LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒73〜黒77



黒73


「まずは、おめでとうと言おうか」
と、椅子に座るなり塔矢アキラは言った。

ここは彼の父親が経営する碁会所である。
受付の市河から、進藤ヒカルが来ていると携帯電話で知らされ、急いで駆けつけたのだ。
アキラが息せき切って店に入ると、市河はフロアの奥まった一角を指差した。
その位置からは後姿しか見えなかったが、一部が金色の頭髪はまさしく進藤ヒカルのようだ。


足早にそちらの方へ向かうと、ヒカルは沈んだ面持ちで黙ってアキラの顔を見上げた。
念願かなってプロ入りを決めたというのに、どういうことだろう。自分と打ちにやって来たのではないのか。
疑問を持ちつつ彼はヒカルの正面に座り、最前の祝いの言葉を述べた。



「ここに来たということは、僕と打つためと思っていいんだろうな。願掛けはもう済んだのか?」
それを聞いて、やっとヒカルは口を開いた。

「願掛け・・・、ああ、願掛けね。・・・それはまだだけど」
願掛けというのは、以前ヒカルが「塔矢アキラと今は打てない」理由を誤魔化す時に使った方便だ。
そのせいで、ヒカルと打つのを待たされているアキラとしては、どうなったのか確認するのは当然と言えた。
一方ヒカルにしてみれば、方便とはいえ「佐為と会う」という願いはある。しかしそれは果たせていない。


「一体いつになったら終わるんだ? プロになったら早々に僕と対局することだって有り得るんだぞ。そうしたら君はどうする気だ?」

ヒカルは肩をすくめた。
「心配性だな。オレが不戦敗するとでも思ってるのか」

アキラは「やりかねない」という目でヒカルを見た。

「そんなことはしねェよ」と、ヒカルは小声で言った。
「・・・・・」

どうも様子がおかしい。
アキラの知っている進藤ヒカルといえば、いつも強気で自信満々、思わせぶりなことを言い、やることは支離滅裂。どうにも理解に苦しむ人物だった。
ただ、いつも「元気一杯」な少年ではあったと思う。
それが、今日はどういうわけか顔色が悪く、覇気がない。
(まさか、また女がらみじゃないだろうな)と思ったが、声に出しては別のことを言った。

「・・・・・具合でも悪いのか?」
「別に」
とりつくしまもない。

アキラは気を取り直して話題を変えることにした。
「プロ試験の最後は波乱の展開だったね。君と越智君が合格を決めた後、最後の一人は四敗の三人がプレーオフで」
「・・・・・・・・」
「結局、外来の門脇元学生三冠が合格したってネットで見たけど。聞けば、進藤は門脇さんとは親しいんだって?」
「・・・・・」
ヒカルはそれを聞いて更にガックリと項垂れた。




 プレーオフは、プロ試験の後、三人を集めて後日行われた。
その結果、ヒカルの願い空しく和谷は破れ、伊角も負けを喫し、門脇がプロ入りを決めたのだった。


ヒカルはそれを知ると矢も楯もたまらず、和谷の家に向かった。行ったからといってどうなるものでもなかったのだが。

玄関から出てきた和谷は憔悴した顔をしていたが、それでも気丈に笑顔を見せた。
「また来年があるさ」と言い、「おまえは先にがんばれよ」と励ました。

ヒカルは泣いた。そして「ごめん」と頭を下げた。責任を感じていたヒカルが思わず発した言葉だったが、これは和谷には届かなかったようだ。

暫くの間、和谷はヒカルを見つめていたが、やがて苦い顔をして言った。
「ごめんって・・・・じゃあ、オマエ辞退してくれんのかよ」
「・・・・和谷」
急に低い声になった和谷にヒカルは顔を上げた。
「つまんないこと言うんじゃねェよ! 今、オレ一杯一杯なんだ。悪いけど、今日は帰ってくれ」
そう言うと、和谷はヒカルの鼻先で玄関のドアを閉めた。
ガチャンという鍵を閉める音が拒絶の証のように今でも耳に残っている・・・・・。

行くべきじゃなかったのだろう。だが、何か言わずにはいられなかった。
後悔と自責の念で、自分の合格の喜びなど、完全に吹き飛んでしまった。





そんなことを思い出して、落ち込むヒカルをアキラは上から見下ろした。

「まさかとは思うが、院生の友達がプロ入り出来なかったので落ち込んでるんじゃないだろうな」
ヒカルは上目使いにチロっとアキラを見た。
「・・・・・・」

「一体何を考えているんだ。仲良しごっこをしているんじゃないんだぞ」
ヒカルはふてくされたような目でアキラを睨んだ。
ただ和谷が負けただけなら、こんなに気落ちすることもないだろう。試験の結果は自己責任だからだ。
だが、ヒカルが関与していなければ門脇参戦もなく、和谷が合格していただろうと思われるからこそ、こうして落ち込んでいるのではないか。
という想いがヒカルにはある。

「・・・・・怒鳴るなよ。とにかくオレは予告通り受かったから。今日はそれを報告しに来てやっただけだ」
「何をえらそうに。合格はただのスタートラインだ」
この倣岸さが塔矢アキラだ。そしてその言葉は正しいのだろう。ヒカルは漸く小さく笑った。

トップ棋士になり、囲碁の高みを目指す。そのためなら友情だろうが愛情だろうが何と引き換えにしてもかまわない。
キッパリそれだけを考えて生きてきた男が目の前でヒカルを鋭く見ていた。

何とシンプルで分かりやすく、そして厳しい生き方だろう。
しかも、この男は恐らく自分にも同じ生き方を要求しているのだ。

(でも、オレもそんな風に生きていきたいんだよな、これが)

やっぱりコイツだ。と思う。この男が佐為を失った自分を囲碁の高みへの道に引きずり上げていくのだろう。

和谷の不合格でざわざわしていたヒカルの心が段々落ち着いてきた。
そんなヒカルの変化に気付いたのかどうか、アキラが静かに訊いてきた。



「で、願掛けは?」
「それは、まだなんだけど。もう、いいかな、と思い始めたトコ」
それを聞いてアキラの眉が上がった。
「・・・・何だと?」

歴史を変えたくないから塔矢アキラと打つのをやめていたのに、プロ合格者の顔ぶれが変わるほど歴史は変容してしまっている。
その上、佐為も何処かにいるかもしれないとなると、既に打たない意味がない。

