鏑木商舗 文政5年(1822)~現在
鏑木商舗は、文政5年(1822)、金沢で九谷焼を取り扱う最初の店舗として開業しました。当時の状況は、加賀藩の意向で九谷焼の再興、普及が推進され、若杉窯(文化8年1811開窯)や小野窯(文政2年1819開窯)が操業しており、商舗が開業した年には民山窯が開かれ、そして2年後には大聖寺の豪商 豊田伝右衛門によって吉田屋窯が開かれるなど、再興九谷の諸窯が盛況でした。
初代 鏑木次助は、商舗の開業を成し遂げ、すぐに継いだ、
二代 太兵衛は、商舗の経営を軌道にのせることに努め、自家工房に陶画工を集めて絵付した完成品のみならず、民山窯の一部の商品も販売したといわれます。
三代 太兵衛は、先代の事業を受け継ぎ、順調に商舗を経営しました。安政5年(1858)には加賀藩からの諭示(通達)に従い、九谷焼の工場を建て、自家工場で完成品を作り、不足の商品については能美の窯元から仕入れするほどになりました。小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、安政6年(1859)2月に、鏑木商舗が小皿、向付、徳利と猪口、湯呑と急須、菓子鉢、摺り鉢などの鉢類、片口などの日常生活用品を購入したと記されています。
四代 太兵衛は、万延元年(1860)、商舗を受け継ぎました。慶応3年(1867)、九谷焼の輸出の機運が現れていたので、金沢のほかの陶器商人と連携し、神戸から九谷焼の輸出を始めました。輸出品は、内海吉造を頭取にして民山窯で養成された陶画工を自家の絵付工場に招いて、若杉窯や小野窯から買い入れた素地に絵付をしたものでした。
この輸出は明治に入ってから軌道に乗り、また国内向けにも拡大しました。素地窯、絵付工場には良工が集まり、質量共に整った生産体制が出来上がり、需要に応えるため、金沢、大聖寺、小松、寺井など県下全域から良品を仕入れ、また阿部碧海、内海吉造、九谷庄三、松本佐平などの名工による優品の制作を依頼しました。
商舗の方針として、商品の裏印には必ず「鏑木」の名を入れ、良い商品を売る商舗の商標となるように努めました。「鏑木製」、「鏑木造」、「鏑木謹製」、「太平造」なども使用しましたが、制作を依頼した名工の作品であったことと合わせて、鏑木の優れた商品は広く販売されました。
五代 太兵衛は、明治9年(1876)、17歳で家業を継ぎ、先代と同じ方法で商品の生産や仕入れ、更に商圏を拡大させました。当時、仕入を行った窯元あるいは陶画工は、金沢の初代 諏訪蘇山、石野竜山、前川卯山、大桑右霞、若村泰山、丸岡儀八郎、三好政詮、小松の初代 徳田八十吉、江沼の初代 須田菁華らでした。その数は当時の陶画工の6~7割に及んだといわれます。ですから、商舗は国内外の展覧会に宣伝を兼ねて度々出品したので、多くの賞を受けました。
六代 太兵衛は、引き続き商圏の拡大に努力したところ、金沢、東京、大阪、神戸、さらにヨーロッパなどの多くの得意先を持つようになり、商舗を卸と小売りをする金択一の九谷焼の店舗に仕上げました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
松勘商店 慶応元年(1865)~昭和20年(1945)
松勘商店は、慶応元年(1865)、初代 松原勘四郎によって金沢で開業されました。小野山陶器所(小野窯)の記録によれば、それ以前の万延元年(1860)、兄 勘兵衛の名で素地を買い入れたと記されていますが、これは勘四郎の代わりに取引していただけで、すでに陶器商を営んでいたといわれます。
勘四郎は、専ら九谷焼の海外貿易に力を注ぎ、明治8年(1875)、横浜に支店を設けてから、松勘商店の業績は上がりました。松勘商店の事業は拡張し、勘四郎を明治期の金沢豪商の一人にさせたといわれます。
明治28年(1895)以降、世界の経済事情の変化もあって、九谷焼の貿易が不振になったので、国内へ販路を変えていきました。
