明治時代の九谷焼(明治九谷)は、能美、金沢、江沼のそれぞれの地方で盛んに作られましたが、その成り立ちが異なったことから、その絵付や画風において多様な九谷焼を見せました。
九谷焼を取り囲む環境は、明治期になると様変わり、加賀藩と大聖寺藩の保護や援助を失ったので、石川県は、明治政府が殖産興業と輸出振興のため欧米での万国博覧会への参加や内国勧業博覧会の開催などを政府自ら行ったことに追従して、九谷焼を輸出品の一つとして奨励しました。このため、産業九谷として九谷焼の生産と販売が飛躍的に増えました。
江戸末期から現れ始めた、能美地方の佐野、寺井、小松の絵付工房において陶画工が大勢育成され、また他の地からも集まってきて、能美地方で制作された九谷焼(能美九谷)は陶器商人たちを通じて盛んに欧米に輸出されました。
一方、金沢地方では、明治に入ると、県都でもあったので、九谷焼の試験場なとの公的な支援施設ができ、それに連れ、絵付を専業とする工場や陶画工が現れ、資金を持った陶器商人も良質な素地を買ってきて優れた陶画工に絵付をさせたことから、金沢地方で制作された九谷焼(金沢九谷)は、次第に能美九谷を超えるまでになり、やがて輸出九谷の中心となりました。
そして、江沼地方では、小規模ながら、素地作りから絵付までを行う窯元での伝統的な生産体制を主体に、優れた陶画工によって制作された九谷焼(江沼九谷)が制作されました。
こうして、明治九谷は、いわゆる「ジャパン・クタニ」の名で世界に広がり、明治20年頃、日本の輸出陶磁器の中で第一位を占めるようになりました。輸出品の多くは大きな飾皿、香炉、ランプ台に転用された4尺前後(約1.5m)の大きな花生などの大作の装飾品で占められ、、型物の置物、コーヒーや紅茶のカップアンドソーサーのセットなどもたくさん輸出されました。
ところが、明治30年代になると、この貿易九谷の輸出は衰微したため、九谷焼は国内向けに器種や画風を変えて、再び産業九谷として盛んになり、大正期・昭和期に受け継がれていきました。
江戸末期に、能美地方では再興九谷の諸窯が興り、磁器の生産が加賀藩の殖産事業として、若杉窯や小野窯の生産は盛んとなりました。その基盤となったのは、斎田伊三郎(歿後に道開と呼ばれました)、九谷庄三のような絵付を専業とする大勢の陶画工であり、またこの地方の豊富な陶石をもとに製造された良質の素地を大量に作り、彼らに供給した窯元でした。
こうした分業が始まっていた能美地方では、明治期に、陶器商人が仲立ちして、欧米からの九谷焼への注文に応え、産業九谷は盛況となりました。ここがいわゆる「ジャパン・クタニ」の始まりでした。
ただ、”東洋風ならどんな絵柄でも”ということから”サクラとキクが同居”したような貿易ものの生産に追い立てられると、明治15年(1882)頃から、国内外の需要先から九谷焼の粗製ぶりが指摘され始め、次第に、能美の九谷焼は貿易品としての芸術的な制作品と、国内の一般向け生活雑器とに二分されて生産され続けました。
金沢地方で最後に磁器の生産が行われたのは、民山窯(文政5年1822~弘化元年1844)でしたので、明治期になって、新しい美術品を創り出すことに備えていたかのように、金沢で優れた明治九谷が生まれました。
金沢には加賀藩の御抱絵師やその流れを汲む絵心ある絵師が多く、ほかにも、京都と並んで美術工芸家が腕を振るうことのできる土地でしたので、優れた美術工芸家も多くいました。また元藩士には美術工芸の観賞眼の高い者が多かったことから、明治の初期から中期にかけて多くの絵師が輩出され、直接間接に金沢九谷の絵付に大きく関わりを持ちました。
そして、金沢が県都でしたので、伝統工芸産業の振興とそれに携わる人々の育成のために、勧業試験場、博物館、工業学校などが設立され、また納富介次郎、ドクトル・ワグネルなど秀れた磁器の指導者が招かれたことで、絵付の技術や顔料の研究が他の地方よりも早く進みました。
金沢で活躍した陶画工には、当初、(1)阿部碧海窯のように、陶器商人の注文品を絵付する絵付工場で専属画工として働く者、(2)鏑木商舗、松堪商店、谷口金陽堂などのような陶器商人の経営する絵付工場で専属画工として働く者、(3)清水美山堂のように、他からの注文に応じて自家で絵付をする者、この三つに分けられましたが、明治中頃から、(2)及び(3)の陶画工に集約されていきました。
金沢でも、幕末から明治・大正にかけて、豪商といわれた陶器商人が問屋として立ち回り、明治30年ころまで貿易用の美術品が多く作られたことから、金沢九谷は九谷焼の優品の代名詞のように呼ばれるまでになりました。
明治期において江沼地で作られた江沼九谷は、能美地方のように窯元、陶画工、陶器商人といった、完全な分業体制の下で大量生産されず、再興九谷の時代と同じように、小規模ながら、窯元を中心に優れた陶画工によって優品を生み出しました。
幕末の松山窯、九谷本窯で育成された陶工たちが窯元に成長して、白素地や染付を生産し、それらは大聖寺の陶画工に、また遠く福岡焼(富山県)や金沢の陶画工に供給されました。
この地方では、木崎窯、九谷本窯(永楽窯)が幕末から絵付窯の火を絶やさずに創業し続けていたので、明治12年(1879)に九谷陶器会社が設立され、そこに集まった、竹内吟秋、浅井一毫、須田与三郎(後の菁華)ら優れた陶画工は、その後も独自に活躍し、その後も中村秋塘らの優れた陶画工が腕を揮いました。
こうして、江沼地方には手作りの良品を生産する気風が拡がり、これらの陶画工の中から、明治末期から大正期にかけ、永寿窯、菁華窯、秋塘窯などの窯元が開窯されました。その規模は小さいものの、窯元を中心にした制作が江沼九谷の一つの特色となり、それが今日までに繋がりました。
陶器商人については、明治10年(1877)以降、井上陶源堂の開店、大沢十次郎のシカゴ支店の開店など、貿易九谷に本腰を入れる動きが見られました。貿易の最盛期を過ぎた明治21年(1888)以降、主として、井上陶源堂が陶画工の技能を活かし、古九谷風、八郎手風、伊万里風の良品を生産しました。