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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

古九谷再興物語 青手九谷 吉田屋の魅力 凱旋展  開館10周年特別展 Ⅱ

吉田屋展リーフレット写真

 「古九谷再興物語 青手九谷吉田屋の魅力」凱旋展は、石川県九谷焼美術館開館10周年を記念する特別展として開催されています(2月16日~3月20日)。本年1月に大阪で開催され、盛況であった「古九谷再興物語 青手吉田屋の魅力展」の里帰り展です。
 平成17年12月から東京をかわきりに全国5か所で「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」が開催されたことがありますが、それに次ぐ規模で、展示品数は、石川県九谷焼美術館の78点と九谷焼窯跡展示館の37点と合わせ、総数115点に及び、初公開の作品もあるなど、見ごたえのある内容となっています。
 本展が「古九谷再興物語」と名付けられたとおり、吉田屋窯は、大聖寺の豪商 吉田屋伝右衛門(四代)が古九谷に魅せられ、晩年に情熱の全てを注ぎ込んで、青手古九谷を見事に再興した九谷焼なのです。忽然と九谷古窯の火が消えてから百年以上も後の文政7年(1824年)に、吉田屋窯が九谷村にあった九谷古窯跡に隣接して築窯され、1年後に山代村の越中谷(現在の九谷焼窯跡展示館のあるところ)に移窯されたあとも、“九谷”の地で始めたということもあって、吉田屋窯は九谷焼と呼称されたのです。

吉田屋優品3点写真

[吉田屋窯のピーク時の3点]

 展示されているピーク時の吉田屋窯の作品を見ると、“九谷は絵付けを離れず”のとおり、やはり古九谷の伝統を受け継いでいるのがわかります。その絵付は、デザイン画、あるいは日本画というべきものであり、その絵具の調合の技量は完成度が高く、透明感のある緑と黄のせめぎ合いによるコントラストは見事です。中心となった絵付師は粟生屋源右衛門、鍋屋丈助、越中屋幸助の3名で、いずれも加賀国出身者でしたが、それぞれが違った絵付を見せてくれています。古九谷の再考を意識した豪放な青手もあれば、逆に古九谷にないグラデーションの手法、周辺部分のデザイン性、意匠性を楽しませてくれる青手もあります。
 そして、鍋屋丈助の娘二人が型による様々な形状の作品を残したが、展示の菓子鉢には、花びらをあしらったとも思える、女性の感覚で制作した作品もあって、古九谷には見られない吉田屋窯の魅力でもあります。
 こうした吉田屋窯に携わった人びとに関する記録は、「吉田屋文書」(豊田家に伝えられてきたもので、現在は加賀市所蔵で加賀市指定文化財)に残されています。その文書から写した人々の記録の部分が展示パネルで示されています。
 当然ながら、吉田屋窯の作風に反映したのは、窯主の吉田屋伝右衛門(四代)の文人趣味に裏付けられた文化的情熱であり、しっかりと青手古九谷を意識した独自のものがあった。このため、当時の大阪、京辺りでは文人の間で九谷焼の良さが認識されていたことがわかります。
 それを示すのが頼山陽の書簡です。展示のパネルに、頼山陽が文政12年、越中富山の折橋儀左衛門宛に「九谷焼を度々贈って・・・愛用しています。」と書簡を送っていますが、翌年の書簡には「いつぞや贈ってもらった九谷焼の菓子鉢は、当今の磁つまり吉田屋窯の製品かと思っていたら、古窯つまり古九谷だということだ。観る者が皆、褒めるので、大いに珍重している。自分は骨董に眼利きでないので今の九谷焼だと思っていた。恥じ入ることだ。」と書かれているということです。
 古九谷が加賀の地に伝世されてきた中、吉田屋窯の後、大聖寺藩の厳しい管理下に置かれた御上窯(おかみがま)であった松山窯で青手九谷が再び焼かれました。松山窯は青手の技術を継承したものでした。この窯で中心的役割を果たしたのが粟生屋源衛門でしたが、彼の死によって藩が助成を止めて民営化されると、全く違う作風になったといわれます。ただ、その後も、古九谷以来の九谷焼の伝統技術は連綿と継承され、更には宮本憲吉、魯山人らの色絵の系譜に引き継がれて行ったのです。
 吉田屋窯は僅か7年で終焉を迎えましたが、この窯の存在がなかったなら、現在の九谷焼はなかったといわれているのも過言ではないのです。そうした意味から、吉田屋窯は九谷焼中興の祖といえる吉田屋伝右衛門がその情熱と全ての私財を注ぎ込んだ古九谷の再興を物語る窯といえるのです。


*この資料は、平成25年2月16日、石川県九谷焼美術館で行われた、同館副館長中矢進一さんによるギャラリートークをもとにまとめたものです。