Task.2 黒猫

<< 前のページに戻る  次のページへ >>

   9

「フィン!」
 エカトリーチェは、二階の自室から見覚えのある青年を確認するなり、窓を開けて叫んでいた。彼の腕の中には、ぐっすりと眠る金髪の少年。――その姿を、待ち焦がれていた。
「待ってて、今そっちへ行くわ」
 下に向かって笑みを返すと、椅子に掛かっていたケープを掴んでバタバタと慌ただしく階段を下りる。家族の皆が寝静まっている夜中であることなど、気にしてはいられなかった。
 サンダルを軽く引っ掛けて外に出ると、月明かりの下でラムディスがフィンを抱えて立っていた。
 小走りで近寄り、緑の布に包まれた少年の顔を覗き込む。多少汚れてはいるものの大した怪我などはなさそうで、ただすやすやと眠っていた。
――たった一日が、どれだけ長く感じたことか。
 張り詰めていた気が、一気に緩まる。その反動で視界がぼやけたが、涙をこぼすことだけは何とかこらえた。その代わり、満面の笑顔を作ってラムディスに向き直る。嬉しい時は笑顔が一番だと、幼い頃からずっとそう心がけてきていたからだった。
「ありがとう……本当に、ありがとう!」
 それしか言葉が浮かんでこない。感謝の気持ちの大きさは自分でも計り知れなかった。だが、それだけの言葉でも十分に通じたらしく、ラムディスは優しく微笑んでそれに応える。
 本当に、約束通り連れ帰ってきてくれた。まともに話をしたのも初めてである彼が、自分の一番望むことをいとも簡単にやってのけてくれた。
――エカトリーチェの瞳には、目の前の青年が童話に出てくる勇者のように光り輝いて見えた。
「ねぇ、また上がっていって?」
「え、でも……」
 時間も時間だ、さすがに遠慮した様子の『勇者さま』に、エカトリーチェはにこりと笑いかけた。
「お願いよ。フィンをベッドまで運んで欲しいの」

 フィンを横たわらせ、寝顔を見て安心したような笑みを浮かべると、エカトリーチェはラムディスを再びリビングへと促した。最初に訪れた時と同じ席に座ってもらって、紅茶を淹れる準備を始める。
「……本当に、ありがとうね。信じて待っていて良かった」
「あぁ……いや、その、何だか照れるな」
 背後からひたすら恐縮した声が返ってくるのを聞いて、エカトリーチェはくすくすと笑った。
「なんでも屋さん、優秀なのね。これからも何かあったらお願いしようかしら」
「ははは。わたくしめに出来ることであれば何なりと」
 今度は妙に紳士ぶった声で、思わず吹き出す。
「ふふっ、頼もしい! ……あ、そうだ。依頼料はおいくら?」
「いいよ、そんなの」
「そういうわけにはいかないわ。だってこれはお仕事ですもの。発注したのなら、対価を支払わなくちゃ」
 茶葉を数缶並べてどれにしようか悩みながら、エカトリーチェは言う。そもそも書面契約などを交わしていたわけではなかったので厳密には『お願いを聞いてもらった』という体(てい)でしかないのだが、商店を営んでいる家柄上看過するわけにもいかなかった。というより、親切にしてもらった以上、お礼をするのは当然のことだ。
「そうだな……それじゃあ」
 ラムディスもその感覚は分かってくれたようで、うーんと唸って顎に手を当てる。
「ひとつ、許可をもらいたいんだけど」
「許可?」
 振り返って問いかけると、ラムディスは頷いた。
「フィンを時々遊びに連れ出したい。危険なことはしないと約束するよ」
 エカトリーチェはきょとんと青年を見つめる。連れ帰ってくる間に仲良くなったのだろうか、少なくとも悪意はなさそうだけど、といろいろ考えあぐねている間に、彼は取り繕うように続けた。
「あぁごめん、もちろん他の子供たちをないがしろにするつもりはないんだ。――ただ、フィンとはちょっと男の約束を交わしてね。多分フィンからも頼まれると思うよ」
 男の約束、という響きに何故だか新鮮味を覚える。エカトリーチェにとっては四人とも『子供たち』という感覚だったが、言われてみればフィンも立派な『男の子』なのだ。
 少しばかりの寂寥感を抱きつつ、それ以上に少年の成長が嬉しくなってエカトリーチェは微笑んだ。
「分かったわ。安心して、どんな内容かなんて聞くような無粋はしないから」
「ありがとう。……報酬は、それで十分」
「あら、欲がないのね」
 言って、二人はくすくすと笑い合った。
 一旦会話が途切れる。だが、お湯が沸くしゅんしゅんという音だけが響いている室内は、これまでになく優しい沈黙で包まれていた。

