LIGIE.GRACE

OVER AGAIN 黒21〜白26



黒21



(ヒカル〜!起きて下さい、朝ですよ)
「何だよ佐為・・・あと五分・・・寝かせといてよ・・・」
(駄目ですよ、今日は待ちに待った大会ですよ!早く起きないと頭が動きませんよ!)



「わかってるよそんなの・・・」

(搭矢と打つんでしょう?)
「・・・・・・・」


(ヒカルが打つんでしょ?)
「・・・・・・」

(ヒカル、ほら起きて!!)


「佐為が打てよ・・・」

(私?)
「・・・・・・」



(私は・・・駄目ですよ)

「・・・なんで・・・?」



(だって私は)

「・・・・・・」








(私は、もういないから)







その時、目覚まし時計が鳴った。
















 私立海王中学校。
創立は明治期。中高一貫教育の元は男子校であったが、遣り手の理事長が二十年前に反対を押し切って共学校に変えてから、更に人気が上がったと言われている、全国トップクラスの偏差値と伝統を誇るエリート校である。
今日、東京都北区の「中学夏期囲碁大会」がここで行われることになっている。

海王中学校囲碁部顧問の尹は、会場となる学校の責任者として、自分の学校の出場者の世話だけでなく、他校の受付状況や備品の設置状況などを確認するために忙しく立ち働いていた。


尹は韓国人である。
海王中学・高校では英語の他に第二外国語が必修選択になっており、生徒はドイツ語、フランス語、中国語、韓国語の中から一科目を受講する決まりだ。
そして学校側はそれぞれの言語ごと日本語が出来るネイティブスピーカーを招いており、尹はその一人として五年前に来日してからこの学校で韓国語の講師を勤めていた。

尹が囲碁部の顧問を勤めているのは来日前、母国のアマチュア棋士として活躍していた実績が買われたからである。
もともと強豪校だった海王は更に強化され、当然のように今大会も優勝候補。本音を言えば区の大会よりも全国大会の都道府県予選の方に照準を合わせたいところだ。例年通りなら。



 ところが今年は常と事情が違った。

今年入学してきた搭矢アキラ。
搭矢行洋名人の一人息子で、近々プロになると噂される彼が、何故か囲碁部への入部を希望してきたのだ。

それは強い生徒が入部してくるのは大歓迎である。
しかし、間もなくプロとなり、部を去ると分かっている者を入れて、部の規律が乱れるのを他ならぬ生徒達が嫌った。
もちろん、やっかみもあるだろう。尹はその辺りを含めてもう一度考え直すようにアキラに話すつもりだった。


ところが、意外なところに伏兵が現れた。校長である。
何と校長は搭矢名人の恩師であるとともに大変な囲碁ファンであり、搭矢名人の息子が海王に入学すると、囲碁部に入ってもらうことを熱望したのである。
『アマチュアでいる間は在籍させてやってくれ』と、直々に声がかかったというわけだ。


搭矢アキラはその実力で他を圧倒し、今度の区大会に出場したいと尹と部長の岸本に願い出た。



居るだけならいい。だが、何故この大会に出場することにこだわる?
尹と岸本が問いただすと、彼は答えた。

―――― 葉瀬中学の進藤ヒカルと勝負がしたいのだ ――― と。


囲碁部は実力主義である。強ければ一年生でも出場させるのは当然のことだ。

そして、部員との軋轢の結果、搭矢アキラはこの大会で進藤との対局が叶えば退部すると宣言した。

煙たい部員が早々に去ってくれることに内心ほっとしても、他の大会の出場者の選定やら、大会向けの特別検討会などのカリキュラムの調整やら、彼のせいで先々の活動予定は一から立て直しである。
それも、この最強の一年生が他校の一生徒と打ちたいというためだけにだ。


搭矢アキラがどうしても対局したい相手。
進藤ヒカルとは何者だ?
だが、その名を知っている者は部内には居なかった。






「ええと、葉瀬中です。男子のみ参加で申し込んだのですが」
ちょうど受付に立ち寄った尹の耳に女性の声が飛び込んできた。

大会に出ない囲碁部員は出場者の接待を行うことになっている。
入り口で受付の応対をしていた女子部員が名簿の確認をしているのを彼が見守っていると、横に立っていた別の男子部員が耳打ちをしてきた。
「尹先生、葉瀬中ですよ」
尹は頷いた。


