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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

松屋 菊三郎  文政3年~明治32年(1820~1889)



 松屋菊三郎は、文政3年(1820)、小松一針村の医師山越賢了(祐庵)の次男として生まれました。菊三郎が13歳であったころの天保の初めは、若杉窯や小野窯が磁器の生産工場として操業しており、誰しもが陶工になる夢や意欲をもつのが当然のような時代でした。菊三郎も陶工を志し、そのころ吉田屋窯から小松に戻っていた粟生屋源右衛門のところで修業を始めました。源右衛門を師として選んだことが菊三郎が後に名工となる最も重要な要因であったといえます。
 菊三郎は、源右衛門のところで数年の修業を終えると、それから十数年にわたり各地の窯や画家などのところで修業を重ねました。27歳のとき、小松に戻ると、再び、源右衛門から指導を受けながら、蓮代寺窯の開窯、松山窯への技術的な指導などを行い、青手古九谷を完成させ、今に青手の様式を伝えることに大いに貢献しました。

 菊三郎の陶歴は、次の通りです。

修業の時期

 菊三郎は、各地で製陶や陶画を修業してきました。
                                                             
天保4年(1833) 山代(吉田屋窯)から小松に戻っていた源右衛門に師事しました。
天保6年(1835) 斉田伊三郎や古酒屋孫次に陶画を学びました。
天保8年(1837) 石川郡大野の中村屋辨吉の紹介で、摂津国三田の九鬼侯御庭焼に携わり、その色絵磁器に改良を加えました。
天保10年(1839) 京に出て初代高橋道八の子(三男)尾形周平から本格的に正統な陶画を、また山本修栄から楽焼を学びました。

蓮代寺窯の時期

 菊三郎は、弘化4年(1847)、27歳のとき、郷里に帰り、小松の呉服商 松屋佐兵衛の養子となり、八代目 松屋として呉服商を継ぐとともに、源右衛門が経営していた蓮代寺村(現小松市蓮代寺町)の楽陶の窯を譲り受けて、製陶に取り組み始めました。まず、その窯を磁器の窯に改造し、源右衛門の指導のもと、古九谷の再現を目指しました。これがいわゆる蓮代寺窯の始まりで、再興九谷の諸窯のなかでも、白磁に五彩で絵付する難しさを克服し、また青手古九谷風の優品を多く残しました。
 菊三郎は、蓮代寺窯の後半になって白い素地が作れるようになったとき、素地にかける釉薬と絵付の和絵の具との良い相性を見つけ出し、白い素地に五彩で絵付するための独自の技法を見つけ出しました。
 当時の技術では、古九谷を再現しようとしたとき、白いガラス質の素地に和絵の具が付着しにくく、そのために絵の具の剥落が起こり、あるいは、付着しても和絵の具に貫入ができてしまい、古九谷をうまく再現することができなかったのです。おそらく、伊万里のような素地は、釉薬が溶け過ぎて表面がガラスのように硬く光沢がありすぎるため、九谷焼のように和絵の具を盛り上げて塗る絵付には向いていないと考えられていたようです。
  菊三郎は、古九谷において白い素地に絵付された和絵の具が盛り上がって塗られてもよく付着していることに注目しました。その理由を探っているうち、九谷古窯の陶工によって創り出された釉薬で釉掛けされた素地の表面が鈍い光沢を放ち、細かな柚子肌に仕上がり、その素地にこれまた古窯の陶工によって創り出された和絵の具によって厚く盛り上げて絵付されていることに気づき、剥離や貫入などが起こらない原因が素地と和絵の具との微妙な相性にあることを見出して、源右衛門から指導を受けながら、釉薬と和絵の具の相性をよく研究し、それらの調合方法を完成させたといわれます。
 この菊三郎の技法は、青手古九谷に近い九谷焼を制作するための手法として確立され、その後の陶工たちによって改良が加えられ、九谷焼の中心的な青手の伝統様式として今に至っています。その伝統技法から、菊三郎と遠縁にあたる三代 徳田八十吉によって彩釉磁器(*)が生み出されることになりました。
彩釉磁器
本焼きした磁器素地に色釉を塗りつけ、焼き付けたものである。通常の色絵磁器は低火度の錦窯で焼き付けるが、彩釉磁器では高温度の本焼きで焼き付け、より高い透明感と深みを得ることができるといわれます。
 松山窯との係わりがなくなったあと(源右衛門が亡くなった文久3年以降)、加賀藩産物方の要請で小野窯の指導に当たりながら、さらに、蓮代寺窯での素地の焼成温度を高めることや素地への着画の研究に精を出し続けました。この窯で本格的に磁器を生産するための改良を加えましたが、慶応元年ころ、隣村の本江村にこの窯を移し、さらに八幡村に新しい窯を築きました。こうして、蓮代寺窯をこの時期に閉じたと考えられます。

松山窯の時期

 松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が吉田屋窯以来途絶えていた青九谷を再現するため、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に窯を築かせや窯です。その前年に小松の蓮代寺窯を立ち上げていた源右衛門と松屋菊三郎が招かれました。二人は小松の蓮代寺村と松山村を行き来し、ここでも青手古九谷の制作に精を出しました。
 この窯が藩の贈答品を制作するための窯でしたので、優品が求められました。それらは吉田屋窯の「青九谷」よりも青手古九谷に近い画風であり、山水画を写実的に表現することによって、より絵画的な優品でした。この三者を比べてみると、古九谷の山水画では北宋画に見られるような険しい岩山だけが際立った風景画となり、吉田屋窯では柔らかい筆致で描かれた南画風の山水画となっています。それに対して、菊三郎は、すでに絵画に見られ始めていた写実的な表現方法を松山窯の作品に取り入れ、山水の風景を遠景・中景・近景という実際の風景に近い写実的な方法で描きました。
 菊三郎は本格的に京の陶画を学んでいましたので、松山窯の山水画には絵としても優れたものが多いといわれています。明治期以降、この描写法は九谷焼全般に取り入れられ、九谷焼の評価を高めることとなりました。これもまた菊三郎の大きな功績であるといえます。菊三郎は松山窯に貢献しましたものの、源右衛門が文久3年(1863)に歿し、さらにこの窯が民営化されるに及んで、この窯に係わることを止めたと考えられます。

明治の時期

 菊三郎が見つけ出した青手古九谷に近い彩色の技法は、明治期那なって、その子の松本佐平に、さらに、佐平の義弟である初代 徳田八十吉に、さらに、代々の徳田八十吉に伝わりました。まさに、菊三郎は青手系九谷焼の系譜の始まりをなし、九谷焼の歴史にその名を残すこととなりました。
 菊三郎は、明治元年(1868)、松本姓を名乗るようになり、八幡村の窯(慶応元年のころ蓮代寺窯を閉じたあとに築いた窯)を子の佐平に譲って隠居しました。
 ただ、なおも作陶を続けました。曜栄(通称、佐兵衛と呼んだ)と号し、明風の五彩手を青手風に変えた作品がこの頃の作品といわれています。裏印は陽刻で「菊」と書かれています。


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