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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

九 谷 庄 三  文化13年-明治16年(1816-1883)



 九谷庄三は、文化13年(1816)、能美郡寺井村(現、能美市寺井町)の農業茶屋の子として生まれました。幼名は庄七といい、庄三と改めたのは嘉永年間(1848ー1854)頃で、九谷姓を名のるようになったのは明治に入ってからといわれます。
 庄三は、再興九谷の諸窯からの招きを受け、陶工として手腕を発揮しましたが、自ら窯元とならず、若くして着画を専業とする工房と錦窯を寺井村に開きました。その理由は、すでに肥前や瀬戸では素地作りと着画のそれぞれの専業化が大量の需要に対応できる生産方式として普及していることを知り、当時、加賀の他の地域に先駆けて能美で始まっていた分業化の時流に乗ったと考えられます。
 この方式は斉田伊三郎(道開)によっても行われ、隣の佐野村にも波及し、能美九谷の飛躍にとって大きな原動力となりました。
 明治期に入り、着画を専業とする庄三の工房はますます多くの陶工を抱える工房となり、素地を大量生産する本窯と協業して、九谷焼による殖産興業を推進させました。庄三は実業家としてもその役割を大いに果たし、産業工芸としての九谷焼の産業基盤を築くことに大きく貢献しました。
 工房の作品は「庄三風」の精緻な上絵付が施され、明治九谷の中核をなすものとなりました。それらは貿易商人によって大量に輸出され、明治期の我が国貿易品として海外で大変好まれ、あわせて国内でも販路を拡げました。

 九谷庄三の陶歴は、以下のとおりです。

若杉窯の時期

 庄七の陶工としての道を歩ませたのは寺井村の十村役 牧野家三代の孫七で、庄七の非凡な才能を早くから見抜いていたといわれます。
 庄三は、文政9年(1826)、11歳のとき、若杉窯に奉公に出されました。この窯は、文化8年(1811)に本多貞吉が春日山窯から移って始めた窯ですが、庄三がこの窯に来たとき貞吉はすでに歿しており(文政2年1819)、当時の主工は赤絵の細描きによって伊万里風の上絵付を得意とする三田勇次郎でした。
 庄三は、呉須摺り(顔料をよく摺って粒子をより均質に細かくする作業)から修業を始め、ついには上絵付の作業を担うこととなり、勇次郎から伊万里風の赤絵をよく学んだといわれます。
 ただ、この時期の庄三の作品は定かでないといわれてます。

小野窯の時期

 庄三は、天保3年(1832)、17歳のころ、小野村の薮六右衛門(若杉窯で本多貞吉の門下生でした)に乞われて小野窯に移りました。この窯は、文政2年(1819)、六右衛門が若杉窯から独立して興した窯で、天保になると経営も安定し、人材を求めていました。
 意気盛んな庄三は、若杉窯が加賀藩産物方の命を受けて作品を制作するだけの御用窯になっていくことに飽きていたといわれ、小野窯からの招きに応じました。小野窯の評判がよく、六右衛門自らが白瓷(じ)や青華瓷を作り、九谷焼の窯として初めて自家使用以外に良質の素地をも供給し、いろいろなタイプの陶工が活躍する、意気盛んな窯でした。
  庄三は、移ってから間もなく陶工として手腕を発揮し始め、一方で赤絵細描の技法を宮本屋宇右衛門の子 理八から学び、また、この窯に招かれていた粟生屋源右衛門から多大の影響を受けたといわれます。
 この窯の赤絵の作品には「庄七」の銘のあるものがあり、銘がなくても似た画風のものは庄三の手によるものといわれています。こうした小野窯の赤絵作品は「姫九谷」と呼ばれて高い評価を受けるのも、庄三の功績であるといわれています。
 (図録「九谷庄三 生誕200年展」を参照してください)

研究と各地の窯の指導の時期

 庄三が小野窯にいること3年、窯の経営は生産に追われるほどで順調でした。そうした中、庄三は、良質の陶土や陶石、呉須や顔料などの絵の具材料、焼成温度と発色の関係などを研究することに傾注していきました。
 天保5年(1834)、三田勇次郎が羽咋火打谷村深山谷で呉須を発見したとき、勇次郎に随行しており、合わせて、梨谷小山焼の陶技を指導しました。この呉須は黒色が鮮明で、美しく発色し、その後、能登呉須と呼ばれて九谷焼にとってなくてはならない材料となりました。
 天保9年(1838)、越中婦負郡丸山村の甚右衛門窯で製陶し、福光村で福光焼の製陶にも取り組みました。
 なお、文久3年(1863)、五国寺村の松谷に良質の陶石を発見したのも一連の庄三の探究心の現れでした。

工房での著画専業の時期

 庄三は、天保12年(1841)、26歳のとき、寺井村に戻り、着画を専業とする自分の工房と錦窯を開きました。この工房は、大勢の門人たちが、名人気質の師 庄三によっておおまかに指示されたレイアウト(主に割文様という構図)や色使いに従いながらも、自由奔放に気の向くままに取り込み、精魂込めて仕上げることのできる、そんな雰囲気で満ちていたといわれます。
 画風にあわせて外部から買い入れた素地に見事に絵付されたこの工房の製品は大変好評を博しました。そして、庄三は、江戸時代末期から明治初期にかけて輸入された洋絵の具をいち早く取り入れ、これまで表現できなかった中間色を用いて精緻な描画に賦彩をした「彩色金欄手」の技法を確立しました。この作風は「庄三風」と呼ばれ、当時の九谷焼の中で大きな比重を占め、「ジャパンクタニ」の中心的画風となりました。
 庄三は、200人とも300人ともいわれる上絵付の陶工たちと共に作品作りに精を出しました。この陶工の中からは、多くの名工が育ち、庄三を超える技能をもった絵付の画工も出てきました。武腰善平(初代)、徳久弥三次、中川二作、小酒磯右衛門、中野忠次、笠間弥一郎(後に金沢で陶画業を業としました。 秀石を号としました)などの陶工たちがそうです。

【九谷庄三の作品】
 石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 能美市有形文化財(工芸品)の「色絵見込鴨図小鉢」など数点
 (図録「九谷庄三 生誕200年展」を参照してください)
 (図録「鶏声コレクション」を参照してください)


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