「失礼ですが、葉瀬中の顧問の先生でいらっしゃいますか?」
受付をしていた女性が顔を上げた。

「はい、そうですけど」
「私、海王中の顧問で尹と申します」
はあ、とその女性、大菅タマ子は気の抜けた声を出した。

「あ、ごめんなさい、葉瀬の顧問で大菅です」

「今回そちらは有望な生徒さんがいるというので、楽しみにしていたんですよ」
「は?」

大菅は変な顔をして、後ろを振り返った。葉瀬中の出場者がちんまり並んでいる。

「あんた達って強いの?」


顧問としてはあんまりな質問だが、昨年まで三人の部員も揃えられず、実績などゼロであるはずの我が校の生徒が、何故有望だなどと言われるのか、彼女にはさっぱり分からなかったのである。
質問に応えてヒカルはニコニコ首を縦に振り、筒井は愛想笑いをし、三谷はフンと鼻を鳴らした。

予想と異なる反応に少し面食らいながら、尹は更に尋ねた。
「進藤君というのは?」
「あ、オレです」
黒髪に金髪メッシュの小柄な生徒が手を上げた。

「搭矢が君と打つのを楽しみにしていたよ」
「・・・オレもです」

ヒカルは微笑んだ。
それもそのはずで、実は前回、佐為ではない、ヒカル自身の力を最初に認めてくれたのが、この海王中の顧問の先生だったのである。
ヒカルはその時のことを懐かしく思い出しながら尹の顔を見上げた。

尹は噂の生徒を確認して、もう一度大菅に挨拶をすると、満足したようにその場を立ち去っていった。





(搭矢アキラが進藤君と対局したがっているって本当だったんだ)

筒井は目を見張った。
ヒカルから聞いてはいたが、実のところ半信半疑だったのだ。
名人の跡取り息子として、もう何年も前から雑誌などに名前が出ていた伝説の搭矢アキラである。
いくら強いからといって「オレと搭矢はライバルなんだよ」という能天気なヒカルの言葉を鵜呑みには出来なかったのである。



 受付を済ませると、葉瀬中のメンバーは会場の教室へと向かった。荷物を置き、対局表と机を確認する。
「タマ子先生」は筒井に確認事項を伝えると、この学校の職員に友人がいるとかで教室を出て行った。
筒井は自分達の顧問を見送ると、そっと横目でヒカルを見た。



(進藤君ってマジですごいかも)

何せプロ志望である。
三谷がこの大会に出てくれることが決まると、葉瀬中囲碁部では猛特訓が始まった。
いつもは、にこにこ楽しそうに学校を飛び回っている進藤ヒカルが、放課後、理科室に来て碁盤を前にすると、突然人が変わる。

少なくとも部活の後輩の顔ではない。
筒井と三谷を前にして決まって二面打ち。どうかすると、あかりを入れて三面打ちで打っていて、終わると解説。詰碁の出題。

三谷は指導碁と聞くと逆上するので、ヒカルは「オマエはオレを負かして見ろよ」
と言って、結局は指導碁を打っていた。


「プロのレッスンを受けてる気分だ」
筒井がそう言うと
「プロじゃなくてもこの位はやるでしょ」
と、ヒカルは笑った。


ヒカルは嬉しかったのだ。
前回、三谷を裏切る形で囲碁部を去った後、部への出入り禁止になってしまったヒカルは院生になり、プロになり、強くなって恩返しがしたくてもそれが叶わなかったのである。

ヒカルにとって葉瀬中囲碁部はやめてもずっと関わっていたい故郷のようなものであった。

そして今。望み叶って彼はここにいる。

(大会に出るからにはオレはやるぜ)
と、筒井と三谷の棋力アップに全力を傾けることにしたのだ。
部員というより、ほとんど顧問の先生かコーチのノリである。

少し考えてみれば、これだって充分歴史を変えることだ。
ヒカルも始めのうちは迷っていたが、結局そこまで気にするのはやめていた。
どうせ全てを再現するなど無理なのだ。要は佐為と搭矢だ。そこだけ押さえておけばいい。

だから今日の問題は、ヒカルが搭矢アキラと今の棋力で戦うか、ヘボ打ちして負けるかの一点だけだ。
負けるにしても、他の二人が海王を負かすことが出来れば2−1で葉瀬の勝ちである。
他の二人が力を尽くせればヒカルとしては満足すべきであろう。





「ヒカル」
その時背後から彼を呼ぶ声がした。


白22


 「あ、お弁当が来たぞ」
ヒカルは声の主に向かって言った。

「何よそれ」
あかりはちょっとむくれて返事をした。

「お弁当だろ?今度こそ食うぜ」
「私はお弁当じゃないの。応援が来たって言ってよ」
「袋の中身、お弁当じゃねェの?」
と、ヒカルはあかりの手にした紙袋を指差した。
「・・・・・そうだけど。どうしてわかったの?」

