、ガラス越しに店内を覗き込んだ。
碁会所を出てから既に三十分以上経っている。進藤ヒカルがまだ居るかどうか不安だったが、幸い窓に向かって背を向けて座る子供が目に入った。

(居た・・・)
アキラはホッとすると、エントランスから店内に入り、ヒカルの背後から、ゆっくりと近づいていった。
彼は熱心に画面に見入っているようだ。
(何を見ている・・・?)

そして、アキラがヒカルの肩に手をかけようとしたその瞬間、それを見越したように、ヒカルはぐるっと後ろを振り返った。

「よう塔矢!」
「・・・・・ええっ?」

まるで、待ちかねていた、と言わんばかりの進藤ヒカルのニコニコ顔である。
しかも、見れば彼の右手はガッツポーズのように、グーに握られていた。

相変わらず進藤ヒカルのリアクションが読めないアキラであったが、それもそのはずで進藤ヒカルは今日、アキラがここに来ることなど先刻承知だったのである。なので予定通りやって来たアキラを喜んで迎えたという訳だ。

しかし、それを気取られたくないヒカルは「珍しいところで会うもんだなあ」と、すっとぼけて見せた。
「・・・・・・」
「塔矢もネットカフェに来ることなんてあるんだ?」
「・・・・・・いや、・・・は、初めてだけど。いや、それより」

そこで当初の予定を思い出したアキラは、ヒカルの横から彼が見ていた画面を覗き込んだ。


「日本棋院のホームページ・・・?」
ネット碁に興じているところを取り押さえて、進藤ヒカルが噂のsaiかどうかを確認したかったアキラは当てが外れてがっかりした。
そのアキラをヒカルはジロリと横目で見た。

「そうとも。オマエさあ、何初戦から負けてるワケ?」
「・・・・・・え?」
「え、じゃないだろ?昨日のプロ試験の初日、オマエ負けてるじゃんか」
「・・・・・・」
言葉に窮するアキラの目の前で、ヒカルはマウスを動かし、日本棋院のサイト内の棋士採用試験のページを開いた。確かに塔矢アキラの初戦には黒丸が着いている。
「・・・・・・」
「らしくないぜ塔矢。これじゃ困るんだよ。オマエが今年合格しないとオレが来年受けられないだろ?」

(そんなの、君の勝手な都合じゃないか!)
とアキラは心の中で反論した。

「心配には及ばないよ。それより先週、森下九段のお弟子さんから聞いたんだが、進藤はネット碁をするんだって?」
「・・・・・」
(何だ、和谷の奴、もうしゃべっちゃったのか)


和谷に口止めをしなかったのだから、「もうしゃべっちゃったのか」もないものだ。
そもそも、和谷が塔矢に話してくれたおかげで、ヒカルがsaiと断定されずに済んだのだから、ヒカルには和谷に感謝しこそすれ、文句を言う筋合いはないのである。
とは言うものの、ヒカルがネット碁を始めたのは、saiの対局相手が見つかるまでの時間つぶしと秘密のお楽しみのため。
前回はやっていなかったこともあり、あまり人に知られたい話ではないのだった。


「ちょっと、外に出ようぜ」
三谷姉に断わりを入れると、ヒカルはアキラを店の外に引っ張っていった。




 外に出ると、静かだった店内と打って変わって街の喧騒と夏の熱気が二人を迎えた。
ヒカルはエントランスの横の壁に寄りかかかって、様子を伺うようにアキラを見つめている。

先程の質問に答えないヒカルに業を煮やして、アキラは更に言った。
「君の登録名って何?」
(それは言ってないんだ)
ヒカルは少しホッとして
「・・・・・何でそんなこと知りたいんだよ」
と切り返した。

「ネット碁に‘sai’という強い打ち手がいる」
と、アキラは、ネットのsaiの説明を始めた。
つまり、ネット碁に‘sai’という登録名の強い打ち手がいて、ネットプレイヤー達が、その正体を知りたがって大騒ぎしている。昨日自分も打ってその実力は折り紙付きだ、と。

「昨日?」
「そう、昨日」
「昨日、オマエそのsaiとかいうのと、打ったって?」
「そう」
「プロ試験の後?」
「・・・・・・・」
「・・・それってまさか、プロ試験すっぽかして打ってたんじゃないだろうな」
アキラは返事をしなかった。それを肯定ととったヒカルは、


「・・・・・・オマエってバカだなあ・・・」
と、感慨深げに呟いた。

その言い方が奇妙にやさしいのをいぶかしく思いながらアキラはヒカルに向かって訊いた。
「君じゃないのか?」
「オレ? saiが?」
と、ヒカルは嬉しそうに自分を指差した。
「まーっさかあ! オレの訳ないじゃん」
あっけらかんと否定したヒカルをアキラは疑り深そうに見た。
「じゃあ、君の師匠か兄弟弟子で‘sai’という登録名でネット碁を打つ人はいないか?」
「知らないな」
「・・・・・本当に?」
「何だよ、そんなにオレっぽかったのかよ」



