本多貞吉は、江戸時代、磁器生産の先進地である肥前の島原の生まれですが、青木木米と同じように加賀で”国焼”を興すという信念を持ち続けたといわれる人で、再興九谷の諸窯の発展のきっかけをつくり、九谷焼の陶工として加賀の地で歿しました。
貞吉は、若杉窯において色絵磁器の生産工場としての基盤作りに尽くし、その窯を再興九谷の草分け的な窯に仕上げました。一方で、吉田屋窯などの再興九谷の諸窯で主工を務めた粟生屋源右衛門、吉田屋窯の石方轆轤の主工を務めた本多清兵衛(養子)などの多くの陶工を育てました。”人に技術がついて行く”のとおり、貞吉の門下にいた多くの陶工たちによって、加賀の各地に製陶技術が普及し、加賀の製陶業の発展に大きく貢献することになりました。
そして、源右衛門の才能を見抜いて 再興九谷を指導する名工に育て上げた貞吉の功績は大きいといえます。源右衛門が14~5歳のころ、貞吉を頼って若杉窯へ来てから数年のうちに、高度な製陶技術全般を身に付け、古九谷の絵の具により近い絵の具を見つけ出すことができました。それは、本人の才能も有りましたが、貞吉の卓越した指導力によって磨かれたといえます。この古九谷の絵の具の再現はその後の九谷焼の絵付に歴史的な意味となりました。
本多貞吉の陶歴は、以下の通りです。
貞吉は磁器生産の先進地であった肥前の島原に生まれです。島原は良質な陶石の産地 天草に近く、17世紀中頃から染付を焼く島原藩の御庭焼もあったところです。貞吉は、若年のときから当地の陶業に係わり、京での製陶の志をもって故郷を出ました。途中、伊予大州、摂津三田など各地の窯に係わり、窯の構築や素地の原料などの知識と技術を修得してから京に上り、青木木米の粟田口の窯(寛政8年(1796)に開かれる)で働くようになりました。
このころの京は磁器の生産技術を完成させることを目指していた時期で、肥前まで赴くこともなく肥前系の技術を実見でき、ほかにも諸々の製陶技術が集まるところでした。貞吉は木米の右腕として活躍したと考えられます。だからこそ、文化4年(1807)、木米が加賀藩金沢からの招聘に応じるために、築窯や製陶の技術に明るい貞吉を助工として選んだと考えられます。
木米がその前年に金沢へ磁器の試作の旅に出るとき、「留守中の窯は、肥前島原から粟田口に修業にきていた本多貞吉に頼んだ。伊予大洲や摂州三田の窯でも働いたりで特定の窯を持たない窯ぐれで、木米より一歳年長である。木米とはひょんな縁で仕事場に出入りしていた身軽な、しかし技量確かな陶工であった。剽悍な(頑強な)風采で、いったん土を手にすれば、わき目も振らない職人気質な仕事ぶりに木米は仕事場の一角を与えていた。』(杉田博明著「京焼の名工・青木木米の生涯」)とあるように、木米は貞吉の人柄と技量を信頼して工房の仕事を任せていたことがわかります。
貞吉は、文化4年(1807)に木米とともに金沢に来て、助工として春日山窯の製陶に携わりました。木米の工房で見たであろう、朱笠亭の「陶説」(*1)を見て製陶への志を一層強くしていたと考えられ、木米が春日山窯を辞して京に戻ったあとも、春日山窯の陶工として残り、製陶に励み続けました。
そのことを裏付けるのが、春日山窯の作品には交址写・絵高麗写・青磁・染付などがあるなか、木米風の呉須赤絵を写したものが多くあることです。これらの上絵付は貞吉が木米に代わって他の陶工たちを指導したものと考えられます。そして、若杉窯に移ってからも、木米の京焼系の製陶技術を習得していたと見られ、春日山窯を技術的な面で支えたといわれ、貞吉にはそれだけの技量が備わっていたと考えられます。
(*1)朱笠亭著「陶説」
古今東西を問わず陶磁器についての初めての専門書。全6巻で、巻1は清初から乾隆時代にいたる景徳鎮窯の歴史と焼成法,巻2は古窯,巻3は明代の景徳鎮窯の歴史と焼成法,巻4は古代~六朝時代の古陶磁評論,巻5は唐~元代の古陶磁評論,巻6は明代の陶磁評論となっている。
貞吉が文化8年(1811)に若杉窯に招かれるきっかけになったのは、貞吉が各地で陶石を扱ってきた経験を活かして、花坂村六兵衛山(通称モロミ山)に良質な陶石を発見したことでした。この花坂陶石の発見は、若杉窯だけでなく、その後の九谷焼の生産基盤を確かなものにする礎を築いたといわれ、九谷焼にとって大きな貢献となりました。
そして、貞吉を頼って弟子入りした源右衛門を、修業の段階で、窯焚きや釉懸けから製磁技術全般にわたって指導しました。源右衛門が若くして若杉窯の上絵釉薬作りを担当することにもなったのも、何事にも習熟するのが早かった源右衛門の才能を見抜いて、上絵付も担当させたと考えられます。こうして、源右衛門は若杉窯にとってなくてならぬ存在になり、若杉窯の生産も大いに盛んになり、加賀の磁器生産の中心的存在になっていきました。
さらに、貞吉は、青手古九谷の再興を念頭にした絵の具の研究を行うように源右衛門を導き、源右衛門もそれに応えたと考えられます。このときの研究の成果が吉田屋窯の「青九谷」に現れ、さらに源右衛門の開発した技法が松屋菊三郎によって引き継がれ、青手の様式が完成するに至り、九谷焼の中心的様式として継承されることになったといえます。
貞吉から指導を受けた門下生には、源右衛門のほか、小野窯を開いた薮六右衛門、佐野窯を開いた斉田伊三郎などがいました。彼らがよく製陶を行ったことで、若杉窯が生産工場の場となり、発展していくことになったのです。
若杉窯の作品には、裏銘に「貞橘」と記した作品があることから、貞吉が染付を得意としたことがわかっておりますが、ほかに青磁・瑠璃・赤絵南京・古九谷風な作品の制作にも係わったともいわれます。
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