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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

解説のための用語集 「あ」行

      

項 目 名 そ の 意 味 と 簡 単 な 解 説
藍九谷 石川県九谷焼美術館の説明:藍古九谷ともいう。古九谷の一種。九州肥前の古窯からの伝世品の類品の磁器片が出土したことから、近年、伊万里焼として分類されている。しかしながら、古九谷窯は17世紀前半の肥前の窯業技術を導入したことは明らかになっていることから、工人の移動も含め、様式上共通したものが双方で制作されたと考えても不思議ではない。昭和45年以降、石川県の発掘時に出土した染付磁片が古九谷窯で制作した染付が全てを物語っていないことは、大聖寺城下の家老屋敷「八間道遺跡」出土で、素地分析で、古九谷窯製であることがわかった「染付龍文隅入角鉢」等が証明している。古九谷窯跡出土品から、染付・青磁・瑠璃など本焼の窯業技術が九谷村にもたらされていた事実は動かない。だからこそ、再興九谷諸窯において、古九谷時代の青手など色絵のみならず、染付も復古されたことに注目すべきであろう。その技術の伝統が現代の九谷焼まで受け継がれていることを再評価してよいのではなかろうか。
青木木米 明和4年(1767年)京都に生まれた。天保4年(1833年)死去。30歳を境に京都・粟田口に釜を開き評判を得る。5年後には加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力した。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画系統に属する絵画にも秀作が多い。
青九谷 青手九谷と同じ。石川県(加賀藩や大聖寺藩)で作られてきた九谷焼のうち、見込みに青色を多く使った磁器のこと。青色といっても実際は緑色を呈している。
青手九谷 青九谷と同じ
赤絵細描 にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かし、器全体に細かい描き込みを施した九谷焼の様式。赤の色絵の具のほかに、金の飾り付けで華やかに彩られた作品が多いことも、赤絵の特徴。背景を赤で塗り埋めた器に、金で絵付けしたスタイルは、赤絵のなかでも特に「赤絵金襴手」と呼ばれる。
一閑人 三川内焼の窯元で、三川内焼のシンボルともいうべき絵柄の一つとして有田焼とは別な繊細な染付の線で描き、中に描かれた唐子とは別に、器を覗き込むような人形がついているものがあり、この人形を一閑人と呼びます。
伊万里下 明治初期、石川県山代の陶工は九谷や花坂の陶石に肥前産の陶石も混ぜ合わせて、古伊万里(錦手)に適した素地を創り出した。この素地に染付まで仕上げた伊万里下(いまりした)と呼ばれた半製品が大聖寺の画工たちに大量に供給し、大聖寺伊万里を制作した。土型を取り入れて同形同寸のもの(型ものといわれる鉢、菊型皿、姫皿など)が多い。
色絵磁器 柔らかくて温かみのある乳白色の素地の上に、余白を十分に残した明るく繊細で絵画的な構図を特徴とする磁器
印判手 明治に入ると日本の窯業生産は型紙摺絵や銅版転写などの印刷技術による陶磁器への絵付けの応用が進歩し、日用食器類であった染付の手工業的大量生産が可能となった。日本の伝統技術である着物の型染同様に、型紙を使って陶磁器の器面に顔料を摺り込む絵付け技法が型紙摺絵であり、銅版転写は銅版画(銅版印刷された紙)を写し絵の様に器面に貼り付けて転写する方法である。ヨーロッパからの銅版画製作技術が江戸時代後期に日本伝わり、日本独自の技術的な研究が加わって陶磁器の絵付けに応用された。
内神屋惣兵衛 惣兵衛は摂津国川辺郡中筋村で北在郷16村の酒造業32軒の総代を務める家に生まれ、19歳のとき三田の内神屋の婿養子となって30歳で身代を継いだ。豪胆で商才に長け、家業が米屋であったこともあり米相場で巨万の富を築いたともいわれ、三田の富裕商人の一人となった。惣兵衛は巨万の富を元手にして商いを広げることを考えて選んだのが磁器の製造販売であった。吉田屋伝右衛門に共通するところがあるが、惣兵衛は、18世紀後半、食文化も変わって庶民も磁器を食器として使い始めたため、各地(有田、京、瀬戸、加賀など)で磁器が焼かれていることを調べあげ、目にする立杭焼や志手原窯の陶器よりも唐物写しの磁器三田焼に投資した。
永楽和全 1823年(文政6年)-1896年(明治29年)。19世紀に活躍した京焼の陶芸家。 千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十二代。江戸後期を代表する陶芸家の一人永樂保全(十一代善五郎)の長男として生まれる。義弟・宗三郎(回全)と共に仁清窯跡に御室窯を築窯し、本格的な作陶活動に入った。さらに、44歳で隠居した後も加賀大聖寺藩に招かれて山代で製陶の指導を行なうなど、精力的な活動を続けた。父・保全と同様、茶碗から香合、平皿など様々な作品を手掛けている。赤絵、交趾焼、仁清などの写しに優れた技量を示し、父と共通するところである。義弟・宗三郎など工房の人材にも恵まれ、その卓越した陶技を十分に発揮して幅広い作風の作品を残した。
越前焼 平安時代に始まり、高温で焼成されるとき薪の灰が器に溶け込む自然釉の炻器(陶器と磁器の中間的な性質を持つ)。当初から壺や甕などの雑器用品を作った。
越中瀬戸焼 加賀藩二代藩主・前田利長は、前田利家の茶陶作りを継ぎ、越中国新川郡芦見・末ノ荘付近で瀬戸焼の育成を図り、加賀藩の御用窯として茶陶の制作を中心に発展する礎を造った。瀬戸から陶工たちを続けて招き、瀬戸に類似する陶土を見つけた場所で瀬戸焼の築窯をさせた。こうして、瀬戸焼の盛んになったこの地を瀬戸村と称するようになり、この地域で焼かれる“やきもの”を越中瀬戸焼と呼ぶようになった。古窯跡からは天目茶碗、大海茶入などの破片が見つかっており、茶陶を焼く傾向が強くなっていることがわかっている。
江沼九谷 幕末・明治以降、旧加賀藩領内の地域を指して、江沼九谷、金沢九谷、能美九谷と大きく三つに分けられて呼ばれてきた九谷焼の生産地のうちの一つ。江沼は石川県(加賀国)にあった郡の名で、この地域で焼かれた九谷焼を特に江沼九谷と呼ぶ。江沼九谷の特色は、上絵の中心をなす八郎手や染付、それに伝統的な古九谷、吉田屋風の作品がおおいことである。伝統的な顔料絵の具の技法をまもり、素地も堅緻で古九谷風な青味をおびたものを使用しているのが特徴でもある。また陶工として素地から上絵仕上げまでを一貫して行う個人経営的な窯元が多く、従って個性ある優れた陶工が多くみられる。江沼郡が加賀市に併合されてからはこうした呼び方をすることが少なくなった。ほかに、金沢九谷、能美九谷など地域の名称を付けた九谷焼の呼び方がある。地域の名称で呼ぶ九谷焼の分け方に、金沢九谷、能見九谷がある。
大川遺跡 石川県小松市大川遺跡から、九谷古窯と推定される磁器が多数出土した。これだけまとまった量の九谷古窯産の磁器が出土することは、九谷以外の地では初めてであり、九谷古窯の生産と流通を考える上で重要な資料といわれる。本遺跡からは、それ以外にも同時期の肥前産陶磁器や生産地が不明な陶磁器が出土し、産地不明磁器の中にも九谷古窯の磁器が含まれている可能性が高いとされる。

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