第6話 国王と平和への祈り

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 実際はすぐだったのかもしれない。だが体感では永劫に近い時間を耐えた頃、ようやく待ち望んだノックの音が耳に届いた。
「陛下。ご休憩中申し訳ありません、失礼いたします」
 声はフラット。金属音も聞こえたから恐らくシャープも一緒だ。
 それに返事をするより先に身体の限界が来た。
 倒れ伏した時、長剣の鞘が床にぶつかって硬質な音を立てる。
 俺が扉に近い位置にいたことで外にも聞こえたのだろう、二人の声が焦りを含んだ。
「……おい、兄貴?」
「陛下、入りますよ」
 扉が開くと同時、息を飲む音がした。
「アクート……!?」
「兄さん!!」
 悲鳴のように叫んで、フラットが俺に駆け寄ってきた。シャープが青ざめて立ち竦んでいる。こんな弟たちの表情を見るのは初めてかもしれない。
「俺は大丈夫だ……騒ぎに、したくないから……二人とも落ち着いてくれ……」
 絞り出すような声を出しておいて、大丈夫になど見えないのは分かっている。
 それでもフラットは意を酌んで頷いてくれた。
「分かりました、喋らないで。シャープ、ヘオンを今すぐ呼んできてください。魔法研究所に戻っていると思います」
「…………」
 シャープの様子がおかしい。目を見開いて、ガタガタと震えている。
「――シャープ! 急いで!!」
「!! ……お、おう!」
 怒声にようやく反応したシャープは、慌てて部屋を飛び出していく。
 フラットは傷口を検分すると、真剣な表情で告げた。
「この短剣、お世辞にも清潔とは言えませんから、抜きます。すぐ時魔法で止血しますが、反動の関係で一時的な処置だと思ってください。魔法障壁が生きているうちは痛み止めの魔法が使えませんので……申し訳ありませんが、我慢してくださいね」
 うーむ、耳を覆いたくなるような宣告だな。俺は苦笑して、
「……ひと思いにやってくれ」
 と言ったら、とどめを刺すみたいに聞こえるからやめてください、と怒られた。
 ぐっ、と短剣の柄を握りしめると、フラットはそれをまっすぐに引き抜いた。
 激痛と表現するのも生易しい壮絶な痛みに、堪えようもない呻き声が漏れる。溢れ出る血液が腹を背を伝っていく感覚。
《トーン国王陛下の傷口からの血液流出を、十分間止めてください》
 祈るような時の精霊語は、身体の外側の温かな流れをせき止めた。
 俺は息も絶え絶えになりながら唸る。
「うぅ……ヘオンの到着を待ってからじゃダメだったのか?」
 俺の涙声にフラットは同情する様子を見せつつも、首を左右に振った。
「菌が奥まで入って化膿したらもっと苦しいですよ。……さぁ、床に転がったままでは冷えてお身体に障ります、ベッドへ移動しましょう。肩を貸しますから」
「……歩け、と。お前も大概鬼畜だな……」
 入口から部屋の奥までのごく短い距離が、やけに遠く感じる。
 フラットに支えてもらいながら、やっとのことでベッドに這い上がった。シーツが血で汚れてしまうのはこの際気にしていられない。
 ようやく一息ついた頃、激しい足音と叫び声が部屋に突入してきた。
 見ると、シャープがヘオンを肩に担ぎ、ぜいぜいと息を切らして立っている。こちらに尻を向けた状態のヘオンがジタバタともがいていた。
「ねえ! 止まったなら降ろしてよ馬鹿次兄、これじゃ何も見えないってば!」
 筋力がないからなのか、暴れているにも関わらず天気の良い日の布団のようにぶら下がっているヘオン。
 少し身体を鍛えさせた方がいいな……などと、ぼーっとする頭でどうでもいいことを考える。
「シャープ、降ろしてあげてください」
 フラットの呼びかけでようやく床に立たせてもらえたヘオンは、ずれた眼鏡を直しながら文句を言う。
「ちょっと聞いてよ、突然部屋に来たと思ったらいきなり抱え上げられてさ、何聞いても答えてくれ、な――……どうしたの、長兄……」
 振り返って初めて俺の状況に気付いたヘオンは一瞬呆然とした後、床の血だまりと時を止めた白髪の男を見て何が起こったかをすぐに理解したらしい。