「・・・・・・分からない・・・」
「なんだそりゃ」
ヒカルは肩をすくめた。

アキラはヒカルを見た。
(自分はsaiではないという進藤の言葉は本当だろうか)
彼がsaiでも恐らく認めないだろう。思った通りだ。
ではどうやって確認すればいい?打つことしかなさそうだが、しかし。

「ネット碁でも、君は僕と打つ気はないんだろう?」
「うん」
「やっぱり・・・」
その時、目の前を大型トラックが大きな音を立てて通り過ぎ、辺りを熱い排ガスの匂いが立ち込めた。
アキラは、いまいましそうに顔をしかめてヒカルに向き直った。


「・・・やっぱり分からないことばかりだ、君は」
「・・・・・へえ、そう?」

「そうだよ。一度きちんと訊いてみたかったんだが、何故、君は僕と打つのをそんなに避けるんだ?」
「・・・・・・」
(そう来たか)
前回には来なかった直球勝負の質問にヒカルは身構えた。

「僕と打つと何かまずいわけでもあるのか」
「そ、それはだな。まずいとか、うまいとか、そんなのはないけど」
「じゃあ、何か気に入らないことがあって、打ちたくないということ?」
ヒカルは返事に困って頭をかかえた。
(打ちたくないなんて、そんなことあるわけないだろ、っていうか、打ちたいに決まってるだろバカ)

ヒカルの心の声が聞こえないアキラは言葉を続けた。
「同じ年頃で、僕を負かしたのは君が初めてだったんだ」
「・・・・・」


 そう。アキラの周りにいる彼の上手は年上ばかりで、しかもプロ。
いかに名人の息子とはいえ、碁に関しては相手を立てなければならない。
若手の研究会でさえ、意見は言えても、忌憚なくという訳にはいかない彼なのである。
どこまでも囲碁しか頭にないアキラは、実力が拮抗していて対等に意見を言い合える同世代の打ち手、この先、切磋琢磨しながらお互いの碁を高めていけるようなライバルが欲しいとずっと思っていたのだ。そしてヒカルがそういう相手になってくれるのでは、という期待がある。

最初に進藤ヒカルと打った時の衝撃をアキラは忘れることが出来ない。
対局中、彼の碁に「神の一手」を見たかと思った程だ。
彼とずっと打っていたら、いつか本当にその「神の一手」の高みに近づけるのではないか、とアキラは夢想した。そんな相手と心ゆくまで、碁を打ち、検討できたらどんなに勉強になるだろう。

しかしどういう訳か、進藤ヒカルは「オレはオマエとは打たないぜ」と言って対局に応じようとしない。流石に中学の大会では対局出来たが、それは組み合わせの結果であって、彼が望んで、という訳ではない。

「君と打つのは勉強になる。この前の中学の大会でも、あの後、時間を作って君と検討したかったんだ。僕は」
「・・・・・」
「だが、それも叶わなかったな」
「・・・・・」


アキラの話を黙って聞いているうちに、ヒカルはだんだん気まずい、追い詰められた気分になってきた。
打ちたいのも、検討したかったのもお互い様なので、アキラの気持ちは良く分かるのである。

「あ、あのさ」
「で?どうして僕と打ちたくないんだ?」
「・・・・・」
「その位、話してくれたっていいだろう?納得できれば、もう僕もうるさいこと言わないよ」
「・・・・・え?」

(納得したら、もうオレと打たなくてもいいのかよ?)

それは困る。
仕方なくヒカルは重い口を開いた。

「・・・打ちたくない訳じゃないよ。オマエと打つのはすっげえワクワクするしさ。
ただ、オレは・・・」

アキラは一言一句聞き逃すまいとでもいうように息を詰めてヒカルを見つめている。
「ただ、オレは・・・」
(どうするんだオレ?何て言えばいいんだよ?)
「・・・・・・」


ヒカルは観念したように、一つ大きな溜息をついた。
ここで下手な誤魔化しはやめよう、と彼は腹を据えた。
自分は塔矢アキラに賭けようと決めたのだから、前回の通りでなくとも、
アキラは佐為に辿り着いてくれる。そう信じるしかない。




「・・・・・・願掛けしてるから・・・かな」


黒35

「・・・願掛け?」

ヒカルが発するにはそぐわないような、その古風な言葉をアキラは意外に思った。
ヒカルは眉をひそめたアキラの顔をちらっと見てから、視線をビルの谷間の空に向ける。





ヒカルの願い。



もう一度、佐為に会えますように・・・・・・。

そのために、塔矢アキラが佐為を見つけてくれますように。







「・・・・・・・」

ヒカルはそうして遠い目でしばらく空を見ていたが、やがて視線をアキラに戻した。



「そう。願掛け」
「・・・何の?」
「それは言っちゃダメなんだ」

ヒカルは困ったように、言葉を続けた。
「だからさあ、願い事する時、自分が好きなものとか、やりたいことを我慢するから何々を叶えて下さいとかって良くやるじゃん」

「・・・・・」
「分かったか?」


アキラはかなり戸惑っていたが、やがて一つの仮説にたどり着いた。
「それって、つまり、本当は君は僕と打ちたいけど、敢えてそれを我慢してるっていうこと?」


ぐぐっとヒカルの喉が鳴った。
アキラと打たないのは前例に倣っているからで、それで佐為に会えるかどうかは実のところ全く分からない。
(こいつは願掛けみたいなものだな)と、最近ヒカルは思うようになっていたので、その通り言ってみただけなのだが、要するに「その位、本当はオマエと打ちたいんだよ」と告白したのも同様である。