ヒカルはニヤリと笑った。
「前に言ったろ?オレは何でも知ってるんだよ」



 その横で緊張したように座っていた筒井が、あかりに荷物置き場へ案内すると言って立ち上がった時、人影が彼の横をすり抜けた。

「・・・・・あれ?」
どこかで見たような。
海王の制服。まさか彼が。



「進藤」

「よう、大将」
ヒカルが手を上げた。


「・・・君だって大将だろう?」
ヒカルの目の前に搭矢アキラが立っていた。
「うん、まあね」
(残念ながらね)




「三谷、あれ、搭矢アキラだ」
筒井は三谷に小声で言ったが三谷は
「さあねえ、キョーミないぜ搭矢アキラなんて。それよりオレの相手が誰か知りたいね」

「海王のメンバー揃ってるの?」
ヒカルが聞いた時、海王の制服を着た一団が部屋に入ってきた。




「葉瀬がもう来てるって?」
「例の奴、どれよ」
と囁き声が聞こえてくる。

その一団の中から、気の強そうな女子生徒が進み出た。
「進藤って誰?」

「オレ」
と、ヒカルが返事をすると、その女子生徒は、彼をジロジロ眺めまわした。
「ふーん、アンタが、搭矢が追いかけてる相手って訳ね」
「・・・・・・」

「ウチは皆、楽しみにしてたのよ。アンタと搭矢の対局を。ねえ!」
と、その生徒は後ろを振り返った。


「日高、そういう言い方は彼に失礼だ」
そう言って長身の男子生徒が彼女をたしなめた。
「部長で副将の岸本だ。失礼したね、進藤君」
「・・・・・・」


「へえ、副将?じゃあ、二回戦でオレと当たるのアンタだな」
三谷はつまらなそうに横目で岸本を見た。
「アンタ、進藤しか見てないと、痛い目見ることになるぜ」

それを聞いて日高が三谷を嘲笑った。
「すっごーい。君、岸本君に勝つ気なの?」
「日高、やめないか」
岸本は日高を止めると、三谷に握手を求めた。
「よろしく、三谷君」



そこまで黙って両校の部員のやりとりを見ていたアキラだが、ヒカルに向かって意を決したように
「ちょっと聞きたいんだが」と声をかけた。

「何?」
「君、今年のプロ試験は受けるのか?」





「・・・・・・あ?」

何だってココでそーいう質問をしてくるんだよ、とヒカルは内心慌てた。

搭矢アキラの言葉に周囲はにわかに騒然となり、次に静寂につつまれた。この場にいるほぼ全員がヒカルとアキラの方を向いて耳をダンボ状態にしている。



「・・・何で?」
「君は以前僕に言った。自分はプロになるのだと」


「・・・・・言ったけど」
「・・・・・」
「言ったけど。・・・今年は受けないぜ」
「・・・そう」



アキラは何かを考えるように右手を顎にあてた。
何か嫌な予感がする。
「・・・・・何で、そんなことを聞く?」


「いや・・・君が受ける年に僕も受けようと思って」
「・・・・・・!!!」


ヒカルは驚いて立ち上がり、その拍子にガターンという大きな音を立てて椅子が倒れた。

「何で・・・・・何で!?」

アキラはヒカルの様子を見て小さく笑った。
「君がそんな風に慌てた顔をするのを初めて見たよ」
「からかうんじゃねェよ」

ヒカルがのろのろと倒れた椅子の方を見ると、不安そうな顔をしたあかりが椅子を直してくれていた。
彼はアキラの方に向き直った。

「どういうつもりだ?」
「プロ試験で君と対決したいと思うのがそんなに意外なのか?」

(プロになるなんて言うんじゃなかったぜ)
ヒカルには返す言葉がなかった。後悔先に立たずである。

万事休す。
(搭矢と一緒にプロ試験なんか受けたら、エライことになるぞ)



 試験は水物。今のヒカルとて絶対に受かるとは限らないが、受けた場合、少なくとも合格するために全力を尽くしてしまうに決まっている。その結果、合格者に変動が出るのは間違いない。
そうは言っても、ヒカルには今年プロ試験を受けられない事情がある。
ヒカルに合わせてアキラが受験を来年に持ち越しでもしたら、今年と来年の合格者は予測不可能だ。

困る。絶対にそれだけは困る。
どうする?





