Task.2 黒猫
2 結局何も食べずに帰ってきたらしい常連宿泊客のために夜食を部屋に運んでいったベイルは、対照的な彼らの姿を見て唖然とした。 やけにウキウキしながら部屋の中を歩き回るユッカ。部屋の隅で、どんより影を落としてうずくまっているラムディス。 雑貨屋の看板娘・エカトリーチェに対するラムディスの恋心も、仕事の後には店に通う彼の癖も知っていたベイルは、二人の様子を見て瞬時に状況を判断した。 が、今はラムディスに同情の視線を向けることしかできず、無言で食事をテーブルの上に置くと、そのまま立ち去っていった。 「いやー、まさかあんなのでヤキモチ焼いちゃうとはねー。案外可愛いトコあんじゃん」 ラムディスが勘違いする原因となった小さな紙切れ――割引券をヒラヒラさせながら、ユッカが笑う(実はそれより前、立ち上がる時にこそしっかり手を握っていたのだが、可哀想なので言わないでおくことにした)。 「これからどーするよ? 結局買わねーで帰ってきちまったし、明日改めて買いに行くか」 「……」 「さすがに取り置きしてもらっといて放置はマズイもんなぁ。タイムセールは逃したけど、割引券あるし」 「……」 聞いているのかいないのか、隅っこで膝を抱えたまま相変わらずどんよりとしたままのラムディス。そのあまりの景気の悪さに、ユッカはジト目で呟いた。 「あんだよ、オレにバレたのがそんなに嫌だったのか?」 「……当たり前だ」 「……ちょっとは否定してくれても……」 「否定し得る項目が果たしてお前にあるのか!?」 がば、と立ち上がり、拳を振りかざすラムディス。 「…………っち」 しばらくその姿勢で静止したまま無言でユッカの顔を見つめていたが、やがて短く舌打ちすると、くるりと踵を返して扉の方へ歩いて行く。 「おいラムディス、どこ行くんだよ」 「……」 「おいってば!」 「トイレだよっ! 俺にプライバシーはないのか!!」 そう言い捨てて部屋の外へ出て行くと、すぐ近くにあるトイレの扉を開ける音がユッカの耳に聞こえてきた。 急に静かになった部屋に一人残されたユッカは、しばらく無言で開け放たれたままの扉を眺めていた。 ゆらゆらと揺れる木の扉。そこから覗く廊下の床と壁。 「……へっ」 何がおかしいのか、ユッカは短く笑うとベッドにごろんと横たわり、腕枕をして天井を眺める。静かに瞳を閉じて、 「……そっかー。アイツもついにオレに隠し事をするようになったかー……」 呟き、テーブルの上から漂ってくる食事の匂いに鼻をくすぐられながら、彼にしては珍しく物思いに耽るのだった。 (いくら幼馴染みっつったって、やっぱりオレに知られたくないコトもあったんだよな……) 時を刻む掛け時計の音が部屋の中に響き渡る。聞こえてくる音はそれだけ。 (……遅ぇな、アイツ) うっすらと瞼を開け、さっきラムディスが出て行った方を見遣るが、戻ってくる気配はない。揺れていた扉も、今はもう完全に静止していた。 ごろりと横を向いて、ユッカは再び目を閉じる。 「……でもなぁ、お前一人でどっか行っちゃうと、オニーサンも心配なんだぜ?」 独り言を言っている自分が多少馬鹿らしくて苦笑し、再び胸中で呟く。 (心配、ねぇ……。本音はどうなんだか……) ユッカは、こんな危険な毎日から脱出して普通の生活を送りたいと思っているラムディスの密かな願いを知っていた。 彼の口から直接その言葉を聞いたことはない。だが、長年苦楽を共にしてきたラムディスの、悲痛ともとれる無言の心の叫びが、ユッカには聞こえていた。 ずっと一緒に旅をしていられるとも思っていなかった。そもそもの始まりが不可抗力だったからだ。