「何か、よくわかんなくなっちゃってさ。願掛けはやめちゃおうかと思って」
アキラはムッとした顔をした。
「何ていい加減な」
「そんなこと言ったって・・・。色々あるんだよオレにも」
「・・・・・」
「だ、だから、やめちゃえばオマエとも打てるし」
「・・・・・」
ヒカルの軽さに反し、アキラの表情は次第に険しくなってくる一方だ。
「な、何? そんな怖い顔しちゃって。怒ってんの?」
ヒカルは、そそくさと碁盤の上の碁笥を自分の方に引き寄せた。
「じゃ、そんなワケだから。打とうか」
当然打つだろうと、ヒカルがアキラにもう一方の碁笥を押しやり「ニギれよ」と言った。
しかしアキラは動かない。

「塔矢?」
アキラは自分の方に置かれた碁笥の蓋に手を置いた。
そして碁盤を見つめたまま暫く黙り込んでいたが、やがて顔を上げるとヒカルに言った。

「今日は打たない」
「へ?」
ヒカルは驚いてアキラの顔を見た

「何だよ、あんなに打とう打とう言ってたくせに。天邪鬼だな」
それに対しアキラは憮然として言った。
「君は僕がどんな気持ちで、君と打つのを待つと言ったと思っているんだ?」
「だから、それは」
「願掛けはもういいというなら、その願い事を言ってみろよ」
「えっ」

そんなことは言える訳がなかった。
「・・・・・・・・・」

ヒカルの様子を見て、アキラは深い溜息をついた。
「どうせ言えないんだろう? 君は秘密だらけだからな」
「・・・・・」
「やると言ったのならプロの対局で当たるまではやれよ」
「・・・いいのかよ」
「仕方ない。君がどんな打ち方をするのか、その時見せてもらうよ」
アキラは探るような視線をヒカルに向けた。
「・・・・・」

ヒカルは平静を装ってアキラの視線に耐えたが、内心ヒヤリとしていた。
プロ試験最終日の越智の言葉が甦る。

『君と打つ時、君は棋譜並べをしているような打ち方をすると言っていた』


(コイツやっぱり油断ならねェ)

佐為の碁を打つ時は、あまりスラスラ打たないようにと思っていたが、やはり対局相手には不自然に見えていたらしい。
碁の内容も、弟子とは言っても別人なのだから、区大会での対局や若獅子戦で見た碁との違和感も当然あるはずだ。

感の良いアキラのことである。もしかすると、「願掛け」が佐為がらみだということも予測しているかもしれない。
たとえ佐為本人を知らなくても、その碁の強さや美しさを、アキラがまた見たいと思っているのは知っているし、ヒカル自身の碁との違和感の原因も追求したいだろう。

だから、打とうと言えば、喜び勇んですぐさま対局となるだろうと思っていた。

ところが、である。
流石は塔矢アキラ。一筋縄ではいかないようだ。
拍子抜けすると同時に少々がっかりしたヒカルは、カバンを手に立ち上がった。


それをアキラはじっと見つめていた。

「じゃ、帰るよ」
と声をかけたヒカルにアキラは言った。

「言っておくが、プロは他所事にかまけてどうにかなる世界じゃないぞ」
ヒカルは目を丸くした。
「そんこと、分かってらい」

「君がぐずぐずしてる間にも僕は上に行く。君の力は後日打った時に確かめさせてもらうが・・・」
「・・・・・・」
「忘れるな。次は君に負けはしない」

言われた瞬間、ヒカルは自分の喉がゴクリと音を立てるのを聞いた。
そして、返事も出来ぬまま、その場を後にしたのだった。


白74


 「ムリしちゃって! 打てば良かったのに!!」
ヒカルが店を出ていくと同時に背後から聞き慣れた声が降ってきた。
「・・・芦原さん・・・後ろで聞いてないでよ」
驚いた顔を見せまいとアキラは手で口を覆った。


「聞くよ! 聞くに決まってる。面白いからな」
そう言うと、芦原はアキラの後ろの席から回り込んで、先程までヒカルが座っていた席に収まった。
アキラはその芦原の風体を見て、口をへの字に曲げた。
グレーのスーツに白の薄手のニット帽に眼鏡。フレームはピンクだ。
スーツに合わせるにはチグハグに見えるが、後ろを向いていたのでヒカルも気が付かなかっただろう。
芦原の視力が悪いなどとは聞いたことがない。恐らく伊達眼鏡だ。
まさか変装のつもりか? と、思うとドン引きである。

アキラの視線に気が付いて、芦原は帽子と眼鏡を取った。
「最近冷えるようになったよね」
などと言うのもワザとらしい。

「何が面白いんだよ。芦原さんにはカンケーないでしょ」
「進藤君の秘密って何のこと?」
「知らないよ」
「願掛けって?」
「知らないって」
「友達なのに知らないの?」
「別に友達じゃないったら」
アキラはムッとして答えた。
芦原のヘラヘラ顔が今日は一層カンに触った。
この男、これで対局中は精悍な顔付きになる。いつもマジメな顔をしていればいいのに、と思う。

「何で芦原さんが進藤を気にするのさ?」
「アキラが気にするからだろ」
「別に僕は気にしてなんかいない」
「そうかあ?」
この場所で二度負けた後、どれだけヘコんで、進藤を待っていたのかもう忘れたらしい。
だからこそ、ヒカルがここに来た時、あわてて市河が連絡したのだ。

「オレだけじゃなくて、緒方先生も注目しているという子だからね」
と、芦原は言い、「塔矢門下でもないのにな」と付け足した。
「・・・・・」
「・・・緒方先生は、若獅子戦も見に行ったんだろ?」

そう。若獅子戦でアキラが自分の対局が済んだ後、進藤の対局を観戦しに行くと、テーブルの横に緒方が立っていた。緒方も進藤と‘sai’との関係を疑う一人だったからだ。
しかし、その日の進藤ヒカルの碁は、‘sai’の華麗な碁とは到底同レベルに語れないものであった。
あの一局で、少なくとも進藤とsaiが同一人物かもしれないという線は消えたと思うはずだ。現にあの日以来、緒方が進藤ヒカルのことを話題にしたことはない。

「・・・・あの日、進藤は初戦敗退だったからね。もう緒方さんも進藤のことは気にしていないんじゃないかな」
アキラはそれだけを言うと立ち上がった。
「それに、僕はこの一年プロとして進藤に先行しているんだからね。さっきも言ったけど、次は負けないよ」
「・・・・・」
そしてアキラは芦原を残し、店を出て行った。


