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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

明治九谷の特色

 明治期の九谷焼においては、江戸期の様式、絵の具などを受け継ぎながらも、明治期に入ると、欧米から求められた貿易九谷への注文(好み)に合わせるように、明治政府による図案指導などが加わり、より技巧的に、また絵画的にその画風を変化させましたが、その過程でいろいろな改良、開発がありました。
 九谷焼に大きな変化を及ぼすきっかけとなったのは、明治7年(1874)のウィーン万国博覧会であったといわれ、その後の九谷焼は、貿易九谷を中心に、洋絵の具による日本画的な華麗な画風を求められました。一方で、それに反発すかのように、九谷五彩に彩られた精緻な画風を見せました。大きく変化しながらも、伝統的絵付も蘇らしたのが明治・大正期の九谷焼の特色となりました。

 解説の項目
  1.様々な絵付技法
  2.洋絵の具の使用
  3.多彩な陶画工
  4.制作者の銘 ほか

1.様々な絵付技法

主な事例

明治10年(1877)頃~ 虫喰い(口縁に釉薬の釉剥げ)の技法、石目打ち(花鳥、山水図に細かい点を並べる技法)が使われました
明治15年(1882) 清水美山が盛金絵付(*1)を始めました
明治18年(1885) 清水美山が松岡初二と協力して四分一色を上絵に表す方法を始めました
明治30年(1897)頃~ 洋油彩、水金(みずきん)が普及し始めました
大正元年(1912) 青粒、白粒の技法が広まりました 水田生山が始めたといわれます
大正2年(1913) 中村秋塘が砡質手(*2)を開発し、その手による作品は優品として好評を博しました

(*1) 盛金の技法
美山の盛金絵付 盛金の技法とは、ろくろ形成された生地の上に絵具を塗り重ね、焼き重ねながら、ひとつひとつの模様を型取り、最後にその上に本金を塗り重ねる方法。高い技術力が求められ、あまりに手間暇がかかったため、一時途切れましたが、再び三階湖山がこの絵付技法を広めました。

特異な絵付技法

中川二作
  中川二作は、白磁彩描、泥金描の法、顔料精選法、メノウによる陶画摩擦など、技法の開発、改良に尽くしました。

初代 武腰泰山
  初代 武腰泰山は、赤絵、金さしなどの手法を織り込み、また和洋の絵の具を使いわけるなどして、花鳥、山水、人物を繊細な運筆で巧みに描き、泰山には上絵で描けぬものがないとまでいわれました。

初代 石野竜山
  石野竜山は、明治35年(1902)、上絵釉を用いて、釉下彩に等しい黄彩、緑彩、染付藍、茶褐釉、淡縁釉、桜色氷裂釉、真珠釉などを次々に開発しました。作品においてそれらの釉薬を用いて作品をより高尚なものに仕上げました。

三階湖山
  三階湖山は、薩摩風の盛金絵付において人気を博しました。当時、九谷焼の盛金絵付では盛り上げた絵の具の上へ金付をしたものだけであったので、金のみで行う薩摩風の盛金絵付が出来る陶画工は湖山だけであったといわれます。

蘇る色絵と青九谷

松本佐平
佐平の孔雀と牡丹  松本佐平は、明治22 年(1889)頃から赤九谷を制作しなくなりました。それは、能美郡内で赤九谷において多くの陶画工や数々の優品が生まれていたにもかかわらず、青九谷においては粗製乱造されていたことを目のあたりにして、本来の青九谷の良さを取り入れた作風を創りだすことに専念するためでした。
 数年に及ぶ研鑽の末、明治26年(1893)頃、赤九谷と青九谷の双方を融合した「松雲堂風」という画風に至ったといわれます。「松雲堂風」の作品の特色は、画材を器面全体に描く点にあり、より絵画的な作風になったことでした。画材を描くための十分な余白を確保し、白い器面に意匠を絵付しました。その意匠の多くは、赤絵で盛んに描かれた百老図や唐子などの人物などの画材はほとんど用いられず、色絵(多彩な絵の具)で描かれた花鳥図で、特に“孔雀に牡丹”は佐平オリジナルの意匠になりました。

石田聚精
 石田聚精は、作品自体に裏銘を附したものはないものの、吉田屋窯に似て濃密な青九谷系の着画を得意としました。箱書きに北玉堂聚精と書いた青九谷があり、そうした作品の一部は、貿易が盛んなとき、海を渡ったといわれます。

小酒磯右衝門
 小酒磯右衝門は「高堂絵付」と呼ばれた作品を残しました。その特色は、構図が雄大で、山水図を写生風に配し、気品のある点でした。特に緑を基調とした画風は重厚なもので、大変に人気を博しました。

初代 松本佐吉
 初代 松本佐吉は、明治41年(1908)、佐平の養子になり「松雲堂」を引き継ぎました。佐吉の作品は、九谷五彩(青,黄,紺青,紫,赤)を駆使して青九谷の美しさを表現し、古九谷、吉田屋窯などの絵柄と色合いの再現に情熱を注ぎこんだものが多くありました。このために、佐吉は明治九谷における青九谷の巨匠とまで称されるまでになりました。

初代 中村秋塘の砡質手 (*2)

砡質手  砡質手は、大正2年(1913)、中村秋塘によって開発されました。ただ、この技法は初代だけが使えたもので、いまだ再現が難しいとされています。
 例えば、薄い赤色(桃色)を発色する砡質手の作品を制作する場合は次のように絵付がなされたと考えられています。まず、赤絵の具を薄めたものを下地として全体に塗ります。同じ絵の具を延ばしに延ばして薄くしているので、赤ではなく、朱や桃色に見えます。ムラのないように均一に塗る作業にかなりの技術がいります。
 次に、白の和絵の具(白盛)で文様を描き、下地を残して一部の白盛を細く削り、文様をよりはっきりさせます。そして窯で焼くと、半透明のガラス層ができます。この白盛を重ね塗りする作業を繰り返して何層かのガラス層を作ります。
 こうした一連の作業は容易に見えますが、一度に和絵の具を厚く盛り上げると、釉切れ(下地の一部が見える釉薬不足)や、釉の剥離が起こることがあり、出来るだけ薄く着彩し、ガラス質を際立たせます。こうして、硬く、美しい発色をする砡ガラス(*)ができあがり、下地の色がかすかに透けてみえてきます。
(*)砡とは、もとは砡ガラスと呼ばれ、半透明の白色ガラスに透明度のあるガラスを重ねて作られたものです。この白色、乳白色の半透明ガラス状のものが砡と名付けられました。

2.洋絵の具の使用