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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

そのほかの窯 (江戸後期における)



正院焼  天保元年頃~天保14年頃(1830~1843)

 正院焼は、能登珠洲郡正院村(現、珠洲市正院町)の次兵衛(通称、弥蔵と称した)が始めたやきもので、弥蔵焼ともいわれます。文化・文政頃までは越中瀬戸焼系のものとものを生産していましたが、天保初年頃から九谷系の色絵に転じたと考えられています。

窯の盛衰
 正院焼の窯跡はいまだ確認されていなく、その開窯の年代については諸説があります。現在のところ、遺品や資料などから、九谷系の色絵を焼き始めたのは天保元年であろうと推定されています。
 正院焼の最盛期は天保6~7年(1835~1836)頃といわれ、商品となる製品を生産し、近辺ばかりでなく、金沢まで運搬し売りさばいることがわかっています。
 この頃、専門画家や画工がここを訪れています。羽咋の南画家 山崎雲山、京都の画家 文龍といった専門画家が来遊し、絵付を試み、また、三田勇次郎が天保7~同8年(1836~1837)頃に来て製陶の技術指導に当たりました。このほか、加賀から九谷焼の陶工が来ていたともいわれています。
 廃窯の時期についても諸説がありますが、資料から類推して、天保14年(1843)頃と考えられます。天保8年(1837)、次兵衛が亡くなった後を継いだ子の次兵衛が、一連の事件のため夜逃げ同様に村を去ったということから、天保8年以後は衰退の方向へと向かい、天保末年近くになると、窯の操業を維持できなくなり、少なくとも天保14年頃には廃窯に追い込まれたといわれます。

主な陶画工
次兵衛
 本職が染物業を営み、塗物、彫刻をも手がけたといわれ生来器用な人物であったと考えらます。
山崎雲山
 羽咋の生まれの南画家で、京に住み、王羲之の書を学び、池大雅に私淑し、頼山陽と交遊がありました。山水画、梅竹画を得意としました。江戸後期の晩年に能登各地を遊歴したようです。
長谷川文龍
 京の画家

作品の特色
 越中瀬戸系のものは遺品が少なく、生活雑器が多いといわれています。
 色絵の九谷系は、器面を絵の具で塗り潰すいわゆる塗埋手の技法による吉田屋風のものが多く遺されていて、正院焼といえば、この色絵のものがよく知られ、見るべきものがたくさんあります。
 素地は加賀方面から陶石か素地そのものを取り寄せたと考えられ、磁器系の素地も見られます。
 上絵の色調は、鉄分を含む赤黒い胎土の関係から、紫・紺青・緑・黄・赤の五彩の絵の具を使用していて、赤はやや柿色や焦茶色がかり、紫・黄も十分に発色していなく、全体としてどことなく色彩の調和に欠ける傾向がありあります。
 図案は鶴・孔雀・鳳風・龍・獅子・鯉・亀・牡丹・芭蕉・菊・柘相・枇杷・栗など吉祥慶寿の意味をもつものが多く、単独あるいは組み合わせて意匠化されています。また中国故事から取材した唐人物遊宴図・弾琴図・独釣図・観松図および楼閣山水図など当時流行した南画の画題をも意匠に取り入れています。
 (石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)

器種
 越中瀬戸系のものは、摺り鉢(鉄釉や灰釉を施す)・瓶・茶碗・火鉢などの日用雑器が中心です。
 九谷系のものは、大皿・中皿・鉢・徳利・食寵といった飲食器類が多く、ほかに水指・置物などがあります。

裏銘・花押
 越中瀬戸系のものは、いずれも無銘です。
 九谷系のものは、一重や二重角の中に「正院」「福」「九谷」などを黒呉須で書き、その上に絵の具をかけています。
 また、色絵山水文大鉢(能都町歴史民俗資料館所蔵)には「於正院滝吉」、色絵遊鯉図大鉢(個人蔵)に「天保丙申冬遊干能州正院陶舎平安文龍(花押)」など、絵付をした者がわかる作品があります。


木崎窯   天保2年(1831)~明治3年(1870)

窯の盛衰
 木崎窯は、天保2年(1831)、木崎卜什によって開窯されました。卜什は京都に出て絵画を学び、有田で陶画を学んだ後、帰郷して、当初は山代新村自宅内に築窯しました。その窯は、文久2年(1862)、春日山(山代温泉共同浴場背後の山)に移されました。
 慶応元年(1865)、和全が招かれ九谷本窯の指導にやって来た際、永楽和全によってこの窯で製陶がおこなわれました。
 しかしながら、この窯は、明治3年(1870)頃、廃窯されました。

主な陶工
木崎卜什
 卜什は、飯田屋八郎右衛門の赤絵金襴手に先立つ数年前の天保2年(1831)に赤絵金彩を始めました。
 京都との間を何度となく往復して技量を磨くうち、嘉永元年(1848)、法橋(中世以来、医師、仏師、絵師、蓮歌師などに僧衣位に準ずる称号)に叙せられて、卜什の名を賜りました。
 彦根藩に招かれ湖東焼の改良に尽くしたことでも知られています。
木崎万亀
 万亀は、卜什の長男で、幼少より父の教えを受けていました。嘉永4年(1851)、18歳でこの窯を継ぎました。
 万延元年(1860)、藩主 利鬯の銘により、京都の名工 永楽和全に師事し、腕を磨きました。
 翌年の文久元年(1861)、法橋に叙せられて、万亀の名を賜り、父と同様に仁和寺に出仕しました。
大蔵清七
 清七は、卜什や万亀から陶法を学び、永楽和全が京より来てこの窯で製陶を行っていたとき、門下となり、寿楽の号を和全から受けました。明治になって、清七は大蔵窯を築き、その製品は白素地や染付したものもあって、良品であると評判になりました。

作品の特色
 万亀も卜什によく似た八郎風の赤絵細密画をよく描きました。
 左をクリックしてください 石川県九谷焼美術館所蔵品「色絵金彩鳳凰文深鉢」ほか3点
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)

裏銘
 二重圏内に「木崎」の刻印がされ、また「大日本於九谷木崎造之」が赤書されたものがあります。


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