商品は、素地を購入してきて、自家で陶画工を置いて上絵付させ、それを完成品として買い入れる方法がとれました。素地は、主として寺井村湯谷の中口長次窯、国府村の小坂次郎松窯から仕入れ、絵付は、自邸内の給付工場で主任1人に10人余りの陶画工が行いました。高級品などの絵付は、若村正雄、竹田有恒外ら3人程の画工に依頼したといわれます。
裏銘は「松原製」「九谷松原製」「加国松原製」などでした。
昭和に入ってから、小松衛生陶器も取り扱いましたが、戦後、九谷焼卸商を廃業しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
円中組(円中孫平) 慶応3年(1857)~明治43年(1910)
円中組は、慶応3年(1867)、円中孫平が大阪に益亀組という貿易商社を創立したのが始まりで、孫平が亡くなるまで事業が続けられました。
孫平は、天保元年(1830)、越中砺波の農業 石崎八郎兵衛の三男として生まれ、弘化5年(1848)、18才のとき、金沢の姻戚である中野屋孫兵衛の養子となりました。菅笠商を始め、この商いがうまく行ったことから、加賀藩から「円中(まるなか)」の名字を名乗ることが許されました。
円中組は、明治に入ると、製糸、銅器、九谷焼の貿易に乗り出しました。明治2年(1869)に開かれた阿部碧海窯の製品(コーヒーセット、茶器、食皿、菓子皿など)を取扱い、長崎と神戸の支店から輸出して製品の販売に協力しました。
明治6年(1873)、ウィーン万国博覧会に九谷焼を出品し好評を得ました。この博覧会は日本政府が初めて公式参加したもので、合わせて西洋の新技術を習得するため各部野の技術伝習生77人が派遣されました。その中に、孫平の婿養子 円中文助、陶磁器を学ぶ納富介次郎(有田)、後に「円中組」にも関わることになる、製陶法を学ぶ丹山陸郎(京都)ら加わっていました。
万国博覧会終了後、伝習生らはワグネルから様々な指導を受け、各地の窯場で調査研究し、そして石膏型による成型法、水金(みずきん 陶磁器表面の金彩色に用いる上絵付け絵の具の一。金の塩化物を硫黄・テレビン油などとまぜた濃厚液)などの顔料や釉薬の技術(明治初期は外国商社から洋絵の具を輸入して使用していました)を身につけて帰国しました。その後、これらが有田、瀬戸、京都、石川県の窯場に急速に広まり、ヨーロッパ式の窯も築かれました。
明治9年(1876)、孫平自身がフィラデルフィア万国博覧会に出向いて、陶磁器、銅器、漆器、生絲、製茶などの販路拡張に努め、このとき、孫平は納富介次郎と出会いました。孫平がその後九谷焼の輸出に目を向け、“ジャパンクタニ”を世界へ発信することに尽力することになったのは、介次郎とのこのときの出会いがあったからといわれます。
納富介次郎自身は、当時の日本の美術工業(工芸)品が洗練されず、独自性に乏しく、デザイン力が不足していることに気付いていました。職人へのデザインの提供、学校の創設などに関わっていました。
納富は、南画を学び絵も描くなど美術工業(工芸)にも造詣が深く、お抱え教師として来日していたドイツ人のワグネルの影響もあり、精巧な美術工業(工芸)品を造るのが得意な日本人の技術力に目を付け、富国の道として“美術工業(工芸)品”の貿易を目指しました。
納富の影響を受けて、”円中組製の九谷焼”は細密で金色を多く用いた豪華なものであったので、欧米で“ジャパンクタニ”として高い評価を得ました。円中組には名工の春名繁春が工人として従事し、また多くの名工を抱えた為絢社に注文しました。
やがてパリやニューヨークに円中組の支店が設けられ、金沢銅器、九谷焼が盛んに輸出されました。外国人の眼で輸出品の選別をさせたりするなど、率先して海外貿易の発展に努め、石川県の各種産業の向上発展のために大きな功績を残しました。孫平の信念は「良品を作り、外国で売るのは日本のため」というものでした。
