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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

古 九 谷 の 端 皿  -愛玩伝世の五彩-

 古九谷の端皿(はざら)とは、元々10枚とか20枚の組み物になっていた皿が1枚ずつ別れたもののことを指します。骨董の世界では「端皿」と言えば、古九谷の小皿とか中皿を指すくらいで有名です。端皿という言葉には馴染みが少なく、端皿である小・中皿は、大皿に比べるとやや脇に寄せられた感があるものの、もちろん美術工芸的な、そして歴史的な価値を十分に持っているのです。

端皿と平鉢写真

1.古九谷の端皿について

 石川県九谷焼美術館の説明でも「古九谷にしても吉田屋窯にしても一品ものである」と説明していますが、中皿と言われる7寸皿、端皿と呼んでいる小皿については本来一式10枚とか20枚の組皿であったのです。そのことを示す資料として、前田侯爵家から伝わった台帳には古九谷の端皿である「色絵樹下美人図輪花中皿」が20枚であると書かれています。
*古九谷での皿の呼ばれ方
江戸時代の記録によると、今呼んでいる中皿(7寸皿)が大皿となっている。加賀の国では、古九谷の場合、30センチ以上の大皿を平鉢、7寸のものを大皿と呼び、あとは小皿、豆皿となっている。

 古九谷の端皿は誕生したその時から鑑賞のためだけでにあったのではなく、本来は使うために生まれてきたものです。つまり、ある時期には取皿とか向付とか、いろいろな使い方をされたのです。それは、大皿にも言えますが、端皿をよく見ると、表面にスリ傷、使用痕、箸ずれの跡もからわかります。裏返せば、北陸加賀に伝わった古九谷の中には、確かに九谷焼のルーツであるといわれますが、ある時期までは今考えられている以上の高い骨董的価値を持っていないものがあったともいえるのです。
 しかしながら、近年、特に明治の終り頃から大正の初めにかけ、古九谷、鍋島、柿右衛門などのいわゆる鑑賞陶器の価値が大きく見直された時期があり、特にいわゆる“古九谷”と言われるものが全国的に大変高価なものとしてもてはやされました。そのため、小皿、中皿と言われるものについても10枚20枚という組皿で伝世したにもかかわらず、大変愛くるしい作品が多かったため1枚だけでも骨董の世界で流通するようになってから、こうした皿を端皿と言うようになったのです。
 ただ、古九谷の端皿に5枚組も見られることがあります。一枚きりになって伝わってきたものが多い中で、稀な例として5枚組で残っています。なぜかというと、これは茶道(茶懐石)と関係があるといわれています。

2.「古九谷の端皿」の美術的、工芸的価値

端皿3点写真

小さな宇宙の中に凝縮している九谷五彩
 古九谷の端皿で、さまざまな形の“見込み”に描かれている絵文様には人物、花鳥、山水、そして植物もあり、さまざまなものが小さな宇宙の中に凝縮されています。九谷五彩(緑・紫・黄・紺青・赤)といわれ、5つの絵の具だけで大変多彩に描かれている絵文様はまるで展覧会の絵のように見えます。口縁部分には油絵の額縁のような縁文様がついていて、額縁のデザインとしても人の目を引きつけます。
 古九谷の端皿を展覧するとき、どんな形をしているか、そして口縁の模様つまり額縁部分がどのようなデザインがなされているか、そして“見込み”と言われる中央にどんな絵が描かれているのか、こういう三つの要素からゆっくり一枚一枚絵画を鑑賞するようなことができます。

黄色の唐草は上手(じょうて)もの
 黄色の唐草を端皿全体に充填するのは非常に手間がかかることから、黄色の唐草がうまい作品は上手であると昔からよく言われています。古九谷の端皿に見られるその筆致の巧みさは、明治以降の名人達も黄色の唐草をなんとか模倣しようと一生懸命に描いてきました。しかし、古九谷の黄色の唐草のような丸みというか、美しい唐草の描き様というのは中々再現されていないのです。中には古九谷と思われる作品もありますが、実は明治時代に焼かれた古九谷写しの模倣古九谷であることがあります。

端皿の様々な形
 皿と言えば丸というふうに決まりきっていますが、実は古九谷の端皿は方形・四角、ひし形、6角と、様々です。しかも、同じ方形・四角といっても、“隅入り”という四方の角を中に入れ込んでいる、非常に凝ったものがあります。恐らく、この形状の基になったものはお盆だとかいろいろなものが既にあった漆器であろうと考えられます。中には小判型の長い丸の皿という珍しいものもあります。素地を作るとき、日本や中国の漆器の形状をある程度参考にした上で、形状を指示したのではなかろうかと想像され、形一つをとって見ても相当高い水準の形状を求めていることがわかります。

