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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

粟生屋 源右衛門  寛政9年~文久3年(1797~1863)



 粟生屋源右衛門は、若杉窯において本多貞吉のもと製陶の技能を習得することに励み、若くして主工を務めるようになりましたが、貞吉の教えを受けながら、後に「青九谷」と呼ばれる九谷焼の様式を研究し続けました。貞吉の歿後も、古九谷の再興を目指し続け、父から受け継いだ楽焼の陶技、若杉窯で貞吉から指導を受けた色釉薬の調合技術や錦窯の焼成技術を磨き、遂に、古九谷の再興において大いに貢献をした陶工の一人となりました。
 そして、源右衛門の門下生の中から、九谷庄三、松屋菊三郎、北市屋平吉(金沢藩主前田家のお抱えの九谷焼絵師 号 北玉堂)、板屋甚三郎(小野窯の陶工となる)などの多くの名工が輩出され、彼らもまた九谷焼の発展に貢献しました。

 粟生屋源右衛門の陶歴は、以下のとおりです。

若杉窯の時期

 源右衛門は、小松に生まれ、父 源兵衛が楽焼を生業としていたので、幼いときから父の傍らで楽焼作りを見て、自然に製陶を習得しました。しかし、文化6年(1809)に父源兵衛が歿したため、それから約2年後、本多貞吉が若杉窯に来たのを知り、貞吉を頼ってその門下に入りました。
 源右衛門は、もともと器用な人であったようですが、頭取の貞吉から、窯焚きや釉懸けから修業を始め、出身地 肥前の技法や青木木米ゆずりの京焼系の製陶技術を習得し製陶の技術全般を身に付けました。そして、父から楽焼の釉薬を習っていたこともあり、貞吉から上絵付の絵の具作りを任され、またいろいろな様式の上絵付も担うようになりました。こうして、源右衛門は若くして若杉窯にはなくてならぬ存在となったと考えられます。
 このことを示すのが、若杉窯が八幡村に移るまでの若杉窯の作品です。芙蓉手の染付に始まり、祥瑞風のもの、赤絵細描の鉢や瓶などのほか、青手古九谷風の縁・黄・紫・紺青の四彩を用いた塗埋手の一点ものなど、いろいろな作風の色絵の作品が含まれることからわかります。
 一方で、若杉窯は、文政10年(1813)に伊万里風の意匠を得意とする三田(赤絵)勇次郎がこの窯にやって来ると、次第にこの窯の作風は変わって行きました。そして、文化13年(1816)、若杉窯の経営が加賀藩郡奉行の直轄に移ると(若杉製陶所と改称される)、窯では藩の殖産興業政策に基づき量産化が進み、そのうえ、文政2年(1819)、窯の頭取である貞吉が歿し、勇次郎が主工となりました。
 このように、若杉窯が変容する中で、源右衛門は、もはや若杉窯にはそうした研究を続ける条件がなくなったと考え、青手古九谷を踏襲する様式を再現するために、文政3年(1820)、若杉製陶所を辞しました。この前後に、貞吉の養子 本多清兵衛や貞吉の他の門人らもこの窯から離れていきました。

小松での楽焼作陶の時期

 源右衛門は、文政3年(1820)、小松に戻り楽焼の窯を開きました。そこには庄三、甚三郎らがやって来て、白磁の製法の教えを乞いましたが、源右衛門はあえて陶器の着画法を教えたといわれます。それは、なおも、青手古九谷の再現のために上絵付の研究を続けていた源右衛門の製陶への姿勢の現れである、と考えられています。ですから、このころ、清兵衛とともに、かなり離れた大聖寺藩の九谷村まで出向いて素地や顔料となる岩石を探し歩いていたのも、青手古九谷の再現を目指した活動でした。
 そうしたころ、源右衛門らは、文政6年(1823)、古九谷を再興することに情熱を持ち続けていた大聖寺の豪商 豊田伝右衛門(四代目)と出会いました。伝右衛門から、すぐにも九谷村での開窯に参加してもらうように依頼されましたので、開窯の準備に入り、翌年、開窯できるところまで漕ぎ着けることができました。
 しかし、若杉製陶所が加賀藩から支援を受けている窯で、その窯の主工であった源右衛門が大聖寺藩内の吉田屋窯へ無断で参加したことに関し若杉製陶所の管理者の了解を受けていなかったため、小松奉行所からお咎めがあり、源右衛門を至急「若杉陶器所」へ呼び戻すようにとの達書が発せられました。こうしたことからも、当時すでに、28歳の源右衛門がかなりの名工として扱われていたことがわかります。