それを受付の横で盆を持ったままの市河は不満そうに見送った。
「アキラ君、折角お茶淹れかえたのに・・・」
それを聞いた芦原は受付近くの席に移動した。
「まあまあ、オレが二杯飲むからさ」
「いいわよ、アキラ君の分は私が飲むもの」
市河はそう言うと、一番近くのテーブルに盆を置いた。

「それにしても、進藤君って本当に一発合格しちゃったのね」
「だねえ」
「流石はアキラ君のライバルね」
「プロになって対局が始まってみなきゃ、本当にライバルになるか分からないけどね」
芦原は、手に取ったティーカップに目を落とした。
「やっぱり、アキラは碁の強いヤツにしか興味が持てないんだな」
「それはそうよ。アキラ君はお父さんみたいになっていく人だもの」
「ライバルで友達って、アキラにはムリなのかなあ・・・」
芦原が呟くのを聞いて市河が思いついたように言った。
「芦原先生はアキラ君の友達よね?」
「そうだよ」
そう言うと、芦原は口を尖らせた。





 その数日後。
「進藤先輩、プロ試験合格おめでとございます!!!」
という、小池囲碁部長の発声とともにクラッカーの破裂音が葉瀬中の理科室兼囲碁部室に響き渡る。
それに対してヒカルは、控え目に「おう」と小さい声で応えた。

「こらっ、学校にクラッカーは持ち込み禁止だって言ったでしょ!」
直後に叱ったのは顧問の大菅タマ子だ。学校に火薬物は持ち込み禁止なのだ。

「何のために先生を呼んだと思ってるんだよ。火元確認責任者立会いの上なら、何の問題もないだろ」
と、これは三谷だ。
「そのために私を呼んだわけ?」
「ちがいます、ちがいます!」
あわてて、他の部員がとりなす。
「そうだな。先生からはカンパも貰ったしな」
「そっちなの!?」
「ちがいます、ちがいます!!」

その様子をヒカルはニコニコしながら見ていた。


 ヒカルがプロ試験合格を決めて学校に登校すると、学校はちょっとした騒ぎになっていた。
多くの生徒達にとって、囲碁はあまり身近なものではなかったが、「普通でないことを成し遂げた」ましてや、「それがマスコミに出た」というのは、非常にセンセーショナルなことであったのだ。
恐らく一度も碁を打ったことがなさそうな生徒達が、何故か「週刊碁」を学校に持ち込み、ヒカルを指差して「あの人だよ」と囁きあっていた。
それは前回にも経験済みであったため、ヒカルも意外とは思わず、その件で質問されれれば丁寧に答えていった。これも普及活動の一環である。


 だが、前回にないことがあった。それは囲碁部でのお祝い会である。
あかりの予告どおり、部員達が菓子やソフトドリンクを部室に持ち込み、合格を祝ってくれるというのだ。

‘進藤君、プロ試験合格おめでとう’と黒板に色とりどりのチョークで書かれ、金色の折り紙で作られた星まで貼られていた。

院生同士と違い、ここではお互いの複雑な想いとは無縁でいられる。
部員達が純粋に喜んでくれているのが伝わってきて、ヒカルは癒された気持ちになった。
「ありがとな」
はにかみながら、改めて礼を言った。

「よかったね」
と、あかりがヒカルに微笑みかけ、それを見て津田久美子がウンウンと頷く。更にそれを金子正子が肝っ玉母さんそのものの、やさしい表情で眺めていた。

「それはそうと、プロ試験受かったんだから高校は行かないんだろ?」
と、三谷が訊いてきた。
「うん」
ヒカルが答えると、小池と夏目が驚いたような目を向けた。
「行かないの?」
夏目が訊くとヒカルはあきれたように言った。
「だって社会人だぜ。 それに囲碁の勉強で忙しいのにそんなヒマあるかよ」
「そっかあ・・・」
「そーなんだよ」
「高校なんて行ったってコイツが学校の勉強をするワケないもんな」
「そうそう」
三谷の言葉にヒカルは頷いた。

「でもなあ、近くで見張ってないと藤崎を誰かに取られたりしてな」
「何?」
ヒカルが隣のあかりを見た。
「三谷君、変なこと言わないでよ」
あかりが三谷を睨む。
「私、高校に行ったら、囲碁部にヒカルを講師で呼ぶんだから」
「金はどーすんだ?プロなんだぜ?」
「えっ」とあかりは一瞬つまり、ヒカルの方を向いた。
「割引して!」

それを聞いてヒカルは思わず噴き出した。
「そんな心配しなくても行ってやるから気にすんな」
「彼女割引かいっ!」

そうして部室が笑いに包まれる中、大菅タマ子はヒカルを微妙な表情で見ていた。
実は前日、ヒカルの母親である進藤美津子の訪問を受けていたのだ。
用向きはヒカルの進路についてである。

ヒカルの希望は進学せずにプロとしてやっていくということだったが、親達にとって、息子が囲碁棋士になるというのは、何処か絵空事のような気がしていたし、何より、まさか一度で合格するとは思っていなかったの
だ。
囲碁のプロの世界が全く分からない親達は、息子の進路問題に俄かに直面することになってしまったのだ。
ここに至り、現実問題として状況を把握しなければならない。
ということで、取り合えず担任でもある大菅タマ子に合格の報告と、プロ試験中の休みなどで世話になったことへの礼を兼ねて学校を訪問したという訳だ。

ところで大菅も名ばかりの囲碁部顧問である。囲碁のプロの世界のことなど何も分からないのは美津子と同じだ。
「奇怪な社会っポイ気が・・・」
「そーなんですよね・・・」
などと結論の出ない会話が繰り返された。
前回の例だと、美津子は囲碁のプロのことについて、同時に合格した和谷義高の母親に話を聞きに行くことが出来たが、今回はそれが出来ない。

「まさか葉瀬中から囲碁のプロが出るなんて思いませんでしたから・・・」
と、大菅は前置きをし、
「区内の私立中に囲碁の強い学校があるので、そこの顧問の先生に訊いてみましょうか」
と言った。もちろん区大会で挨拶した海王中の囲碁部顧問を思い出したのである。
自分が知っている中で、最もそうした情報に詳しそうだと踏んだのだ。
美津子は恐縮して頭を下げた。





 その夜、父親の書斎でヒカルは今日何度目かの溜息をついた。
(何で出てこないんだよ、佐為)

プロ入りを決めた後も一向に姿を現さない佐為に焦りを覚えずにはいられない。
プロ試験の結果を見てから帰ってくる気なのだろうと思い、探すのを棚上げしていた彼としては、アテがはずれてしまったのだ。