倣古九谷と模倣古九谷
 明治に入ってからの九谷焼の陶工たちは、古九谷の端皿をまず再現する、写すという仕事から手をつけていきました。大聖寺藩の元侍であった竹内吟秋が古九谷の再現に取り組み、もっとも苦心をしたところは、そこに描かれている絵、使われている絵具の発色であっと言われます。
  吟秋の子孫の家には、吟秋がその当時石川県に残っていた古九谷の持ち主を1点1点訪ね、それを全部手書きで色絵にした、古九谷図というものが残っています。そこには、吟秋が古九谷であると認識していた幕末から明治の初めにかけて存在したものが全部収められています。吟秋はそのいわゆる下絵を基にして古九谷を再現してきたもの、いわゆる倣古九谷には端皿の習作品が今に伝わっていています。
 そして、古九谷が江戸時代を通じて九谷焼のルーツであり非常に珍重されたことを示すものとして、大正から昭和初めくらいまでの間に、吟秋とかいう名工が作った倣古九谷ではない、模倣古九谷の端皿たくさん伝わっています。
 こうした古九谷写しの端皿は、大変良くできており、すばらしい出来ですが、それを作った人は贋作を作ろうとしたわけ訳ではないのです。まず、彼らは古九谷写しの端皿を習作(練習のためつくること)し、模倣するというところから九谷焼の世界に入っていったのです。やがて旅館、料亭からの要請に基づき、色を付ける人たち、形を作る人たちが、それぞれ古九谷を再現しようとして作ったものであります。つまり、我々の何世代か前の人々が料理を盛った古九谷写しの端皿を大いに楽しんだ時代があったということです。

3.古九谷の端皿の歴史的価値

銘「承應弐歳」の意味するところ
 古九谷の端皿の高台の中には何も書いてないものもありますが、書かれている銘は、基本的に「福」の字が一番多く、その次に「禄」となっていて、おめでたい文字が非常に多いのです。一方日本製の磁器には「大明嘉靖年製」という中国陶磁器の銘をそのまま写したものがありますが、明国の嘉靖(1522-1566)という年号であるからあまり意味がないのです。ところが、たくさんの古九谷の端皿に日本の年号「承應弐歳」が入っているものが僅かにあり、しかも「承應弐歳」銘以外ないためとても重要な意味を持っています。
 「承應弐歳」とは、承応2年(1653)のことで、いわゆる古九谷の窯が始まったとされる明暦元年の2年前にあたります。そこで、承応2年というのは、何かを記念した、何かがこれから始まる、そういった年号を注文主がわざわざ書かせたのであろうと考えられています。
 九谷焼作家 北出不二雄氏は「日本のやきもの 九谷」(淡交社)で『承応2年(1653年)、九谷村で白磁が焼き始められる2年前、知行高1万5千石分、侍24名が、大聖寺藩から金沢本藩に召し帰された。7万石の大聖寺藩にあって、1万5千石は大きい。費用がかかる大事業である古九谷の藩窯運営に備えて、前田利常がこれらの侍を本藩に受け入れ、利治のこの古九谷の事業を支援した』と述べられている。藩士が召し返されたことが大聖寺藩と加賀藩との間で取り決められ、いよいよ土木工事である古九谷の登窯を築くことを始めたのであろうと解釈されています。
 そして、石川県九谷焼美術館 中矢進一副館長は『古九谷色絵磁器の事業を始めるにあたり、色絵の技術が先行して加賀に入ってきたのではないか、その絵の具でもって絵付する白磁そのものが有田からの移入素地であったではなかろうか、その記念すべきときが承応2年で、素地を発注したときの銘がこれではないか』と解釈されています。加えて「承應弐歳」銘だけが突出して古九谷様式の中にあるので、それをもってどう解釈するのかについては、それぞれの立場によって違うものの、「承應弐歳」銘のある皿には大きな歴史的事実というものがそのバックボーンにあるとする見解を示されているのです。

古九谷の端皿の科学的分析からわかったこと
 北出塔次郎(1898-1968大聖寺藩の御用窯 松山窯に従事していた北出宇与門の後継者)は、所蔵していた古九谷の端皿「色絵梅樹七宝図小皿」の箱書に「小皿、向付など生活用品の小物の中には、現在古九谷と称する伊万里素地のものがかなり混在する、本品の切立(*)のある小皿は地物の一標準と見てよいと思う」と書いています。これは、古九谷の端皿には、伊万里素地の上に加賀の九谷で絵具を付けたものがかなりあるが、九谷で作った素地の上に九谷の絵具で描いたものもあるという意味します。
(*)切立(きったて)とは、底から口縁部まで垂直に立ち上がる円筒形の陶磁器を指し、胴がまっすぐ伸びたものが切立の基本形です。向付や湯呑み、貯蔵用の甕のほか花瓶などによく見られる形です。
 さらに、そのことをはっきりさせたのが、平成12年に東京医科大の中泉教授がスプリング8という大変精度の高い科学分析器を使っての分析結果です。この伝世された古九谷の端皿を分析したところ、間違いなく加賀の九谷の土で作られた素地であるということがはっきりしました。
 科学的な分析結果が出るよりもずっと以前の昭和42年の段階で、北出塔次郎が古九谷の端皿「色絵梅樹七宝図小皿」を見ただけで、「これは九谷の土である」と見分けることが出来ていたということは非常に尊敬に足るべき事実であり、かつ、その端皿により、使われている絵の具というものがやはり古九谷の基本になるという歴史的な意味を示されたのです。


*この資料は、九谷焼美術館副館長の中矢進一さんのギャラリートークから編集してまとめたものです。