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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

 江沼九谷の歴史 主な項目
  1.江沼地方の窯元
  2.活躍した陶画工
  3.活躍した陶器商人

3.活躍した陶器商人

 江沼地方では、金沢、能美地方のように、窯元、商人、陶画工といった分業化が進んでいなかったため、産業九谷としては量産体制ができていなかったといわれます。
 それは、再興九谷の時代から、窯元が作品を制作し、それを卸し、あるいは小売りまでしたので、陶器商人が育たず、また藩政(古くから、窯元で製造する九谷焼を殖産興業の産物とした政策)の影響があったからといわれます。それでも、明治期になって、わずかな陶器商人が輸出や国内販売に乗り出しました。
 【主な陶器商人】
   大沢十次郎 井上商店 寺前商店

大沢十次郎

 大沢十次郎は、明治元年(1868)、大聖寺藩が江沼地方の物産を販売するため、京都、大阪に進出したとき、その商務にあたりました。
 明治9年(1876)、金沢の円中孫平と共に渡航して、フィラデルフィア万国博覧会に九谷焼などを出品し、売店を開いて販売を試みました。帰国後、横浜に店舗を設け、陶器、漆器、製茶などを直輸出し始め、また横浜の外国商館へ売込みました。その後も、明治11年(1878)、シカゴに支店を出し、直輸出を開始しました。
 しかしながら、輸出の停滞とともに、明治18年(1885)頃に廃業しました。

井上商店    明治10年(1877)開店、(廃業)?

 初代 井上勝作(天保13年(1842)生、明治42年(1909)歿)は、藩政の末期から江沼地方の産物である、山中の漆器を中心にこの地方の産物を商っていましたが、明治10年(1877)頃に陶磁器専門の商人となりました。
 販路は江沼地方を基盤に京阪方面にも多くの顧客、小売店を得て、明治38年(1905)頃には江沼地方随一の陶器商人としての基礎を築き上げました。
 金沢から名画工を招いて、北出窯、蘇川窯などの素地に絵付させて優品を自家生産しました。例えば、「井上製 雪山堂画」の刻印のある、輸出用の大きく見事な花生は、雪山堂こと、金沢の名工 赤丸雪山によるものです。
 三代 井上隆平(明治18年(1885)生、大正11年(1922)歿)は、若死にした二代 隆平を継いで、江沼随一の陶器商となった井上商店の全責任を負って、精力的に新商品を開発しました。
 隆平は、明治45年(1911)、巨資を投じ、九谷村の旧窯を復興しようとしました。九谷の原石を用い、山代の大蔵寿楽の高弟 宮崎作松ら熟練の陶工数名を招いて、福山虎松らをして古九谷風の絵付をさせ、古九谷に類似した逸品を制作しました。
 このほか、吉田屋窯をはじめ、九谷焼以外のものも広く倣古品を作り、盛んに販売しました。素地を北出窯、松田窯、寿楽窯、八幡の窯元などから仕入れ、専属の陶画工に絵付させて、関西を主として全国の陶器商、骨董店、貿易業者に卸売りしました。
 そして、伊万里、京焼を中心に国内各地の色絵の名品を研究して、その特色を取り入れた作品を専属の陶画工に給付をさせました。特に、伊万里風の作品は本歌の伊万里を凌ぎ、大聖寺伊万里の名声は欧米まで広がりました。
 石川県九谷焼美術館所蔵品「染錦に果牡丹赤玉文鉢」「染錦魚藻図甲鉢」
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

寺前商店    明治17年(1884)頃開店、現在は美陶園(昭和20年~)

 初代 寺前善吉(嘉永3年(1850)生、大正11年(1922)歿)は、栄谷の谷口磯次郎の次男で、北出窯の北出宇与門の兄に当たりました。山代の寺前家へ養子に入り、明治17(1885)頃、山代で開業しました。
 自家生産を行い、自宅に陶画工を置いて、素地は北出窯、松田窯、東野窯から仕入れ、伊万里写しを主体に生産し、関東、関西方面へ卸売りしました。
 二代 寺前為吉(明治10年(1877)生、昭和2年(1927)歿)は、商店名を「寺前晴美堂」と改め、山代の専光寺山門に店舗を構え、陶画工20人程おいて自家生産を続け、完成品の卸売りと小売りをしました。
   当時の主な陶画工
     坂口緑山・・・・赤絵細描、伊万里写
     谷 秋渓・・・・・赤絵細描
     近江松次郎・・・伊万里写、柿右衛門風
 石川県九谷焼美術館所蔵品「寺前晴美堂の作品」

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