こうなってみれば、今からでも動き出さねばなるまい。
(何処かにいるのは間違いないんだからな)

棚上げしていたと言っても、囲碁のサイトや掲示板サイトに、情報提供を求める書き込みなどはしていたのだ。
しかし過去に‘sai’と打ったことがあるという人物からの書き込みが数件見られる程度、しかもヒカルが‘sai’を騙って打った時の話であったりして、他にヒカルが望むような情報は得られなかった。

ヒカルは父親のパソコンで、それらのサイトの書き込みを確認した後、いつものワールド囲碁ネットにログインした。

saiはこのサイトでしか打たない。
自分が代わりに打っていたときも、psyと打ったときも、ここで打っていたのだ。

ヒカルはエントリーしている登録名の上を確認していった。
今日も‘sai’はいない。
ヒカルは画面から目を離すと再び溜息をついた。

結局はあの時だけなのだ。
プロ試験中、サイト内で勝ちまくっていたpsyとsaiの、ただ一度きりの対局が実現した。

ほぼ間違いなくプロ。しかもヒカルの見立てでは高永夏だと思われる‘psy’。
そしてそのpsyと対局しているsaiの碁は、まぎれもなく藤原佐為のものだとヒカルは確信していた。

強い相手と打てるなら、手段を選ばない佐為。
強い相手がいるとわかれば、姿は見せなくても、ネットには現われるということか。

(オレが打てば出てくるのか?)
と、思ったこともあるが、佐為は、例え登録名であっても愛弟子の碁なら見破るはずだ。

出てこないといえばpsyもsaiとの対局以来、エントリーしていない。
対局時にチャットで連絡を取り合い、自分の知らないところで打っていたら・・・。
「そんなの冗談じゃねェよ」
ヒカルはつぶやくと奥歯をかみ締めた。
それはヒカルにとって考えたくないことであった。

どうしたら出てくるだろう。
大手合が始まる前には、新初段シリーズがある。
事あるごとに塔矢名人と打たせろとヒカルに迫っていた佐為。
前回は塔矢名人が指名してくれたが、今回はどうだろう?
その時こそ佐為が出てきはしないだろうか。
対局が行われる「幽玄の間」に入ったら、ちゃっかりヒカルの座布団の上に座っているかもしれない。

「なんてな」
ヒカルは呟き、椅子の上に両膝を立てて、その間に顔を埋めた。


黒75

そして、新初段シリーズが始まった。

本日の対局者は新初段、進藤ヒカル。相手となる高段者は名人、塔矢行洋である。

まもなく日本棋院本院の幽玄の間で行われるその対局を観戦するために、緒方精二九段が記者室のドア開けると、桑原仁本因坊の姿が目に飛び込んできた。

「・・・・・桑原先生」
「ほほう、これはこれは緒方君じゃないか、久しぶりじゃの」
桑原は、皺深い顔に満面の笑みを浮かべて緒方を迎えた。


が、(・・・嫌なヤツに会ってしまった)というのが緒方の正直な感想だ。
緒方は、この老年の棋士が好きではない。好きではないというより心情的には天敵ぐらいに思っていた。
院生達が呼ぶ「妖怪ジジイ」というのは実に的確なネーミングだ。つけたヤツを褒めてやりたい、と思う程なのだ。
この妖怪ジジイは、どういうわけか自分の顔を見ると、無駄に嫌味やら揶揄やらホメ殺しやら、とにかくイラッとさせる言葉を撒き散らし、彼と会った日は終日不愉快な気分になってしまう。
周囲に探りを入れると、どうも対局相手には一通りやらかしているらしい。つまり対局前の布石、彼一流の盤外戦というわけだ。
老獪といえば味があるように聞こえるが、要するに傍迷惑な老人なのである。

今日も二人が対局した、過日の本因坊戦のことをネタにゴチャゴチャ言ってきた。いつまでも聞いてやる程ヒマではないので、話を変えることにする。


「ところで、先生はどうしてここに?」
すると、桑原は高笑いし、喫していた煙草の灰をテーブル上の灰皿に落とした。
「その言葉そっくり返そうじゃないか」
と言う。
「今日はたかだか、新初段の対局じゃぞ。いくら名人が打つからといって、緒方君程の者が見に来るようなものじゃない」
「・・・・・」
緒方は黙ったまま、自分もポケットから煙草を取り出し、火をつけた。


新初段は毎年誕生するが、多忙を極める塔矢名人が対局を引き受けるのは数年ぶり。
しかも、対局の条件として進藤ヒカルを指名したというので、一部で話題を呼んでいた。
それでも、タイトル戦の挑戦者たる緒方が個人的に観戦に来るというのを意外に思う者もいるだろう。

緒方がひと息つくのを見て、桑原は言葉を続けた。
「キミはあのガキが、この前キミが言っておった『新しい波』だと思っとるんじゃろ?」
それを聞いて緒方は視線を逸らした。

本因坊戦第二局が行われる前日、緒方は桑原を相手に「若手の中から、古い枠に囚われた往年の棋士達を打ち破り、日本の囲碁界を革新していく新勢力が台頭してくるだろう」と語った。
そして、そんな『新しい波』に立ちはだかるのは、自分でありたい、と言ったのだ。

(それで興味を持ったのか)
と思った。
その『新しい波』は誰かと考えた時、桑原が進藤ヒカルに注目したとしても意外とは思わない。
もともと注目されていた院生であったし、プロデビュー後に二十六連勝を打ち立てて親の七光りの噂を撥ね退けた塔矢アキラがライバルだと公言している少年だったからだ。
強いて不思議と言えば、桑原仁本因坊はそんなことで新初段ごときに注意を払う男ではないということだ。
大方自分が「『新しい波』に立ちはだかる壁になる」宣言などしたので、嫌がらせを兼ねてお手並み拝見とばかりにやって来たというところだろう、と緒方は思った。


「・・・桑原先生は彼の碁を見たことがあるんですか?」
「いいや」
やはりな、と思ったところで、桑原は意味ありげにニヤリと笑った。
「今日来たのはシックスセンスが働いた、というところじゃよ。あやつとは一度この棋院の中ですれ違っただけでの」
「すれ違っただけ?」
「ああ」
「・・・・・」
(何を言い出すんだ、このジジイは)
緒方は煙草の煙をフッと上に噴き上げた。

