第6話 国王と平和への祈り
10 夜。 ムジーク王国城下町は、精霊王のトーチを模した光があちらこちらに灯されて、幻想的な風景を生み出していた。 祭は終われど、宴は終わらない。 人々は髪の色の隔たりなく、同じ皿の料理を分け合い、美酒に酔いしれ、肩を組んで歌い、新たな一年の始まりを共に謳歌した。ちらつく雪は、彼らの熱気で地に辿り着く前に溶けてゆく。 そこにはもう、冷たいわだかまりは影も形もなかった。 * * * 「……ん……」 俺はうっすらと目を開けた。 小さなランプの炎だけが頼りなく照らす、静かな部屋。私室のベッドに寝ているのだと思い当たるのに数拍を要した。 「気が付いたか、兄貴」 ふと声がして、俺は視線だけで出所を探す。 枕元で、シャープがホッとしたような表情でこちらを見ていた。 「……俺……は」 喉の奥が貼りついたようになって、上手く声が出せない。 待ってろ、とシャープは立ち上がると、水差しを持ってきてくれた。口に含むと、いくらか呼吸が楽になる。 「ふぅ、ありがとう。……今何時だ?」 「夜中の二時過ぎ」 「そんなに眠っていたのか……」 式典が午後すぐの時間だったことを考えると、優に短針一周分は眠っていたことになる。 起き上がろうとしたら、シャープに止められた。 「傷の縫合は済んだが、熱が出てる。安静にしてろ」 すぐさま強引にベッドへと押し付けられる。 確かに身体が熱を持っている感覚はあるが、そこまで辛いわけでもない。だがこれ以上心配をかけるのも本意ではないので、素直に従うことにする。 シャープはすぐ隣の椅子に座り直すと、俺が気を失った後の経緯を話してくれた。 馬車からこの部屋へは、人払いをしてからシャープが運んでくれたという。国王陛下はお疲れのようだから私室で休む、と家臣団に伝えて一切の面会を遮断したので、治療に来た王医以外は俺の怪我のことは知らないはずだ、とのこと。 国民たちが幸せな宴を楽しんでいる夢の余韻が、まだ瞼の裏にある。 熱に浮かされて見た妄想なのではないかと尋ねたら、ちゃんと現実でも宴はやってたから安心しろ、と苦笑された。 「夢では、ないんだな……」 声に出して呟くと、曖昧な記憶が現実味を帯びてくる。 スラムの蜂起も、レミーの誘拐も、アクートに刺されたことも、『誓言の儀』を皆に認めてもらえたことも。 全てが実際に起こって、そして終わったことなのだ。 「あぁ。……兄貴は立派に王様だったぜ」 シャープが太鼓判を押してくれて、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。 式典で拍手を聞いた時の感情を思い出して、思わず涙腺がゆるくなるのを何とか堪える。うーむ、昔に比べて涙もろくなったものだ。 「そういえば、レミーの様子はどうだ?」 素直にお礼を言うのも照れくさくて、俺は話題の転換を試みる。 修道院に閉じ込められていたレミーをシャープが救い出した、という話は式典の前にフラットから聞いてはいたが、その後どうなったかは知らないのだった。 「んー、あんま食えてなかったみたいで多少衰弱はしてたが、別段問題はねェってさ。戻ってきてから元気に飯食って、グースカ寝てるよ」 「そうか……良かった」 「伝言を預かってる。『お兄ちゃん、迷惑かけてごめんなさい』だとよ」 それを聞いて俺は苦笑いする。 すぐに助けを出してやれなかった俺の方が謝りこそすれ、レミーに迷惑かけたなどと言わせてしまうとは。全く、不甲斐ないな。 「レミーと話をしたい。あぁ、叱るとかじゃなく、単純に会話がしたいだけなんだが。明日以降、元気になったら部屋を訪ねるよう伝えてくれるか」 「了解」 「……それにしても、修道院も軽いボヤで済んで、蜂起を未然に防げたそうじゃないか。混乱は最小限だったようだし、レミーも無事だったし。