第6話 国王と平和への祈り
5 翌朝、スラムの中でも比較的広い通りの中央に、臨時の掲示板が立った。 人々は突然現れたムジーク王国騎士団の姿に慄き、続いて板の設置を指示した赤髪の少女が国王の妹ソファラ=ムジークであることに驚愕し、そして掲示された紙の記載に言葉を失った。 ――ムジーク王国創樹祭、『誓言の儀』を是非最前列にてご覧いただきたい。 スラムの民を気にかけてやれていないことについての謝罪から始まり、皆に精霊の加護があらんことを、という言葉と共に締めくくられたこの告知は、驚いたことに全てが国王トーン=スコア=ムジークの直筆だった。 貧乏人や孤児が多いスラムでは満足な教育が受けられず、識字率が高くない。分からない者は読める者に読んでもらってその意味を知り、唖然とした。 字が読めなくとも、直筆の文字から感じる温かみと、何より王妹自ら掲示に赴いたという事実がその文面の信憑性を高め、畏敬の念を抱かせた。 由緒正しい式典を最前列で見られるという僥倖に歓喜する者、戸惑う者、訝しむ者さまざまだったが、人々はこぞって掲示板を囲い、王妹騎士を質問攻めにして、しばらくその場は騒然としていた。 * * * 「……ソファラ」 レミーは少し離れたところから人だかりを見つめていた。 掲示の内容は見ていないが、近くを通った住人の口に上る話題はその内容で持ちきりだったので自然と推し量れた。それを聞くたび苦い気持ちが胸に溜まる。 かたや国王の名代としてスラムに明るい話を持ち込みチヤホヤされる次女、かたや名も名乗れず戻ることも許されずにスラムでの生活を強いられた長女。 同じ王の妹で何故こうも違うのか。自分はそんなに重い罪を犯したのか。 正装に身を包んだソファラは輝いて見えた。レミーは自分の修道服を見下ろす。洗濯も満足にできないせいで、来た時より随分と薄汚れていた。その差がよりレミーを惨めな気持ちにさせる。 今すぐ駆け寄って、「わたしはこの子の姉なの」と大声で叫びたい。スラムの人間に、自分も国王の妹であることを知らしめたい。 だがそれをしたところでレミーの罪が消えるわけではないし、何より虎の威を借る狐のような卑しさが自分の内にあることに愕然とする。 「シスター、何してる」 背後から声をかけられ、レミーはびくっと肩を竦ませて振り向く。 アクートが胡乱な目つきでこちらを見ていた。 「君の奇跡を待ってる人がまだたくさんいるんだよ」 「そんなこと言われても……魔力がもうないのよ……」 レミーの消え入りそうな声より、アクートの溜め息の方が大きい。 底冷えするような眼差しを向けられてレミーは委縮する。 初日にアクートに会ってから、レミーはスラムの色付きの民を色無しに戻す、いわば洗礼の逆を行うことになった。 話を聞きつけた色付きの民がこぞってレミーの元へ押しかけ、窮状を訴えてきた。 曰く、一般居住区から爪弾きにされた彼らがスラムで生きていくには白い髪でないと辛い、と。 白髪を望まれたのは初めてで、しかも一人や二人ではないことに驚いた。 その望みを叶えることは、力がある自分にできる贖罪だと信じて、今までスラムでの生活を続けてきた。 だが、洗礼には光と念と時の精霊魔法を用いるため、その逆をやるのにも同じくらいの魔力を消費した。 レミーの魔力量ではせいぜい一日に一人が限度、質の良い食事ができない現状では回復も追いつかない。修道院での洗礼は交代制でしかも毎日ではなかったため、枯渇するのは当然と言えた。フォルスも大分縮んでしまっている。 「折角養ってやってるのに、そんなんじゃ困るな」 そんな事情をアクートは意に介しない。呆れ返った表情で、できないレミーを責める。 腕を無理に引かれて痛みに顔を歪めるが、アクートは気にも留めずに狭い道を進んでいく。 「さっきあの掲示板をずっと見てたみたいだけど、まさか君も最前列に行きたいとか言うんじゃないだろうね? スラムの住人でない君にそんな権利はないんだよ」 はっきり言われて、レミーの心はますますささくれだった。 兄王は、スラムの民へ加護を分け与えるのに、自分へは助けの手を差し伸べてくれないのか。 シャープを追い返してから今まで何の音沙汰もないことが、本当に見捨てられたのだという絶望を深める。 「……分かってるわよ」 レミーの返答に満足げに微笑んだアクートは、さらに続けた。 「大体、国王が式典の最前列に招待だって? そんなことで私たちのご機嫌を取ったつもりか。晒し者になるだけだ、馬鹿にするにも程がある」 ふん、と鼻で笑う音を語尾に付け加えて唾棄する。 レミーにもトーンが何を考えてそんな貼り紙をしたのかは分からないが、少なくともスラムの民を公衆に引き出して笑いものにする意図は感じない。兄はそんな外道な男ではないのを知っている。 