周囲が固唾を飲んでヒカルを見つめている。彼は、ようやく重い口を開いた。

「対決なら・・・今日、ここで出来るだろ?」
「・・・・・」
「オレがオマエに勝ったら、オマエは今年、プロ試験を受ける」
「・・・・・」
「そうじゃなかったら、・・・好きにすればいい」



黒23

アキラを含めた海王の面々がその場を去ると、また会場内に喧騒が戻った。


(すっげーな、今の会話)
(あのカッパ頭が塔矢アキラだろ?塔矢アキラと勝負になる一般人なんているんだ?)
(塔矢って実はたいしたことないんじゃない?)
(ばーか、そんな訳ないだろ)
(当たり前みたいにプロ試験の話をしてたよな)
(こうなると、葉瀬と一回戦で当たる岩名中の奴ら、気の毒だな)
(それはしょうがないよ)


周囲の囁きが、葉瀬のメンバーの耳に否応なしに入ってくる。
「おまえがヘンな話したせいで、何か言われてるぞ」
と、ヒカルは三谷に嫌味を言われたが、別にヒカルのせいではない。

「進藤君・・・」
塔矢アキラとの話の後、押し黙ったヒカルを気にして筒井が声をかける。

ヒカルは顔を上げると
「大丈夫だよ筒井さん。今は一回戦をクリアすることだけ考えよ?」
と言ってメンバーを安心させようと、笑って見せた。





 それからしばらくして、一回戦が始まり、葉瀬、海王とも、勝ち星をあげた。
ヒカルはあかりから自分の分の弁当をもらうと、一人で食べると言って、会場から出て行った。


海王中の校舎の二階から外に出ると渡り廊下になっていて、その先に地上へ向かって大きな階段がある。ヒカルは階段の中ほどに腰を下ろした。

まだ六月とはいうものの、今日はずいぶん蒸し暑い。湿った風が通り過ぎた拍子に、弁当を包んだハンカチが飛んでいきそうになるのを慌てて押さえた。
「おおっと」


弁当箱の蓋を開けると、鶏の竜田揚げやら卵焼きやらが目に入った。
「いただきます」
と呟くと、さっそく食べ始めた。

(あかりの奴、結構料理うまいな)

囲碁は頭脳労働なので、体を動かさないわりに腹が減る。
ヒカルは前回、院生になってから昼食は必ず取ることにしていた。
対局時に食事を取らない塔矢アキラとは対照的である。
(どうせ、アイツはまた昼メシ食ってないんだろうな)
と、ヒカルはアキラを思い浮かべた。
先程の会話を思い出す。


(オレって馬鹿みてえ。悩んで損した)

塔矢との対局でヘボ打ちするかどうか迷っていたのに、結局全力で戦うことになってしまったではないか。
いや、そもそも塔矢アキラを前にしてヘボ打ちなど自分に出来るのか、ヒカルには自信がなかったのだが。
だからこそ和谷や伊角や、研究会の後には冴木達に打って貰ったりしていたのだ。


こうなったからには、絶対に負けられない。
勝って、来年、塔矢を入段させるのだ。



三年前の塔矢。十二歳の塔矢。
そこからアイツはどんなに成長しただろう。
オレはそのアイツをずっとずっと追いかけてきたんだ。
そして今のオレがいる。


十二歳の塔矢アキラと対局することは今の自分がどれだけ成長してきたかを測ることでもあるのだ。


食べ終わったヒカルは弁当箱を横に置いて、両手を組んで膝に乗せた。
(やっと塔矢とマジで対局できるんだな)
ふつふつと腹の底から闘志が湧きあがってくる。

塔矢との対局は特別。
相手が三年前の塔矢だろうが、そんなことは関係ない。
ヒカルは空を見上げた。








 昼休みも終わりが近づき、昼食をすませた各校のメンバーは、それぞれのチーム内で作戦の確認をしたり、打ち合ったりして時間を過ごしていた。
葉瀬のメンバー、筒井と三谷もお互い盤を挟んで対局していた。

三谷は一回戦の前に自分が軽く扱われたことや、自分の対局後に偵察に行った海王の岸本の強さを見て、俄然燃えていた。
「葉瀬にいるのは進藤だけじゃないってこと教えてやるぜ」
それにつられて筒井も自分が熱くなっているのを感じた。
彼にとっても二年以上待ってやっと出場している大会だ。
(僕も三谷に負けてられないぞ)



そうこうしている内に、係の先生がやって来て声をかけた。
「対局している人はやめてください。二回戦を始めます」

ヒカルは、まだ来ていない。
「何やってんだ、あの馬鹿」
三谷がイライラして声を荒げる。
海王のメンバーと共にいる、塔矢アキラも気掛かりそうに、こちらを見ていた。

「私、探してくる」
あかりが二人のそばを離れた時、再び係の先生の声がかかる。
「ちょっと待ってください、まだ来ていないメンバーがいるんです」
と筒井が係の先生に向かって手を上げた時、教室の扉が開いた。