「あたしね、待ってる間、いろいろ考えてたの」
 ティーカップをカチャカチャと用意しながら、エカトリーチェは再び口を開く。ラムディスは顔だけ向けて、無言で続きを促した。
「寂しい思いをしてないかなとか、帰ってきたらいろんな話を聞いてあげようとか、黒猫怪盗団にはどんな説教してやろうかとか」
 くす、と笑ってから、ラムディスを振り返った。
「何でフィンをさらったのか、理由は分かったの?」
 咄嗟のことに、ラムディスは返答に窮した。今回のことはイリーガル・ハンターとしての役目の範疇であり、その活動の内容について一般住民においそれと言うわけにはいかない。
 ただ、エカトリーチェの中で『黒猫怪盗団=悪の誘拐犯』という方程式が成り立っている。今回の活動のことを考えると仕方ない部分はあるにしても、そのまま悪印象を植え続けておくことのメリットはないに等しかった。
 それに、フィンの正体こそラムディスの口から明かせることではない。父である雑貨屋の主人か、あるいはフィン本人から伝えられるべきであろう。
「あー……えーと、黒猫怪盗団を雇っているボスが無類の美少年好きだったらしくて。少しの間話をしてくれるだけでいいからって言って、アジトに招待したんだそうだ」
 我ながら下手な言い訳だと思い、ラムディスは心の中で舌打ちする。この質問は想定出来たはずなのに、何故答えを用意しておかなかったんだと少し後悔した。
 案の定エカトリーチェはどうにも腑に落ちない様子でどこか苦笑めいた溜息をついた。
「ふぅん……まぁ、見る目はあるわね。それは認めるけど。でも、ドロボウの家にいたいけな子供を連れて行くなんて、教育上よろしくないわっ」
「……まぁ、確かに」
「感化されてフィンの手癖が悪くなったら、どう責任取るつもりなのかしら」
 ぷりぷり怒っているエカトリーチェを前に、まさか自分がフィンの目の前で人のものを盗みましたなどと言えるはずもなく、ラムディスはただ苦笑するしかなかった。もしその懸念が現実になったとしたら、今後責任を持って道徳を説いていくしかない。
「まぁ、でも……」
 冷や汗を垂らすラムディスをよそに、エカトリーチェはティーカップに紅茶を注ぎながら呟く。
「知らない人についてっちゃダメだって、教えておかなかったあたしも悪いのよね。子供たちが大事なら尚更。縛り付けたくはないけど、きちんと身を守る方法も教えてあげなきゃ」
「うん……そうだね」
「だから、お願い」
「?」
 コトン、と目の前に置かれるティーカップ。ラムディスはその手を辿って、エカトリーチェを見た。淡青の瞳に自分の姿が映り込んでいる。
「今、男手が足りないの。お父さんはお店のことで手一杯だし。たまにでいいから、ウチに遊びに来て子供たちの相手をしてくれると助かるんだけど……」
 ラムディスは、思わぬ申し出に呆然とした。遠くから眺めているだけだった憧れの人のいるところへ通っていいと、当の本人からお墨付きをいただいたのだ。
「あ、も、もちろん、迷惑だったら言ってね? あなたにも都合があると思うし」
 しばらく言葉が出なかったラムディスに、提案をした少女の方が慌てる。はっ、とようやく我に返った時には、自らの頬が紅潮していくのを隠せなかった。思わず俯く。
「ご、ごめん……ちょっと、嬉しくて」
「えっ?」
「いや。――俺で良ければ、喜んで」
 顔を上げ、満面の笑みで答える。その言葉を聞いて、エカトリーチェも表情を輝かせた。
「ありがとう! 子供たちもきっと喜ぶわ」
 そう言って彼女はにっこりと微笑んだ。

 小一時間ティータイムを楽しんで、ラムディスは帰るため立ち上がった。
 店の前の通りまで送ると言ってついてきた少女は、別れる直前に彼を呼び止める。振り返ると、優しい笑顔を浮かべたエカトリーチェがこちらを見ていた。
「……あなたは、あたしの勇者さまだわ」
「え?」
 決して聞き取れなかったわけではない――だが、その言葉の意味を理解しかねて、ラムディスは聞き返した。
 彼女は微笑みを絶やさぬまま、首を軽く横に振る。
「うぅん、何でもないの。またお連れの方と一緒にお店にも来てね、『お友達特別価格』として、ちょっとだけ割り引いてあげたりもするから」
「お、お友達?」
「そう、お友達。この雑貨屋名物・看板娘のリチェさんがお友達になってあげようって言ってるのよ、何かご不満でも?」
 イタズラっぽい笑みを浮かべて覗き込んでくるエカトリーチェに、ラムディスは赤面するのを感じつつ、ポリポリと頬をかいた。
「あ、いや、そんなことは……」
「それじゃ、握手!」
 言って、右手を差し出してくるエカトリーチェ。その手と笑みをたたえた顔とを交互に見、ラムディスも微笑んだ。
 そして、自分も右手を出して、しっかり握手を交わす。
「うふふ、ありがとう。これからもよろしくね!」
「こちらこそ」
 ラムディスと比べて小さなその手は、肌には冷たかったが心に温かく染み渡った。
 別れを告げ、宿への道を歩きながら、ラムディスは空を見上げる。月が晧々と辺りを照らしている。星々の瞬きは美しく、風は心地よく身体を撫でていった。
 ふと、立ち止まり――しばらくその風景に溶け込む。
(まぁ、いいか……友達でも)
 そんなことを思いながら、ふっ、と軽く微笑みを浮かべると、ラムディスはどこか晴れやかな気分で地面を蹴って駆け出した。

