綿谷平八 天保8年(1837)生、明治18年(1883)歿
綿谷平八は、安政5年(1858)、22歳のとき、寺井で父の家業を継いで九谷商となりました。当時、寺井では九谷庄三ら名工が多く、九谷焼が産業九谷として確立しようとしていたので、京都、大阪、岡山、肥前へ出向いて販路の拡大に励みました。藩政期の終わり頃、小松の行商人が各地へ副業的に九谷焼を販売したのが能美地方における九谷焼の県外販売の始まりでした。
万延元年(1860)、自宅に絵付工場を建て、吉田屋風、赤絵、彩色金襴、有田風、錦手などを制作し、江戸にまで出向いて販売しました。
明治2年(1869)、実兄 平四郎、若杉弥助、九谷市松らを瀬戸、美濃、有田に派遣し、それらの製法を視察させました。翌年、弥助が長崎から酸化コバルトを、市松が絵付用の洋絵の具を持ち帰り、それらをもって美麗な製品を作り、内外に販売し好評を得ました。
明治6年(1873)のウイーン万国博覧会、明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会に自家製品を出品して名声を得ました。
その後、金沢、大聖寺などの同業組合、勧業博物館、協同物産店などの創立に尽力しました。
酢屋久平 ??生、??歿
酢屋久平は、酢屋家が代々続く小松の酢の製造業でしたが、文久元年(1861)、小松市木江に窯を築いて製陶業を始めました。しかし、収支がともなわず廃業し、慶応元年(1865)、肥前、尾張などの陶磁器の販売を始めました。
明治10年(1877)以降、九谷焼も扱い、販路の拡張を考え、明治13年、小松での博覧会を機会に粗製乱造の幣を改めようと、松本佐平、石田平蔵らと共に良品を作ることに努力し、また神戸の外国商館にも売り込みを図りました。
明治15年(1882)、納富介次郎の意見を聞いて、陶業同盟を結ぼうとした首唱者となりました。
明治16年(1883)、神戸の外国商館へ売込みおよび直輸出のため、店舗を設け、自ら神戸に移りました。
二代久平は、父の業を受け益々改良につとめました。
綿野源右衛門 文政12年(1820)生、大正3年(1914)歿
綿野源右衛門は、寺井で代々の木綿商を営んでいましたが、斎田伊三郎、九谷庄三らが制作する九谷焼に目を向け、村人に上絵付するように図り、自らは陶器商人となりました。
九谷焼の改良に努め、また貿易九谷に励み、明治9年(1876)、寺井地区の陶器商人としては初めて神戸に支店を設立して輸出の道を開きました。
間もなくして、若い者の活躍する時代との認識から、子の吉二に家業を譲りました。
初代 織田甚三 弘化3年(1846)生、大正4年(1915)歿
初代 織田甚三は、弘化3年(1846)、寺井に生まれ、早くから陶商を目指しました。小松の松山新助が明治3年(1870)頃から作っていた「庄三風」の九谷焼を綿谷平兵衛、筒井彦次、酢屋久平綿野吉二らとともに輸出することに成功しました。
明治18年(1885)、横浜に支店を設けました。九谷焼の輸出額が我が国第一位になった明治20年(1883)、なおも好調であった「庄三風」の輸出品を大いに販売しました。こうしたことがあって、晩年に同業組合の輸出商部長を勤めました。
二代 甚三は、明治39年(1906)、21歳のとき後継ぎとして織田家に入り、家業に励みました。東 文吉、高田嶺山らが絵付を行う絵付工場を経営するなど、九谷焼の製造も活発に行い、寺井でも規模の大きな陶器商人の一人になりました。
しかしながら、大正12年(1923)、関東大震災によって横浜支店が大打撃を受けたため、神戸に転進しましたが、その後はこれまでの勢いが見られなくなりました。
(図録「鶏声コレクション」参照してください)
筒井彦次 天保14年(1843)生、明治33年(1900)歿
筒井彦次は、代々続く両替商と酒造業を営み、企業心の旺盛な商人でした。
明治8年(1875)、貿易視察のため清国に渡り、帰国して製茶業、製陶業を始め、輸出に力を注ぎました。
明治11年(1878)、自家に陶画工場を設け、坂 昌之、中川作松ら数10名の従業員と共に盛んに九谷焼を製造しました。
明治13年(1880)年に大阪、神戸に、明治25年(1892)に横浜に支店を設けて輸出を始めるなど、販路の拡張を図りました。
一方、明治15年(1882)ごろ、素地の改良のため、八幡に松原新助、川尻嘉平らと大円窯を築きました。明治25年(1883)年、大塚秀之丞を招き、九谷置物の改良に努めました。そのほか、飛鳥井清の設立した九谷陶器会社の支援、納富介次郎の工芸策への参画、図案の木村立峯、山本光一、陶画工の安達陶仙、長元三次郎への支援など、石川工芸の向上に貢献しました。
綿野吉二 安政6年(1859)生、昭和9年(1934)歿
綿野吉二は、明治10年(1877)、父 綿野源右衛門の跡を継ぎました。
明治12年(1879)、パリに九谷焼の直輸出を試み、翌年、支店を横浜に移して販路拡張に努めました。京浜の同志とともに日本貿易協会を設立しました。
明治15年(1882)、陶商同盟の頭取となりました。16年香港、17年シンガポール・広東を視察し販路の拡張をはかりました。
