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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

吸 坂 窯  貞享2年(1685)~天保15年頃(1844頃)断続的に続く

    

 吸坂窯は江沼郡吸坂村(現在の加賀市吸坂町 大聖寺の東北約2キロメートルの丘陵地)にあったといわれています。この窯に関しては不明なことが多く、今後、究明されることが必要とされています。
 この窯の興亡について、『秘要雑集』『大聖寺御算用場年代記』『茇憩紀聞』などから、まずは、貞享2年(1685)、久保次郎兵衛が吸坂村に築窯し製陶を始めましたが、窯がいつのまにか休止となったこと、元禄13年(1700)、製陶を再開するため燃料用の松木を購入したいと松奉行に願い出て許可されたものの、半年後に窯が閉じられたこと、そして、天保期に吸坂村の源太郎が瓦と陶器を焼きましたが、天保15年(1844)までには窯が閉じられたこと、などがわかります。窯跡は2基見つかったものの、耕地整理の行われたため破壊されています。
 吸坂焼と称されるやきものは、釉は鉄釉・柿釉・錆釉・瑠璃釉・灰釉などが使われ、茶道具類や徳利・皿・鉢などの飲食器類などが伝わっています。
 (石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)


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