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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

 能美九谷の歴史 主な項目
  1.伝統の画風
  2.能美地方の製陶業
  3.活躍した陶画工
  4.活躍した陶器商人

2.能美地方の製陶業

 再興九谷の時代に、能美地方では、本多貞吉によって花坂(小松市)で、藪六左衛門(小野窯の創業者)によって鍋谷(現在の能美市)で、そして九谷庄三によって五国寺松谷(小松市)で、相次いで陶石が発見され、良質な素地ができるようになりました。
 こうして、斉田伊三郎、九谷庄三を中心とする陶画工たちがそれらの素地を使って、作品を作るようになったので、絵付と素地作りの分業が進み、製陶業が独立して成り立つことができました。こうした製陶業の専業化の動きや施策によって、陶石の産地である花坂と鍋谷を中心に、素地窯の数も非常な勢いで増加し、明治から大正にかけて開かれた窯元は、地区別に現小松市の42か所、現能美市の9か所にのぼり、能美地方のみならず、石川県の磁器生産に大いに貢献しました。

   埴田地区(現、小松市)・・・・8か所
   河田地区(現、小松市)・・・・9か所
   小野地区(現、小松市)・・・・1か所
   下八里地区(現、小松市)・・・4か所
   若杉地区(現、小松市)・・・・2か所
   八幡地区(現、小松市)・・・・10か所(含む、松原新助窯)
   吉竹地区(現、小松市)・・・・7か所
   今江地区(現、小松市)・・・・1か所
   和気地区(現、能美市)・・・・4か所
   鍋谷地区(現、能美市)・・・・1か所
   徳山地区(現、能美市)・・・・2か所
   湯谷地区(現、能美市)・・・・2か所 

佐野の製陶業

 斉田伊三郎は、安政4年(1859)、坪野山・佐野与四兵衛山で陶石を発見すると、翌年、中川源左衛門、三川庄助、深田源六らに素地窯を築かせました。この窯は、明治元年(1868)、伊三郎が亡くなったあとも、源左衛門らが引き継ぎ、明治24年(1891)、源左衛門が亡くなると、庄助が継ぎました。
 その後、新たに独自の窯を築いた者も現れてきて、明治40年(1907)近く、7軒の窯元が狭い佐野村の山間に立ち並び、この辺一帯は茶碗山と呼ばれるほどで、佐野の製陶業は隆盛となりました。

小松・八幡の新助窯

 松原新助は、八幡村に移った若杉窯の二代目の窯の共同者(ほかに若藤源次郎、川尻嘉平ら)として素地作りに携わり、明治元年(1868)、川尻嘉平らと輸出用の素地窯を築き、製陶業を始めました。明治3年(1870)、寺井と佐野地区での絵付と素地作りの分業化の流れを見てとり、素地作りの専業化を提唱し、その考え方を能美に広く浸透させていきました。九谷庄三のためにも素地が供給されました。その結果、能美地方に多くの素地窯が築かれることになりました。
 さらに、明治15年(1882)ごろから、素地製品の統一化と生産の合理化を図るため、川尻嘉平、若藤源次郎らと共同大円窯を築き、上絵の松本左平と提携して素地の需給を円滑にするように働きかけました。明治20年(1887)には、フランス風の直円筒窯や有田風の窯を次つぎに築き、従来のものに比べ品質のよい素地が多く生産できるようにしました。こうして、「新助製」の素地は上等素地の代名詞のように称賛されたといいます。

共同水車場の設置

 九谷窯元同業組合の発足に伴い、石川県の招聘講師 納富介次郎と松原新助などが素地の生産を向上するため、陶石の粉砕に水力を導入することを考え、明治19年(1886)、共同水車設置の意見を能美郡に述べたところ、設置のための郡の補助が受けられるようになり、五国寺、小野、佐野の三ヶ所に共同水車場が設けられました。

八幡の置物

 小松の八幡村では、素地作りの傍らで、置物作りが始まりました。それは、素地としての花坂陶石のほか、釉薬に使える鍋谷陶石があり、焼いたときの収縮度が高かったため、これらの陶石の用途として、彫刻家や原型師の指導のもと、置物作りが始まりました。
 明治5年(1872)、松原新助は、元加賀藩士 奥野幹次郎が余技の彫刻の技量を活かして、置物製造の研究を始めるのを助けました。そして幹次郎は、八幡置物の先達者として、新助窯から独立し、置物専門の工場を八幡に建てました。八幡はもともと瓦の産地だったので、瓦窯で瓦の合間に少しずつ入れて焼く置物に適していました。
 こうして、小松の八幡村は、明治の終わりごろから昭和のはじめにかけて、置物の産地として有名となり、八幡の置物はよく販売されました。


3.活躍した陶画工

 九谷焼の名工
 
 
 
 
 九谷焼の諸窯