古三田焼は江戸時代に焼かれた三田焼をいいます。三田焼の始まりは1750年代とされ、だいたい古九谷の窯が廃絶してから50年後くらいの時期です。その後、色絵磁器の九谷焼ということからは少し外れますが、三田焼の一つの最盛期と呼べる時期が文化年間(1804-1818)にあたり、吉田屋窯が開かれる少し前の1800年代初頭です。京焼の名工
欽子堂亀祐(きんこどうかめすけ)が京から三田に招かれ、青磁とか型打ちによる成形技術を三田に伝えたことによって製陶技術が飛躍的に向上しました。その後、九谷焼と交流することにより、九谷焼に似通った色絵磁器も盛んに作られました。
展示会では三田焼が45点展示され、そのうち36点が色絵付けを施したものですが、三田青磁が有名ということもあり、青磁が9点出品されています。そして、九谷焼の27点が三田焼と見比べるという形で展示され、特に三田焼と関係が深いといわれる蓮代寺窯の作品と陶磁片1点が展示されています。
三田焼の最盛期の後、三田焼と九谷焼が技術的に交流したということが作品に出てきます。その交流の始まりとは、松屋菊三郎が三田にきて色絵の技術を伝えたことから始まったといわれています。
陶工を志した菊三郎は、天保年間(1830-1844)に、まず、粟屋源右衛門から製陶の技術を学び、ほぼ同じ時期に斉田道開、古酒屋孫次から陶画、主に赤絵の技術を学びました。菊三郎がこうした技術をもとに三田藩の九鬼家に招かれて作陶に従事したと伝えられています。
これまで研究されてきた『定本九谷』あるいは『九谷焼330年』の記録から見ると、文政3年(1820)生まれの菊三郎が三田へ行った年が天保8年(1837)になることから、18歳というだいぶ若い頃に行ったことになります。この天保8年から2年後の天保10年、菊三郎が近畿に残り、京焼の尾形周平、楽焼の山本脩英などから作陶や陶画の技術を学ぶことによってさらに腕に磨きをかけ、その後、幕末の1847年に小松の蓮代寺窯を開き、立て続けに小野窯、九谷松山窯に参加します。
ですから、菊三郎が熟練の陶画工となり、技術指導のため三田に向かったというのなら、素直に納得できますが、いまだ修練している頃に行ったことから、おそらく、作陶のアシスタント・助言役のような形で三田に向かったと考える方が自然ではないかといわれています。
ただ、菊三郎というキーマンを介して、三田焼と九谷焼との間で色絵技術の交流があったということは言えます。それは、似通った作品が非常に多く伝世され、奇しくも菊三郎が立ち上げた蓮代寺窯の作品と三田焼の色絵の作品において、絵柄や作陶に似通ったものがあることなどから推しはかれます。
展示会場において、作品につけたキャプションの帯のところに青で縁取りしてあるのが「三田焼」、緑で縁取りしてあるのが「九谷焼」と区別して展示されています。見ると、区別がつきにくいほど似通った作品が多くあることがわかります。
三田焼「色絵雲鶴仙人図角皿」 蓮代寺窯「色絵雲鶴図角皿」
三田焼の作品(ポスター左上)は雲鶴仙人と呼ばれている鶴の上に仙人が乗っている図で、蓮代寺窯の作品(ポスター右下)は鶴だけが飛んでいる図です。
鶴の絵の描きぶりも、その周りの雲の装飾とか、縁周りの文様なども非常に共通性があり、器の形も同じ角皿で、縁の部分の立ち上り角度なども似通っています。
絵付の技術でも共通しています。磁器の素地の上に色絵の具をのせたというものではなく、まず陶器質の素地を作って白化粧をかけ、その上から色絵具を塗っています。この技術は粟生屋源右衛門の粟生屋窯などでたまに使われている技術で、三田焼と蓮代寺窯の色絵作品にも見られ、この点も双方の共通点として指摘できます。
三田焼「色絵六歌仙図隅切長角皿」 吉田屋窯「六歌仙図額鉢」
この2点も絵柄にがた作品です。六歌仙を題材にした三田焼の角皿と、同じく吉田屋窯の角皿です。ただ、三田焼にはいわゆる額鉢という器形がそれほど多くなく、この長四方の角皿が割と多く作られています。九谷焼に全くないということはないのですが、三田のオリジナルの形とでもいえそうです。
長四方の角皿は今回4点が展示され、そのうち蓮代寺窯が1点ですが、三田焼ではこうした形の作品が多く作られています。縁周りの文様とか、絵の描きぶり、絵の割付の仕方などは松屋菊三郎個人の技術指導が実際に入っている・いないは別として、九谷焼との交流が少なからずあったということが、こうした作品を見比べてわかります。