「『新しい波』とはよく言うたわな」
「・・・・・」
桑原はニヤニヤ笑い続けている。何が言いたいのかよく分からない。
緒方は訝しげに目の前の老人を見た。

「キミは何故名人があの小僧を指名したと思う?」
「・・・・・何かご存知なんですか?」
「カンのいい男じゃからの。何かを感じてのことじゃろて」
「どういう意味です?」
思わせぶりな言い方に、つい問い質してしまう。だが明快な答が返ってくるはずもない。
「キミは感じんのか?」
「だから何をです?」
それで桑原は「そーか分からんか」と言ってヒャラヒャラと嘲笑った。

「だからキミなんぞワシから見ればまだまだ青臭い若造だと言うんじゃよ」
「先生・・・・」
「棺桶に片足つっこむぐらいの歳になると色々視えてくるモノがあるんじゃ」
「・・・・・」
流石は妖怪ジジイ。シックスセンスでモノを語るのである。



 お察しの通り、緒方はかなりイライラしてきた。
この手合いは、敬して近寄らずに限る。与太話には付き合うまい。
そして緒方が黙ったまま新しい煙草に火を付けたところで、記者室の扉が開いた。

キノコの様な頭髪の少年が、自分達を見て文字通り飛び上がった。越智康介である。
「し、失礼します」
頭を深々を下げ、部屋の隅の席に座る。モニター画面からは遠いが、トップ棋士の傍に行く度胸は、流石の越智でもまだなかったのである。

そこに塔矢アキラが部屋に入ってきた。
来ることを知っていた緒方が「やあ」と声をかける。
アキラは如才なく、二人のトップ棋士と越智に挨拶をした。
部屋の様子を見て、緒方の横の椅子に座る。


「そろそろ始まりますね」
緒方が呟いたところで、本因坊は、この勝負でどちらか勝つか賭けないか、と言ってきた。
緒方はゆっくりと桑原の方を見た。







 (・・・・・いないじゃん)
ヒカルが幽玄の間に入って、最初の感想はそれであった。
ひょっとしたら、と、ほんの少し期待したのだが、そうそう話はうまくいかないのだ。
居たら居たで、大声を出して周囲を驚かせてしまったであろう。

ヒカルは、自嘲気味な表情で、手にした扇子を持ち替えた。
「・・・・・」
ヒカルには、前回、塔矢名人と打ちたいがために碁盤の前に陣取り、必死の形相で名人を睨みつける佐為の姿が目に焼きついていた。それは存分に打たせてやれなかった後悔と共に消せない記憶だ。
もっと打たせてやりたかった、と言ったところで、事情を伏せたままでヒカルが出来たことなど、たかが知れていたのだが・・・。


幽玄の間で、それこそ何度も対局している名人は、慣れた様子で上座に座る。
ヒカルも何ら障害物のない自分の席に着座した。

部屋に入る前、名人はヒカルを自分から指名したのだと言った。
それは前回も同じだったので、驚くには当たらない。
しかし何故、とヒカルは思う。
名人はアキラと打った始めの二回の碁、「佐為の碁」を見たのだろうか。それで自分を指名してくれたのだろうか。
息子がライバル視しているからといって、自分も対局してみようと思う程、名人が酔狂だとは思えない。


そしてまた、今日はどう打つべきか。と、思う。
名人が「佐為の碁」を見て、何かを期待しているのなら、この対局で佐為が打った碁を再現してやりたいという気持ちがないではない。
しかし前回、佐為がヒカルにねだってこの場で打ったのが、これまた只事ならぬ碁であった。

新初段シリーズは、デビュー前の新初段がトップ棋士に胸を借りて対局するという、「週刊碁」主催の企画ものである。新初段とトップ棋士では棋力に差があるため、新初段に逆コミ五目半のハンデが付く。
それを佐為に打たせれば、たとえ名人相手でもラクラク勝ってしまい、ヒカルの評価に誤解が生じてしまう。
それを避けようと、ヒカルが佐為に出した条件というのが、
『十五目のハンデを負ったつもりで打つ』というものだった。

当然そのような碁がまともなものになるはずもなく、棋院の内外で物議を醸すことになったのだ。

今日は、そんな気遣いなどせず、自分の碁を打つ。そうヒカルは決めてきたのだ。
だが。

(それでいいのかな)
と、不意にヒカルの胸に迷いが生まれた。

佐為の碁を再現しなかったために、あのネット対局「sai vs toya koyo」 の存在が消えてしまったら。

思い出す。
代理でパソコンのマウスを動かしているだけのヒカルにも、容赦なく浴びせられたプレッシャー。あの棋譜。
それがこの世界に存在しなくなる。



嫌だな、それは。

と、思う。



さっさと佐為が出てきてくれれば、心置きなく打てるのに・・・。
(佐為のバカ野郎、何で出て来てくれないんだよ)
八つ当たりのような言葉が次々と心に浮かんできた。



ヒカルは碁笥を膝元に下ろすと、思い切って名人に話し掛けた。

「・・・・・先生は・・・」
「ん?」
名人が顔を上げた。
「・・・・・先生は、塔矢二段とオレが最初に打った碁を知っていますか?」

「・・・・・アキラがその時のことを気にしていたのは知っているよ。」
(やっぱり)
と、ヒカルは思った。だが、次に名人が口にしたのは、ヒカルの予想しないものだった。

「私が見たのは、君達が打った中学の大会の碁だ。碁会所で打った二局は知らない。」
「・・・・・」

「それで、君に興味を持ったというわけだ」

ヒカルは、愕然として思わず口を開けてしまった。
(佐為のじゃなくて、オレの碁を?)
それはつまり、名人が自分の碁を認めてくれた、ということではないか。

ヒカルは顔に血が上るのを感じた。
(うれしい)
「・・・・・」


今の言葉が決定打となってヒカルは腹を決めた。

迷うな。今日は、今日こそは、自分の碁を打つ。
出てこない佐為は、今は置いておけ。


係の職員が告げる。
「時間になりました」

ヒカルは既に汗ばんできた手で扇子を握りなおした。
「お願いします」

そして、深呼吸し、黒石を取った。


白76


ヒカルの新初段戦は、特に問題なく粛々と進んだ。
前回は、十五目のハンデを克服するために佐為がとった、一手目における大長考が注目を集めたものだが、今回はそんな必要はなかったのだ。


 高段者との対局といえば、時間を遡る前、ヒカルは森下九段と戦ったことがある。
師匠筋と言っても良い人物。しかし勝負になると踏んでいた。
本気で戦っている時の高段者のプレッシャーがどんなものか、まだ知らなかった頃の話だ。