「進藤くん・・・」

金色の前髪メッシュ、白の開襟シャツ。制服の黒いズボン。そして・・・・・右手には扇子。
進藤ヒカルはゆっくりと教室に入ってきた。



筒井はヒカルに声をかけようとしたが、出来なかった。それ程ヒカルの様子は筒井が知っている彼とは違っていた。
いつもとオーラが違うというか。目の力が違うというか。
そのヒカルの目は真っ直ぐ海王のメンバーの方へ向けられていた。つまり、塔矢アキラの方へ。
アキラの方も、ヒカルを見つめている。


「おっせーよ、何してたんだよ」
と、三谷はヒカルを咎めたが、ヒカルは「ごめん」と小さく呟くように言っただけで、視線は海王の方から離さなかった。



係の先生から、座席を指定されて、葉瀬、海王双方のメンバーは着席した。
そして開始の合図。

ヒカルは碁笥の蓋を開けた。
佐為と一緒だった前回は三将戦だったが、今回は大将戦なのでヒカル達がニギる。
その結果によってそれぞれのメンバーの先手が決まるのだ。
ヒカルがアキラの方に目をやると彼の手は震えていた。
その手から碁笥の蓋が床に落ち、それを拾うのを確認してからヒカルは言った。
「ニギるぜ」
アキラは頷いた。

結果、ヒカルが黒、副将の三谷が白、三将の筒井が黒と決まった。



「お願いします」

そして・・・・・対局が始まった。


白24


 アキラの視線を痛いほどに感じる。
初手は既に決めてある。
ヒカルはゆっくりと、黒石を盤に置いた。

17の四、右上スミ小目。
前回佐為が打った場所だ。

アキラは、ヒカルが対局時計を押すと、間髪入れずに次の手を打って来た。
白4の四、星。
これも前回と同じ。

次いで黒15の四、一間ジマリ。白16の十五、右下スミ高目と続く。

見事に前回と同じである。



(大丈夫。歴史はそう、変わっちゃいない)
少なくとも、棋譜が変わる程には。
ヒカルはここまでの石の並びでそれを確認した。
だが、それもここまでだ。賭けに出るしかない。

前回、次に打ったのは佐為の指示で黒5の十七、目ハズシ。


ヒカルは黒石を持った右手を盤上に持っていったが、そこで動きを止めた。
(本当にいいのか?変えてしまって)

数秒そのまま逡巡して一度手を引っ込めた。
(大丈夫なのか?本当に?)

ヒカルはアキラを見た。
青ざめた顔で恐ろしい程真剣な目をしている。
(いい顔してるぜ)


無理だ。
こんな顔をした塔矢アキラを前にして、下手な碁を打つなんて。
迷うな。この対局には必ず勝つって決めたじゃないか。

ヒカルは改めて取り上げた黒石を、静かに6の三に打った。
対局時計を押して、アキラの様子を伺う。
アキラはしばらく考えていたが、やがて、白石を4の十七に打った。

ヒカルはそれを確認して目を閉じた。

(変わった・・・・)

前回、アキラが打った場所は、16の十七だったのだ。

さあ、もう後には退けなくなった。
ヒカルは居住まいを正し、大きく深呼吸をする。
左手の扇子を握り締めた。






 一方、アキラの方もヒカルの様子をずっと伺っていたが、以前の二度の対局との変わりように少なからず驚いていた。
碁に関して言えば、これまでのところ前回までと同様、定石が古い印象だ。
そういうことではなく、ヒカル自身の存在感、気迫がまるで違うのだ。

これまでは、いくらアキラが必死で追いすがっても、肩透かしを食らっているような、相手にされていないような、そのくせ、この上なく真面目に打っているのが良く分かるという、何だかよくわからない対局だったのだ。

今回は違う。

「進藤ヒカル」はそこに居る。
アキラの目の前で全力でこの一局に向き合っている。
真剣な表情で、一手一手を追い、先を読み、熟考し、吟味して打っている。それが分かる。
前回感じた、奇妙な感覚、「棋譜並べをしている」ような感じはしない。

(これまでと、何が違うんだ・・・?)