「次兄、そいつをすぐに縛り上げて牢屋に放り込んどいて。魔法障壁を解いたら反動が始まっちゃうから」
 シャープは言われた通りアクートの手足を拘束し口に布を突っ込むと、ヘオンをそうしてきたように肩へ担いで部屋を出ていった。ずっと無言なのが怖い。時魔法が解ける前にサンドバッグ代わりにぼこぼこにしたりしないだろうか。
 ヘオンはこの部屋から脅威が去ったことを確認すると、何かを小さく呟いた。魔法障壁を解除したようだ。
 そのまま俺のベッドに近寄り、傷口を覗き込む。
「うわ、結構深いね。グリグリやられてたらアウトじゃない? これ」
「……やめろ、想像する」
「単純な傷で良かったと喜ぶべきだよ。先に消毒するね」
 相変わらずクールな言動ながら意外にも優しい声音で言うと、ヘオンは傷を指差し、
《ムジーク国王の傷口から、身体に有害な細菌を消して》
 と光の精霊語で唱えた。傷口から淡い光が漏れ出す。
 光には殺菌作用があるとは聞いていたが、こんな風に使うのは初めて見たな。俺も今度から有効活用しよう。
「これも万全じゃないから、後で改めてきちんと消毒しないと。次に痛み止めの方法だけど、二種類あって――」
 ヘオンがそう言いかけた時、扉がふいに開いた。
 ひょい、と覗いた頭は深緑色。
「トーン兄貴? 樹木の冠を持ってきたんだけど、ノックしても反応ないから……って、うわっ」
 シドだ。……嫌な予感がした。
「きゃ……っ!!」
 予感はすぐに的中する。
 シドの後ろから現れた小柄な人影はスラーだった。床の血液に驚いたらしく、ぱさ、と床に冠を落として、両手で口元を押さえている。
……一番見せたくない者に見られてしまった。九歳には刺激が強すぎる。
 痛み止めの処置前なのは辛かったが、俺はベッドで身体を起こす。止めようとするフラットを制して、小声で血と傷口を隠すよう指示した。
 シドに目配せして、傷の反対側に回るよう促す。シドは頷くと、冠を拾い、スラーに血溜まりを見せないようにして近くまで来てくれた。
 隣に立ったスラーは、潤ませた瞳をこちらへと向けた。胸の前で重ねた両手が震えている。
 突然あんなものを見て怖かっただろうな。俺は優しく笑ってみせる。
「スラー、驚かせてすまなかったな」
「……いえ……あの、トーン兄さま、どうかなさったのですか? あんなに血が」
「あぁ、不注意で少し切ってしまってな。なに、大したことはない」
 実際に血で汚れた手を寝具の影に隠し、反対側の手で身振りをつけながら説明する。
 わざとらしくならなかったか心配だったが、スラーは少しだけホッとしたような表情を見せてくれた。
「樹木の冠、完成したのか」
「あ、はいっ。……あれ」
 そこでスラーは冠を落としたことに気付いてキョロキョロしていたが、シドに手渡されると恐縮しペコペコしていた。挙動が小動物のそれで本当に癒されるな。
 これです、と手渡された樹木の冠。俺と一緒に選んだ植物が繊細に編み込まれ、そこにクロス・コスモスの橙黄とカンパニュラの薄青が鮮やかに映えていた。瑞々しい生命力が伝わってくる。
 試しに頭に載せてみた。大きさもぴったりだ。
 再度手に取り、まじまじと眺める。
「すごいな、綺麗な冠だ。これをスラーが一人で作ったのか?」
「はい、もちろん教えてもらいながらですけど……でも、『トーン兄さまがんばれ』って、いっぱいいっぱい祈りながら作りました」
 両拳を握り締め、一生懸命説明してくれるスラー。
 俺は目頭が熱くなるのを感じた。
 スラーだって寂しくて仕方がなかっただろうに、ワガママも言わず俺のために頑張ってくれたことが健気で、愛しい。抱き締めてやれないのがもどかしい。だからその代わりに、頭を優しく撫でた。
「ありがとう、スラーのおかげで勇気が湧いてきた。俺は頑張るから、どうかその目でしっかり見守っていてほしい」
 そう伝えると、頬を紅潮させたスラーは頷いて、
「……はい! 一番前で応援しますね!」
 とにっこり微笑んでくれた。
 お怪我お大事に、と会釈しながらシドと共に去っていく後ろ姿を見送って、扉が閉まった途端俺は脱力してベッドに倒れ込み、しばし悶絶した。やせ我慢は堪える。