こうして、明治20年(1887)、貿易九谷は最盛期を迎え、日本の陶磁器貿易で第一位となり、全九谷生産額の80%が貿易品で占めるまでになりました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
谷口金陽堂 明治8年(1875)~昭和32年(1957)
谷口金陽堂は、明治8年(1875)、初代吉次郎によって金沢に九谷焼を扱う店舗として開業しました。他の陶器商人より遅れて、明治28年(1896)、神戸に支店が設けられ、輸出に力が入れられました。この事業は、二代 吉蔵によって進められました。明治41年(1908)、初代 吉次郎が隠居して吉翁と称し、吉蔵が跡を継ぐと、たびたび欧米各国、満州、韓国などを往来して販路の拡張に努めました。
小松の松本佐平が経営していた松雪堂が、明治30年代の経済恐慌の影響を受けて陶磁器産業にも不況がもたらされ、明治36年(1903)に倒産したとき、初代 吉次郎は、親しくしていた松本佐平と佐太郎の親子に支援の手を差し伸べ、谷口金陽堂に招き入れました。こうして佐平は、晩年、銘「金陽堂佐瓶造」の作品を谷口金陽堂で制作し続けられ、また佐太郎は、谷口金陽堂で制作をする一方で、明治43年(1910)にイタリア万国博覧会の仕事を石川県より依頼されるなど、業界のために尽くしました。
初代 吉次郎自身も、金沢商工会議所議員を16年間勤めたほか、加賀九谷陶磁器同業組合組合長を6年間勤め、石川県工芸界の向上に貢献しましたが、その後、昭和2年、松本佐太郎に託して第一線から退きました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
松本佐太郎 明治11年(1878)生、昭和16年(1941)没
松本佐太郎は、明治11年(1878年)、小松の松本佐平の長男として生まれた。父の指示で中学進学を諦め、丁稚奉公へ出ましたが、その後、大学、ベルツ万国語学校の通信教育を受け、英・独・仏・伊語を4年間学ぶような意欲的な人でした。
しかし、明治36年(1903年)父、佐平の松雪堂が倒産、父の親しくしていた同業の谷口吉次郎の経営する谷口商店に親子とも勤めるようになりました。
佐太郎は、明治40年(1907年)、ロンドン開催の日英博覧会誘致に関し、アイルランド、スコットランドの開催者の相談役となるほど、知見のある日本人として海外から高い評価を受けました。
その後、明治43年(1910)、日英博覧会視察でロンドンを訪問中、石川県よりイタリア万国博覧会の仕事を依頼され、4年間欧州に滞在しました。帰国してから、当時のヨーロッパの産業、文化、政治に関する『欧州陶磁器業の現状』を著作しました。
こうして、佐太郎は、父の陶画業を継ぐことなく(継いだのは初代 徳田八十吉)、九谷焼、特に古九谷の研究とその著書に注力しました。著作は次のとおりです。
大正13年 陶工松雲堂左瓶 昭和3年 九谷焼の沿革
昭和3年 九谷陶磁史考草 昭和4年 九谷陶磁史鑑
昭和6年 九谷陶磁史 巻上 昭和7年 九谷陶磁史 巻下
昭和10年 九谷陶磁史を中心に 昭和11年 金沢の焼物
昭和15年 定本九谷
諸江屋 明治12年(1879)~現在
諸江屋は、明治12年(1879)、初代 諸江久兵衛によって各地の陶磁器を扱う店舗として金沢に開かれました。ただ、小野山陶器所の記録に、“文久2年(1861)8月、材木町 諸江屋久兵衛”との取引が記載されていることから、明治12年以前から陶器商を営んでいたと考えられます。
諸江屋は、市民や観光客も相手に小売商を行い、九谷焼だけでなく、清水焼、有田焼、瀬戸、美濃の焼物など広く日用品を取扱いました。
二代 諸江徳太郎も、初代と同じく、華やかな明治九谷の貿易品には目もくれず、広く国内の商いに努めました。大正から昭和の初期にかけ、利岡光仙窯から素地を仕入れ、浅野栄山が上絵付した製品や丸寿陶器、手島商店、宮本泰山堂などの完成品なども販売しました。そして金沢市内の顧客のほか、山中、山代、粟津などの旅館へ業務用食器を納めました。