「そうなのか? ・・・そういうことか、進藤!」
「・・・・・」
アキラの表情がみるみる明るくなっていく。


その様子を見ていたヒカルは、何かとんでもないことを言ってしまったのではないかと急に不安になってきた。
「と、塔矢?あ、あの」

「打ちたいんだな、本当は! そうなんだな!」
「ええっと、それは」
ヒカルはアキラに気圧されて、思わず壁に張り付く。


(何なんだよコイツのこの反応は!)
思いも寄らない塔矢の有頂天ぶりにヒカルは引いてしまった。
しかし、ヒカルが引いた分、更にアキラは攻め寄ってきた。

「僕と打つのが嫌だから、とか無駄だから、とかじゃないんだな」
「ち、違うよ。違うってば」
「・・・・・本当は、打ちたいんだな!」
「・・・・・打ちたいよっ!」
「・・・・・・・・っ!」

アキラは、息を深く吸い込むと、感に堪えないというように何度も頷いた。ヒカルが狙った以上に深く納得しているらしい。


アキラにしてみれば、この先、生涯のライバルになってくれそうな相手が、自分の不甲斐なさ故に対局してくれないなどと考えるのは、どうにも我慢出来なかったのだ。
そうではない、と知ることが出来ただけでも、ここに来た甲斐があったというものだ。

対するヒカルは、今日のこの場では、昨日のネット対局相手のsaiが自分ではないと思わせられればそれでよかったので、この展開は想定外だったといえる。
前回は中学の大会でのダメダメ対局の後だったので、思いっきり見下されてはしまったが、「弱い君はsaiじゃない」とすぐ納得してもらえた。

しかし、今回は中学の大会でもヒカルはアキラに勝っているし、碁の内容もヒカル自身のものとはいえ、もともと彼は佐為の秘蔵っ子なので棋風も佐為の影響を大きく受けている。たった三回の対局では、完全に別人と判断するのは難しかっただろう。
saiの件から話をそらすために、ヒカルは余計なことを言わされてしまった。
双方の希望の達成度からいえば、この対局は確かにヒカルの負けのようである。

しかも、アキラの喜ぶ顔を見ていると、更に負けた気分が倍増してくるし、本当は打ちたいのだと告白したことで、妙に気恥ずかしい気分になってきた。


「ち」
(ちっくしょ ―――――― !!)
ヒカルは顔を赤くしてそっぽを向いた。
(何コクらされてるんだよオレはっ!! )


「そうか」
ヒカルの心の叫びが聞こえたのかどうか、アキラは「そうかそうか、そうだったのか」と繰り返しつぶやいていた。

(うるせェ、このバカ、とっとと佐為を見つけやがれ!!)
だが、予定ではアキラがヒカルの碁の内に佐為を見つけるのは、この後二年も先の話だ。

ずっとそっぽを向き続けるヒカルの顔の方にアキラは移動して、バンっと勢い良くヒカルの肩をたたいた。
「そういうことなら僕は了解だ。君の願い事が何かは知らないが、その件が解決するまで、僕も待つよ」
「・・・・・」
「そして約束しよう。今後、僕はプロ試験を一局たりとも落としたりしない」
「え?」
(そんな約束までしちゃうのか?)

任せておいてくれと言わんばかりに、アキラはヒカルに向かって微笑みながら頷いた。
「だから、来年、安心してプロ試験を受けてくれ」
「・・・・・・・いや、そんな約束しなくても、どーせオマエは合格すると思うけど・・・」
しかし、アキラはヒカルの言葉など聞いてはいなかった。
満面の笑顔をヒカルに見せながら、彼はこう言ったものだ。
「で、君の登録名は何なんだ?」
「・・・・・」



(しつこい)


ヒカルは空を振り仰いだ。この調子でこの先、大丈夫なのか? 不安だ。不安すぎる。
「うるさい! それもヒミツだっ!!」
ヒカルはヤケになって叫ぶことしか出来なかった。





 アキラが御機嫌で帰っていった後、ヒカルは肩を落として、店内に戻ってきた。
三谷姉がそんな彼を出迎える。
「なーに? あの子」

その一声を聞いてヒカルはテーブルに突っ伏した。
「ど、どうしたの!ヒカル君?」
「そこだけ、前と一緒でどーすんだよ・・・」

前回、アキラと別れて、店内に帰ってきたヒカルに三谷姉がかけた第一声が「なーに? あの子」だったのだ。

ヒカルは何のことか分からない様子の三谷姉に言った。
「今までアリガト、三谷のおねーさん。オレ当分この店には来ないからさ」
「ヒカル君?」

ヒカルは疲れたように小さく呟いた。

「・・・・・イベントが一つ終わったんだよ・・・一応」