自らの意志で発ったのでなければ、長く続ける道理もない。 (……アイツには、人並みに幸せになる権利がある。恋をして、結ばれて、家庭を築いて――) 瞼を閉じてそんなことを考えているうちに、だんだん眠くなってくる自分に気づく。あぁ、早くメシ食わなきゃ……などと思いつつも、改めてベッドから起き上がる気にもならず、ユッカはだんだん夢の淵へ引きずり込まれて行った。 ラムディスはまだ戻ってこない。 (いつか、オレと違う道を歩む時が来るんだろうな……その後のオレが何してんのか、全然想像つかねーし……) 部屋に響いていた時計の音も、食欲をそそっていたスープの美味しそうな匂いも、最早ユッカの意識の内には入ってこない。 (……でも、これだけは言えるな……アイツの幸せを邪魔する気は……ない……――) 最後に胸中でそれだけ呟き、ユッカは完全に眠りの世界へと入っていくのだった。 「……珍しいこともあるもんだな。コイツが飯も食わずに寝ちまうなんて……」 ちょっぴり長いトイレから(といってもすぐに出てバルコニーで考え事をしていただけだが)戻ってきたラムディスは、テーブルの上の食事と、ベッドの上で布団も掛けずに眠りこけているユッカを交互に見遣り、少し驚いた様子で呟いた。 起こそうかとも考えたが、あまりに気持ちよさそうに眠っているのでかえって悪いと思い、 「……ったく、世話の焼ける……」 溜息をついてブツブツと文句をたれながらユッカの元へ近付くと、布団をそっと掛けてやった。 「……ん……」 柔らかい布団の感触に一瞬反応するユッカだったが、眠気を覚ますまでには至らなかったらしく、再び安らかな寝息を繰り返し始める。 「……こりゃどう見たって俺の方がお兄さんだろ……」 その寝顔を見て、ぽつりと独りごちるラムディス。 (年上の弟なんざゴメンだけどな……) 苦笑し、ユッカの側から離れると、部屋の明かりを消し、代わりにテーブルの上のランプを灯す。そして静かに椅子に座ると、暗がりの中で遅い食事を始めた。 まだほのかに温かいスープを飲む。美味しいのは当然として、そこには手作りのぬくもりがあった。簡素だが平穏が滲み出てくる料理を眺め、ラムディスは再び思いを馳せる。 (俺にもいつか、昔みたいに平和に暮らせる日々が来るのかな……) ここのところ、ダグラム周辺の簡単な仕事を中心にこなしていた。前の大きな仕事の貯金が残っているからというのもあるが、街の人々の平和な営みに触れる日々を経て、ラムディスの中で大きな依頼を請け負う気持ちは薄らいでしまっていた。 ユッカもそれに気づいているのか、無理強いしないでくれているのはありがたかった。その代わりに、合間を見つけてユッカ単独で請け負うことが増えている。彼も平和を求めていることには違いないが、ラムディスが求めるものとは微妙に異なるらしいのだ。 ゆっくり自分を見つめ直す時間が欲しい、『平和』に埋もれてみたい――そんな気持ちが、ラムディスをこの場所で足踏みさせているのだった。 少し申し訳ない気持ちでユッカの方を見ると、 「……ラムディスぅ……」 その視線に応えるかのようにユッカが寝言を発して、ラムディスは思わず吹き出してしまった。 (……俺の夢でも見てんのか?) 自分が出てくるユッカの夢の内容をちょっぴり想像してしまい、ややゲンナリした表情を作ると、再びスープを飲み始める。それは冷めてしまっても、ラムディスにとって十分に温かいものだった。 最後の一滴まで飲み干すと、ラムディスは再び大きく溜息をつき、ユッカの方を見て呟いた。 「悪いな、ユッカ……少しだけ、俺のワガママに付き合ってくれ……」