1.伝統の画風
江戸時代の50年ほどの再興九谷の間に、陶画工たちは、古九谷風、木米風、吉田屋風、八郎手、粟生屋風などの九谷焼特有な画風を完成させた一方で、次第に、一般の人々によくわかる、日常生活を楽しませるような画材を取り上げるようになりました。
明治以降になると、九谷焼には貿易品として新たに絵付が求められ、技法の開発も進みました。例えば、伊万里風な赤描から繊細な細描に変わり、斉田伊三郎の赤絵網の手、九谷庄三の彩色金襴がより完成されたものに発展し、二人の得意な画材は加賀一帯に広まり、九谷焼全体に影響を及ぼしました。
能美九谷の特異な画風にはつぎのような「道開風」「庄三風」「松雲堂風」といった多彩な画風がありました。
道 開 風
斎田伊三郎が亡くなってから、道開と呼ばれるようになったため、伊三郎が遺した画風を「道開風」と呼ぶようになりました。伊三郎の師であった清水焼の水越与三平衛(京焼磁器の完成者)の画風(白素地に鮮烈な赤絵)が佐野赤絵に見られました。
技巧面の特色では、戴金(きりかね)仕上げ(細金(ほそがね)とも呼ばれ、金・銀などの箔を数枚焼き合わせ細く直線状に切ったものを、筆と接着剤を用いて器面に貼る技法)で茶金地に金描きしたもの、彩釉して焼いてさらに金彩してまた焼いて冴えた金色を引き出す二度焼きなどがありました。当時、この二度焼の技法は伊三郎独特のものでした。
伊三郎は、人物画をよく描き、また文様では網の手がよく用いられました。中でも「百老図」(唐人物を多く描き詰めたもの)、「竹人物」(竹林の七賢人を描いたもの)は明治九谷の代表的図柄の一つになりました。
庄 三 風
明治期の九谷庄三(工房)の作品には、尚武もの、招福もの、忠君愛国もの、日本の花鳥動物や農村風景に至るまで画材もいろいろあり、豪華絢爛な彩色金襴(金襴手と華やかな色絵が混在する画風)などで描かれました。
そして器面を大きくいくつかに割り取り、その中に人物、山水、花鳥などを埋め尽くし、余白を赤地に金彩で施すというものでした。
こうした「庄三風」と構図の取り方は明治初期に海外で注目を浴びました。
松 雲 堂 風
松本佐平は、赤九谷と青九谷の双方を得意とした陶画工でしたので、明治26年(1893)頃、その二つを融合した「松雲堂風」の作風を確立しました。
佐平は、明治9年(1876)、金沢の画家 徳田寛所に南画を学んだことで、画風が著しく変わったといわれます。十六羅漢、三十六歌仙、百人一首などの人物を細密に描き、これに赤、茶褐、黒、臙脂を塗り、金彩を加えた画風を創めました。これが佐平の赤九谷の始まりといわれ、この画風が海外で高い評価を得て、佐平の赤九谷は我国の重要輸出品になりました。
さらに、明治18年(1885)、赤と黒の釉を上絵付けして窯焼きし、その後で金彩のみを加えて焼成する二度焼焼成を完成させました。この頃の画風は、金襴手の中に割絵を取り、花鳥、山水を極細に金彩で描きました。その精密さは”あたかも織物上に錦糸の刺繍を見るようである”と評されました。
ところが、能美地方で赤絵の技術が最高の域に達した後、明治22 年(1889)頃から赤九谷を制作しなくなりました。その理由は、松本佐太郎著『陶工 松雲堂左瓶』 によれば、佐平が、能美郡内で青九谷が粗製乱造されている状況に歯止めがかからないことを嘆いて、青九谷の再興を目指したために、赤絵を描かなくなったといわれます。そして、明治26年(1893)頃に赤九谷と青九谷の双方を融合した「松雲堂風」という画風に至ったといわれます。
それは、文様よりも絵画を器面全体に描くことが特色で、絵を描くための十分な余白を確保して、白い器面に画材を絵画として絵付するのが特色です。この頃の作品には、当時流行して盛んに描かれていた百老手や唐子などの人物の意匠も数例あるものの、花鳥の意匠が多く、孔雀に牡丹図などを含めた花鳥を絵画のように描いた作品が多くあります。この組み合わせを佐平独特の意匠として創作したとみられます。
「松雲堂風」といわれる作品や制作の記録から考え、佐平は、洋絵の具を用いた赤絵を一切やめても、青九谷で従来から用いられた和絵の具のみでなく、和絵の具と洋絵の具の両方を用いました。『色絵瑞花鳥図大花瓶』を見ると、全体に釉薬が薄く、色数も多いことから、洋絵の具が用いたと推測されます。このような絵の具の使い方は明治28年(1895)ころの作品にも見られ、「松雲堂風」の技法のひとつとなりました。
2.能美地方の製陶業へ