左手の扇子くらいしか思いつかない。
高段者の対局を見て、憧れから扇子を持ちたがる子供は多い。
しかし、進藤ヒカルはそういうタイプには見えなかったので意外と言えば意外ではある。


ふと気が付くと後ろに尹が立っていて自分とヒカルの対局を観戦している。
中学校の区の大会らしからぬレベルの高さに感嘆しているのが見て取れる。


 そういえば、今度の件では尹先生に迷惑をかけたな。とアキラは思う。


自分が海王中囲碁部の厄介者であるという自覚を塔矢アキラは持っていた。
この大会に臨むまでのやりとりを思い起こすと、頭痛がしそうな程のトラブルの連続だ。
彼は、かなり真面目に囲碁部に出席していたのだが、そんな中、部内での彼はずっと微妙な立場に置かれていたのだ。
周りを見回せば、「早晩プロになるくせに、何しに来た」と、皆の目が語っていた。
自分がいれば彼らが大会に出場するチャンスが減る。
部内の順位が落ちる。という訳だ。

だが、それが何だというのだ。

強い者が上に行く。そんなことは当たり前ではないか。
嫌なら、自分より強くなればいいのだ。
そんなことは囲碁に限らない。スポーツだろうが勉強だろうが、皆同じだ。
大体この学校にだって、皆、他の競争者を退けて入学してきたのではなかったか。

自分が強いのは名人の息子だからではないと思う。
名人に教えてもらってきた分の有利と幾らかの才能は認めるが、後は名人の息子として恥ずかしくない打ち手となるために、いずれは父と対峙する者となるために自分は血のにじむような努力をして、ここまで来たの
だ。
大会の出場者になりたければ、この塔矢アキラを退けるだけの力を見せろというのだ。

(出来なければ、僕と進藤ヒカルの対局を邪魔するな)



 囲碁部に入ってからというもの、影に日向に随分嫌がらせをされた。
幼稚な奴らだな、と思うが、煩わしいのは否めない。進藤ヒカルとの対局が控えていなければ、誰がこんなと
ころに居るものかと、本当は言いたくて仕方がなかった。
そのうち彼らのうち数人がボロを出して、部長と副部長の知るところとなり、間もなく退部していった。
やれやれと思ったが、部長に自分の存在は「百害あって一利なし」と言い切られてしまった。


その後、顧問の尹先生からこの大会の大将を命ぜられてからがまた大変だった。
一年生だって、強い者が大将になるのは当然だと思うのだが、この若さで年功序列を愛する人間のなんと多いことか。
尹先生を交えて部員達と何度か衝突を繰り返し、最終的にこの大会が終わったら、自分は部をやめるということで折り合いがついた。


それもこれも、進藤ヒカルが悪いのだ。
プロ志望で森下九段の研究会にまで通っていながら、何が楽しくて中学校の部活に入っているんだか。
中学校の部活動を馬鹿にしているわけではない。それに海王囲碁部は岸本部長など元院生もいて、他校よりかなり良い環境にあるはずなのだ。だが、やはり入部してみると、名人の研究会とはレベルも何もかけ離れていた。


芦原三段にも緒方九段にも、何故部活動なんだと散々聞かれた。
咎めるような目で見る名人の父に事情を説明した時には冷汗が出た。

全ては、今、自分の目の前にいる進藤ヒカルに打ち勝つために。
彼に勝って、自分はプロになるのだ。





アキラが視線を上げると、長考していた進藤ヒカルは石を取り上げ、ゆっくりと、そして力強く盤に打った。小気味よいパチリという音が響いた。



黒25


 強い。

三谷祐輝は、岸本と名乗った海王の部長の実力に内心舌を巻いていた。

一回戦で勝った後、どんな碁を打つのか見に行ってみたのである。

その時の感想は、
(やばい・・・)
の一言に尽きる。
きちんと師匠について習い憶えた正統派の碁打ち。
正しく、強い。


『海王の強さを知らないんだ、キミは』
と、いつか筒井は彼に言ったものだ。
我流の力碁じゃ海王には勝てない、と。

上等だ。海王に勝って自分の強さをアンタに教えてやるよ。
・・・と、つい数時間前まで思っていたのに。



(これは、マジで、まずいかも・・・)
盤上は三谷に厳しい展開になっていた。


いや待て、弱気が一番悪い。
落ち着け、とにかく慌てないことだ。
これまで、あの進藤と散々打ってきたんじゃないか。
ものすごく癪だが、確かに進藤の強さはケタはずれだ。
大丈夫、コイツは進藤ほど強くない。


・・・・・それが何だ?
意味ねェじゃん。



 そのうち、岸本は、「キミは攻めが急だな」だの「キミみたいなタイプはひいちゃいけない」だの、うるさく言い出した。助言のつもりらしい。イヤミな野郎だ。
こんなムカツク奴、コテンパンにやっつけてやりたい。
そして目に物見せてやりたい。