その時、ヒカルは正直言って恐ろしいと思った。
碁盤を差し挟んで座っているだけなのに、猛獣を前にしているような身の危険を感じ、皮膚がチリチリ音を立てているような気がした。
自分には相手にそのような威圧感を与えることは出来ない。
自分には足りないものがたくさんある。と、その日ヒカルは学んだ。


そして今、名人を前にして、
(この人も、森下九段がいうところの「化け物」に変わるのだろう)
と、思う。
今日の名人からは、静かな圧力を感じるだけだ。
油断なく、重厚な存在感。
相手の力量を値踏みしているのか。

前回、ネットでの対局後、名人が佐為との再戦を強く願ったのを思い出す。
目の前にして対局できない佐為はその碁の力だけで名人に存在を認めさせたのだ。

自分もその高みに近づいてみせる。ヒカルは意気込んだ。



 対局が進み、ヒカルの手厚い碁に記者室では称賛の声があがっていた。塔矢アキラに続く若手スターの誕生に期待する雰囲気の中、越智は部屋の隅でひとり画面を見つめていた。

名人は逆コミを解消すべく様々な狙いをもって仕掛けてくるが、ヒカルは次々とかわしていく。
落ち着いているな、と越智は思った。当代一のタイトル棋士を前に緊張することはないらしい。
(僕のライバルなら当然だけどね)
越智は独りごちた。視線を画面から離すと、トップ棋士二人が画面を前に意見を交わしている。


「名人は上辺に打ち込まれたのが気に入らなかったようですね」
「そうじゃな、その後カケを考えたんじゃろうが、うまくないと思って断念したのはいいとして、その後も狙いがことごとく外されとる。やはりあの小僧やりおるな」
「左辺からの展開ですね。直後の上辺で黒に受けさせて手を入れるつもりが、進藤はそれに乗らずにツいだ」
「手厚いのう。白は苦しそうじゃ」
桑原はそう言うとヒヒヒと笑った。
「ワシの見込みどおりじゃわい」
それに緒方は答えず、画面に視線を戻した。

その二人が差し向かうテーブルの間には一万円札が二枚、重ねて置かれていた。
対局直前、桑原からの誘いでどちらが勝つか賭けをすることになったのだ。

緒方は、桑原は名人に張るだろうと思っていた。そうしたら自分は「当然名人が勝つでしょうが、ここは祝儀で進藤に賭けましょう」と言い、「アキラ君のライバルだしね」などと、アキラをからかうことも出来るだろうと考えた。
と言って、進藤ヒカルの実力は未知数だ。実のところ進藤が名人に勝ったらそれはそれで面白いと思っていたのだ。

そして財布を出したところ、桑原が先に「ワシはあの小僧に賭けるゾ」と、嬉しそうに一万円札をテーブルに置くの見て驚いた。
「・・・穴狙いですか?」
と、訊いてみたが、桑原は「勝算のない博打はせんよ」といって意味ありげに笑う。
それで緒方は、大人しく名人に張るより他になかった。
彼が名人に賭けるのは当然なので問題はないのだが、桑原の思惑通りになっていることに内心苛立った。




 対局はその後、黒が右辺に展開し、さらに上辺への攻めに転じた。
この時点で黒優勢。逆コミ5目半とはいえ、上出来と言えた。
とはいうものの、名人の様子に変化はない。
相変わらず落ち着いた様子で、淡々と、だが思慮深く自分の碁を打っていく。



(あれ?)
ヒカルは名人が白石を置いた途端、違和感を感じて碁盤を凝視した。
「・・・・・・・!」

(やばっ・・・。やっちゃった)

その直前、ヒカルが石を置いたところ、連絡している黒石の逆から白に出られてしまい、打つ手がなくなってしまったのだ。
最前の石は失着だったのだ。
(右辺の方に行けば良かったんだ。ミスった。勘違いしてた)
と、思った所で後の祭りである。形勢は一気に変わってしまった。

(・・・・どうする?)
ヒカルは扇子を握り締めた。手が汗ばんでいるのが気になって仕方がない。
(まだ、大丈夫。大丈夫だ。落ち着け!)

そう自分に言い聞かせた瞬間、ふいに佐為の顔が目に浮かんだ。花が咲いたような、いつもの明るい笑顔がそこにある。

(そ、そっか。佐為だ。佐為ならどう打つか考えよう。ええと・・・)

しかしヒカルが碁盤に集中しようとすると、頭の中の佐為は、どんどん大きくなって彼の注意を引いてくる。


(私に打たせてください)
実にあっけらかんと佐為が言う。
(・・・・)
(ヒカル)
おねだりする顔が、あまりにも思い出通りの笑顔なので、ヒカルは内心苦笑した。
(バカ言え。オマエに打たせて、ややこしい目に遭うのは、もうゴメンだ)
「・・・・・」
(って何だ。どこかで言ったセリフだな。まずい。何だか集中出来なくなってきた。くそっ、こんな時に何だよ。
あせってるのか、オレ)

ヒカルは頭を振ると、扇子を両手で握り直した。
(集中だ集中・・・佐為になったつもりで、アイツならここをどう打つか・・・)
そして、ヒカルは座り直すと一つ深呼吸をした。
記憶の中の佐為が笑った気がした。




 名人、塔矢行洋はふと、周囲の空気が変わったような気がして顔を上げた。
暖房が切れてしまったのだろうか。かなり冷えてきた。横を見ると記録係の女性が寒そうに肩をすぼめながら腕をさすっていた。
目の前の新初段は何も気がつかぬように顔を伏せて盤上を見つめ続けており、その表情は良く分からない。


彼の一人息子と同い年。まだ幼い輪郭。
しかし、
「碁界に子供はいない」という。
この世界に入ったからには、同じフィールドで戦っていく。そしていつかはタイトルを奪い合うライバルになっていくのだ。
(いや、なってもらいたいものだ)
と、行洋は思う。
彼が息子と打った一局がまぐれだとは思わないが、自分で打って素質を確かめるのも悪くない。
最近は自身の対局で多忙を極め、新初段との対局は断っていたのだが・・・。

その進藤ヒカルは、彼の息子がライバルだと語るに相応しい打ち手だと行洋は満足していた。子供らしい姿に似合わぬ、じっくりしていて我慢強く、そして品のある碁を打つ。
師匠が良かったのだろう。
誰か、と息子が訊かれていたが、進藤ヒカルは決して誰にも明かさないのだと言う・・・・・。