三田焼「色絵竹虎図隅切長角皿」 古九谷「青手竹虎図平鉢」
似通った絵柄としては竹虎の図もそうです。古九谷は平鉢で、三田焼は長四方の角皿ですが、いずれもかわいい感じの虎が描かれ、共通したテーマとなっていることがわかります。
三田焼「色絵樹下人」 松山窯「双馬図平鉢」
平鉢の三田焼の割付が、縁の窓枠の切り方などにはそれぞれに微妙に独特なところがありますが、松山窯と似通った四方の形で割付けられ、その中に絵が描かれています。
三田焼「色絵蜃気楼図皿」 吉田屋窯「竜宮図大平鉢」
二つの作品は蜃気楼の中に宮殿が浮かび上がっているという同じ画題で描かれています。吉田屋窯の蜃気楼の図は、龍が蜃気楼を吐いていて、楼閣を竜宮殿に見立てるというものです。三田焼の方は、出光美術館蔵の吉田屋窯「蜃気楼図平鉢」とまさに同じで、蛤(ハマグリ)が蜃気楼を吐いて竜宮殿に見立てています。
三田焼「赤絵唐人物図鉢」
三田焼の赤絵にはかなり技量的にも九谷焼と遜色のない作品があります。唐人物を描いた鉦鉢(ドラバチ)は、見込みの唐人物も、その周りの恐らく龍生九子(中国の伝説上の生物で、竜が生んだ九匹の子を指す)も、文様などが細かく、発色もよく、非常にすばらしい作品です。宮本屋窯の作品に見られる文様の割付、細描のテクニックが、三田焼にいかんなく発揮されていることが見てとれます。
その他にも、三田焼の赤絵作品は、絵も細かく素地もいいので、製陶が違うのかと思えるほどです。五彩手風色絵の半陶半磁に白化粧をかけて色絵具を施した作品(「色絵雲鶴仙人図角皿」)よりも素地がよくなっています。特に、この作品は、少し時代が下って、製陶技術がより向上した後の段階で作られた作品と考えられます。三田焼の古い資料というのがほとんどなく、制作の時代を特定できるものがほとんどないのですが、比較的新しい作品なのかも知れないといえそうです。
渦雲文様
並べられた4点の九谷焼の裏がすべて渦雲の文様で塗埋めされていますが、三田焼の裏も渦雲文様で処理してある作品が多くあります。恐らく、こういった図案は、三田焼と九谷焼が交流する中、色絵の技術とともに三田にもたらされたことによるものと考えられます。
三田焼には長四方の角皿が割と多く作られ、三田のオリジナルの形とでもいえるといえますが、他にも型をおこしていないような三田焼の中に、本当に異例の作品が見受けられます。「色絵龍桜閣図大鉢」はどうやって使うのだろうかというような大きな鉢です。九谷焼の技術が三田焼にきちんと伝わっていたともいえるし、あるいは、三田のオリジナルの成形技術がここまで高まっていたという証左ともいえる作品です。絵具の発色もよく、非常に希少価値のある作品であり、大きさの面で三田焼の色絵を代表する作品です。
三田青磁の作陶
一般に、青磁の場合、単一の緑の釉薬で絵付けしますので、成形によって素地の段階から浮文、レリーフの形を作り、文様を浮き出して、そこに釉薬をかけ焼成します。
もともと三田は青磁で有名な産地で、伝統的に焼物を作る確かな技術があったところなので、京の欽子堂亀祐によって青磁の技術、あるいは型打ちの技術が三田の方へ伝わり全盛期を迎えました。その後に、松屋菊三郎が色絵の技術を持ち込んで三田焼にバリエーションが増えたというような流れになったと考えられます。最初に青磁の成形、青磁釉の美しさというものが三田焼の技術のベースにあって、それに上乗せされるように色絵技術が開いたと考えられます。この点から、三田焼の伝統ということでいうと、青磁の質が高いといえそうです。
北出塔次郎、不二雄の親子は三田出身です。二人に関しては、完全に九谷焼の本流であり、三田焼の影響というよりは九谷焼ならではの伝統的な色絵具の絵付けによって九谷焼の技術を高めたといえます。ただ、三田から加賀にやってきたというのも、九谷焼と三田焼との間に人や技術の行き来があり、そうした伝統の流れの中で二人がやってきたのではないかと考えられます。
*この資料は、2013.11.3 に行われた、石川県九谷焼美術館の師岡学芸員による「古三田焼と九谷焼展」ギャラリートークから古三田焼と九谷焼との間であったとされる人的交流と、作品の似通ったところをまとめました