が、そう簡単には行きそうもなかった。

くそ。
くそ。
くそ。

何とかしなければ・・・・・。


三谷は親指の爪を噛んだ。ふと岸本の方を見ると、相手は隣の盤を覗き込んでいる。
「岸本、対局に集中しなさい」
と、傍に立っていた海王中の顧問の声がした。
岸本が「すみません」と小さい声で謝罪すると、尹はうなずいて、女子の対局場所の方に歩いて行った。



「オレは随分なめられているんだな」

三谷は言った。
横で筒井がちらっと視線を向けてきたのが分かる。

岸本は口元だけほころばせて、
「いやいや、正直キミがこんなに打てるとは思っていなかったよ」
と言って、右手で眼鏡の位置を直した。
「でも、自分の対局より隣の方が気になるみたいじゃないか」
三谷が更に言い募ると、岸本は「そりゃあね」と受けて隣を見たが、すぐに視線を三谷の方に戻した。

「すまなかった」
彼はそう言って、自分達の盤を見つめた。



進藤ヒカルと塔矢アキラの対局。
(どんな碁だよ)
三谷も隣を覗き込みたかったが、今は自分の対局だ。
だが、無理に集中しようとすればする程隣が気にかかってしまう。
三谷は逆転の一手が見つからないまま、ぼんやりと隣のチームメイトのことを考えていた。





 進藤ヒカル。
行きつけの碁会所に突然現れた変な奴。
MDプレイヤー欲しさに続けていたイカサマを席亭のジイさんにバレていたのに気が付かず、プロの仕置き屋に手もなくやられてしまった自分を、翌日しれっとした顔で、「出場料一万円」をエサに囲碁部にスカウトしてきた。
しかもその一万円は自分が巻き上げられた金で、もともと自分の金だ。・・・もっともイカサマで稼いだ金だけど。

プロの仕置き屋をあっさり退ける棋力と度胸。
普段はちゃらちゃらしているクセに碁石を握ると同い年とは思えない凄みをみせる。
勝負師とは、こういう雰囲気を持っているものなのかもしれない。と三谷はヒカルを見て思う。

この大会まで、進藤ヒカルとは随分打ってきた。
何とかコイツに勝つ手はないものかと自分なりに研究もしたが、全然歯が立たなかった。
「プロに指導碁打ってもらっているみたいだ」とは筒井の言だが、全くその通りだ。
『勉強させてもらいました』ってヤツだ。
くやしいから、絶対にそんなこと言わないけど。


進藤に会うまでオレは自分のこと強いと思っていたのに。
こういうの、何て言ったっけ。
『井の中の蛙』だ。
近所の碁会所で大人相手に勝てる位じゃ話にならない世界がある。
進藤ヒカルはその世界の住人で。

そういう奴の目にオレはどういう風に映っていたんだろう。
たいした実力もないのに、イカサマで小遣い稼ぎをするようなツマラナイ奴。そんなところか。

オレが弱いのは碁だけじゃないってことだ。



畜生。


みっともないぜオレは。
もう、オレはバカなイカサマなんてしない。それだけは絶対だ。

コイツがオレに声をかけたのは、たまたま打ち方を知っている人間が同じ中学にいたからだってことは、ただそれだけだということは分かっている。
自分はこの大会のための臨時部員なのだ。
受け取った一万円は出場料。その後囲碁部を続けるかどうかは自分で決めろと進藤は言った。


(どうするかな)

三谷は目の前の盤面を凝視しながら、そんなことを考えていた。


(碁を打つのは・・・・・楽しい)

三谷は、筒井の横顔を見、次にヒカルの横顔を見て、そして最後に自分達の対局時計を見た。

(もう、潮時か)
そう、思って目を閉じた。
しかし彼は再び目を開くと、もう一度逆転の一手がないか検討を始めた。
もう、彼に雑念はなかった。



白26


対局はヨセに入っていた。もう持ち時間は双方ともに残り僅か。そんな中でアキラが手を止めた時、ヒカルはふと我に返って、周囲を見回した。


筒井と三谷が机の横で盤を見つめている。いつの間にか対局が終わっていたらしい。
自分の方に集中していて全く気がつかなかった。
ヒカルの視線に気が付いた筒井がチラと三谷の方に目をやって、小さく首を横に振った。

(負けたのか)

三谷の表情は動かない。

申し訳ないけど、二人のことに気を廻す余裕なんて全然なかった。
何が、『イカサマやっても隣にいるオレの目は誤魔化せない』だ。
でも、心配なんかしていない。三谷はもうズルなんてしない。