 白は押されていた。が、状況が変わる瞬間がやってきた。
先程の黒の失着である。
このまま黒に逃げ切られるかと思っていたが、これで分からなくなった。
(さあ、進藤君。どうする?)
行洋はヒカルの様子を伺う。
目の前の新初段は、ピクリとも体を動かさず、ひたすら盤を見つめたままだ。
この日初めての長考。
行洋は和服の両袖に手を入れて腕組みをし、相手の次の一手を待つ。




 そして、漸くヒカルが動きだした。
彼は静かに黒石を持つと、これまで手付かずだった右下に向かう。
序盤で打たれた白へツケる。そして、その後両者必死の攻防が始まった。
名人は流石の巧者ぶりを見せつけ、黒を追いまわす。

記者室では、ここでついに白優勢の声があがった。

ヒカルは、扇子を口元に当て、何度も盤面を確認し、右下隅へ。そこで黒は大きく生きることに成功し、かなり形勢を挽回した。だが、まだ白が優位なことには変わらない。

名人に容赦はない。
リードを確実なものにしようと、中央に強気の一手を放ってきた。


アキラはヒカルの次の手を息を詰めて見つめていた。
(さあ、進藤。どうする?)
ヒカルは、今度はさほど時間を置かず、攻めた名人の石をキリに行く。このキリが効果的に働き、その下の白地でもヒカルはうまくシノぐ。それで右辺で黒を生かすことに成功した。



(進藤がお父さんに勝つ・・・)
逆コミ有りだと承知している。それても複雑な思いでアキラは画面を見つめた。
偉大な父だとて、いつか世代交代の波に晒される。そのいつかの相手が進藤ヒカルだとしても何の不思議も
ない。
進藤なら良い、という思いと、先に父を超えるのは自分でなければならないという思いの両方がある。
(これから勝負だ、進藤!)
アキラはテーブルの下の拳を握り締めた。


「逆転か・・・」
緒方のつぶやきに桑原が高笑いで返す。
「小僧め、やりおるわい。のお緒方君」
「・・・・・」
老人のドヤ顔に猛烈な苛立ちを感じて、緒方は口をへの字に曲げた。
「先程の中央じゃな。あのハネは上手くなかった。大ゲイマで白地を増やしつつ黒を逃がせば負けはせんかったろうに、惜しかったの」
「・・・・・・」
桑原はテーブルの上の掛け金を自分の方に引き寄せた。
「この万券はワシがいただくことになりそうじゃな」
緒方は返事をせずに画面に視線を戻した。




 大勢が決したあとも対局は続く。が、ついに終局を迎える時が来た。

ここまで、と行洋は思った。そして「ありません」と宣言をした。
俄かに周りが騒めく。
すると顔を伏せていた、新初段の少年が漸く顔を上げた。
行洋はその瞬間、思わず「うっ」と、声を上げた。
ヒカルは、逆に驚いて、きょとんとした顔で行洋を見返す。

行洋の様子に「どうかしましたか」と周囲の者達が口々に声をかけてくる。
「・・・・・」
行洋は何かを確認するように、碁盤と目の前の少年を見比べ、首を一つ振った。
「いや、何でもない」
というと、腕組みをして、スタッフの向けるカメラに目線を移した。

勝ちを収めた新初段の進藤ヒカルは、一緒に写真に納まり、その後は記者達の質問に大人しく答えていった。
名人、塔矢行洋はそんなヒカルに時折気掛かりそうな目を向けた・・・。



一方、勝ったヒカルは、取材を受けながら、喜びというよりは脱力感に襲われていた。
体が酷く重く感じる。

(勝った)


(名人に勝ったよ、佐為)
ヒカルは小さく心の中で呟いた。


黒77


終局後、記者室では桑原の高笑いが響いた。
「やっぱりのう、流石はワシの見込んだだけのことはあるわい」
(すれ違っただけで、いつ見込むヒマがあったんだ?)
と、緒方が思ったのは言うまでもない。

対局終了により、記者室にいた者達は、幽玄の間で始まる検討を見学するために連れ立って部屋を出て行く。越智もそれに続いた。

それらを見届けると、桑原は「それじゃコレは遠慮なくいただくとするよ」と言い、テーブルの上の二万円を取ると札入れに入れた。
緒方はそれにチラと目をやると
「進藤の評価は保留だな」
と言って、立ち上がった。
「若獅子戦との差がありすぎる」

あれから半年以上経っている。それを考慮したとしても不自然という訳だ。
それに対してアキラは呟いた。
「・・・・でも、これは僕が知っている進藤の碁だ」
画面を通してでも分かる。北区の中学生大会で打った時と同じ感触だ。
若獅子戦の時に見られた未熟さは微塵にも感じられない。
そしてまた思うのだ。
碁会所で打ったあの、最強だが棋譜並べのような碁とも違う、と。


このアキラと緒方の会話自体、端から聞いていれば不思議な内容に違いない。桑原が面白そうに口を挟んできた。
「あの前髪だけ金髪の小僧は随分とオモシロイ奴のようじゃな」
それを緒方は黙殺した。「先に出てるよ」と、アキラに声をかけると部屋を出て行く。

記者室にはアキラと桑原本因坊だけが残された。
桑原はアキラに言う。
「皆が理由が分からずとも、アヤツの気配に引き寄せられるのよ。強い者程気になるはずじゃ」
アキラは桑原を見た。何故この老人はそのように思うのだろう。

「僕には彼が分かりません・・・」
「とは?」
桑原はアキラに向き直った。
アキラは、桑原に二年前、進藤ヒカルと打った時のことを語った。
まるで、父親の名人と打っているような力強さを感じたこと、にもかかわらず、それは進藤ヒカルが一方的に棋譜並べをしているかのように感じられたこと。その後、時にわざと弱いように装っているように思えることなどをだ。

「それはまた奇妙じゃな」
「彼には秘密があるようなんです。それが何なのか僕には分からない。でも彼はことあるごとに僕の前に現れて、意味ありげに振舞うんです」
「・・・・・」
「強いなら強いでいい。でも訳も分からず彼に振り回されているヒマは僕にはないんだ」

桑原は面白そうに笑った。
「なら、放っておけば良かろ」
「えっ」
「それがイヤなら、気にしなければいいだけじゃないかね」
「そ、それはそうですけど」

桑原は、昔の事故で不自由になった左目のまぶたを二三度撫でた。
「が、そんなことはムリじゃろうな」
「・・・・・」
「ことあるごとに君の前に現れるということは、その秘密とやらは君にも関係があるのかもしれんぞ」
「ええっ?!」
「・・・というのは、冗談としてもだ」
(冗談なんだ)
どうやら、からかわれているらしい。