その後も、諸江屋はこの営業姿勢を変えず、今に受け継がれています。
黒田龍華堂 明治23年(1890)~ 現在
黒田龍華堂は、明治23年(1890)、初代 黒田文次郎によって菓子と九谷焼も取り扱う一般的な陶器商として開業しました。店は東本願寺金沢別院の前にあり、当時は神仏の崇拝が盛んな頃であったので、参拝客で大変繁盛し、特に、日清、日露の戦勝時に兵士の除隊記念の買い物で賑わったといわれます。
明治33年頃から陶器専業に切り替え、水田生山、中島一渓、市原栄太郎、小西松太郎、熊谷八、小田清山などの多数の赤絵や九谷細字の陶画工らに外注した商品を販売しました。
後に始めた卸売りと合わせ、有名小売店には一流九谷焼の良品を卸売りすることを基本に、一流の金沢九谷を販売して金沢九谷の声価を高め、広く県外に販路を開拓した点で、大正、昭和前期の金沢商人による代表的な陶器商の一つとなりました。
加賀物産会社(森八) 明治28年(1894)~明治37年(1904)
菓子の老舗「森八」の十五代 森下八左衛門(文久元年1860生れ)は、元気盛んなころから、日本の各種工芸を愛し、明治25年(1892)、金沢柿木畠に錦窯を築き、友田安清、吉村又男(友田にの実弟 顔料研究者として有名)、初代 諏訪蘇山、竹内吟秋らを招聘し、良品を製出させていた。
その後、明治28年(1894)に加賀物産会社を金丸宅次郎とともに創立し、10年あまり、九谷焼を作り続きました。
前川湖月堂 明治30年(1897)~?
前川湖月堂は、明治30年(1897)、前川亀吉によって九谷焼の店舗として開業されました。明治、大正期に金沢市民や観光客に食器類、装飾品などを小売するためでした。
商品は、利岡光仙窯から仕入れた素地に三好青遷、前川卯山、針沢茸山らが絵付した商品や、秋山商店、宮本嘉衛商店、利岡光仙窯から購入した完成品でした。作者が不明ですが、古九谷写しや民山窯の赤絵の写しも作られました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
福栄堂 明治42年(1909)~昭和10年(1935)
福栄堂は、明治42年(1909)、初代 桑田与重郎(明治9年金沢に生まれ)によって九谷焼の店舗として開業されました。
商品の改良と販路の拡張に努め、次第に業界の信望も得るようになり、九谷焼全般にわたる商品は県内外で販売されました。
桑田は、同業組合の組長を勤め、組合に多額の寄付をしました。また、燃料に電気を使うことを試み、電気窯の試作まで行いました。なお、この後を継いだ中村長寿堂の中村久太郎が大正の中頃、九谷焼最初の電気窯を完成させました。電気窯に着目した桑田の功績は大きかったといえます。
福栄堂は、昭和10年(1935)、桑田が59歳のとき、閉店され、事業は屋号の福栄堂と共に同店の店員 柿沢友吉に譲られました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
中村長寿堂 明治42年(1909)~?
中村長寿堂は、明治42年(1909)、初代 中村久太郎(明治14年1881、高岡生まれ)によって開業されました。中村は、その2年前に高岡で九谷焼商を始めており、金沢に出て店舗を設けました。主として、卸売業を営み、全国数十店と取引しました。
商品の製造方法が特異で、小松市に専用の素地窯を持ち、不足のときは利岡光仙窯、山代の美陶園などの窯元から購入し、金沢の優秀な陶画工をたくさん抱えて良品を作り、不足したときは佐野の宮本商店から仕入れました。業績は良かったといわれます。
初代 久太郎は、大正の中期ころ、桑田与重郎が果たせなかった電気窯を完成させ、九谷焼の上絵窯として導入することに初めて成功し、さらにゴム印による絵付技法を開発するなど九谷焼の生産の効率に努力しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)
4.金沢の窯元へ