綿野吉二をはじめ当時の陶器商人は、買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず直輸出を望みましたが、非常に困難なことでした。これを実現させてくれた人が、後に第一高等学校長となった加賀藩出身の今村有隣で、右隣は、留学の経験や学んだ西洋の経済知識を生かして、吉二らの望みにこたえ、フランスへの直輸出の道と、パリでの現地販売の窓口を開き、ヨーロッパへの直輸出先を開拓しました。
ところが、粗製乱造の商品が現れはじめたので、明治15年(1882)、綿野吉二らの努力で、陶磁器技術の革新の第一人者 納富介次郎を迎え、産地のあり方ついての意見をとり入れました。能美郡の九谷業界で同盟規約が締結され、九谷陶器商同盟会、窯元同盟会、陶画工同盟会が相ついで発足し、同業者が一体となって、業界の問題に対処する気風が芽生えました。こうして、輸出見本の製作、上絵の徒弟試験の導入、共同窯での統一製品の製作などが実施されたことから、画風が刷新され、輸出が一段と伸びました。
さらに、綿野吉二は、明治20年(1887)、陶画工の仕事が貿易の需要に応じきれなく、製品が粗製乱造になりかねなかったので、自邸に錦窯数基を築き、「天籟堂」と称しました。小松から石山文吉、佐々木梅松、山上佐吉など数名を招いて貿易九谷の絵付をさせました。明治22年には金沢から津田九憐、柏
華渓、村田甚太郎、窪田南山、平松時太郎、田辺渓泉などを招きました。県内の名画工が寺井に集められ、九谷焼の優品が作られました。
特に、高さ1.5mの花瓶、直径90cmに及ぶ大香炉、壷などに絵付することに成功し、貿易品として盛んに輸出されました。
明治33年(1900)、博覧会のためパリに渡り、オランダ、ベルギー、ドイツ、イタリアを巡歴し、翌年、自邸に輸出向製品を作るためフランス式堅窯を築き、製品に「景徳園製」と款しました。
特に、貿易九谷のために力を注ぎ、博覧会創立委員、博覧会出品組合委員長、貿易会社役員などの要職に就き、大正15年(1926)、住まいを横浜に移し、海外貿易に従事しました。
(図録「鶏声コレクション」参照してください)
綿谷平兵衛 元治元年(1864)生、大正10年(1921)歿
綿谷平兵衛は、綿谷平八の子で、明治15年(1882)、横浜に支店を出し、九谷焼の貿易商として各国と盛んに貿易し、国産である九谷焼の真価を内外に高めることに努めました。
特に九谷焼と並べて香々焼と称する新陶器を創作し、国内は言うまでもなく、スペイン、シカゴ、ポーランド、ベルギーなどの万国博覧会で、金・銀牌を受けました。
明治39年(1906)、井出善太郎、石崎蕃らと九谷原石破砕会社を設立し、明治41年(1908)から寺井町湯谷で操業を始めました。
(図録「鶏声コレクション」参照してください)
石崎 蕃 慶応3年(1867)生、昭和3年(1928)歿
石崎 蕃は、佐野の大農 石崎吉郎平の長男として生まれ、当初は、副業の養蚕の研究のため信州へ往き来しましたが、そのうち能美郡一円に盛んになった産業九谷の販売に着目して、往きは九谷焼を販売し、帰りは養蚕の種子紙を購入してきたといわれます。
明治20年(1887)、九谷焼専門の卸商人となり、長野、埼玉、群馬の各県をはじめ、東京に進出し、さらに満州、朝鮮、北海道、四国、九州などに販路を広げました。
井出善太郎、綿谷平兵衛らと図り、九谷原石破砕会社を寺井に作り、湯谷に工場を新設し、新式の機械で良質の杯土を生産し、九谷焼素地の改良に尽くしました。
素地は、植田の山元ほか吾竹、若杉、八幡、佐野、湯谷などから購入し、上絵付は佐野に在住の30余の絵付工場や郡内の絵付工場など、併せて100余の絵付工場でさせました。
当時、特に販売されたものは、煎茶器、フタ付湯呑、徳利、盃、盃洗、菓子鉢、三ツ魁井、耳付花器などでした。また農商務省の一行とシベリア視察を行い、県の嘱託を受けて満州、朝鮮への九谷焼の進出にも尽くしました。
井出善太郎 明治11年(1898)生、昭和4年(1929)歿
井出善太郎は、祖父 善右衛門、父 又右門も陶器商でしたので、明治30年(1897)、19歳のとき、家業をつぎ、翌年、金沢に支店を出しました。
明治33年(1900)、九谷陶磁器株式会社を設立し、その社長となりました。
明治36年(1903)、輸出を目的として、神戸に支店を設けました。
明治39年(1906)、九谷焼の坏土作りが原始的製法であったので、それを改善するため綿谷平兵衛、石崎蕃らと図り、寺井に九谷原石破砕株式会社を設立し、湯谷に陶石粉砕工場を設け、坏土と素地の改良に尽くしました。
明治41年(1908)、米国サンフランシスコに支店を設けて、弟の鉄造、又作の二人を経営にあたらせ、神戸支店を弟の文作が担当しました。
隔年毎にサンフランシスコに渡り、視察の上で流行の商品を設計して寺井で生産しました。この方式は大東亜戦争勃発の昭和16年(1941)まで続けられました。
明治43年(1910)、日英博覧会を機に英国との直取引を開始しました。
(図録「鶏声コレクション」参照してください)
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