「じゃあアンタは行かないの?」 「もちろん行く必要なんてない。今朝別の騎士団の人間が国王からの手紙を持ってきたが、無視してやった」 「何でよ、直接事情を訴えるチャンスじゃないの」 「話し合いで穏便に解決するような問題じゃないんだよ。今更私たちに媚びようったってそうはいかない。こちらにもプライドってものがあるからな。――そうだ、作戦遂行には当然、君にも協力してもらうぞ」 男の邪悪な微笑みに身体を固くする。 ちょうど詰所に着いたところで、周囲に人がいないことを確認したアクートはレミーに耳打ちした。 「蜂起の時は、創樹祭当日。人々の視線がパレードに向いている間に、君は数人の手勢と共に修道院へ行け。――火をつけるための準備をしろ」 「えっ!?」 レミーは息を飲む。 動揺して上手く言葉が出てこない。やっとのことで出た声は震えていた。 「そんな……そんなこと、できるわけないじゃない!」 「何で。君も修道院が行う理不尽に怒ってたじゃないか。あんな場所があるからいけないんだ。あれが燃えているのを見れば、いくら鈍感な国王でも私たちの怒りを思い知るさ。人がいない時を狙ってやるだけ慈悲深いだろう?」 心の底からそう信じ切っている声音で、アクートは言う。 「だめ……わたしにはできない、お兄ちゃんにこれ以上迷惑かけられな――……っ!」 「お兄ちゃん?」 つい、言ってしまった。 アクートの目が剣呑な光を帯びる。 「君は――お前は、もしかしてレミー=ムジークなのか?」 その言葉を聞いて震え上がる。アクートは国王の妹がシスターであることを知っていたのだ。 咄嗟に身を翻して逃げようとしたが、髪を掴まれ引き戻された。 さらに両手が大きな片手一本で軽々と拘束される。 「いっ……!」 「そうかそうか、お前が国王の妹だったとはねぇ。とんでもない馬鹿を兄弟に持って、国王陛下も大変だなぁ」 ニヤニヤと賤劣な笑みで口元を飾って、顔を覗き込まれる。 「そういうことなら話は別だ。お前はまだ利用できる」 「……っ、わたしには、もう……人質としての価値なんて、ないわよ」 痛みに耐えながら声を絞り出すが、それすらもアクートは一笑に付す。 「価値があるかどうかは、兄君が決めることだろう?」 「……! やめて、お願い……っ!」 涙ながらの懇願も空しく、レミーは激しく頭を殴られてその場に昏倒する。 ――遠ざかる意識の中、兄弟たちの顔が次々と浮かんでは、消えた。 * * * 「レミーが、いなくなった」 息せき切って執務室に飛び込んできたシャープの一言は、俺の手から滑り落ちたティーカップを粉々に砕いた。 「ど……どういうことだ」 白い髪のまま、スラム潜入用の簡素な衣服で膝に手をついて荒い呼吸をするシャープに駆け寄る。 悪ィ、と一言呟いて、シャープは肩口で汗を拭いながら身体を起こした。 「オレが今日スラムに行った時には、もうどこにも姿が見えなかった。いつも一緒にいたアクートの近くにもいねェし、組織の連中は誰も行方を知らねェって」 「そうか……報告ありがとう」 俺は極力落ち着いた風を装って、シャープに声をかける。が、心中は全く穏やかではない。 レミーともっと積極的に接点を持てていれば、あるいは修道院へ罰の軽減を呼びかけていれば、いやそもそもスラム送りが決まったあの時に、なりふり構わず連れ戻していれば――という後悔が次々と胸を渦巻く。 今朝方持たせた手紙に対するアクートからの返事が来ないことも、不安を増幅させる。 それが顔に出ていたのか、シャープが俺を睨みつける。 「スラムを見てきたオレだから言うけど、あン時のレミーを連れ戻さないって判断は妥当だったぜ。下手したら暴動を早めてたし、それに対する言い訳もできなかった。兄貴はなんも間違ってねェよ」 シャープは感情と筋肉が直結しているような男だが、馬鹿でも愚かでもない。 的確な励ましを受けて、俺は冷静さを取り戻した。 「そうだな、すまない。……お前も忙しいだろうが、引き続き秘密裏に捜索を頼む。見つかり次第すぐに保護して王宮に連れ戻してくれ、祭直前の俺の精神安定のためだと言えば修道院も納得するだろう」 「了解。さすがにオレ一人じゃ手が回んねェから、部下も何人か白髪にして探させる」 そう言って、シャープは再びスラムへととんぼ返りしていった。 刺激させずに聞き込みするのも一苦労だろう、弟は本当によくやってくれている。 本心では俺自身が探しに行ってやりたいが、俺の立場でそんなことをしたらどうなるかは分かり切っていた。人に任せるしかないのがもどかしい。 足元で割れたカップ。欠片を拾い上げようとして、鋭利な断片が指先に傷をつける。 鋭い痛みが走るが、妹の身を案じる胸の痛みの前では些細なものだと思った。 俺は赤く血の滲んだ指に構わず、掌をきつく握りしめた。