 宿の部屋のドアを開けると、中は明かりがついていたが人の影はなかった。――いや、あるにはあったのだが、それはベッドの片方で布団が人型の凹凸を作っていただけだった。
 その塊は、ラムディスが入ってくる音を聞きつけ、ビクッと一瞬すくみ上がる。そして次の瞬間バサッと凄い勢いで布団を跳ね除けると、中から現れた赤髪の青年はラムディスの顔を確認するなり安堵の息を吐いた。
「何だラムディスかよ……びっくりさせんなよなーもう」
「俺以外いないだろ。ってかお前、その年になって夜ひとりで寝られないなんて大問題でしかないぞ」
 ラムディスはマントを外しながら、ベッドの上で項垂れた相棒を半眼で見遣る。
「だってよぅ」
 決まり悪そうに、口を尖らせて呟くユッカ。
 ユッカは幽霊やオバケの類が昔から大の苦手であった。いつもはラムディスがいるためさして問題はないのだが、今日のように夜ひとりで寝るハメになった時はいつまでも明かりを消せず、布団の中で始終びくびくしているのである。曰く、夜二時辺りが一番危ないのだそうだ。ちなみに根拠はない。
 再びのそのそと布団に潜ったユッカを横目で見ながら、ラムディスはベッドに腰掛ける。
 そこでふと、今日の出来事を思い返して苦笑した。
――こんなにいろいろあった一日も珍しい。
 ユッカに仮病を使われて薬を買いに走ったのは今朝の話だが、もう何日も前のように感じる。後で日記に書く時のために頭の中で内容を整理してみた。
「……総じて、今日分かったことは、ユッカに先を読んで行動する知能が備わってたっていう驚きの事実だな」
 誰にともなく独りごちる。声に出したのは、自分に確認させるためであり、また、暗に隣で背中を向けて狸寝入りしている男に皮肉を浴びせるためであったかもしれない。
 現にちゃんと聞こえていたらしく、ユッカは布団の中でぐるりと反転してこちらを睨んでくる。
「おいおい、そりゃまた随分な言い草じゃねーかよ」
「事実だろ? 俺は今日ほど、お前にいい意味で驚愕させられたことなんてねぇんだからさ」
 ニヤニヤと笑うラムディスの視線に耐えかねてか、
「……知らねーよ、クソ」
 ぼそりと呟くと、再びごろりと向こう側を向いてしまった。
 その言葉に照れ隠しのような色が含まれているのを感じ取って、ラムディスはこみ上げる笑いをかみ殺すのにしばらく奮闘していた。
 それもやがて収まり、ラムディスは天井を仰いだ。振り回され、あちこち動き、いろいろな事実を知って――肉体的にも精神的にも疲れた一日だった。
 だが、フィンを連れ帰った時に見せたエカトリーチェの嬉しそうな表情。それだけで、その満面の笑顔が見られただけで、全てが報われたような気がした。
 イリーガル・ハンターの仕事には、いつも暗い影が付き纏っている。平穏な日々を過ごしたいと願っているラムディスにとってそれは好んでやるべきことではなかったが、今日のように、喜んでくれる人の存在があるだけでどれだけ救われるかを改めて実感した。
 結果的に、ラムディス自身がイリーガル・ハンターでなければ今回の誘拐事件は円満解決出来なかったのだ。
――これからは、少しは前向きに勤労意欲が湧いてくるかもしれない。
 ラムディスは、再びユッカに視線を戻した。もう寝付いてしまったのか、掛け布団が呼吸に合わせてゆっくり上下している。
 今回は、成り行きとはいえ彼はいろいろ手助けしてくれた。
 エカトリーチェと仲良くなれたのも、半分以上は彼のおかげであると認めざるを得なかった。あの時この宿で仲違いしたのは、一緒に行動してはラムディスと少女を二人きりにすることは出来ないと思ってわざとそうしたのだろう。
『自分が全力で選んだ道なら、後悔なんて生まれない』と自信満々に言う彼の言葉を、心の中で反芻する。
 いつか自分もユッカを影ながら助ける機会もあるだろう、そしてその時は今回より上手くやってやるぞ、と胸に固く決意して微笑んだ。
「……ありがとな……」
 ユッカの背中に向けて一言そう呟くと、部屋の明かりを消し、ラムディスもベッドに潜り込んだ――

 翌日の新聞、『黒猫怪盗団、宝石店を襲撃!』という大見出しの記事の横に、小さく『怪盗R、現る』という記事が載っていたのに目を留めたが、フォルゴンの牙のことや、イリーガル・ハンターが関わっていたことについては一切触れられていなかった。
 もうひとつの顔を持つっていうのも悪くないな、とラムディスは少し思った。少しだけ。

<< 前のページに戻る  次のページへ >>