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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

大 聖 寺 伊 万 里

大聖寺伊万里鉢写真

 『大聖寺伊万里ふたたび ~染錦と柿右衛門~』展が平成23年2月26日~5月8日の会期予定で開催されています。大聖寺伊万里は、明治初期から昭和にかけて、旧大聖寺藩の地域で国内外からの注文に応じて大量に生産されました。そうでありながら、美術工芸品としての高い品質を保ち続け、伊万里の写しとして好評を博し、数々の大聖寺伊万里の伝世品が遺っています。多彩な美術工芸品を生んできたこの地方であるからこそ、より良いものを作ろう、それに近づこうとする本歌取り*の精神から、写しとはいえ、大聖寺伊万里という九谷焼の一つのジャンルを築いたといえます。
*本歌取り(ほんかどり);歌学における和歌の作成技法のひとつ。すぐれた語句、発想、趣向などをもった有名な本歌の1句もしくは2句を意識的に自作に取り入れる表現技巧。現代でも絵画や音楽などの芸術作品で、オリジナルの存在と、それに対する敬意を明らかにし、その上で独自の趣向をこらしている点が単なるコピーとは異なるとされる。
 大聖寺伊万里は、上絵付、金彩の施された当時人気の染錦の様式を主に、九谷柿右衛門と呼ばれる柿右衛門写し、鍋島写し、染付だけのものもあり、かなり広範囲にわたり伊万里を本歌取りしたものです。陶器商人の販売意欲から、明治4年の廃藩置県以降、大聖寺藩の積極的な支援と保護から一時も早く離れる努力がなされ、輸出品や日用品として大量に生産され、用いられるようになりました。
 明治期のことでしたから産業として生産することを考えました。江沼郡(現 石川県加賀市の大聖寺、山代、山中町など)の九谷焼の陶画工たちは、古九谷以来の一品制作の姿勢を改め、分業によって、同じ形状のもの、同じ図・文様のものを大量生産に取りかかりました。
 先ず、旧藩窯の松山窯で陶工であった松山清七(後の大蔵壽楽)らの努力で、九谷や花坂の陶石に肥前産の陶石も混ぜ合わせて、伊万里の本歌取りに適した素地に改良し、また土型を取り入れて同形同寸のもの(型ものといわれる鉢、菊型皿、姫皿など)を大量生産する体制を作りあげました。こうして、陶工たちは染付まで仕上げた“伊万里下”(いまりした)」と呼ばれた素地(半製品)を大聖寺にいる画工たちに大量供給することができるようになったのです。
 その後、“伊万里下”は、大蔵窯をはじめ、松山窯の陶工で明治初年に栄谷で開窯した北出宇与門の北出窯(のちの青泉窯)、松田半与門の松田窯(のちの蘇川窯)、勅使の東野窯、ほか旧能美郡の八幡の窯元などでも焼成されました。その“伊万里下”の上に大聖寺の優れた画工たちが絵付けし、素地は山代、上絵は大聖寺という分業の下で、大聖寺伊万里の大量生産の体制が確立しました。
 画工は、竹内吟秋、その実弟の浅井一毫、吟秋が養成した大聖寺の画工たちで、そのひとりに初代中村秋塘も含まれていました。こうした事情から上絵の描かれた素地を焼く錦窯が大聖寺町に集中したといわれます。
 大聖寺伊万里は、上手(じょうて)の古伊万里(元禄時代の作品を中心にした)を本歌取りして多く作られた作品が多かったので、良くできた作品が多いといわれます。染錦は染付をベースにして渋い赤で丁寧に描かれた絵付と金の装飾が特徴ですが、この様式は八郎手の赤絵細描や永楽和全の金襴手の伝統技法をも受け継いできた当時の九谷焼に共通するものでした。
 特に、大聖寺伊万里の特徴として、大聖寺の赤絵の画工たちが、赤絵細描の良い仕事をするために、品のいい色合いのある独自の赤絵の具を伊万里写しの線描、赤濃み(だみ 染付の技法の一つで,線と線との間の面を塗りつぶす絵付の技法)に使ったことがあげられます。さらに、画工の中には、釉薬の研究を積み重ね、本歌に用いられた絵の具の再現に取り組んだ画工もいて、どこまでも本歌に近づこうと努力したといわれます。
 こうしたことから、大聖寺伊万里は、明治期に入って衰えかけた九谷焼を再生する方策のために生まれたものの、九谷焼の歴史の中で注目すべき存在となっているのです。


*この資料は、平成14年9月7日から10月20日までの期間に、石川県九谷焼美術館で開催された『本歌取り九谷の華 大聖寺伊万里展』の展示図録をもとに書いたものです。