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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

 古九谷・再興九谷の特色 解説の項目
  1.九谷焼独特の絵付と絵の具
  2.九谷焼の伝統となる様式
  3.絵画的な図案・文様

3.絵画的な図案・文様

九谷焼に影響を及ぼした文様

 磁器を見るとき、どうしてもその見込みの模様に多くの鑑賞者の眼が移ってしまい、縁、地、裏面などに描かれている文様が二の次に回ってしまいがちです。ところが、磁器の多くはその用途に合わせて様々な文様が描かれていて、それらが独創的に創り出されたものであったり、あるいは古き、良きものから写されたものが使われてきたことがわかってくると、自ずから観る人も文様にも興味を抱くことになります。
 “模様”は、ものの中心的な表面に表された図、絵などのことを意味し、“文様”は、図であることに変わりないものの、もう少し装飾的な効果をあげるために規則正しく繰り返される図形のことであるといいます。各種の装束を飾った模様をモチーフとして多くの文様が生み出されたとわかれば、この二つの言葉の曖昧さも納得できると思われます。

五彩

 文様としては、平安時代に遡ると、宮廷の装束を装飾した雅やかで格調高い文様がありました。それは有職文様(*1)と呼ばれ、今なおいろいろなところで使われています。大陸からもたらされ、我が国へ迎え入れられた様々な装飾が宮廷の装束や調度にも転用され、やがて日本人の美意識に即した典雅な形へと昇華し、次第に広く愛好されていきました。その文様が、室町から江戸時代にかけて発展、確立した能において役柄に合わせ仕立てられた装束を飾った文様に影響して、能の文様が創り出されたといわれます。
(*1)有職文様 隋・唐から伝えられた文様を和様化したもので、日本の文様の基調をなしています。有職とは、平安時代の宮中の儀式や行事に関する研究者や学者を有識者とよび、その有識者たちが着用していた衣服の模様が有職模様であったことから、こう呼ばれ、広く用いられています。代表的なものには、鳳凰、雲鶴、丸文、菱文、七宝、唐草文があります。

 そして、いつの時代でも、慶賀の祈りから生まれた吉祥文様が人々の生活に根付いたように、時代と共に洗練されながら、粋や洒落といった感性とも通じて成熟しました。人々の生活の中で用途(婚礼、子供の誕生、多産、夫婦円満、出世、繁栄、富貴、健康、長寿)に応じてそれにふさわしいデザインとして「めでたき意匠」が使われました。ですから、数多くの吉祥文様が偶然に作られたというより、やはり様々な職人が用途に見合った文様を制作した結果であるといえるようです。代表的なものでは、鶴・亀・鳳凰・龍・松竹梅・四君子・牡丹・宝尽くしなどがあります。

 やきものの文様を考えると、最も古い文様と言えば、土器に縄を使ってつけた“縄文”の文様があり、その他にも多くの文様が生み出されてきた。それらの文様はその時代の文化、身近なもの、古き良きものなどにモチーフを求めて生み出された。江戸時代の能装束、絵画、工芸品などを飾る様々な文様が磁器、特に九谷焼に大きな影響を与えたといえます。
九谷焼の基本的な文様は有織文様を反映しており、他にも、能装束に見られる幾何学文様(亀甲、菱、格子、紗綾形など)、吉祥文様、植物文様(梅、菊、唐草、花小紋など)、動物文様(蝶、七子文(ななこもん)など)、自然現象文様(青海波、雲など)、人造物文様(扇、矢羽根など)など数えきれないほどあるのである。こうした文様が九谷焼の鑑賞者の目を楽しませてくれるのです。

古九谷にみる花の模様

 桃山時代から江戸時代の美術工芸品の多くには、競うように、花や鳥たちが生き生きと描写されていて、そこからは、花鳥に見出した日本人の好みや志向がうかがい知ることができます。同じように、古九谷においても、花がもっている美しさ、生き生きとした姿を見つけることができます。牡丹(富貴花)、梅花、菊花などたくさんの花が描かれ、桜花が画題にさえなっています。

富貴花 牡丹
牡丹2枚組写真  墨刷木版画(左)は八種画譜「草木花詩譜」の巻頭を飾っている牡丹の挿図です。牡丹は、もともと中国が原産地であり、富貴花、花中の王などと呼ばれましたが、近世初期に明・清から日本に舶載された画譜にもとり入れられ、画材のもとになりました。挿図には、大輪の牡丹をほぼ中央に配し、右にがっしりとした太湖石と、一匹の蜂が描かれています。
 例えば、富貴図(右)は中国画をならっていた若き田能村竹田の作品で、蜂が省かれているものの、大輪の牡丹と大きな太湖石が中心に描かれているのを見ると、富貴花が画材のもとになっていたことがわかります。