「君の前に現れるのは、それがアヤツに必要なことだからじゃよ。それだけ君の存在が重要なんじゃろ」
「僕は彼に勝ったことがないんです。今打って負けるとは思いませんけど、そこまで自惚れる訳にいきません」

「・・・碁は一人では打てぬとな」
「え?・・・はい」
アキラには桑原本因坊が何を言いたいのか分からずに黙った。

桑原はふいに真面目な顔をした。そして
「精進しなさいよ」
と言い、部屋を出て行った。

廊下を歩きながら、桑原は独りごちた。
「塔矢アキラか。選ばれたのは彼か。それとも・・・いやいや、ワシにも機会はあるはずじゃ・・・」
そんな呟きを知る由もないアキラは、記者室で独り、途方に暮れた気分で立ちつくしていた。





 時は移り、三月。

「塔矢、今年の新初段の進藤のことだけど」
突然話しかけられて塔矢アキラは驚いて顔を上げた。
倉田厚六段の話はいつも唐突だ。
それでアキラはいつも戸惑ってしまう。何故、顔を合わせるなり進藤の話なんだろう。

この日、日本棋院では各賞の授与式が行われる。
塔矢アキラ二段は「勝率第一位賞」と「連勝賞」を受賞することになっており、会場にやってきたのだった。
ちなみに表彰の他、新入段の授与式も行われることになっており、会場内には当然、進藤ヒカルもいるはずだ。
会場になっている二階の大ホールは受賞棋士はもとより、関係者スタッフで賑わっていた。


「塔矢の大親友なんだってな」
(・・・・・何故そんなデマが?)

あまりの誤解に返す言葉もなく、唖然としてしまったアキラである。
倉田はそんなアキラにお構いなく、自分の話を続けた。
先日、地方の囲碁イベントに仕事で行った際、偶然今年の新初段の進藤ヒカルに会ったことなどを、だ。
「・・・打ったんですか? 進藤と」
「御器曽さんがね」
倉田は、名前だけ何処かで聞いたような棋士の名前を挙げた。
「その碁、見たんですか?」
倉田は「いいや」と首を振った。では何故進藤を気にかけるのか?
「進藤、勝ったんですよね?」
「うん。指導碁で負けが込んでた一般客の碁を引き継いで、ひっくり返した子供がいるって聞いてさあ、見せてもらいたかったんだけど、遅かった」
「・・・・・」
「面白いヤツだと思ってさ! 知ってるかい? アイツ秀策の署名鑑定士なんだぜ」

何時の間にそんなことになったのか。
「・・・・・・初耳です」
「大親友ならそれ位は知ってろよ。とにかく、アイツ面白いよ。じゃなっ!」

そして、倉田は話し掛けてきた時と同じく唐突に去っていった。
「進藤・・・また訳の分からないことをやっているな」
アキラはそう呟いたが、ふと、先日の桑原の言葉が頭を過ぎり、眉を顰めた。

『皆が理由が分からずとも、アヤツの気配に引き寄せられるのよ。強い者程気になるはずじゃ』

倉田もか。と思った。何処に行っても、誰かが進藤の話をしている気がする。
実績もない、ただの新初段に過ぎないはずなのに。





その後、倉田は挨拶しながら会場内を歩き回っていたが、そうこうしている内に件の進藤ヒカルを見つけた。

「あ、進藤だ」
広い会場内でも進藤ヒカルの前髪メッシュはよく目立つのだ。
「倉田さん」
返事を返したヒカルに倉田はびしっと指を突きつけ、「オレのサイン欲しいって言ってももう遅いからなっ」と言い放った。
「・・・・・・・・・いらないやいっ」
と言いつつ、ヒカルは首を傾げた。この辺りの件は一回目と同じだ。


倉田はそのまま立ち去り、ヒカルの横に立っていた門脇が訊いてきた。
「倉田六段じゃないか。進藤君知り合いなのかい?」
「・・・・・まあ」
ヒカルは大人しく答えた。

「やっぱり院生出身だと、プロの知り合いも多いんだな」
「倉田さんは、ホントに偶然、囲碁イベントで会ったんだよ」
「ふーん、お、見ろよ。塔矢アキラだ」
門脇の指差した方を見ると、アキラの姿があった。アキラもヒカルに気がついたようだ。

前回、プロ試験に合格して、同じプロになったと胸を張るヒカルを、完全に無視したアキラに、当時のヒカルは非常に憤ったものだが、今回はどうだろう。

果たして、アキラは真っ直ぐヒカルの方にやって来た。前回と違う展開にどぎまぎしていると、アキラは頓着せずに言った。
「大手合いの組み合わせ表」
「・・・・・」
「後で渡されると思うが、君の初戦の相手は僕になった」
隣で門脇がおやおやとばかりに片眉を上げた。

ヒカルはアキラの顔を見つめた。しばらく躊躇していたが、「ちょっと」と言い、門脇の傍を離れて壁際にアキラを連れて行くと、小声で言った。

「・・・オマエの親父・・・塔矢先生、最近、どう?」
「え?」
それは、アキラにとって思いもかけない言葉だったらしい。
「どうとは?」
訊かれて、ヒカルは非常に困ったように、頭を掻きかき、言った。
「えーっと、えーっと、元気?」

「・・・・・・・」
流石にアキラもあっけにとられてしまった。
大手合いの組み合わせ表で、ついにヒカルとプロとして対局することに、闘志を滾らせていたというのに、この反応は何だ?
(何でお父さんの話なんだ?打つのは僕だ。新初段シリーズはもう終わったんだぞ。それとも全部すっとばして、もうタイトル戦のことを考えているのか。馬鹿なんじゃないのか? いやいや、頼もしいと思うべきなのか?)

困惑しきったアキラの表情に更に困ったヒカルだが、言いにくそうに続けた。

「先生、忙しいんだろ。体調に気を使って誰か必ず付いてろよ」

「・・・・・気遣いありがとう」
という以外、何を言えというのか。

完全に気を殺がれたアキラは、ヒカルを見つめた。
ヒカルが新初段シリーズの後、父親と会ったという話は聞いていない。
何故そんなことを言い出したのか、アキラにはさっぱり分からなかった。


そして、その後ヒカルは何も言わず、気まずそうにアキラの傍を離れていった。