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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

 古九谷・再興九谷の特色 解説の項目
  1.九谷焼独特の絵付と絵の具
  2.九谷焼の伝統となる様式
  3.絵画的な図案・文様

2.九谷焼の伝統となる様式

 古九谷の廃窯から約80年後、九谷焼は再興九谷の時代に入り、古九谷の再興を目指した青手の吉田屋窯、色絵・五彩手の若杉窯、そして赤絵金襴手の宮本窯など数多くの窯とそこで活躍した画工たちが現われ、それぞれにすばらしい伝統的様式を創り出しました(参照 九谷焼の歴史)。九谷焼は古九谷の時代に生まれた伝統的様式を源流にして、今日も盛んに作られ続けています。

青手

青手写真

 青手はその基本的な色が深みのある緑と黄、これに紺青と紫が加わり、赤を使わない様式です。日本では古くから緑を青と呼んでいたことから、このように呼ばれ、九谷焼独特のものであることから青九谷ともいわれます。
 古九谷には、赤色を全く使わず、緑・黄・紺青・紫のうち三彩または二彩のみを使用している青手古九谷と呼ばれるものがあり、器体の表裏を埋めつくす塗埋手になると、さらに豪華さが増してきます。古九谷が作られた頃は長い戦さから50年以上を経て、自由闊達な気運が広がる中にも障壁画に見られる絢爛華麗さも追い求める空気が残っていて、大胆かつ華麗な作風を見せる様式が生まれたといいます。その意匠は創造的であり躍動的で、きわめて絵画性が強く、日本の油絵といわれています。
 この様式は、江戸後期に、再興九谷の吉田屋窯、次いで開かれた松山窯にも見られ、新たな青手九谷の世界を創りました。吉田屋窯の基本は青手古九谷の技法を踏襲しながらも、白素地(やや黄ばんだものも)を見せる部分と四彩の絵具がうまくまとめられた色絵ともいえる作品があります。それらの筆運びの速度が増し、そこに漂う特有の軽快さを、そして、江戸時代後期の九谷焼特有の緻密な繊細さが感じ取れます。
 吉田屋窯が閉じられたあと、松山窯でも青手九谷が作られました。この窯では紺青に不透明な花紺青が使われ、緑は黄味が多くまた紫はやや赤味がかかっています。意匠は青手古九谷を意識したものも含まれます。
 青手九谷は、明治以降「ジャパン クタニ」で大いに人気の出た赤絵金襴手と対極にある九谷焼独特の様式として、徳田八十吉などの作家によって多様化して受け継がれています。

色絵・五彩手

色絵五彩手

 九谷焼でいう色絵は、普通、赤・緑・紫・群青・黄の五彩をうまく用いる五彩手を指し、特に、古九谷に始まるこの五彩を九谷五彩と呼びます。五彩手の絵付は図案を呉須で線描きしたところにこの五彩の絵の具を自在に活かしながら厚く盛り上げて塗る彩法です。いったん高温で焼きあげた白磁や染付の上に五彩で絵付し、再び錦窯に入れて焼きつけます。
  一方で、こうした九谷五彩と趣の異なる粟生屋源右衛門の色絵があります。軟らかい陶胎に白化粧をほどかし、粟生屋特有の諸色(緑・黄緑・花紺青・黄・薄紫・茶など)で文様を絵付しています。このほかにも、春日山窯・若杉窯・小野窯・蓮代寺窯の諸窯で焼かれ、任田屋徳次・永楽和全の一部の作品にもこの様式を見ることができます。
  九谷五彩が生まれたのは、17世紀中頃に、明末清初の時期に色絵祥瑞・交趾・天啓赤絵・南京赤絵といった多種多彩な五彩磁器が日本に盛んに輸入されたのに伴い技術も導入されたことに始まります。色絵祥瑞をもとに穏やかな独特な九谷祥瑞手を生み出し、中国の赤絵をもとに濃厚な色彩の色絵が制作され、古九谷に始まるこの様式に連綿と受け継がれてきました。
  九谷五彩の特徴は、窓絵という構図をとり、その中に、狩野派や琳派の絵画、漆芸、染織、欄間彫刻の文様などに誘発されて完成された絵付がなされ、題材を絵画的・写実的に描いていることも特徴です。山水、花鳥、などは絵画的で絵画を見ているようであり、熟練された絵師の筆づかいを感じます。

赤絵・金襴手

赤絵金襴手

 九谷焼の赤絵は独特の細密描画の様式をとっています。絵付には職人の高い技術が要求され、にじみにくい赤絵の具の特性を活かして、文様を器全体に細描と呼ばれる細かい描き込みが施され、その周りを小紋などで埋め尽くすといった絵柄と色の華やかな取り合わせを見せ、その採苗は驚嘆に値します。
 そして、背景を主に赤で塗り埋めた器体に金彩で絵付した様式は赤絵のなかでも特に金襴手と呼ばれています。赤絵の具で上絵付した後,広くは金泥も含む金箔などの金色を焼き付けて文様を表したもので,赤と金との配色が織物の金襴の趣に似ているところから日本でこう呼ばれてきました。
 赤絵・金襴手は、中国宋代に始まり、明・清代に極めて発達しましたが,日本では江戸時代中期に、愛好されていた嘉靖金襴手を取り入れて、伊万里金襴手がつくりあげられました。そして、江戸後期、九谷焼でも、吉田屋窯のような寒色系中心の彩色から赤を中心とした細描で精緻な赤絵に変化していきました。先駆者として、京焼の名工  青木木米の指導により金沢の春日山窯で制作されたことに始まり、その後、金沢の民山窯で蘇り、さらに宮本屋窯で、飯田屋八郎右衛門を赤絵細描のルーツとする赤絵の様式(八郎手)が確立されました。
 加えて、慶応年間、金襴手が永楽和全によって九谷焼に持ち込まれました。和全は特に金襴手が得意で,金泥を用いながら、金箔を使った中国金襴手に劣らない豪華さを表現し,京の明るく都会的な作風を九谷焼に取り入れられました。明治に入ってからは竹内吟秋・浅井一毫らによって八郎手と金襴手を融合させられました。こうした様式は金沢と能美郡にも広まり、九谷庄三により大成された彩色金襴の手法は「ジャパンクタニ」で大いに人気となり、九谷焼の様式の大きな支柱の一つとして完成し、今日九谷焼の中に深く根付いています。


補足 作風として

粟生屋焼 陶胎の上に白化粧し透明釉をかけ、諸色の上絵の具で文様を施すもので、木工品のような独特の趣のある作風が特色です。
庄三風 庄三はそれ以前の九谷焼に見られた顔料釉薬のみで表現してきたものから、洋絵具を使った中間色によって多彩にの絵付された精緻な描画の作風技法「彩色金欄」の技法を確立させ、明治九谷を世界に広めました。
伊万里風 明治から大正にかけ人気のあった、上絵付、金彩のほどこされた染錦、九谷柿右衛門と呼ばれる柿右衛門写し、鍋島写し、染付もあり、かなり広範囲にわたり伊万里焼を本歌取りしたものがありました。特に、上手(じょうて)の古伊万里(元禄時代の作品を中心にした)を本歌取りして作られた大聖寺伊万里は、八郎手の赤絵細描や永楽和全の金襴手の技法をも受け継いできたものであるといわれます。

3.絵画的な図案・文様 へ