アキラが自分の手番を打つ。


 それにしても。と、ヒカルは思う。
塔矢アキラ。

(やっぱりオマエは恐ろしい男だぜ)

ここに居るのは、共に戦った北斗杯の時の塔矢アキラではない。そこから遡ること三年の塔矢アキラなのだ。
それなのに。


強い。

強えよ。

冗談じゃねェよ。


もうちょっと余裕をもって勝てるかな、と実は思っていたオレはなんて馬鹿だったんだ。

ずうずうしいな。オレ。
ホントは。
本当のこの日の対局では、オレなんてヘボヘボで、『ふざけるな!』と怒鳴られて見下されたのに。



「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

「ありがとうございました」
「ありがとうございました」



終局。二人の挨拶と同時に周りから溜息がもれた。

(すげー)
(っていうか、途中から全然わかんなかったんですけど、オレ)と、ギャラリーのひそひそ声が聞こえてくる。葉瀬、海王の生徒だけでなく、他校の生徒、顧問達までも二人の机を囲んでいた。


対局は終わったが、塔矢アキラは動かず黙って盤を見つめている。
二目半、届かなかった・・・。



 この対局でヒカルは勝ったが、チームとしては一対二で葉瀬中は負けたことになる。
係の生徒が来て海王中の勝利を宣言し、手に持っていたボードの記録用紙に勝敗を書きこんでいくのを葉瀬中の面々は押し黙ったまま見つめていた。


ヒカルは扇子を右手に持ちかえて、少しだけ開き、また閉じた。
「じゃあ、そういう訳だから」
「・・・・・」
「約束、守ってくれよ」
「・・・・・」
「おまえは今年プロ試験を受ける」
「・・・・・」
「返事は?」


だがアキラは動かず、返事もなかった。
ヒカルがその様子に段々心配になってきて、もう一度声をかけようとした時、ふいにアキラは口を開いた。

「どうして進藤はそんなに僕に今年プロ試験を受けさせたいんだ?」

(コイツ、今更何言ってるんだ?)

「どうしてって、さっき約束しただろ!」
ヒカルは大きな声を出しかけて、あわてて口を押さえた。
改めて周りを見回すと、もう対局はみな終わったらしい。

「負けた僕にプロ試験を受けろと君は言う。だが僕は君に勝って、それからプロになりたいんだ」
「何言ってるの、オマエ」
「・・・・勝ってからプロになりたいと思うのは当然だろう?」
「自信がないのか?」
アキラは膝に置いた両手を握り締めた。
「・・・・・」

「大丈夫。オマエは受かるって」
「・・・・・・・・」


ヒカルはだんだんイラついてきた。
(何て往生際の悪いヤツなんだ。はいそーですかって言って、今年きっちり受かってくれないとオレが困るんだよ)


周りはどうなることかと固唾を飲んで二人の様子を伺っている。



「オマエが受かるまで、オレ、受けないから」
「・・・・だから、どうして?」

ヒカルは、どのみち今年はプロ試験を受けられない。
世の中全部がアキラのような家庭環境で生きているわけではないのだ。
それに。


「オレにはやることがあるんだ」
ヒカルはそう言って立ち上がった。

後ろで対局を見守っていた、葉瀬中のメンバーに声をかける。
「帰ろうか。タマ子先生は?」
「先生は控え室だよ」と、あかりが答えた。

顧問に対局終了を伝えようと席を離れかけたヒカルに、やはり観戦していたらしい尹が話しかけた。

「見事な対局だった」
「どうも・・・」
「君がプロになるのを、私も楽しみにしているよ」
「・・あ・・・はい・・・どうも・・・」
ヒカルはちょっと照れて頭を掻いた。」

すると先程つっかかってきた、海王の副部長の日高も、「一言いい?」と言ってきた。

「さっきは悪かったわね」
「・・・・・」
言葉とは裏腹に腕組みをして態度は尊大なままだ。彼女はこういうキャラらしい。
「あなた塔矢が追うだけのことはあるわ」

しかし、ヒカルはその言葉に首を振った。
「塔矢が追いかけているのはオレじゃない」

その言葉に当のアキラが反応した。顔を上げてヒカルを見る。
ヒカルはアキラを一瞥すると背を向け、そのまま振り返らずに教室を出て行った。

そして廊下を歩きながらそっと呟いた。



「塔矢が追いかけているのはオレじゃない。オレが塔矢を追いかけていたんだ、ずっと」


そう。塔矢アキラが追いかけるのは佐為でなければならないのだ。