牡丹1枚写真

 古九谷のなかにも牡丹を画題にした作品がいくつかありますが、太湖石を省き、大輪の牡丹を紫で深く彩りしている作品もあります。
 石川県九谷焼美術館の「青手 土坡に牡丹図大平鉢」も、桃山時代以来の金碧障壁画に描かれたような極彩色の牡丹図と異なり、渋い黄の地に、紫の大輪の牡丹と緑の葉、下に白い土坡が配され、中国的なものから日本的なものに換えられているのです。
 古九谷の中でも、縁文様がなく、これだけの大皿(径43.5cm)に、花中の王に相応しい、動じない姿(花言葉にある)として描かれている作品は少なく、平鉢の平面に配された三つの牡丹が堂々と見えてきます。
*土坡は、小高く盛り上がった、なだらかなカーブで描かれる地面の起伏のことで、それは日本庭園のいたるところで見られ、また日本の絵画や工芸などで意匠化され、好んで表されています。

梅 花
紫式部梅の絵写真  日本で初めて梅花を絵画にしたのは、「源氏物語絵巻」といわれ、その絵巻には鶯が枝にとまっている梅花の絵が描かれています。源氏物語りの以前にも、すでに梅花が文様として用いられはじめられており、菅原道真が梅花を好んだことに因み、天満宮の神紋として用いられるようになったといわれます。そして、加賀藩や大聖寺藩は、道真公(加賀権守の官位に就いたこともあります)を尊んだことから、梅紋を家紋としたとのです。
 江戸時代は、まさに梅花の流行の時代といってよく、紅梅がもてはやされました。武士ばかりではなく、庶民にも園芸熱が広まり、梅木が庭木として、また神社の鑑賞用としてもてはやされ、自然と美術工芸品に広く取り上げられる対象となりました。

松竹梅合わせ写真  中国では「梅」「蘭」「竹」「菊」 の草木が「四君子」と呼ばれ、古来より人々に愛されています。唐代から、多くが梅花とか桃李が詩で詠じられました。さらに、宋代には、竹を水墨画の主題として描きはじめてからあと、梅・蘭・菊・松へ広がりを見せていき、その中でも、松・竹・梅の三者が特に頻繁に取り上げられるようになりました。そして、元・明代には、松竹梅が陶磁器の主題としても好まれるようになったといいます。
 ですから、古九谷でも、梅花を中心に描かれたもの、慶事の象徴としての松竹梅を描いたものなど数多くあり、裏面に染付の槍梅文に赤い梅花を描いた作品もある。

菊 花
菊花2枚組写真  菊花は、日本には、中国での故事に因んで、奈良時代末に遣唐使によって薬草として伝わり、その後、鑑賞用として愛されるようになりました。そして、平安時代末期、後鳥羽天皇・上皇が菊花を殊のほか愛され、それを文様として車・調度、さらに衣装などに用いたことが代々続いたことから、菊花が皇室の御紋として認識されるようになりました。
 桃山から江戸の初期にかけて、菊花は、自然のものとして、それ自体の美しさで愛されましたが、一方で、寺院、武将たちの大規模な殿舎などの豪壮な障壁画にも取り入れられました。そして、工芸の分野でも大いに取り上げられ、とりわけ、尾形光琳は、菊花を「白綾地秋草模様小袖」に意匠化し、「秋草図屏風」にも描いた。こうして、光琳の描く菊を図案化した「光琳菊」も広まっていったといいます。
 従って、菊花は、古九谷においても、平鉢から小皿までに広く及び、また壺などにも多く取り入られた。そして、裏面に菊唐草文としても多く描かれたのである。

桜 花
桜花写真  日本人は、古くから、ものごとを諸行無常といった感覚にたとえてきましたので、ぱっと咲き、さっと散る、そんな桜花の姿にもはかない人生を投影してきたのです。ですから、桜花を好み、美術工芸の世界でも、長谷川等伯、琳派の画家らによって、梅花と同じくらい画材に取り上げられています。
 やきものの世界では、桜花は、江戸中期の鍋島焼の中に、あでやかな春の花として華麗に絵付けされた作品がありますが、他の花に比べて画材としては珍しいといえます。
 古九谷では桜花を画題とする「青手 桜花散文平鉢」(石川県立美術館蔵)があります。それは、鍋島焼の桜花と異なり、「花は桜木、人は武士」(花では桜が第一であるように、人では潔い武士が第一である)といわれるとおり、まさに大聖寺藩の藩士でもあった絵師のひとりが、武士道の象徴を表すかのように仕上げたとも考えられています。
 黒の呉須で描かれた菊小紋で埋めつくした緑の地、そこに散り落ちて行く桜花と葉を群青で絵付をしているだけですが、古九谷愛好者だけでなく、多くの美術品の鑑賞者にも好まれている作品といわれます。

    

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