「大人ってすぐ嘘をつくよねぇ。子供の前でカッコつけて何やってんの」
 呆れたようなヘオンの声が降ってきた。俺はそれに反論する。
「嘘なんて……一言も言っていないぞ」
「は?」
「誓言の儀は、予定通り執り行う」
 え、とヘオンが目を丸くした。
 フラットがおずおずと口を開く。
「でも、その傷を式典までに治すとなると、問題が」
「反動だろう、知っている。……だから、治さなくていい」
 時の精霊は他の精霊と違い、普遍的に『時』を刻んで世界を動かしている。この精霊に精霊語で干渉する際、必ず元の時間の流れに戻そうとする力が働く。これを『反動』と呼んでいる。
 例えば、花に時を止める魔法をかけた場合、術者から見て美しい花の姿を保っていた時間の分だけ、魔法が解けると花の時間のみが進む――つまり、術者視点では解いた瞬間枯れてしまうのだ。ちなみに、時を止めたり遅くしたり早めたりすることはできるが、戻すことはできない。
 回復魔法としての運用は、患者の生命力を反動の代償として前借りし自然治癒力を早める形で広まってはいるが、これも慎重に行わなくてはならない。
 要するに、寿命を削るに等しい行為である。怪我を治すために生命力を使い果たして死んでしまった、なんてことも起こり得るのだ。
「兄さん、ご自分が何を言ってるのか分かってるんですか?」
 信じられない、といった顔でフラットが俺を見る。
「分かっているさ。……俺は国王として、長生きしなければならない。息災であれ、と親父やシドにも言われたし、無駄に寿命を縮めたくない。我慢で何とかなるならいくらでもする」
「ですが……決行するなんて無茶ですよ、歩くのもやっとなのに」
「……まぁ、僕も時魔法で傷を治すのは反対しようと思ってたけど」
 ヘオンが溜め息をつきながら助け船を出してくれた。
「時の精霊は、時に関する全てのことをあらかじめ知ってるって言われてるんだ。それこそ重大事件や災害が起きるタイミング、生命体全ての寿命なんかもね。本来生きていたはずの人物が時魔法によって早く死ぬことで、未来が大きく変わってしまうこともある。長兄みたいに歴史に名前が残るような人には特に使っちゃダメなんだよ」
 まぁ未来がどうなるかなんてどのみち僕たちには分からないんだけどね、と付け加えて、ヘオンは肩を竦めた。
 納得がいかない様子のフラットへ、俺は真剣な目を向ける。
 頭の中で、この一ヶ月間の出来事が次々と蘇っていく。
「今日のために準備してくれた、たくさんの人々の気持ちを無駄にしたくない。今日を心待ちにしてくれている皆を、がっかりさせたくないんだ。……だから、頼む。やらせてくれないか」
 俺の懇願にフラットはしばらく逡巡していたが、とうとう白旗を上げたようで苦笑して首を傾ける。
「……もう、強情なんですから。分かりました、お気の済むまでなさってください。ただし無理だと思ったらすぐ止めますからね」
「ありがとう、恩に着る」
 俺は破顔し、理解してくれた二人に感謝の意を伝えた。
「さて、それなら応急処置だけでもしておかないとね。三兄、止血は何分した?」
「十分です」
「そろそろか。反動が今起きるのはまずいから延長しておくよ。式典の後にきちんと縫合してもらって。それと痛み止めは睡眠を伴う闇魔法じゃなくて念魔法でごまかす方法でいくね。怪我を強く意識すると解けちゃうから、今から式典が終わるまでは傷のことを絶対に考えないこと」
「……分かった」
 俺自身にも割と衝撃的な出来事だったので、考えるなと言われてもあまり自信はないが、痛みさえなければ意識しないで済むだろうと踏んで頷く。
「私は予備の礼服を持ってきます。包帯でグルグル巻きにしますから覚悟してくださいね」
 こんな状態では着替えの召使いを呼べないからフラットが着付けをしてくれるのだろうが、弟は容赦なく締め付けるつもりだ。昼食前だったのが不幸中の幸いだな。
 手当てと準備を委ね、またフラットからの報告を聞きながら、俺はショックで抜けかけた誓言用の精霊語を思い出す作業にしばらく没頭することにした。

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