吉田屋窯の時期

 源右衛門は、文政7年(1824)、吉田屋窯への参加について許しを受けたので、晴れて吉田屋窯の錦窯の主工として迎えられ、吉田屋窯が開かれる運びとなりました。吉田屋窯における源右衛門の月給が三匁であるのに対し、窯の監督者の月給が二匁であったことからも、源右衛門が指導的立場の陶工であったことがわかります。こうして、源右衛門、清兵衛ら多くの陶工によって、吉田屋窯は、源右衛門が長年研究してきた古九谷青手に比肩できるほどの「青九谷」の数々を今に残すことになりました。
 九谷焼の陶芸家 北出不二雄(故人)は著書「日本のやきもの 九谷」の中で、源右衛門が九谷焼再興のシンボルとして研究し続けた青手古九谷とはまた趣の異なる吉田屋窯の青手を創り出したと、次のように述べています。
 「吉田屋窯の絵の具は古九谷よりも一層落ち着いた渋さを持っており、絵具相互が彩度や明るさの点でよく調和していて、」「このような素材的な特質のために、吉田屋窯の製品はどれをとっても美しい。」「青黒んだ素地に、落ち着いた絵の具を厚く盛り上げた吉田屋窯は、そのような素地故に、絵付が素地から離れることはない。」
 絵の具の調合は熟練の画工の役割でしたから、吉田屋窯の作品に見られる色合いも、源右衛門が清兵衛らの協力のもと、素地と絵の具との調和を繰り替えし試しながら、苦労して見つけ出されたものと考えられます。

他の再興九谷の諸窯での時期

 天保2年(1831)、吉田屋窯が閉じてから、源右衛門は、能美郡の小野窯や蓮代寺窯、さらに江沼郡の松山窯などで客分の主工として、彼の持てる技術と実績を活かしながら、それらの窯の発展に精力を注ぎました。
 特に、源右衛門は、大聖寺藩が嘉永元年(1848)に再び青手古九谷を復興するため、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に開いた松山窯へ松屋菊三郎とともに招碑されました。この窯で、源右衛門らは大聖寺前田家が贈答用品などに用いるための「青九谷」系の作品を制作しました。これらの作品は青手古九谷の完成品に近いといれ、その上、菊三郎の手が入っていることから、その作風は古九谷より意匠化され、写実的な絵画を見るような趣を見せています。源右衛門は松山窯と蓮代寺窯の間を通っていたころの文久3年(1863)に歿しました。

晩年の時期

 以上のように、源右衛門は、青手古九谷の再現に尽くしましたが、父ゆずりの楽陶作りにも晩年まで携わり、多くの優品を残しました。厳密に言えば、楽陶は九谷焼ではないのですが、その作品は「粟生屋焼」と呼ばれ、称賛されるほど趣のある優品が数多くあります。
 「粟生屋焼」は、素焼を強く焼きしめた上に白の絵の具で化粧掛けし、底に絵呉須で模様を骨措きし、青、鼠紫、黄、褐色の彩釉を施して焼成したものです。木工品のような独特の趣のあるのが特色です。これらの作品は晩年10年間余りのものだといわれています。
 器種は硯箱・文庫・箪笥・炉縁・燭台・卓・花台などがあります。数は少ないものの、自動噴水器や水時計のような珍しい作品も作っています。
 号は父同様「東郊」で、書銘や小判型印あるいは円印が捺されているものもありますが、数多くの作品は無銘です。

【粟生屋源右衛門の作品】
 (石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
 小松市文化財収蔵品検索システムから検索してください

     
     
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