お前に任せて正解だった、ありがとうな」 「あぁ……いや」 何となくシャープの返答に覇気がない。薄暗くて顔色までは分からないが、弟も相当疲れているはずだ。 あれだけ城下町を駆けずり回った後に、こんな時間まで看病させてしまって、それが全部俺のせいだと思うと申し訳ない気分になる。 「大丈夫か? 俺のことはいいからお前もそろそろ休んでくれ。また倒れてしまうぞ」 俺の言葉に、はっとシャープが顔を上げた。 その表情が今にも泣き出しそうなことに驚いて目を見開く。 「……なんで……」 唇を小刻みに震わせて。 「なんでそんな状態で、オレの心配なんかできるんだよ!」 ベッドの縁を殴りつけたかと思うと、その縁に額をつけて俯く。 俺は眼前に晒された紫色の頭を呆然と見ていた。 「……シャープ、どうした……?」 恐る恐る問いかけると、ず、という鼻をすする音が返ってきた。 ――泣いているのか。 「大層な二つ名貰おうと……いくら周りに褒めそやされようと……兄貴を護れないんじゃ意味がねェってのに……!!」 あぁ、そうか。 シャープは悔やんでいるのだ。幼い頃の誓いが守れなかったことを。 例えそれが俺からの命令で、拒むことができない状況だったとしても。シャープは何も悪くないのに、ひたすら自分を責めている。 「兄貴が、血ィ流して倒れてたのを見た瞬間……兄貴も親父たちみたいに、って思ったら……身体が、動かなくなって」 恐怖に怯えた幼子のように震える声。 弟の、普段の屈強でふてぶてしい態度からかけ離れた感情の吐露に、胸の奥がざわつく。 「もう、何もできないのは嫌だよ……兄貴……っ!」 「シャープ……」 これは……相当参っているな。 俺自身に死ぬつもりは毛頭なかったとはいえ、今回の状況は二年前の光景を想起させるに十分だっただろう。 現に、シャープはこうして苦しんでいる。これでもし俺が死んでいたら後追いでもしそうな雰囲気だ。 俺は少しだけ身体を起こす。手を伸ばして、子供の頃よくやっていたように頭を撫でてやった。 「……心配かけて、ごめんな」 優しく語りかける。顔を埋めたまま小さく首を振る弟を見ていると、本当に子供に戻ってしまったような錯覚に陥る。 「いくらお前が強くても、全てを同時に護るのは不可能だ。俺はレミーが無事で嬉しい。それは、お前が俺の心を護ってくれたのと同義なんだぞ。……だから、気に病むな」 「……ん」 しばらく撫でられるままになっていたシャープだったが、やがて落ち着いたようで身体を起こすと、こちらとは目を合わせずにそっぽを向いた。さすがに泣き顔を見せるのは恥ずかしいらしい。 「今回のことで、誰もお前を責めたりしない。もしそんな奴がいたら、俺が一発殴って黙らせてこよう」 「兄貴が殴ったらいろいろシャレになんねェからやめてくれ」 いつぞやのやりとりをなぞった会話の後、二人同時に噴き出した。 ひとしきり笑って、ようやくシャープは平常心を取り戻したようだった。先程までの危うげな気配はなくなっている。 俺は再び横になって、 「本当に、部屋に戻ってきちんと休んだ方がいいぞ?」 と声をかけるも、シャープはかすかに笑って首を横に振った。 「今夜はここにいる。眠れそうにねェから」 「じゃあ、思い出話に花でも咲かせるか」 「いやアンタは寝ろよ」 即座に入れられたツッコミに口を尖らせつつ、俺は窓の外を見る。――珍しく、雪が降っていた。 雪はどうして見た目があんなにふわふわなのに、触ると冷たいのだろう。そしてすぐに溶けてなくなってしまう。 だが、今後自らの意志で白髪を選ぶ民たちは、消えゆく雪のように世を儚むことも、温度差を憂うこともないだろう。 ひとつとして同じ形のない雪の結晶のように、美しく気高くあってほしいと、願わずにはいられない。 そういえば、あの日も珍しい雪が降っていたんだったな……と二年前のことを思い出しながら、俺はゆっくりと目を閉じた。