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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

金 沢 九 谷 の 歴 史

 金沢九谷の歴史 主な項目
  1.金沢の絵付工場
  2.活躍した陶画工
  3.活躍した陶器商人
  4.金沢の窯元
  5.金沢の基盤的な施設(試験場、美術館、学校)

 
1.金沢九谷の絵付工場

阿部碧海窯   明治2年(1869)~明治13年(1880)

 阿部碧海窯は、明治2年(1869)、民山窯の後を継ぐように、金沢古寺町(現在の片町)の阿部碧海の屋敷内に五基の錦窯を築き、開かれました。開窯は職を失った士族に職を授け、陶磁器業を盛んにするためでした。
 金沢では、明治5年(1872)から展覧会が開催され、外国での博覧会への出品の奨励、勧業試験場での指導などの施策が次々に打ち出されたため、金沢の陶画工の技術は向上し、中でも、阿部碧海窯では多くの優れた陶画工により優品が作り出されました。
 阿部碧海窯は、絵付工場長 内海吉造をはじめとする多くの陶画工を含め、80余名の陶画工と工人を雇い入れました。任田徳次、岩波玉山など名工のほか、加賀御抱絵師 佐々木泉龍の門人であった、小寺椿山、春名繁春、笹田友山、津田南皐、清水清閑、同じく御抱絵師 池田九華の門人であった、飯山華亭、柏 華渓など日本画に優れた陶画工も多く在籍しました。
 碧海は、陶器商人の円中孫平と協力して、長崎・神戸に支店を出し、主にコートセットの茶器、食皿、菓子皿など輸出品の製造をはじめました。これの製品は明治6年(1873)のウィーン博覧会に出品され、名声を博し、得意客を得ることができました。また、前田侯爵家を介して宮家や内外の貴紳に納品できるように販路の拡張と名声を高めることに努力しました。
 しかし、明治7年(1874)、輸出上のトラブルに巻き込まれて、業績が良い中、多額の負債をかかえてしまいました。ついに、明治13年(1880)、この工場は閉ざされて、内海吉造の為絢社に引き継がれることになりました。

阿部碧海    天保12年(1841)生、明治43年(1910)歿
 阿部碧海は、天保12年(1841)、前田主馬玄前の子 甚十郎として生まれ、元治元年(1864)、阿部久米助の養子となりました。
 碧海は、長崎留学時代に、有田焼の生産地を抱えた佐賀藩士との交流を通じて培った人脈を持ち、また長崎貿易を目の当たり見る機会を得て九谷焼の海外輸出に早くから目覚めていたといわれます。こうして、納富介次郎や徳久恒範(両者は日本各地を転勤して工芸学校の設立など、工芸の発展に尽しました)などの旧佐賀藩士に私淑していったといわれます。
 碧海自身は、優れた絵付に目が高く、すべてが優品でないと満足しなかったといわれます。そのことを表すのが、素地や製品を仕入するときにも見られました。外注先として、九谷庄三、松本佐平、松原新助、大蔵清七、浅井一毫などを起用したことです。これらの製品は、実用品であっても、いずれも優品であったことから、やがて金沢九谷が優品の代名詞となるような基盤を築いたといわれます。
 一方で、碧海は、明治10年代前半を中心に明治23年(1890)ころまで、各地の博覧会に出品し続け、優秀な成績を収めるともに、明治13年(1880)から勧業博物館で図画を考証することに携わり、また試験や品評会の審査員となるなど活躍の場を広げていきましたので、次第に石川県内の工芸振興の顧問的な役割に移って行きました。
 碧海は、工場倒産の憂き目に会った後、絵付工場の再開を期して、春名繁春、笹田友山らと陶磁器会社の設立を計画し、明治14年(1881)から度々、石川県知事 千坂高雅(江沼郡の九谷陶器会社の発起に係わった)に資金補助を願い出ましたが、不成功に終わりました。

為絢社   明治13年(1880)~明治16年(1883)

 為絢社は、明治13年(1880)、阿部碧海窯の絵付工場長であった内海吉造がその絵付工場を受け継いで設立されました。
 吉造は、阿部碧海窯の倒産が止むえなかったとはいえ、当時、九谷焼が欧米に盛んに輸出され、また国内でも販売が伸びていたので、阿部碧海窯の卸先であった、円中孫平、松勘商店、鏑木商舗、谷口金陽堂などの金沢の陶器商人からの注文が見込められると考え、また良工も集められる見通しであったので、為絢杜を興しました。
 この絵付工場では主として輸出品の絵付を行いました。当時、金沢には末窯、鴬谷窯、原呉山窯、藤岡岩花堂窯、為絢社の五つの窯元がありましたが、美麗で精巧な作品は、藤岡岩花堂と為絢社の二窯でしかできなかったといわれました。そうすることができたのも、笹田友山、清水清閑、赤丸雪山、竹内安久、友田安清など、後に名工となった陶画工が在籍していたからでした。
 洋絵の具が明治12年(1879)頃から本格的に使われはじめ、人物、花鳥、山水などが美麗に描かれた製品が多かった中、為絢社の作品には、斎田伊三郎の広めた百老手という作品があり、内外の顧客に歓ばれ、為絢社の代表的画風となりました。細かな唐人物を無数に並べて描き、衣の文様を様々に彩り、金線を加え、地を金溜めとしたもので、その精巧さや仕上げなどの点で能美九谷を上回ると称賛されました。

内海吉造   天保2年(1831)生、明治18年(1885)歿
 内海吉造は、鍋屋吉兵衛の子で、幼名を栄吉といい、幼少より父に従い、色絵、赤絵金彩を教えられ、御抱絵師 佐々木泉龍から絵画を学びました。松齢堂陶山と号しました。
 吉造は、小野窯の後期に絵付をしました。また、慶応3年(1867)、加賀藩最後の藩主 前田慶寧が殖産興業のため卯辰山山麓に興した藩窯「陶器所並陶器竃」に任田徳次とともに従事しました。
 明治2年(1869)、阿部碧海と共に、阿部碧海窯を興し、その絵付工場長となり、明治初期の金沢九谷の基礎を築いた名工の一人といわれます。
 門下に友田安清等がいました。
石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

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